2014年4月30日水曜日

小玉重夫『シティズンシップの教育思想』2003

シティズンシップとはなにか、という問いについての入門書。

ソクラテス、プラトンからポストモダンまでの思想を踏まえながら、シティズンシップという概念がどのように形成されてきたのかを概説している。

200ページにも満たない非常に読みやすい本ながら、ある程度思想的な知識がないと読み解けないところもある気がした。
あくまで入門的な概説であるため、衝撃を受けるような深い味わいは感じられないものの、これからの教育を考える上で必要な知識、考え方を教えてくれる。

教師は「真理の代弁者」でもシニシズムに陥った「プラグマニスト」でもなく、「過去と未来の間」に立った(教師自身を脱構築した)存在であることが求められる、という主張は、ポストモダンを乗り越えていく統合的な思想の一つだと言える。
単なる中道論を越えた統合的な発想というのが、今後メインストリームになっていくことを予感させた。

シティズンシップ教育というのは、ルーマン的に言えば「政治機能システム」からの「教育機能システム」への要請である。
教育という社会的機能が、政治や経済機能から強く規定されている、というのは自明のことであるが、一方で教育は子どものためであるという思想も根強く、これらは常に対立しているように見える。
こうした対立を乗り越え、あるべき公教育の姿を考える一つの方法として、シティズンシップ教育という発想は優れているのではないかと思う。

ただ、筆者はこうしたシティズンシップ教育を具体的に実践していく場として総合的な学習の時間の活用をあげているが、それに対しては疑問が残った。
プラトン的な知識偏重教育への反省として、教科科目と道徳的活動あるいは課外活動の並列化、という発想が見られるが、シティズンシップに求められるパブリックな場で異質な他者と協働していく力は、そもそも教科横断的な要素である気がする。
教育とは、それ自体が人と人との関係的行為であるから、これはシティズンシップ教育の授業で、これはそうではない、ということは本質的には間違っている。

科学的知識を伝授するカリキュラムと、シティズンシップを涵養するカリキュラムは、まるでDNAの二重らせんのように絡み合っているもののように思う。


アレントをちゃんと読まねばならないなあと思ったのであった。
(読まねばならないものばっかり増えていく…)

2014年4月29日火曜日

なぜ「ThinkPad x240s」なのか

たまには趣向を変えて。
ノートPCの選び方としても参考になる、かも?

僕が愛用しているノートPC、「ThinkPad x240s」
実は中学生時代からThinkPadに惚れ込んでいるのだが、なぜThinkPadが素晴らしいのか。
一度語ってみたかった…!

まず、前提として今持ち歩きを前提とするノートPCを買うならば、「Ultrabook」一択だろう。
Ultrabookとは、intelが認定する要件を満たしたノートのみ名乗ることができる、薄型ノートPCの種類である。
前述のとおり、非常に薄い(厚みは23mm以下)
薄いので軽い。
以前僕は重量2kg近くのノートPCを持ち歩いていたが、肩が凝って仕方がなかった。
軽さというのは持ち歩きを意図したノートPC選びではかなり重要なファクターである。

Ultrabookを選ぶという前提の上で、なぜThinkPadを選んだのか。
それには大きく分けて4つの理由がある。

①キーボード

ThinkPadと言えばキーボードである。特許を取得しているほどのその技術は、長時間打っていても疲れない、心地良い打鍵感を実現している。
x240sから導入された7列アイソレイテッドキーボードは、古参のファンからは賛否両論だが、個人的には十分満足できる。

一般にUltrabookは薄さを実現するために、キーボードを犠牲にしている。
クッションが十分に考慮されない薄いキーボードは、30分打っているだけでも疲れる。
お気に入りの携帯用キーボードを持ち歩く主義の人は構わないが、USBポートを一つ食うし、持ち運ぶ荷物も増えるので、ノートPCを買う際にはキーボードの心地よさはぜひとも考慮にいれるべきだと思う。

②堅牢性

ThinkPadのもう一つの特徴、それは堅牢性である。
「落としても壊れない」これはとても重要である。
据え置きではないノートPCは、常に損傷の危険性にさらされているといっても過言ではない。

特に壊れやすいのは、ヒンジの部分だ。
x240sは、ヒンジがステンレス素材であり、左右2つに分かれている上、外側にはみ出していない(伝わりづらくて申し訳ないです)
某Dellなどはこの部分までアルミ素材でコストカットしているので非常に脆い。
開いたり閉じたりすることが多いノートPCにおいて、壊れたら即修理に出さないといけないヒンジ部分の強さは見落とせないポイントである。

また、ThinkPad x240sの更に素晴らしいところは、開閉角度がほぼ180度であるところだ。
ノートPCを実際に使ってみると、180度開閉のありがたみがよく分かる。
椅子に座る角度に合わせて自在に角度を変えられるし、思わず手が滑ってしまっても、180度開閉なのでモニタ部分が折れてしまった!なんてことはない。

PCを懇切丁寧に扱う自身のないめんどくさがり屋の人にはぜひおすすめしたい。

③非光沢液晶

デザイナーならともかく、文書作成ぐらいの用途であれば、非光沢液晶をおすすめする。
映り込みがないため、長時間見ていても疲れないし、汚れもそこまで気にならない。
VAIOの液晶などは確かに美しいが、僕はそんなに写真や動画を美しく見るためにUltrabookを選んでいるわけではないので、非光沢液晶を選ぶべきだと思う。

④RGB端子

プロジェクターとの接続に必要なRGB端子。
Ultrabookでは、mini-port化されていることが多いが、今でも多くのプロジェクターはRGB接続である。いちいち変換ケーブルを買って持ち歩くのは非常に面倒くさいので、こうした配慮は実にありがたい。


以上がThinkPad x240sを選んだ主なポイントだろうか。
正直CPUやメモリなどはどこもそんなに変わらないので、とりあえずなるだけハイスペックなものを選んでおけば良い。(特にメモリは糸目をつけない)
HDDかSSDか、に関してはSSDがおすすめだが、僕のように特に雑にPCを扱う人間や大容量を求める人はHDDが良い。

最有力の対抗馬であるMacbookとの比較では、薄さはMacbook、拡張性はThinkpad(windows)に上がるが、仕事をする際に最も気になっていた起動時間についてはwindows8になることでほぼ解消されたので、お高いMacbookを選ぶ理由がなくなってしまった。

