2014年4月30日水曜日

小玉重夫『シティズンシップの教育思想』2003

シティズンシップとはなにか、という問いについての入門書。

ソクラテス、プラトンからポストモダンまでの思想を踏まえながら、シティズンシップという概念がどのように形成されてきたのかを概説している。

200ページにも満たない非常に読みやすい本ながら、ある程度思想的な知識がないと読み解けないところもある気がした。
あくまで入門的な概説であるため、衝撃を受けるような深い味わいは感じられないものの、これからの教育を考える上で必要な知識、考え方を教えてくれる。

教師は「真理の代弁者」でもシニシズムに陥った「プラグマニスト」でもなく、「過去と未来の間」に立った(教師自身を脱構築した)存在であることが求められる、という主張は、ポストモダンを乗り越えていく統合的な思想の一つだと言える。
単なる中道論を越えた統合的な発想というのが、今後メインストリームになっていくことを予感させた。

シティズンシップ教育というのは、ルーマン的に言えば「政治機能システム」からの「教育機能システム」への要請である。
教育という社会的機能が、政治や経済機能から強く規定されている、というのは自明のことであるが、一方で教育は子どものためであるという思想も根強く、これらは常に対立しているように見える。
こうした対立を乗り越え、あるべき公教育の姿を考える一つの方法として、シティズンシップ教育という発想は優れているのではないかと思う。

ただ、筆者はこうしたシティズンシップ教育を具体的に実践していく場として総合的な学習の時間の活用をあげているが、それに対しては疑問が残った。
プラトン的な知識偏重教育への反省として、教科科目と道徳的活動あるいは課外活動の並列化、という発想が見られるが、シティズンシップに求められるパブリックな場で異質な他者と協働していく力は、そもそも教科横断的な要素である気がする。
教育とは、それ自体が人と人との関係的行為であるから、これはシティズンシップ教育の授業で、これはそうではない、ということは本質的には間違っている。

科学的知識を伝授するカリキュラムと、シティズンシップを涵養するカリキュラムは、まるでDNAの二重らせんのように絡み合っているもののように思う。


アレントをちゃんと読まねばならないなあと思ったのであった。
(読まねばならないものばっかり増えていく…)

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