2014年5月28日水曜日

暗黙知の大きい組織は持続可能ではないという話

先日の第5回インテグラルエジュケーション研究会に参加しました。
前回と同様、非常に学び多く、豊かな空間でした。
惜しむらくは、前日夜勤&当日6時起床のコンボで睡眠時間が1時間だったので、後半へとへとであまり頭が回らなかったことです。



研究会の中でも特に印象に残ったのが、暗黙知の話である。
結論から言えば、暗黙知の比率が大きい業界では、上下関係が強くなるということである。

暗黙知とは、文字で記述されないが、確かにその仕事を進める上で役立つ知のことである。
厳密に言えば、本来的に文字で記述できないもの、すなわち身体感覚などに由来する経験知と、文字化しようと思えばできるのに、されていない知の2つがある。
実際に日本でナレッジマネジメントの分野で問題とされているのは主に後者であるように思う。

暗黙知の割合が大きい分野としては、例えば「琴」や武術などを思い浮かべて欲しい。
そこでは、厳然たる「師匠」の存在があり、弟子が師匠に対しフラットに意見を言う、などという情景は思い浮かべにくい。師匠が弟子に秘伝を口伝えするようなイメージである。

一方、その逆としては例えばプログラミングの世界などがわかりやすいだろう。
プログラミングの世界では、Githubなどによって非常にオープンに各人のナレッジが共有されている。プログラマーの序列は、年齢や経験によって決まるのではなく、純粋に作られたプログラムの質(成果)に依拠するところが大きい。


知が記述されないということは、一回性を持っているということである。
書くことは、知を自身の外の世界に繋ぎ止め、永遠化する試みであるから、書かれない知はその人”だけ”のものなのである。
一回性を持っているから、そこに固有の価値が生まれ、固有の価値は権威を持つ。
暗黙知は権威性を帯びるのである。


暗黙知が多くなった組織は、硬化し、質が低下していく。
長く在籍しているスタッフは沢山暗黙知を持っているから、その人に対して「自分ごときが意見を言っても仕方がない」と感じてしまい、フラットな意見交換が起きにくい。

逆に、暗黙知を多く持っている人というのは、自分自身も何か形式化された知から学んできた、というより、自分の経験をしっかりと内省し、経験知を身につけてきたという感覚があるから、「自分でなんとかしろ」と言いたくなって暗黙知の形式知化に積極的ではなくなる。

結果として、古参は懐古に浸って現状を憂い、新人は自分の未熟さを痛感しながらもどうしたらよいかわからず苦しむのである。


もちろん、全ての暗黙知が形式知化できるというわけではないことは上述の通りであるし、経験によって培われた暗黙知の量は、確かに業務遂行能力の優劣を生むことは事実である。
しかし、そうした暗黙知を学びやすい形で極力形式知化することで、そうしたブランクを埋めるのにかかる時間をはるかに短縮することはできるはずだ。

持続的な組織の成長のために、そうした暗黙知を形式知化するという意識を常にメンバー全員が持てるかどうか。特に組織の人員の入れ替わりの激しい組織では、ここがポイントになってくると思う。長期雇用が基本であった日本で、こうした暗黙知の形式知化に対する意識が低かったのも納得がいく話である。


実際に暗黙知を学びやすい形で形式知化するのは実は非常に難しいことであるように思うが、複数の優秀なメンバーから抽出された知を検討していくことで洗練された形式知が生まれてくると思う。
組織の何よりのプロパティは、そうした内省的な積み重ねを研磨し続けていくことで生まれてくる知にほかならないのではないか。


2014年5月23日金曜日

西條剛央『構造構成主義とは何か』2005

予てより周りの人からよく耳にした構造構成主義について、はじめて本を読んだ。
あらゆる分野の人々にとって、踏まえ無くてはならない原理であると感じた。

構造構成主義の要諦は、「関心相関性の原理」である。
関心相関性の原理とは、存在、意味、価値といった現象が主体の関心に相関的に規定される、という原理である。

筆者の例をそのまま引くと、通常我々には単なる水たまりにしか見えないものも、死ぬほど喉が乾いている人にとっては<飲料水>として見える、ということである。

考えてみれば当たり前のこの原理を基に、構造構成主義は”現象”が疑い得ない規定であること、構造化された現象は恣意性を持つが、構造化されることで構造自体の共通了解可能性を高めていけることなどを緻密に論じていく。

筆者によれば、科学とは客観的実在世界を説明する絶対的真理を追究することでも、帰納的あるいは反証可能性を厳密に踏まえたものでもなく、こうした構造の共通了解可能性を限りなく高めた、「より上手く説明される」理論を見つけ出していく営みなのである。

特に感銘を受けたのは、構造構成主義を支える先人たちの様々な思想を取り上げる上で、その根本動機、すなわち何を関心としていたのか、何を解決しようとしたのか、という点をしっかりと抑えている点である。
こうした態度自体が、まさに構造構成主義的であると言えるだろう。

