2015年4月27日月曜日

「メンタルモデルは暴くべき」というメンタルモデルについて

メンタルモデルと聞くと、とりあえずそれを暴き立てることに注力するようなことは無いだろうか。
メンタルモデルとはごく簡単に言ってしまえば固定観念であり、固定観念に則って何かを認知し、判断することは正すべきことであるかのように語られることがままあるように思う。

『学習する組織』の著者、ピーター・センゲは、メンタルモデルについて、学習を阻害する大きな要因であると述べつつも、むしろその力を学習を促進するために使えないかという提起をしている。
また、センゲによれば、「メンタルモデル自体が良いとか悪いとか言っているのではない」。

本来、メンタルモデルというものは、人間の認知を助けるような働きを持っている。
それは学習の成果であり、メンタルモデルを利用することで、認知と判断に関わるコストを減らすことができる。
また、メンタルモデルは思考を規定するものであるから、メンタルモデルをうまく利用することで特定の状況における学習を促進することができる。
センゲが言及しているのも、こうしたメンタルモデルの正の側面の積極的利用についてである。


しかし、メンタルモデルは確かに学習を阻害する要因にもなりうる。
学習というものを自らの既存の世界観の地平を越えることであると定義するならば、まさにその地平を強固に形作っているものがメンタルモデルであるからだ。
その境界が強固であればあるほど、それを越えるのは苦労を要する。

例えば、「他人に対してNOを言うと、その人に嫌われる」というメンタルモデルを持っている人は、なかなか他者に対してしっかりと拒否を伝えることができないということがある。
そうした人に対して、いかに論理的に他者に対して拒否を伝えることが必ずしもその人に嫌われる結果を生まないということを説得しても、根本的なメンタルモデルを変容させることは難しい。

というのも、そもそもメンタルモデルというものは普段自覚されないものだからである。
前述したように、メンタルモデルは私たちの認知のプロセスの一部を無意識的に行うことでメリットを生み出しているので、自覚されないことが当然である。

従って、本質的な学習の第一歩目は、メンタルモデルの自覚から始まる。
越えるべき境界をしっかりと捉えることが、肝要なのである。


以上のような理由から、メンタルモデルというものは一般に明らかにするべきものであり、特定のメンタルモデルに縛られるということは端的に言って「良くない」ことであると思われがちである。
その言説自体が間違っているとは思わないが、問題はメンタルモデルのデメリットが強調されすぎて、本来メンタルモデルの持つメリットが過小評価されてしまうことにある。

センゲが『学習する組織』で提唱していることを自分なりに意訳するならば、「メンタルモデルの影響というのは逃れ得ないものであるのだから、その影響を出来る限り自覚的に最大化しよう」ということである。

あらゆるメンタルモデルに囚われずに現実をありのままに見つめるということは、困難を極める。
そうであるならば、特定のメンタルモデルに依拠してしまう事実を受け入れた上で、可能な限りそれに気づきつつ、どのようなメンタルモデルを持てばより学習が促進されるのか、と問うべきだ、ということである。
すなわち、『学習する組織』はより良いメンタルモデルを築き上げていく方法論なのだ。


メンタルモデルを暴くことが目的化してしまうと、そこに残るのは危機に晒されたアイデンティティと、固定観念に囚われずに世界を見ることができるという幻想に囚われた傲慢な自己のみである。

絶え間ない学習には、虚構に気づきつつ、それを積極的に乗り越えようとしていくような在り方が必要とされているのではないだろうか。

2015年4月8日水曜日

【イベントレポ】「かわいそうだから助ける」への疑問と地域の可能性について

先日参加させていただいたイベントの感想と考えたことについて。

こちらのイベントに参加してきました。
http://www.earthday-tokyo.org/2015/04/02/2175

講師は、一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事/自立生活サポートセンター・もやい理事の稲葉剛さんと、NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク理事長の栗林知絵子さん。