ThinkPad x240sの弱点を強いてあげるとすれば、ファンクションキーだろうか。
個人的には、音量の調節などはファンクションキーではなく、独立ボタンの方が良い。
しかし、それほど致命的な弱点でも無いように思われる。


以上、高い機能性と堅牢性を実現するThinkPadの設計思想に惚れ込んでいる男の戯言でした。

2014年4月28日月曜日

柴田義松『ヴィゴツキー入門』2006

ピアジェと並ぶ、「心理学におけるモーツァルト」とまで評されたロシアの天才心理学者、ヴィゴツキーの入門書である。

入門書なだけあって、全体的に平易に語られており、内容も広く浅く、といった印象を受けた。

ヴィゴツキーの発達理論の要諦は以下だと理解した。

・教育は、一人では出来ないが、協同によって達成できる<発達の最近接領域>に合わせて行われるべきである。
・精神発達は、生物学的/個的な所与の条件によってのみ解明されるものではなく、文化的/社会的/歴史的環境に影響を受ける。
・子どもの発達を媒介するのは、言語である。高次の精神機能は、他者とのコミュニケーションなどの外部に向けた社会活動と、内省的、論理的思考などの内部に向けた活動において立ち現れるが、その際双方とも言語を心理的道具として用いている。
・具体的、直接的な経験によって形成される生活的概念(自然発生的概念)と、抽象的、間接的で体系性を持つ科学的概念の結び合わせがあるべき学習の本質である。

正直なところ、ヴィゴツキーの代表的著作『思考と言語』や筆者がおすすめしている『教育心理学講義』を読まないと、何も分からないという感覚に包まれている。

ヴィゴツキーの興味深いところは、言語と発達の関わりについて鋭く洞察しているところと、発達というメカニズムの本質を明らかにしながら、教育の意義をしっかりとそこに組み込んでいるところだと思う。

特に後者については、よく幼い子どもたちの発揮する創造性を目の当たりにして、まるで偉大な芸術家であるかのようにその有能性を崇拝する思想や、児童中心主義的楽観論と距離をとり、現実的で説得力のある理論を展開しているところが好ましく思えた。

ヴィゴツキーは、フロイト心理学やゲシュタルト心理学がまるで世界の根本の理論であるかのように振る舞っていったことを強く批判している。
(今日でも、「全ては性欲だ」などといった言説は自覚的無自覚的にかかわらず我々の世界には根強く浸透している観念だろう)

苫野先生の著書を読んでいて思ったことだが、本質とか真理とかいったものは錐体のような形なのだと思う。
「真実は多面的だ」などいった話はよく聞くが、それだけでは足りない。
真理は確かに様々な面を持つが、それと同時に深み、高さを持っている。(更に言えば時間的な概念もあるだろうが)
全てが並列に並び立つ”多様性”の世界ではなく、様々な洞察を統合していく洞察もまたありうる。
そこにあるのは水平の関係性ではなく、垂直的な関係性のはずだ。

もちろん、そうした垂直性を優劣の基準として捉えることは致命的な誤謬であるし、人類の危機をもたらす。そこをどう乗り越えるか、というのが今後の課題だろうか…


書評からだいぶ脱線してしまった気がするが、ヴィゴツキーは日本ではピアジェなどと比べてあまり知られていない気がする。(ヴィゴツキー的な教育実践は数多くあるとしても)

とても興味深い理論なので、ぜひ一度手にとって見てはどうだろうか。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』2011

「かっこいいなあ」というのが最初の感想だった。

現代教育学の行き詰まりは広田先生らによって至る所で語られている(気がする)が、そんな中で「よい」教育とはなにか、という本質的な難問に切り込んでいくのは本当にかっこいい。

それを解き明かすのは、実に難しいからである。

本書を読んでいて、共感できる部分が多かった。7割ぐらいは苫野先生の言っていることに共感する。
例えばコミュニタリアニズムやリバタリアニズムを対立的な構図としてではなく、その上位に一つメタ的な原理を置くことで相補的な理論実践として捉える、といった発想は筆者が言うように「当たり前」だと感じていた。
(特に僕は対して勉強していないので、政治哲学なんぞをやっておられる方々はそんなことは当然すぎるのでスルーしてたものとばかり思っていた。)

しかし、一方でどうしても違和感を拭えない部分が2つ、正確には1つ残った。
それは、筆者が教育の本質を「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」としている、まさしく根本の部分である。
具体的には3章の部分にあたる。

1つ目の違和感について。
筆者はこの結論に至る過程で、現象学的なアプローチを用いている。
現象学は、絶対的な事実ではなく、個人に訪れる実感こそ、唯一確信に値すると考える。
(りんごが赤い、というのは事実かどうか確かめられない。しかし、私が「あのりんごは赤い」と感じる実感は疑い得ない)

だからこそ、筆者が議論の出発点としているのは絶対の人間観や道徳観などではなく、個人の欲望からである。欲望は、個々人が自らに問うことでその妥当性を検証できるからだという。
そして、この欲望の中で最も本質的なものは「自由」への欲望である、と筆者は言う。

しかし、本当にそうなのだろうか?

最も本質的な欲望が自由である、という論理は、例えば「高価なクルマが欲しい」「沢山お金が欲しい」といった欲望それ自体が、現状への不満(不自由)に規定されているからこそ、常に欲望というものが自由への志向性を持つ、というように説明されている。
だが、ここで欲望を底版として据えたのは、現象学的アプローチを採用したからこそだ。

「最も本質的な欲望が自由である」という実感が全ての人に訪れるなんてことはまず無いだろう。
そしてそのように述べる因果関係は決して現象学的ではないように思われる。
「君の『草になりたい』という欲望は、『自由になりたい』ってことなんだよ」と諭しでもすれば、そのような実感に至ることはあるかもしれないが、それを認めてしまったら本書で述べている大半のことが無意味になってしまうだろう。