アナロジー的に説明するとすれば、構造構成主義はまさに欲求といった「学習する組織」でいうところのメンタルモデルの次元まで射程に入れた内省的な視点を持つことで、統合的な科学論を実現している、ということだろう。

絶対的真理を否定することによる相対主義や、その帰結としてのニヒリズムからも、メタ的な次元へと距離を採ることで、より創造的、建設的な問題解決を志向している点で、まさにこれからの時代に必要な科学論ではないかと思われる。



一方で、違和感を感じた部分について2点書く。

1点目は、「共通了解」される過程そのものについてである。
筆者の主張は以下である。

このような「構造」は、同一性としてのコトバを含んでいるため純粋に客観的なものではないが、コトバとコトバの関係自体は客観的(共通了解可能)なものである。したがって、構造化することによって、非客観的なコトバ(たとえば「水」)が、客観的な形式を付与した分だけ、より客観的になったのは確かである。 
(中略)
すなわち、現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型ならば、私の「現象→コトバのシニフィエ(同一性)」とあなたの「現象→コトバのシニフィエ(同一性)」の間に完全な平行性が成立し、この平行性はコトバのシニフィアンの同一性に支えられて、構造において完全な共通了解可能性をもちうるのである。(p123)
現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型である、という仮定は果たして共通了解可能性を持つだろうか。筆者はソシュールを引いて、我々が恣意的に言語を学んでいることを前述している。したがって、「現象からコトバの同一性を引き出すやり方」自体が、恣意的な慣習によって獲得されている。

つまり、上記で筆者が述べる「完全な共通了解可能性」が担保されるためには、「現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型である」という共通了解可能な前提が必要であり、これは循環してしまうのではないか。


2点目は、関心相関性の「関心」である。

構造構成主義の中核を成すのは関心相関性の原理である、ということは先に述べたが、ではこの関心とはなんなのか、について筆者はあまり深く掘り下げていないように思われる。

つまり、「関心とはどのようにして生まれてくるのか?」「なぜその関心を持つに至ったのか?」という存在論的な問いである。

関心は各人各様であるから、それに応じて様々な構造が生まれる、というのは理解できるが、その大本である関心自体の存在論的な解明が無い限り、どこか物足りないものを感じてしまう。
筆者が何度も言うように、「当たり前」のように感じてしまい、根源的に揺さぶられるような興奮を感じないのである。
(筆者は当たり前であるが、意義がないというわけではない、ということを繰り返し強調しており、その点は同意である)


構造構成主義が、こうした実存的な問いと合流したときに、ウィルバーのようなコスモロジーに至るのかもしれない、などと邪推してみたのだが。


2点目の違和感については、特に気になっているので、もし誰かうまく解説してくれる方がいたら、ぜひ教えていただけると幸いです。


2014年5月20日火曜日

「ダイアローグ温泉」

「ダイアローグ温泉」という言葉が、最近日本にダイアローグを持ち込んできた人々の間で流行っているらしい。
ぬるま湯に浸かりきった偽物の”ダイアローグ”ということだろう。

ダイアローグとは、単なる情報のやりとりとしてのコミュニケーションを越えた、話し手と聞き手が、互いの価値観や背景、感情などを理解し、共感した上で行われる建設的な対話のことをいう。
学習する組織を代表とする、様々な組織論や課題解決の手法として、近年よくとりあげられるようになった。

この「共感」という部分が曲者である。
相手の意見を、一つの意見として肯定することは確かにダイアローグの前提となるが、「あなたの意見は良いと思います。でも僕は違う意見です。お互い尊重しましょうね」といって終わってしまうのは、真のダイアローグではない。
「みんな違ってみんな良い」がダイアローグの本質ではない。

日本人の和を重んずる文化的深層心理に拠るものなのか、それとも世界中で同じように見られるものなのかは分からないが、この「ダイアローグ温泉」というのはよく見られる光景であるように思う。

これに対し、「対立を恐れるな」という言説もまた、よく言われる話であるが、そもそも「対立」という捉え方自体に、実は落とし穴があるのではないかと思っている。



知人からお借りしたマーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』を読んだ。
NVCとは、「Non-Violent Communication」の略で、名前の通り、マハトマ・ガンジーの「非暴力」という思想に由来する、暴力を解決するためのコミュニケーション方法である。

NVCの4つの要素は、

  1. 観察(observation)
  2. 感情(feeling)
  3. 必要としていること(needs)
  4. 要求(request)

と説明される。

評価を交えない具体的な事実を観察し、言及すること。
自覚した感情を表現し、また相手の感情を汲み取ること。
感情の奥底にある欲求、固定観念に至ること。
上述のプロセスを経て、互いを豊かにする建設的で具体的な要求を示すこと。

である。

これを読んだ時、とっさに思い浮かんだのはコルトハーヘンのリアリスティックアプローチである。
コルトハーヘンは、教師の内省を深め、本質的な気づきを得るためのアプローチとして、教師と子どもそれぞれについて、Do(行為)、Think(思考)、Feel(感情)、Want(欲求)の4つを省察し、それぞれの連関を把握する、という手法を提案している。