就労よりもまず入居を支援することの必要性


稲葉さんは、ホームレスを中心として、湯浅誠さんらと共に長年貧困問題に取り組んできた方である。
そのお話では、住まいの支援が如何に重要かということを強調されていた。
一般に、貧困問題というと就労支援が主な支援としてクローズアップされることが多いが、それよりもまず住まいをしっかりと確保することが何よりも肝要であるという。(ハウジングファースト)

その理由は、まず、住宅が無いということは生死の問題に直結するということがある。
冬の厳しい寒さの中、野宿を強いられることは、特に高齢のホームレスの方にとっては軽視できない危険なことである。
実際に、稲葉さんはホームレスの方々に夜、声をかけて回って安否の確認をする夜回り活動の中で、救急車を呼ぶ事態に出会ったことがあるという。
過去の稲葉さんの調査によれば、そうした路上生活者の死者数は新宿区だけで年間40人程度にのぼることもあったらしい。

また、路上で生活するまでは行かずとも、審査に通らず住宅に入れないためにネットカフェや脱法ハウスに住む人々も存在する。(東京都ではネットカフェ規制条例によって、現在は脱法ハウスを利用する人が多いようだ)
しかし、実際のところネットカフェなどに一ヶ月宿泊し続けると、月5万円程度と決して安くない費用がかかる。
つまり、こうした通常ではない住環境にいること自体が、貧困から抜け出すための足かせとなってしまっている。

年越し派遣村で話題になった派遣寮も、不安定な住環境である。
こうした派遣寮は、派遣社員を募集する際に、住宅や家電付きであることを売りにして募集をかけるため、応募する人々はそうした支援を期待して応募する。
しかし、ひとたび景気が低迷し、「派遣切り」が行われると、こうした寮を寝床としていた人々は住居を失う。
また、こうした派遣寮は、社宅とは違い、家賃も相場並で結局働いた分の多くを家賃にとられてしまう仕組みになっていたり、家電の利用料が設定されていたりと、決して恵まれた環境ではない。

こうした人々の中には、精神的、知的な障碍を持つ人々も一定数いる。
全国的に空き家、空き部屋が増加し、有効に利用したいと考えるオーナーは多いにもかかわらず、そうした人々とは契約したくないと考える人は多い。

「かわいそうだから助ける」の問題点

印象的だったのは、「かわいそうだから助ける」という意識の問題について稲葉さんが語っていたことである。
生活保護や貧困の問題は、テレビ番組などではその「かわいそうさ」を強調するような報道が主流であり、「かわいそうだから支援すべきだ」という考え方が日本ではどこか根強いように感じられる。

しかし、「かわいそうだから助ける」というのは、「かわいそうじゃなかったら助けなくていい」ということと表裏一体なのではないかと稲葉さんは言う。
ある芸能人の母親が生活保護を不正に受給していたというニュースが、連日のように報道されて多くの人々がそれに便乗したように、かわいそうに見えない人が不正に支援を受けることに対して日本人は非常に怒りを感じるのである。

だが、生活保護の捕捉率は依然として2割程度という低い水準であり、助けられるべき人の多くは支援を受けられていない。
そもそも、健康で文化的な最低限度の生活が保証されるべきなのは、そうじゃないと「かわいそう」などといったロジックの次元ではなく、人権の観点から成立している普遍的な原理である。

確かに、税金を無駄に使われているのだから、不正受給に怒りを感じるのはもっともだ。
しかし、生きることを保証するというのは、それ以前の問題である。
生活保護を受けることは恥だとおもうべきだと述べた政治家が居たらしいが、恥ずべきはまず我々の人権意識の未熟さではないだろうか。

また、こうした問題に取り組む人々も、「かわいそうだから助けるべき」というロジックで訴えかけていないか、自戒を込めてしっかりと省みる必要性があると思った。

「地域の子どもは地域で育てる」

もう一方の講師、栗林さんは、豊島区池袋で子どもの支援をされている。
無料学習支援、プレーパーク、子ども食堂という3つの事業をされていて、子どもをとりまく問題について幅広い角度から支援を行っている点が素晴らしいと感じた。