2つ目の違和感について。

そもそも自由について、筆者はまずこう述べている。

私たちは、私たちの欲望それ自体において規定されている(制限されている)。しかしそれでもなお、この諸規定性の内にあって、自らの意志において選択・決定の可能性が開かれていると感じられた時、その時に私たちは、まさに<自由>の感度を得ることができるのだ、と。「我欲す」と「我成しうる」の一致の実感、これこそが、私たちが<自由>という時のその本質なのである。(p114-115)
また、自由の相互承認のために、筆者(というよりヘーゲル)は他者からの承認が必要であるという。
世界各地において、歴史上、奴隷は必ず反乱を起こした。十八~十九世紀ヨーロッパにおいて、自由を抑圧された人々は革命を起こした。前世紀、アメリカの黒人たちは公民権運動を起こし、自由を制限されていた女性たちは女性解放運動を起こした。そして今もなお、私たちは世界各地で起こる革命を目撃し続けている。自らの<自由>を他者に認めさせることができない限り、私たちは<自由>を感じることができないのだ。(p120)
 端的に言うと、自由であると感じられるためには、自らを規定する欲望に自覚的でありつつ、そこに自由な意思決定の可能性を見出すことが必要であり、同時にその自由を他者に認めさせる必要がある、ということだ。
ここに違和感がある。

そもそも自らを規定する欲望に気づく、というのはどういうことか。
この文言を見てすぐに思いつくのは内省のプロセスだ。
自分を縛り付ける固定観念をメタ認知することで、そこから「自由」になるための方法が内省である。
そうした内省によって感じられるであろう自由は、他者からの承認を受ける必要があるのだろうか。

V.E.フランクルは、人間の本質的な価値として「態度価値」をあげている。
態度価値とは、人間が何も創造できず、体験できない状況であったとしても、自分の力ではどうにもできない運命に対して、どのような態度をとるか、という点で価値を生み出すことができる、という思想である。
そしてフランクルは、まさに態度価値を発揮する局面において人は自由を感じるのだという。
逃れられない、変えようもない運命を前にしてなお、人はどんな態度をとるか、という選択の自由を持つ。それこそが究極の自由であり、人が自由であるという証左なのである。

このフランクルの考え方においては、自由というものは他者からの承認は必要ないように思える。
フランクルの考え方が全て正しいと主張するわけではない。
(僕自身が考える自由は、クリシュナムルティの言う自由に近いと思っているが、要は究極のメタ認知である。)

どのみち思うのは、先の引用の後者で述べている自由と、前者で述べている自由は少し違うのではないか、ということだ。

前者で述べている自由は、人間存在を俯瞰的にとらえている点で確かにその本質に通ずる部分があると思う。しかし、後者でいう自由は、あくまで政治的、経済的な権利といった皮相的なレベルでの自由にとどまっているように思われる。


おそらく、他者からの承認を必要とする次元の自由もあるのだろう。
しかし、そこで終わりではない。
自己を承認し、他者を承認し、他者から承認されることが自由と感じられるための成立条件だと筆者は述べている。
ここに発達的な視座が欠けている。
自己を承認できる段階、他者を承認できる段階、他者から承認されたと感じる段階、それぞれの関係性を明らかにしなくてはならない。そこに通底している志向性こそが、きっと本当の原理につながっているのではないか。

自由になれたら、そこで終わりなのだろうか?
自由とは一度実感したらずっと自由なのだろうか?
自由になった人たちの欲望は何なのだろうか?
自由の相互承認がされ、各自の自由が実現した社会はどんな社会なのだろうか?
他者の自由を承認する、というのは、無関心と何が違うのだろうか?
自由はそもそも実現できるものなのだろうか?


教育学における規範論という極めてカオスな分野に一石を投じた苫野先生の著書。
読後、全くすっきりしない感覚を味わい、長い時間考えてしまった。
自らの教育観を鍛えあげる上で、ぜひともおすすめしたい一冊になりそうだ。

2014年4月24日木曜日

セレンディピティと統合のカタルシス

最近読んだ本や、人と話したことが、なぜか不思議と結びついてくる感覚を持つことが多い。

苫野先生の本と広田先生の本は、子どもにとっての「安心できる学習空間」について同じことを述べているし、これはクリシュナムルティにもつながる。

クリシュナムルティはヴィパッサナーの概念と強く結びつく。

インテグラルエジュケーション研究会でテーマとなった言語と発達について考えていたところ、熊野先生の中でルソーとコンディヤックの言語についての認識に出会った。

フランクルの『意味への意志』を読んでいたら、ウィルバーの”統合への衝動”が頭をよぎった。

ロックの観想やアリストテレスの存在論は、気づけば原始仏教と比較しながら読んでいた。

それぞれ、上で述べたような気付きを求めて選んだ本ではない。
全く偶然の導きで、どんどん様々な体系がつながっていく。

昔、ある人に「君の強みは、他の人にとって一本の細い線でつながるかどうかといったことが、いくつもの線でで結び合わされているように見えるんだね。」というようなことを言われたことがある。


ブルーム理論における「統合」という働きに近いと思う。

確かに自分はそうした「統合」という思考作用に強く魅了されているけども、今はそれ以上にこうした「セレンディピティ」的な何かに神秘性を感じている。

鈴木規夫氏がブログの中で、探求という行為自体が何か大いなるものに与えられた特権である、というようなことを述べていたが、その感覚が今なんとなく分かる気がする。

もちろん、自分の興味関心に合わせて手にとった本なのだから、ある程度似通っているといえば似通っているのかもしれないが、それにしてもこうした出会いに数多く恵まれることに対しては幸運を感じる。

統合という方法は、世界の見え方をより深く、直観に近づけていく方法だと思う。
この世界を、フロイト心理学や量子論だけで説明できると思っている人はあまりいないだろう(いるかもしれないけど)
それぞれの世界で探求していった結果、経験的に獲得されたその領域での真理を統合していくことで、ありのままを観ることができるような気がする。


ブルーム理論では、統合の先に「創造」がある。
最終的に自分が何を創造できるのか、自分ごとながら楽しみだなーと思ったコーヒーブレイクでした。



2014年4月21日月曜日

第四回インテグラルエジュケーション研究会に行って来ました

遂に、ずっと行きたかったインテグラルエジュケーション研究会へ行くことができました。

僕がかつて参加したどんな勉強会よりも良質な空間だった気がします。

参加されている他の方々の発達のレベルが凄い。
社会人の方ばかりだったのですが、それぞれ多様な立場から教育を探求している方で、皆さん本当に素晴らしい知見をお持ちでした。
かといって、それをひけらかすような態度が全く無い。
包容力とみずみずしい知的好奇心を備えた素敵な方ばかりでした。