NVCとリアリスティックアプローチに共通するのは、感情や欲求といった、不可視ではあるが、我々の行動を最も強く規定している深層を見ようとする態度である。
このことは、内省的な振り返りによって、コミュニケーションにおいて共感を生むことができる、ということを示している。

NVCに求められるのは、相手の話を聞いて、適切なアドバイスをあげたり、自分の経験を語ったりするような態度ではなく、「ただそこに在る」という共感の態度である。
相手という他者に対する自己として、どんな意見を持つか、という認識ではなく、自己と相手の感情や欲求が言動や無意識の行動に結びつき、相互作用を及ぼし合う有機的なシステムそのものと一体化する、そうした共存在としての在り方をNVCは理想とする。
自己と他者、主体と客体といった二元論を共感という人間本来の力によって超えているのである。

ダイアローグが意図しているのも、おそらく同じことであると思われる。
相手への深い共感と一体化の先に、真に創造的なコミュニケーションが行われる。
創造的対立は、そのとき対立ではなく、共に可能性に開かれ、よりよいものを志向する運動の息吹に変わるはずだ。

逆説的に言えば、ダイアローグ温泉になってしまうのは、真の共感が達成されていないということである。相手に共感し、また共感されていると感じているとき、自分の意見を素直に表現することは難しくない。その時、おそらく自分の意見を相手の意見に対立するものと意識して表現している人は居ないだろう。それは、素朴な要求であり、更に豊かな在り方を目指すための提案である。

我々がダイアローグをダイアローグとして用いようとする際、多くの場合何らかの問題解決を念頭に置いている。対話によって「相手を変えよう」としているのである。
しかし、このようにダイアローグの本質を考えれば、そもそも「相手を変えよう」とする態度自体がダイアローグの理念から程遠いものとなってしまっている。

自分の役割に応じた義務、例えば、教師教育者として優秀な教師を育成しなくてはならない、などといった「〇〇ねばならない」という思考こそ、NVCを阻害する大きな要因だとローゼンバーグも述べている。

こうした変容、ギャップアプローチへの信仰をどう乗り越えていくのか、あるいはビジネスの文脈ではそぐわないものとして、ダイアローグ的な理念が廃れていくのかは、21世紀の重要な課題の一つであるように思われる。







2014年5月19日月曜日

なぜ内省的な積み重ねが価値を持つのか

D・ショーン『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』を読了した。
1980年代に出版されたこの本は、あらゆる分野に影響を与え、今日語られる「プロフェッショナル」論はほぼ彼の論に依拠しているように思われる。
彼は、技術的に熟達した専門家像(高度に体系化された理論としての知識を持つ専門家)から、行為の中で常に省察する、reflectiveな専門家像こそ、これからの時代に求められるのではないか、という提起をしている。


僕は、内省的な積み重ねこそ、現代において確たる価値を持つという信念を持っている。
それはなぜか。

テクノロジーの驚異的な進歩や、国際化が進む現代において、我々が日常直面する課題もますます多様化、複雑化している。
「何か絶対の正しい正解がある」というイデア志向は限界を迎え、不断の努力によってより良いものを目指し続ける、というデューイのメリオリズム的なものへと価値観がシフトしてきている。

絶え間ない省察とは、本来我々が持っている力だったのではないか。
ショーンは著書の中で、幼い子どもが、重心が中心からずれた積み木を積み上げる実験を通して、子どもが「長方形の積み木の中心に重心がある」という幾何学的法則を経験によって修正し、重心のずれた積み木も器用に積み重ねていけるようになる、というピアジェ派の実験について言及している。
無意識的にせよ、意識的にせよ、我々にとって内省とは生来備わっている力のように思われるのだ。


内省の積み重ねは、固有性の価値を生む。
ある人の経験は一つとして同じものは無いし、同様に内省によって何に気づくか、もまた千差万別である。そうした内省のプロセスの積み重ねの先には、その人にしかたどり着けない境地があり、すなわち固有性を形成するのである。

唯一の正解が無い状況において志向されるべきは、こうした内省のプロセスを不断に行うことができるという態度である。
もちろん、「内省こそ正解だ!」と述べることは、自己矛盾であるから、「本当に我々は不断の内省をしていく必要があるのだろうか」と内省し続けることもまた重要である。
そうした意味では、信念などというものもまた虚構なのかもしれない。


内省によって得られるべきは、「本質的な諸相への気づき」であり、それを基にした「選択肢の拡大」である。
それまで無意識によって条件付けられていた自分の行為を、内省というプロセスによって意識化し、同じような状況に遭遇したときに、違った選択肢を採ることができる、というのが内省による発達だろう。

そうした内省を繰り返した先にあるのはなんだろうか。
無限の選択肢を採れるということは、無限に自由であるということである。
自身を縛る無意識構造に気づき続けることで、人は自由を拡大していく。
内省こそ、人が自由に生きるための真に実存的な営みなのではないか。


だが、疑問は残る。

我々はどのようにして内省を手に入れたのか?(このあたりは一つ前の記事で書いた、W-J・オングの『声の文化と文字の文化』が興味深い)
内省が得意な人とそうではない人がいるのはなぜか?このことは何を意味しているのか?