設立からまだ4年程度と短い時間しか経っていないにもかかわらず、包括的に支援を実施できている理由は、栗林さんの行動力と、地域という枠組みのポテンシャルだと思う。

もともとは栗林さんが地域のある子どもの受験勉強を手伝い始めたところから、活動は始まった。
勉強を教えるために、大学生が必要だから知り合いの大学生に声をかける。
地域の子どものことは、地域で支援するという考え方から、地域の人々からカンパを募って受験のための資金を集めた。

もちろん実際にはもっと多くの苦労や過程があったのだと推察されるが、簡単に言ってしまえばそうした活動が地域の人々の共感を呼び、巻き込み、いつしか団体設立ということに繋がったのだと思われる。

地域の中から弁護士や精神保健福祉士といった専門性を持つ人々がゆるやかにつながり、各々のできることを活かして支援が広がった。
安いお金で子どもたちに健康でバランスのとれた食事を提供する子ども食堂も、地域の人々からの申し出があって場所を確保することができたとのことである。


こうしたモデルは、この先もっと広がっていくのかもしれないと感じた。
「地域の子どもを地域で育てる」という考え方は、実は理にかなっている。
無縁社会と呼ばれるような現代社会、ましてその象徴とも言える池袋という都会の地で、こうした社会を結び直すような試みが着実に成果を上げていることは、大きな希望の光だと思う。






2015年4月2日木曜日

H.R.シャファー『子どもの養育に心理学がいえること』1990

「家族の貧困は、子どもの発達に影響するか?」「最初の愛着形成はいつまで遅れて良いか?」
といった、発達心理学から、子どもの養育についてどんなことが言えるのか?という興味を持っている人にとって絶好の入門書だと思った。

上記にあげたような20のテーマについて、信頼できる研究を並べ、学術研究としていえる書かれた時点での結論を慎重に述べている。
ただし、扱っている段階は乳幼児、児童期にどちらかというと比重がおかれている(もちろん縦断的な研究も数多く含まれるので、青年期や成人期について言及している箇所は多くある)


概してこうした研究から得られる示唆は、必ずしも臨床の場においてはっきりとした問題解決の方針を示してくれるわけではなく、十分な追試が行われていない研究を確たる証拠のように扱ったり、研究の結論を拡大解釈したりしてしまう風潮に対して、最初に注意を促している。
その点でも、僕のような初学者にとってはみだりに衒学的になることを戒めてくれる良書だと思う。


残念な点としては、書かれた年が1990年(その後1998年に大幅に増補した二版が発行され、本書はこの二版の訳である)であるため、2015年現在では、さらなる知見がもたらされている可能性がある。

しかし、心理学にかぎらず、こうした研究はいくつもの実証研究によって支持されることで初めて基本的事実として合意されるのであり、書かれた時点で過去の大量の研究から信頼できる示唆を得ている本書の価値は、さして変わらないと思われる。

特に興味深かったのは、様々な子どもの不健全な発達における、環境―素因という古典的な対立に対し、積み上げられた研究はいずれも環境と素因(気質)の組み合わせから要因を考えなくてはならないことを示していることである。

これは現場に携わる者としてはすなわち、子どもの可能性というものを信じる拠り所であり、同時にまるで全ての責任を親、特に母親に帰属させることを強く戒めるものである。

愛着形成がうまくいかなかったからといって、全ての人が愛着欠損性格になるのではない。
また、乳児期、幼少期のトラウマ体験も、その後の家庭環境次第で影響は克服されうる。

明快な結論を求める人にとっては、どこか釈然としない話かもしれないが、結局それぞれの分野、段階で子どもの発達に携わる人々が、それぞれやるべきことをやるしかないということなのである。
そしてそれは、決して悲観的な結論なのではなく、それぞれの仕事に十分に意味があるという未来ある啓示なのである。

厳密な科学的知見というより、なんだか勇気を貰えるような本である。