テーマは言語と発達について。
工藤順一先生の課題図書を参考にしながら、あっという間に3時間語り合いました。

ここにきちんと書くとものすごい分量になってしまうので、自分への備忘録も兼ねて今回はメモの形で学びを記述しておきたいと思います。

■ロバート・キーガンの発達理論について
「本当に著書で述べているようなエクササイズだけで人は変容するのか?」
➡いくつかの条件がある。

例えば、4つのコラムを”しっかり”と埋められていること。
当人にとって、根幹に関わるような重大なテーマを記述できていることが必要。
他人にとってそうしたテーマは些細に見えることも多い。

一人ではなかなかそうしたテーマを書き出すことは難しいので、コーチの意義が生ずる。

また、一回ではなく、そうしたテーマを複数克服していくことではじめて変容に至る。

■言語と発達
クロイターによる文章による発達段階のテスト。
ヴィゴツキー 「言語が発達を媒介している」
外国語学習によって初めて母国語を相対化できる➡自己と世界の相対化、という構図が発達の構図と似ている

■神話的段階と神話的合理性段階の違い

・神話的段階
「ベッドの下になにかいる」という感覚
未知のものに対する恐怖を物語、解釈によって安定させる。
おみくじや占星術、手相などを信じたくなる。

・神話的合理性段階
「神学」
神話に対して内省的になる段階。
客観的前提を共有できている他者としか対話できない。

・合理性段階
「宗派を越えた対話」「ダブルループラーニング」
自身の前提を相対化できる。

・前期ヴィジョン・ロジック段階
無意識を相対化できる。
他者に対し、私自身をも相対化できる。
➡他者の価値観から物事を見ることができる(共感、想像力)
➡存在そのものがフィクションであるという認識。ポストモダンへ。※ポストモダンと仏教の親和性

■読み書きと評価
他人に分かるように伝える、というのは非常に高度な能力である。
よく読むことができるのに国語のテストはできない、という子ども。
➡ザック・スタイン 学習における測定の位置づけ

国語力は伸びない。
国語によって算数の成績が決まり、算数によって理社が決まる。

■話し言葉から書き言葉へ
話し言葉は、空間、時間を共有している相手にしか伝えられない。
書き言葉は、空間、時間を超越する。➡他者、世界への気づき


■言語と身体性
我々の言語はメタファー思考にもとづく。
「宇宙は大きい」というのは、自分の身体と比較して語っている。
「明らかにする」という表現は、視覚のメタファーである。

身体性(body)と言語(abstract)の関わりは密接であると同時に、大きなジャンプでもある。
抽象化される前の情報量が貧しいと、そこから生まれる概念も貧しい。

英語が得意な人は、自分の身体的感覚と英語を結びつけるのが上手い。

※オイリュトミー…音ごとに動きが存在し、更に感情が加わる。神道にも見られる発想。
音の持つ神秘性、霊性にシュタイナーは気づいていた。

■感覚と言語
そもそも感覚が5つに分かれている、ということは自明ではない。
シュタイナー教育では、「十二感覚論」を採用している。

言語も一つの感覚ではないか?我々は言語を手足と同じように使っている。

経験から抽象を取り出す力を積まないと、他者の経験を自分のものにできない。
ファンタジーは、bodyのレベルを俯瞰的に追体験する。

「読書に没頭することとルービック・キューブに没頭することは同じか?」
➡モンテッソーリの気づき「子どもは誰から教授されずとも、そうした具体物への没頭の中で、自ら抽象概念(法則)を取り出すことができる」

「音読と黙読はどのような関係にある?」
聞く、話すは話し言葉=bodyの次元
読む、書くは書き言葉=abstractの次元

音読は自分で口を動かす、音をだすことが大事なのか。その音を聞くことが大事なのか。

読めている=「本を読む姿勢ができている」
外界との関わりを断って、本の世界に没入できているということ。

読むときに内面的に声がしている人、そうではない人がいる。
➡自分の経験では、論述的な文章は内面で音読しているが、物語ではセリフなどのみ音がしている感覚。


松岡正剛「人類が黙読を始めた時期と、無意識に気づいた時期が重なる」

ウィルバーやヴィゴツキー、工藤先生、シュタイナーの理論を統合して考えれば、読書感想文を小学校低学年段階の子どもに書かせるというのは極めてナンセンスなのではないか?



■自分の中で消化されなかった問い、気付き
・工藤先生は、ファンタジーにおける愛や未知への好奇心が子どもにとって、周りの世界に対する信頼を形作るとしているが、そこのつながりがよくわからない。
・ヴィジョン・ロジック段階の思想である脱構築では、言語すら解体されてしまう。そんな世界では、言語は発達とどのように関わるのか?
・感覚を研ぎ澄ませることで見えるもの、逆に抽象世界の概念を知ることで見えるものがある。
(前者の例は瞑想、後者の例としては、サッカーのルールを知らない人と知っている人ではゲームの見え方が違う、など)この2つの関係性についてうまく説明したい。
・インテグラル理論や、メタ的、統合的な理論の意義は、多分世界のありのままに近づくための方法を教えてくれることではないか。













2014年4月19日土曜日

パーソナルマスタリーでは「恐怖」を語れ

パーソナルマスタリーという概念がある。
かの有名なピーター・センゲが『学習する組織』の中で提唱した五つのディシプリン(柱)のうちの1つである。
パーソナルマスタリーとは、己を知り、自らの意思でそこに立ち、ビジョン実現のために行動できることです。
パーソナルマスタリーは、学習する組織の要です。
学習する組織における活動は、一人ひとりの動機の源泉に結びつけ考えられます。
そのためには、一人ひとりが、自己の動機の源泉を知ることがとても重要な前提となります。

パーソナルマスタリーを持つ人は ・・・
・ 自分を知っている
・ どうやって今の自分にたどり着いたのかを知っている
・ これから自分がどうなりたいのかがわかる
・ どうしたらそれを実現できるかを知っている
 (「熊平美香ウェブサイト」 http://www.a-kumahira.co.jp/fifth/personal.html)