内省というものを、単に自己実現のプロセスや学習科学の一要素とだけ捉えているのでは、その本態に迫ることができないように感じている。
オングのように、社会・文化的な側面や、あるいは脳科学のような生物学的側面、仏教や弁証法、ポストモダン思想などの思想的な側面からも探求していきたいと思う。






2014年5月16日金曜日

W-J・オング『声の文化と文字の文化』1991

圧倒的な知的興奮。
ちょうど「内省とは何か?」という問いに向き合っていた自分が当に読むべき一冊だった。

インテグラルエジュケーション研究会の参考図書として購入したのだが、相変わらず実に学びが多い。というより、自分の興味関心分野、視点にとても近い。

本書は、「書く」ことが発明される以前の「声の文化(オラリティ)」から、「文字の文化(リテラシー)」へと発達してきた過程を明らかにしながら、そうした移行が我々の意識段階にまで大きな変容をもたらしていること、そして我々がいかに「文字の文化」に縛られた思考様式を用いているか、ということに気づかせてくれる。

声の文化とは、書くことが発明される以前の世界である。
例えばホメロスの詩を思い出してもらえれば良いと思う。

著者は声の文化の特徴として、以下の9つをあげる。

  1. 累加的であり、従属的でない
  2. 累積的であり、分析的でない
  3. 冗長ないし「多弁的」
  4. 保守的ないし伝統主義的
  5. 人間的な生活世界への密着
  6. 闘技的なトーン
  7. 感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない。
  8. 恒常性維持的
  9. 状況依存的であって、抽象的ではない
1~3に関しては、例えば、「イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである」
といったような文言を思い浮かべてもらえればよい。
冗長であり、累加的であることが分かる。
この冗長性にも意味はある。

声は、音から生まれている。
著者によれば、「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」

したがって、声の文化においては「過去」は意識されない。
常に「現在」を生きるのが声の文化である。

発生と同時に消えてしまう音の世界では、記憶するためには必然的に冗長で独特のリズム、韻に基づいた言い回し、決まり文句が必要となってくる。
だからこそ、現代の我々にとって、声の文化で生まれたテクストを読む際にはある種の苦痛を感じるのである。


聴覚と視覚の対比は、声の文化と文字の文化の対比につながる。
(前述した9つの特徴のうち、5,7,8あたりに通ずる話である)

聴覚は、人間の感覚の中であるものの内部を直接的に感覚するのに最も有効な感覚である。
視覚は、ある物理的な立体の内面を見たとしても、それはあくまで「外面」として認識される。
しかし、我々は箱を叩いた音によって、箱の内面を感覚することができるのである。

「視覚は分離し、音は合体させる。視覚においては、見ている者が、見ている対象の外側に、そして、その対象から離れたところに位置づけられるのに対し、音は、聞く者の内部に注ぎ込まれる。」
(p153)
視覚の理想は、明晰判明性(分けて見ること)であるのに対し、聴覚の理想はハーモニーなのである。

聴覚に立脚する声の文化の時代、人間は「内面」というものに気づいていなかった。
自分を中心として、世界が自分の周りに広がっている、という感覚である。
このとき、世界と自分は分離されていない。

文字の文化、すなわち視覚優位の時代になって初めて、人間は自身と世界を分離して捉えることができるようになった。主体-客体という認知が生まれたのである。
こうして、人間は具体的な生活世界を離れた抽象世界を作り出すことができた。
その象徴として、著作はプラトンの「イデア説」をあげている。
現実の生活世界とは離れたところに、整然とした、完全性の真実の世界が存在する、という思考は、まさしく書くことによって生まれた抽象的・分析的・内省的な思考様式が基盤となっているのである。

また、9については、ヴィゴツキーの弟子であったルリアの実験が引き合いに出されている。
ここで具体例を述べることはしないが、個人的な経験に通ずる部分があり、とても頷ける話であった。
大学に通わない人が同世代の50%にのぼる、という感覚は、大学生にとっては意外かもしれない。
大学に入ること=優秀である、などという陳腐な話をしたいわけではないが、例えば大学に行っていないような友人と話す際に微妙に感じる「話が咬み合わない」感に似たものをルリアの洞察から感じた。
それは決して論理的に劣っているということではなく、声の文化の中では合理的に発せられている文言なのであるということは、貴重な示唆であると感じた。


筆者はこうして、膨大な言語学、文学研究の知見を惜しみなく披露しながら、我々がどのように声の文化から文字の文化へと移行してきたか、それはいかなる場面に見られるのか、について述べているが、ここでは割愛する。

重要な指摘は、我々が普段当たり前のように用いている論理的思考ないし分析的、構造的、内省的思考といったものは、「書く」というテクノロジーをもってして初めて生まれてきたものではないか、ということだ。