手元に諸事情で『学習する組織』が無いという痛恨のミスを犯してしまったので、熊平氏ことべあみかさんのウェブサイトから引用させていただいた。

パーソナルマスタリーは、学習する組織におけるメンバーには不可欠な能力であり、まさに根幹であるといえる。

所属していた団体でも、このパーソナルマスタリーは非常に重要視されており、プログラムに教師として参加した時やスタッフとして入会した時、まずはじめにパーソナルマスタリーの共有というセッションに十二分な時間を割いていた。今でもこれは団体が作り上げた最も優れた組織文化のうちの1つであると思っている。

そのセッションでは、自分が何を経験し、なぜこの団体に参加し、将来何を達成したいと思い、何を大切にしているのか、などについて用意された問いに事前に記入した上でわりかし自由に各人が話す。

このレベルでの深い自己開示には相当の内省力が前提とされることはもちろん、安心できる空間が何よりも重要であるが、それを毎回きちんと構築できているところが本当に素晴らしいところだったと思う。話している中で思わず感極まって涙する人もいるぐらいである。


しかし、どこか違和感を感じる箇所もあった。
パーソナルマスタリーとは一体何なのか?
そもそも自分は、「自分はこういう者である」と確信を持って語ることができるのか?
そんな風に語っている人を思い浮かべてみる。
なぜか、どこか敬遠したくなる気がするのである。

また、いかに素晴らしい場作りをしたとしても、聞いていて「薄っぺらい」と思えてしまう話もあった。
(非常に失礼な発言をしていると思うが、その人が薄っぺらい体験しかしていないとか人格が薄っぺらいとかそういう話ではなく、あくまでパーソナルマスタリーの語り方について述べていることを釈明しておきます)

この非常に微妙な違和感について、組織に属していた際は十分に考える余裕がなかった。
今では少し時間がとれるので、自分なりに考察してみた。

そもそもパーソナルマスタリーという概念が前提としているのは、「人間は誰しも人生の中で達成したいと思っていることがある」という考え方である。

達成したいというのはどういうことか?
達成したいということは、今現在達成されていない何か、つまり現状が存在する。
現状からの変容を望むのである。

変容を望む以上そこには何かしらの「不満」が存在しているはずだ。

なぜ不満なのか。
J・クリシュナムルティは、変容を望む不満とはすなわち恐怖と不安であると言う。
満たされない恐怖が不満なのだ。

パーソナルマスタリーの定義上、達成したいビジョンが個人について外在的なものを対象としていたとしても、それは個人の内在的な経験や所謂原体験などに根ざしていることは前提である。
したがってこの場合の恐怖は個人の恐怖である。

「こうありたい」「こうしたい」という思考の背後には必ず恐怖がある。
だからこそ、そこを認知し、語るからパーソナルマスタリーに実が伴うのではないかと思うのだ。
自分の恐怖を認知し、受容してこそ初めて「私はこういう者である」と語り得るのではないか。
同時に、そうした自分の恐怖、そしてそこから生み出される「自己防衛システム」(R. キーガン 2013)という自己強化型ループを自覚することが何よりも変容への第一歩であり変容それ自体である。


僕自身、この「パーソナルマスタリー共有」は少し苦手な部分があった。
先ほど薄っぺらいという話をしたが、聞く人によっては「お前の話だろ」とツッコミを入れておられることだと思う。

それはきっと、本当の意味で自分の恐怖を語っていなかったからだと思う。

くわしく語ると非常に長いので省くが、僕は団体が一番見たいと思っていた子どもたちとしっかりと向き合った経験が無かった。
NPOという団体の性質上、「当事者意識」というものは何よりも重視される。
企業におけるサラリーが、NPOではやりがいに相当する、なんて言説もあるほどだ。

団体では、「自分たちが教師として向き合ってきた子どもたち」こそがやりがい、当事者意識の原点だった。
そんな中で、向き合ってきた子どもたちをある種持たない僕は、団体のビジョンやミッションを真に理解しているという資格などなかったと思うし、そのことは実感としてあった。

それでも団体に残っていたのは子どもたちというより団体に所属していた他のスタッフやこれまで関わってきてくれた多くの人々のため、といった視点の方が強かった。

しかし、そうした自分の辛さや意識のズレを周りになかなか共有することができなかった。そこには確かに、異端として白い目で見られる恐怖があったように思う。


見苦しい自分語りに脱線してしまったが、言いたいのは「恐怖」ぬきに語られるパーソナルマスタリーはどこか胡散臭さを持っていて、その理由はきっと人ってもっとどろどろしてるとこもあるし弱いところもあるんだよっていう当たり前の結論である。

ビジョンやミッションを自明のものとして置く考え自体が実はウィルバー的に言えば合理的思考段階の域にとどまっているようにも思える。
ビジョンやミッションより先んじて、ありのままにそこにあるものがあるのではないか。

現に、今僕にはやりたいことがあるが、それは何かを変えるとか達成する、という感覚ではなかったりする。
やりたいこと、達成したいことの裏にある恐怖を見つめ続けていった結果、なぜかよくわからないし、それがなんのメリットがあるのか人に全然説明できないけどそれが残った、といった感覚である。

今の自分を変容させる、というより今の自分の延長線上に間違いなくそれが「ある」のである。
わかりやすく言うと、ビジョンと現状の創造的緊張は、「〇〇ねばならない」「変容しなくてはならない」という緊張を生むが、そうは決して思わない、ということである。
気づいたら「変容」に向けて歩き始めていて、〇〇しなくてはならない、ということはそこには存在しない、という感覚。

伝わるだろうか?
「他人にそのメリットを全く説明できない」というのがある種何かヒントになっている気がするのだが…

パーソナルマスタリーについて自分なりに考察してみたが、そもそもパーソナルマスタリーという概念自体を正確に認識できているのか、自分でも少々自信がないので、もし見当違いのことを言っていたら申し訳ない。多めに見てやってください。

最近気づいたのだが、僕のブログは全く明瞭な結論に達しないし結論に達したように見えてもうまく説明できていなかったりして本当に自分の思考の稚拙さには顔から火が出るばかりの思いだけれど、それがあるがままの自分でもあるのということで、一つ。

