書く行為と話す行為の最大の違いは、聞き手の存在である。
話すときは、目の前に必ず聞き手の存在が絶えず意識されている。(意識的な独り言であっても、自分に向かって語りかけているといえるだろう。)
コミュニケーションは、メディアを通じた単なる情報のやりとりではなく、前提として相手の存在を互いの精神に内在化している必要がある。
その意味で、我々は独りで話すことは出来ないのであり、話しているときは独りではないのである。

しかし、書くことは孤独な行為である。
書き手である自分に対する読み手というものは常に虚構である。
書くとき、我々は常に虚構としての読み手を想像しなくてはならない。自分と世界という相対する構造がそこに生まれてくる。
したがって、書くという行為は内省的思考と密接に結びついているのである。

筆者は最後に、二次的な文字の文化=エレクトロニクスの文化についても言及しているが、この本が書かれた当時はまだTwitterもFacebookもLINEも無かった。
TwitterやFacebookで書かれているテクストは、読み手の不在によって限りなく孤独であった「書く」ことから、曖昧にではあるが読み手の存在を意識できる「つぶやく」ことに変化していると思われる。
そこに内省的な思考は存在するのだろうか?

また、LINEに代表される「スタンプ」という機能も、この視点から見ると興味深い。
読み書きは出来ないが、スタンプで会話できる人、なんて存在はひょっとしたら一定数いるのではないか。
最近、Facebookの投稿は読めるが、学校で扱う文章にはついていけない子どもが出てきている、という話を聞いたのだが、これはまさしく、そうしたSNS的な場で書かれるテクストと、伝統的な書かれたものとが、根本的に違う技術であるということに起因する話かもしれない。



教育という側面から考えた時、内省、言語、発達のこの3つの密接な結び付きを解きほぐしていくことは非常に有意義であると思う。

先日のエントリーで、内省において言語化することにこだわり過ぎてはいけない、という主張をしたが、それは著者の言う「プレテクスト(テクスト化される前のもの)」と「テクスト」の差異の話と近い。
テクストは根元的にプレテクストであり、プレテクストとテクストは一対一対応のような関係でもない。

一方で、確かに我々の内省的な思考の基盤は書くことに大きく依存しているのであり、書くことの技術を磨くことは、より内省的な思考を育む上で重要なのかもしれない。

しかし、著者はこの点に関して明確な言明をしていないように思われる。
もちろん、教育的観点から書かれたものではないため、批判には値しないが、内省的思考が育まれるから書くことが生まれたのか、書くことが発明されたから内省的思考様式が生まれたのかについては、正確なところが分かっていない、という言うべきではないだろうか。

少なくとも、我々の個人的な発達段階と、集団(文明)としての発達段階の相関がここでも見られるということは忘れてはならない。
教育というものは常に時代の要請に応えるべきものでもあるからだ。

そして、もう一つ大事なことは、こうした思索自体が、テクストに依存しているということである。
こうしてブログに文章化している時点で、僕の思考は書くことによる文字の文化に強く規定されているしという内省的気付きを大切にしたい。


この本から得られた示唆を到底すべてここに記述することができた気がしないので、ぜひ興味を持たれた方は読んでみて欲しいと思う。
特に、内省について興味のある人や、教育に携わる人であれば。

次にイノベーションが起こるとしたら、「ありがとう」と頭で思い浮かべるだけで発音され、特定の相手に伝達できるような、テレパシー的なテクノロジーだろうか。などと夢想しつつ。

2014年5月12日月曜日

持続可能な理念とは。

2年間のマネージャー経験で、常につきまとったのは「ビジョンの体現」という課題だった。
リーダーはビジョンを体現しなくてはならない。
考えてみれば当たり前のように思われるこの原則は、実は非常に難易度が高いように思われる。

教育思想史に関する本をここ最近読んでいるが、数多の教育思想が、実践にばかり着目した誤解から批判され、廃れていく歴史を実感している。
最近でも、西川純先生による『学び合い』が、西川先生の理念を歪めるような形で広まり、本質からずれたところで批判や対立が起こっているように見える。

なぜ、理念は正しく理解されないのか。
理論と実践は乖離せざるを得ないものなのだろうか。

そう考えた時、前述した「ビジョンの体現」という話を思い出した。
リーダーはビジョンを語るだけではなく、行動で、全身で、そのビジョンを体現しなくてはならない。
すなわち、言行一致の一貫性である。
一貫性が信頼と安心を土台とした協同のチームを作る。

ここで重要なのは、リーダーが語るビジョンにおいて、リーダー自身を例外としない、という構造である。
「全ての人が幸せに働くことを目指す」と言っておきながら、「ただし自分は例外」というのは、そのビジョンの限界あるいは脆弱性を認めていることと同義だし、持続可能ではない。

リーダーが自省的であるべきなのは、究極このビジョンに自分が誠実かどうか、という一点である。
自身の行動、言動、その他全ての在り方が、掲げる理念に即しているかどうかを反省し続けることがリーダーの条件である。

教育思想にも同じことが言えるのではないだろうか。
デューイの掲げた教育思想に則っていると自負していた実践者たちは、子ども中心主義への批判を受けた際に、真にメリオリズム的に行動していたのだろうか。

教育思想はともすれば、思想に基づく実践自身をその思想から疎外しているような傾向はないだろうか。
「子どもに何も押し付けてはいけない」という人々は、その思想を誰かに押し付けていないだろうか。
「すべての意見には平等に価値がある」という人々は、その意見を一段高みにおいて上から目線に陥っていないだろうか。

思想が思想家のものではないように、理念とは、掲げる誰かのものではない。
理念は、共有される人々の間という無形の空間にあるものだ。
だからこそ、不断の内省によってそれは鍛え上げられ、より多くの人を魅了するようになるのである。

当為は「当に為される」から当為なのであって、口先だけの理想は実を持たない。
医者の不養生が笑い話になるように、考えてみれば呆れ返るほどの事態なのだが、実際にこれを体現するのは非常に難しい。
だからこそ、省みるという習慣を大事にしたいと思う。


2014年5月11日日曜日

言語化至上主義を揺さぶりたい。

我々は言語を誰もが同じように使える当然の能力として見てはいないだろうか。

以前LFAでリフレクションを設計していたときのこと、
リフレクションシートと呼ばれる内省用のシートの記述が少ないことから、内省が足りていないと判断した、という話を聞いた。
しかし、実際にその教師の指導が改善していないわけではなかった。

言語化できる、ということの前提条件として、言語能力がある程度発達していることが求められる。
記述すれば自明のことだが、あるいは無意識の前提(メンタルモデル)となってしまっていないだろうか。

確かに、言語化できないということは思考が足りていないことと重なっていることは多い。
我々は言語なくして思考できないからだ。
それに、言語が内面的事実を共有する上で最も有用なツールであることも疑い得ないと思っている。

しかし同時に、本質的な気付きというのはうまく言語化できないことが多いのも事実である。
なぜなら、コルトハーヘンのリアリスティックアプローチにも示されているように、本質的な諸相への気付きへと至るためには、思考面だけではなく、行動、感情、欲求といったレベルも含めた内省が必要だからである。

言語化された気付きというのは、言語化されえない気付きをなんとか言語化しようと試みた結果なのであり、重要なのは言語化されえないものを言語化しようとする敢然性にある。
そこに気づかず、ただ言語化された「結果」だけを読んで理解しようとすると、真の意味で学びを共有することはできない。

他者の学びを観測するには、言語によって測るしかないという現実的制約が、我々に言語というものをある種絶対化し、あたかも客観的な尺度かのように錯覚させているのではないか。

僕は当時言語化にこだわらないリフレクションとして絵やレゴブロックを使った学びの共有を発想したが、そうした手法が本質なのではない。

「これが自分の欲求です」と書かれていたとしても、そこに言語化されたことと、その人が実際に自覚している欲求との間には抜け落ちているものがあり、それを人間に本来的に備わっている力によって汲み取ることが重要なのである。




2014年5月10日土曜日

「すべての人が生きたいように生きている社会」への反論

少し前まで寒かったのに、あっという間に半袖で外出したくなる季節。
教育の意義とはなにか。相変わらず考えている中、ウィルバーの『無境界』をふと思い出した。


内省という試みは、無意識を意識化することであると過去のエントリーで書いたが、無意識を意識化するとはどういうことか、更に深く考えてみる。

結論から述べれば、内省とは「境界線に気づく」行為である。
私たちは差異の世界に生きている。
差異を差異として認めるために、境界を引く。
最たるものは、「命名」だろうか。名付けることで、対象を「分類」する境界線を引く。
そうして数多に引かれた境界線の世界で、我々は生きている。

そうした境界線に気づくことが、内省という思考である。構造を把握する、といっても良い。
境界線に気づくことがなぜ重要かといえば、境界線を引くことで分断され、「ありのまま」ではなくなってしまったことによって起きる葛藤を克服することができるからである。

例えば、他者との間で起きる諍いは、自分とその人の立脚する価値観やメンタルモデルの相違が根本的な原因である。自分を縛るメンタルモデルに気づくことは、実は他者と自分の境界線を越えることにほかならない。

内面的な葛藤においても、自分を縛る固定観念からの解放こそが鍵をにぎる。自分という存在を何らかの境界線によって自己に押し込めていることが、実は内的葛藤を生んでいる構造的要因である。

そうした内省をとことん深くつきつめると、どこに至るのだろうか?
「すべての人が生きたいように生きること」こそ大事なのだという言説をたまに耳にする。
しかし、これに僕は違和感を感じている。

「自分が生きたいように生きる」という段階の先(内省によって至る)には、「自分が生きたいように生かされている(そうなっている)」という段階があるのではないか。

僕は、全ての人が生きたいように生きている社会よりも、全ての人が生きたいように生かされていることに気づきつつ、生きたいように生きている社会がよいと思う。
その方が、社会というものを構成して生きていかざるを得ない我々の本態に寄り添っている気がするからだ、