2014年4月17日木曜日

教育って学問じゃなくね?と思ったこと

広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』(2009)を読んだ。
平たく言えば、「教育学とはなにか」ということについて論じた本である。

読みかけのクリシュナムルティを自宅に置いてくるという大失態を犯してしまったため、たまたま持っていた本書を読了した。

自分が受けているわけでもないのに教科書販売所で「あ、広田先生のまだ読んでないやつだ!」と思って買ってしまった本である。

教育学を志す初学者にも配慮された本で、教育学をどこか突き放して見ながら、歴史的文脈やその課題についてわかりやすく論じている。1時間程度で読み終わってしまった。

本書の組み立ては、教育学成立の経緯、教育学の分類、教育学の意義と課題、教育学の未来、そして今後教育学を学ぶ人のためへの手引、といった具合である。

ペスタロッチやヘルバルト、デューイといった著名な教育学者の思想を、プレツィンカの「実践教育学」「教育科学」といった枠組みなどから俯瞰的に捉え直している。
恥ずかしながら後者は知らなかったので、とてもおもしろく読めた。
歴史的な視点が弱いなあと反省しきりである。

本書によれば、教育学というものは、本質的に確固たる議論の基盤となる科学的な事実を持ち得ず、その中で規範を創出していかなくてはならない、という悲劇的なものである。
従って、時代や空間に応じて学術的根拠の曖昧な様々な教育理念が溢れているのが常である。

こうしたあるべき教育を論じる姿勢について、下記の部分が特に考えさせられた。

「教育の目的を一般的に語る時、たとえば、「子どもがもって生まれた無限の可能性を引き出し、花開かせてやることである」とか、「全面発達を保証することである」などといういい方が好んで用いられる。ところが、これらのいい方は、一見そうであるのと違い、教育の目的を述べるものではなくて、目的についてはなにも規定するものではない。なんのためにそうするのか、そこにふくまれている人間像はなにか、についてなにもいっていない。」(p110, 原聡介より)

これはなかなか耳に痛い指摘である。
学習支援をしていた時、「子どもの可能性を信じる」ということを内外問わず理念として語っていた経験があるからだ。
また、子どもの発達というものを適切に支援する、という考え方は僕自身の教育観にも非常に近い。

この指摘の前提であるのは、本来教育における目的は外在的であるという考え方である。
教育には、必ず他者が存在する。
「学習」は一人でもできるが、「教育」には必ず教育する者と教育される者が存在するのである。

従って、教育とは発達可能性を持つ他者になんらかの理由、目的があって介入することであり、そこには確かに外在的な目的が存在すると考えるのが妥当であろう。

かといって、そうした目的、例えば「社会化のため」とか、「経済を促進するため」「市民を作るため」といった目的に素直に頷けるかと言えばそうではない。


この難問について思うのは、果たして教育”学”によってこの問題を解決できるのだろうか?ということである。
まともに教育学をやったこともない素人が大それたことを言っている気がするが、素人だからこそ未熟な自分の考えを書き残しておきたい。

教育学が科学としてどこか不安定で脆弱なのは、本書で広田先生が指摘しているように、教育と実証的研究の相性の悪さが大きな要因である。
それに加え、ポストモダンの流行によって、これまで積み上げられて来た教育思想全体の妥当性までが脅かされている。

ここまで教育学が行き詰まっているのは、教育学を学問として成り立たせようとしているからではないのだろうか。
信頼に足る十分な事実に裏付けられた一般性のある仮説なくして、教育を語ることはできない、という思い込みがあるのではないだろうか。

教育の目的は、人間存在に対する深い理解と切っても切れない関係にあるが、そもそも人間存在というものを科学的なアプローチからのみ解明することができるのだろうか?
(もちろん念頭にあるのはインテグラル理論の四象限である)

例えば、思考によってではなく、瞑想などの観察によって至るとされる「本質的な気づき」は、科学的には到達しえない真理である。
もちろん、そうした真理に至った人々のサンプルを集め、そこに普遍的な何かを見出すことはできるだろうが、それは真理自体に至ることとは明確に異なる。

子どもが楽しい!と感じていることを僕らは理解できるかもしれないが、本当の意味でその楽しいという感覚を決して共有することはできない。そもそも彼らが楽しいと呼ぶ感覚と、自分が楽しいと思う感覚が同じであるなどということは決して証明することはできない。


教育の目的を学問によって述べなければならないというのは、教育自体が社会の提供するシステムであり、従って多くの人に受け入れられるように言語的に記述された目的でなくてはならないといった事情に拠るのではないか。

こうした限界を理解することが必要であるように思う。そして、学問的なアプローチと個人・集団の内面的な真理を統合した視点を持つこと。そうして初めて教育というものの本質に迫ることができるような気がするのである。
なぜなら、確かに学問的アプローチには限界があるが、学問的領域において得られた事実と内面的な世界における事実は確かに関係性を持つはずだからだ。
それは場合によっては言語にできないものもあるかもしれない。しかし、僕は言語化できないものにも普遍性を持つものはあるように感じるのだ。

教育には外在的な目的と内在的な目的がある、という考え方はそのとおりだと思うが、実はその外在的な目的、内在的な目的は共にもっと大いなるところから来ているのではないか、という感覚。

ここまで書いて、自分でもうまく言語化できていないことを痛感しているが、そもそも言語化できるものではないのかもしれないといったある種の諦観も感じている。

様々な思想を読んでいても、思考ではなく、本質を直観した経験が先にあって、それをなんとか言語化しようとして書き手が苦しんでいる、という感覚を持つときがよくある。

今のこうした自分の感覚が未熟ゆえの甘ったれた逃避なのか、それとも曲がりなりにも正鵠を射ているのか。学問することによって自分の感考えがどう検証されていくのか、非常に楽しみである。






2014年4月16日水曜日

苫野一徳『教育の力』2014

今年3月に発売されたばかりの苫野先生の新書である。

教育を考える上で前提として了解すべき価値観、そしてこれからの教育はどうあるべきか?ということについて書かれている。

苫野先生の思想には非常に共感できる部分も多く、それゆえに普段以上に批判的に読んでしまった。

まず、特に共感できたのは「教師の協働」を推進していくべきだという考えである。

「重要な事は、いろんな得手不得手を持った、多様な教師のそれこそ「協同」にあります。みんながみんな、一斉授業の名人である必要はないし、「学び合い」の天才的なファシリテーターである必要もありません。それぞれがそれぞれの得意なものを持ち寄って、一人ひとりの子どもたちの質の高い学びを支えていけばいいのです。(中略)人間ですから、得手不得手があるのは当然です。一人の先生に、何もかも完璧に求めるのはナンセンスです。むしろより重要かつ現実的なことは、多様な教師の力の「協同化」です。」(p112-113)
この考え方には非常に賛同できる。