教育の意義とは、なんだろうか。
教育において未来永劫疑いようのない事実は、「教育とは、人格と人格との相互活動である」ということだと思う。
このありのままの事実を見落としてしまうような境界線を引くと、どこかで誰かが苦しみ、泣き、憤っていることになる。

であれば、教育において最も大切なことは、相互活動を通じて、自己と世界が本質的に区別されていないということに気づくことかもしれない。

自分自身その段階に至っているかと言えばそうと言い切れないが、入り口ぐらいは覗けている気がする今日この頃。

2014年5月8日木曜日

田中智志『教育臨床学 <生きる>を学ぶ』2012

ずっとおすすめされて積んであった本。
なるほど、これは自分が読むべきだった。
少しいつもより気合を入れて書いてみた。

筆者の提唱する教育臨床学の要点は、以下と理解した。

①教育という営為の倫理的基底(すなわち人の根源的様態であり、日常性の存立条件である)を存在論的に捉える。
②我々自身が社会に参画し、社会を形作る一員であるということを認識するため、社会構造論を踏まえる。
③その人の固有性を肯定し、自己創出を支援することが「よい」教育である
④倫理的基底と社会構造論を踏まえた教育の再構築は、不断により良いものを目指すというメリオリズム的なものでなくてはならない。


①については、本書で最も多く語られているところである。
この倫理的基底を支える概念として、作者は、「命の固有性」「重層する関係性」「衝迫の倫理感覚」という3つの基礎概念をあげている。

「命の固有性」とは、一見当たり前のように思われる概念だが、ここでは存在論的にその固有性を論じている点が特徴である。
「あの人は優秀だ、有用だ」といった卓越性や、「一人として同じ顔の人はいない」といった生物学的特殊性ではなく、存在論的関係性の中に命の固有性を見出しているのである。

すなわち、私たちは情念的に強く結ばれた誰かとの関係性の中で初めて、「かけがえのない存在」となるのであり、その「かけがえのなさ」は私が所有しているものではなく、私と親密な誰かとの関係性に在る。

ではそうした関係性を存立させているのはなにか。
それが倫理的な感覚を伴いながら他者の命に共鳴共振するという我々の本来的に持つ感覚なのである。
目の前で死にかけた人を見た時、その人を助けるべきかどうか思考する前に手を差し伸べてしまう。そんな衝迫の感覚である。
「衝迫する」のは、我々が他人に無関心ではいられないということである。

こうした倫理感覚がどのように養われていくのか、残念ながら本書では明確な結論は出ていない。
しかし、おそらく無条件の肯定に支えられた世界という他者と自己との相互浸透が大きく関わっているのではないかと筆者は述べている。


ここから少し自分なりに考えたことを書きたい。

1つ目は、先日ブログに書かせていただいた苫野先生の『どのような教育が「よい」教育か』との関連について。

実は非常に光栄なことだが、先の記事を苫野先生自身がTwitterでお読み下さり、疑問に応えてくださった。
Twitterを利用しての苫野先生とのやりとりは非常に心躍るものであったし、同時に自らの未熟さを実感する契機ともなった。

ともかく、上記の本で苫野先生は、「よい」教育を論ずる上での共通了解はなにか、という問いに向き合っているが、その際に「よさ」を論ずる基底として、『我々は「生きたいように生きたい」と我々が感じている』という現象学的事実をとりあげている。

本著『教育臨床学 <生きる>を学ぶ』では、人間を自己創出し続ける人格システムとして捉える。
自己創出とは、「自分を重視する視点に立って思考し・感受するとともに、他者を重視する視点に立って思考し感受することで、自分を作りかえるシステムである。」(p249)
つまり、自己創出は、他者言及無しにはなされない。ここに教育という営みを支える関係性ないし倫理的基底の存在が浮かび上がってくる。
また、自己創出は「生まれ変わり続ける」システムである。ここにも、不断に「今、ここ」ではない場所を目指す我々の実存性が垣間見られると言える。

田中先生が言いたいことを、苫野先生が言おうとしていることと比較してみると面白い。
苫野先生は、どのような教育が「よい」教育かを考えるための共通了解はなにか、ということを問うていて、田中先生はそうした共通了解を得ようとする教育という営み自体を支えようとしているように感じた。
このあたりはまだ少しもやもやしているので、今後も考えていきたい。


2つ目は、発達との関連について。
本著で唯一欠けているとしたら、「発達」の視点ではないだろうか。
本書で語られているような存在論的な了解に至るには、段階的な発達を経る必要があると思われるし、筆者が再三に渡って教育には相応しくないと批判する「交換の思考」や「目的合理性」は、インテグラル理論的には合理性段階の産物として(乗り越えられていくものとしても)理解できる。

逆に言うと、インテグラル理論的な発達の視点を持って本書を読むと、その完成度の高さに舌を巻く。特に印象深かったのは、やはり敢然性(メリオリズム)という態度、そして自己創出し続けるシステムという人間観が、発達を健全化するというインテグラル理論の思想と親和性が高かったことである。