教師も人間である。弱さもある。
もちろん、子どもの前に立つ上で最低限必要な能力もあるだろうが、現在言われている「教師に求められる力」は最低限の域を超えているのではないか。

一人ひとりが完璧な教師を目指すよりも、教師同士がそれぞれの長所を活かし、短所を補い合うような協同の形を目指したほうが実は総合した時に失敗するリスクも減るし、個々人の教師としての力の成長も見込めるのではないか。

子どもたちにとっても、多様な教師と触れ合えることで、自分に合った教師を見つけることができる可能性が高まる。

小学校の学級担任制をもう少し緩和し、複数人の教師がチームとして子どもたち全体を見ることができるような仕組みができればよいのではないかと思った。


一方、疑問に思った箇所もあった。大きく分けて3つある。

1. 「発達」概念の欠如

苫野先生は、これからの教育の方向性として、学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」の3つをあげている。
これ自体は時代の流行に合致していると思われるし、大きな異論はないのだが、では実際にそのような教育が子どもの発達段階に応じてどのような影響をもたらすのか?本当に全ての段階における子どもたちにとって、これらの教育法は適切なものなのか?といった疑問が残った。

例えば、コールバーグの慣習的段階における子どもたちにとっては、秩序や権威といったものが実は重要である。重要というのは、慣習的段階から後慣習的段階へと発達する上で、慣習的段階に順応し、”浸る”ということが必要だからである。

学びの個別化や協同化といった概念は、例えばこうした前近代的な価値観(秩序と法を重んじ、教義的な世界)を嫌がるように思える。

しかし、子どもの健全な発達においては、こうした段階を適切に経る必要があり、「古臭い教育」と一蹴してしまうのはどこか怖さが残るものである。

苫野先生は何も、そのような権威的な教育を否定しているわけではないが、「教育に多様性を認めるべき」という視点ではなく、発達心理学の視点から語る方が個人的には納得感があると思う。

2. 「自由の相互承認」

苫野先生は、公教育を論じる際に持つべき「共通了解」として、ヘーゲルを引き、「自由の相互承認」という考え方をあげている。
自由の相互承認とは、自分が自由に生きるために、あなたの自由を保証します、という考え方である。
したがって、自分の自由は相手の自由を侵害するものであってはならないし、その逆も然りである。

こうした自由の相互承認といった感覚を教育によって育むことで、被教育者である子ども自身も自由に生きることができるし、社会的にも平和な社会を維持することができる。
つまり、子どものためや社会のためといった対立を越えて教育を論じる前提が生まれるということである。

教育を論じる際に、こうした「共通了解」が非常に重要であることはとても納得できる。
しかし、その結論として「自由の相互承認」という答えを聞いた時、正直あまり魅力を感じなかった。

「自分が自由に生きたいからあなたの自由を認める。あなたの価値観は合わないけど、それは認める。」といった考え方は、寛容に見せかけた無関心と何が違うのだろうか。
そのように寛容を装うことが、表面的な争いを避けるための方法として有効であるからそうしている、という人をこれまでに何人も見てきた。

そうした態度は、本当に理想とすべきあり方なのだろうか。
公教育はなんのためにあるのか。

それを考えるために、もっと個人の内面に光を当て、徹底的に考えてみたい。
この疑問は教育に興味を持ち始めた高校生の頃から、今に至るまでずっと未解決でこれからも抱いていくべき疑問だと思っている。

3. オルタナティブ教育との共存

苫野先生は、あくまで公教育に主軸をおいた議論をされているため、致し方ないことではあると思うが、苫野先生自身が例としてあげているサドベリースクールやドルトン・プラン、イエナプランといったオルタナティブ教育との共存をどのように考えているのかをもっと知りたかった。

古山明男『変えよう!日本の学校システム』によれば、オルタナティブ教育が盛んと言われるオランダやフィンランドでさえ、実はこうした所謂オルタナティブスクールは全体の1割程度であるという。
(ちなみに日本は1%にも満たない)

公教育の変革において、実はこうした私教育、オルタナティブな教育機関をどのように位置づけるのか?というのは非常に重要なテーマであると思う。

苫野先生自身が言うように、個別化、協同化、プロジェクト化の教育が絶対的に優れたものではなく、あくまで1つの「よい」教育であるならば、その他の多様な教育を当然認めなくてはならない。
しかし、同時に公教育は「機会均等」と「教養の獲得保証の平等」を保証しなくてはならない。

この論点マジックをどう乗り越えるのか、が実はキーになっている気がするのである。
オランダやデンマークは如何にして多様な教育を公教育の制度の中に統合していったのか。
この疑問もまた大切にとっておきたい。




以上、3つのことについて自分なりに違和感が残った部分を書き出してみた。
この本は、前著『どのような教育が「よい」教育か』の実践編として位置づけられているとのことなので、ぜひともそちらも読んでみたいと思った。(もうすでに家にはある!)

読みながらすぐに解決できないような疑問を持たせてくれる本は良書だと思っている。
書を読むことで、自分の考えを批判的に、相対的に見ること、そして自分の未熟さを痛切すること。

近頃、十分に読書する時間を取れるので、そうした読書の醍醐味にすっかり夢中になっている。

2014年4月15日火曜日

工藤順一『国語のできる子どもを育てる』(講談社現代新書, 1999)

読書の意味とは一体なんだろうか?