やはり教育哲学をやる上で、最新の発達心理学はかかせないと感じた。
ウィルバーから、カート・フィッシャーやロバート・キーガンにも興味を持つようになったのだが、彼らのような最先端の発達心理学者の知見は、こうした教育哲学の最先端とも実は親和性が高いのではないか。

この仮説はかなり面白い気がしているので密かに温めておこうと思う。






2014年5月2日金曜日

J.クリシュナムルティ『子どもたちとの対話』1992

Time誌が選ぶ20世紀の聖人5人の中で、ダライ・ラマやマザーテレサとならんで選出されているクリシュナムルティ。
彼が子どもたちに向かって行った講話の記録である。

クリシュナムルティは、15歳の時すでに神智学協会の指導者によって見出され、「星の教団」の指導者となる。その後、「真理は道なき土地であり、組織できない」として教団を解散させてしまう。

ここまで聞くと、オカルティックな「触れてはいけないタイプの思想」のような気がするが、一般的なそうしたカルト的思想に見られるような難解な概念語は全く出てこないし、言っていることは終始一貫していてドグマ的な要素もない。

クリシュナムルティという人は、日本では教育に興味がある人にとっても非常にマイナーな人間である。知っているという人に会ったことは殆ど無いのだが、これもめぐり合わせか、過去一度だけイベント企画でお世話になった友人がクリシュナムルティを知っていた。

お互いに「なんで知ってるの!?」という興奮から、「勉強会をしよう」という話になり、カフェでクリシュナムルティを巡って話し合ってきた次第である。

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クリシュナムルティの思想は明快で、要は「条件付けに気づき、観察しつづけることで自由になれる」ということである。
条件付けというのは、我々の思考や行動は、絶えず生起する様々な欲望や恐怖、不安を紛らわすための一種の防衛反応として無意識に反応してしまっているということである。

例えば、「もっと実力をつけたい」という思考は、実力がないことによって自分の価値が否定されることへの恐怖によって条件付けられている。
繰り返される思考は、思考することでそうした恐怖から目を背け、紛らわせようとする反応なのである。

我々はこうした無数の条件付けによって、苦しいこと、辛いことから目を背け、誰にも否定できないような美辞麗句を並べ立ててセルフブランディングに勤しんだり、何か一つの信念に固執したりする。

こうした条件付けが、恐怖や不安によって起こっていることに気づき、ひたすら観察すること(あるいはクリシュナムルティは「ありのままを観ること」と呼んでいるが)によって、我々は真に豊かな生に目覚めるのである。


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このクリシュナムルティの言っていることは、まさに我々が「内省」と呼んでいるものに近い(特に、仏教における「観< vipassanā>」に類似していると感じた)
内省とは、無意識を意識化するプロセスである。
内省の中で認知される自身のメンタルモデルは、最も深いところで確かに恐れや不安といった感情と結びついている。

クリシュナムルティは、こと教育に情熱を注いだ人でもあり、インドに5校、アメリカに1校、イギリスに1校、クリシュナムルティスクールと呼ばれる学校を設立している。
クリシュナムルティの教育理念は、子どもたちがこうした条件付けに縛られないように支援する、というものだ。
教育における内省の重要性について問いなおす上で、クリシュナムルティの思想は非常に参考になると思われる。


この著作を読んで感じた疑問は2は、クリシュナムルティは、既存の学校システムを恐怖によって条件付けられているとし、子どもたちには、条件付けから自由になるためにそうではない安心できる空間を提供しなくてはならないとしている。
しかし、現実的にはそのような条件付けに縛られている人、システムが社会の中では至るところに見られるし、我々が成長していく中でそうした条件付けに縛られてしまうことはある種必要なことのように思われる。
全てに自覚的であるとしたら、様々なことが気になって他者とのコミュニケーションなどできないだろう。条件付けもまた、我々にとって生きていくための一つの方策である。
また、子どもの発達段階を考慮した際に、幼い段階からこのような高度な内省能力が身につくのか、といった疑問もある。

つまり、条件付けによって縛られる、というのは一つの発達段階として捉えるべきではないか、ということである。
条件付けによって縛られるからこそ、その条件付けを自覚できるようになるのだ。
そうした意味で、端から縛られない教育というのは志向されるべきではあるが現実に完全に実現されないし、されるべきではないと思う。

クリシュナムルティは、そうした条件付けから究極に自由になった段階、かなり高度な段階について述べているが、その間の段階については言及していない。(発達的な発想が見られない)
そのため一見してとっつきづらく、難解に感じられるのではないかと思うのだ。
ここはインテグラル理論的に段階という概念を持ちこむことで、クリシュナムルティの言っていることが我々の現在の延長線上にあることを実感でき、理解できると思う。

本書は子どもたち向けに話された内容であるため、要諦を掴んでしまうと少々冗長に感じる部分もある。
クリシュナムルティは他にも教育について語っている本があるので、ぜひとも読んでみようと思う。

自分の理解について、話すことでより思考が明確になり、とても文章が書きやすいことに気づいた。