第四回インテグラル・エデュケーション研究会の課題図書ということで購入した本。
最近分厚いハードカバーばかり読んでいたので、新書は少々心もとなく感じてしまったが、
内容的にはとても興味深いものだった。

筆者は、「国語専科教室」という塾を主宰し、国語教育に非常に造詣の深い人である。
この本も、国語教育者なら必読の名著として有名であるようだ。

この本は3部構成になっている。
1部では「書くこと」、2部では「読むこと」、3部では「読解力」について、それぞれその本質についての考察と現代日本教育における課題、更に実践的な指導法について触れている。

特に面白いと感じたのは、読書の意味と発達段階に応じた読書教育のトピックだった。

読書の意味とはなにか?
冒頭にも書いたこの問いに対し、筆者は次のように述べている。

「本来、読み書きは表裏一体のもののはず、あるいは、同じことを逆方向から見ているにすぎないことでもあります。両者とも頭の中で意味を組み立てていかなければなりません。とりわけ書くことは、他者の書いたものを読み、自分の位置からさらにそれを考え直し生き直すことの中で発展していくものです。読むこともまた、単なる情報の収集を越えて、自分で書くことを通し、より深い確信と世界観に到達してその人の人生を構築していくはずです。
もっと簡単に言うと、読んだものについて、何か書くということは、どんな関わり方であれ、その内容に自分が関わるということです。」(p90)

つまり、読み書きとは読む、あるいは書く、という行為を通じて自己と他者(世界)を構築し、そこに関係性を構築することなのだと筆者は指摘している。
そしてこうした関係性を否定するような国語のいわゆる読解問題批判へと持論を展開していく。

子どもは読書を通して初めて他者を構築するのである。
ファンタジーを読み、空想の世界に浸り、主人公になりきって物語を追うことを通して、現実と空想世界という異なった世界があることを知り、そうした物理的な実態のない世界にも真理が存在することや、それでも自身が生きていく世界こそ現実であるということを知るのである。

したがって、適切な読書経験無くしては、世界を真に深く洞察し、「不易」に気づくことはできない。
読書によって育まれた内面的世界の広がりが、我々の生きる現実としての世界の広がりに対応しているのだ。

こうした読書を通じた子どもの発達段階について、筆者は以下の5段階をあげている。

段階/目的
1. 小学校低学年/おしゃべりと黙読への導入
2. 小学校中学年/黙読の自立化
3. 小学校高学年/仮想現実を生きる試行錯誤
4. 中高生/身体の覚醒と現実への帰還
5. 高校生以上/現実の更新と新しい共同性の構築

小学校低学年時においては、読むや書くといったことよりも、より生得的な「声」という技術を利用した「話す」や「聞かせる」といったことも交えながら、まずは読書を好きにさせることが肝要である。

そして、中学年時の黙読を通じて、孤独と自己に対する世界の認識を得る。
自分が見ているのとは違った現実があること、自分の知らない深いところに存在する多くの関係が世界を作っていることを認識するのである。

第3段階において、筆者はファンタジーを読むことを勧めている。
それは、ファンタジーに含まれる「未知なるものへのこだわりやひっかかり」が、この世界そのものに対する根元的な愛につながっていく、ということらしい。
正直ここがよくわからなかったので、研究会ではぜひとも聞いてみたいものである。

空想の世界から現実へと帰還する第4段階では、第3段階で培った「愛と未知に開かれた心」を通して、「自分の身体で現実を生きる」ことが可能になる。
そうして初めて、現実を相対的に把握し、自分の立ち位置を定めて世界と関わっていくことができるのである。

最後に筆者は独自の意見として第5段階を示している。
第5段階は、こうした発達を通して、自身が世界との距離を測り、世界を変えるためにどうあるべきか?ということについて説明されている。ここについては、また別の記事で他の考察と絡めて書きたいと思う。

注目すべきは、段階ごとに自己否定的な発達が見られることだろうか。
ここにもウィルバーのインテグラル理論における「超えて含む」の構造が見られる。


ここまで書いて、ではこうした発達は読書活動を通じてでしか成し得ないものなのだろうか?という疑問が湧いてきた。
おそらく、読書活動によってのみ達成される、というわけではないが、読書に勝る方法は無い、というのが現時点での自分の答えだ。
文章ほど情報量が詰まっていて、かつ内面世界を充実させる想像の余地を絶妙に残した表現方法は無いだろうからだ。


実は先ほどの5つの段階で、筆者は、第2段階では多読を、第3段階ではファンタジーを勧めている
のだが、ここはまさしく僕の小学生時代の読書生活そのものだった。

幼稚園に通っていたある日、僕は母と一緒に、姉の習い事を待つ間図書館で待つことになった。
それが運命の転機だった。

図書館という世界はなぜか当時の自分には本当に魅力的に思え、むさぼるような本を読んだ。
両親は僕を理系に育てたくて博物館などを連れ回したらしいが、そんなことはさておき、ひたすら本に没頭した。
小学校低学年の頃には日本の伝記シリーズやドリトル先生シリーズをさっさと読み終え、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパン、世界の名作シリーズを読破し、三国志や水滸伝などに手を出していた。
筆者が第2、第3段階であげていた推薦図書は一冊を除いて全て読んだことがあった。

小学校高学年からは宮部みゆきや浅田次郎などを読みあさっていたのだから実に生意気なガキだったなあと思う。

今にして思えば、こうした経験が僕を比較的内省が得意なタイプの人間に育てたのだと思うし、物事の本質や真理(筆者の言う不易)への強いこだわりといった現在の自分の感性を形成したのだと思う。

フィンランドでは、読書の時間をとったあと、その内容について何かしら話す時間を必ず取るらしい。
読んだ本の内容をしっかりと他人に伝えられるということは、自己が世界、他者と関わるための必要条件であり、読書教育における第一義であるように思われる。

僕の場合は、母親によく読んだ本の内容を話していた。面白いと思う部分を見せに行って、いかに面白いかを説明しようとしていた経験がそれにあたるのではないかと思う。


僕は読書教育を実施した経験が無いので、ところどころ実感を伴った理解が難しい箇所もあったが、国語教育というものについて非常に深い洞察を与えてくれる名著であった。
国語教育にとどまらず、教育に携わる人ならばぜひ一度手にとってみてはいかがだろうか?









2014年4月14日月曜日

「21世紀型スキル」についての気付き

「21世紀型スキル」という言葉が教育分野において叫ばれている。

これは、国際団体ATC21sが2009年に提唱した、これからの時代に求められる能力のことである。
当然、教育は時代にあったものであるべきだし、その意味でこうした定義は各国の教育政策の根幹に影響する非常に重要な提言であると思う。

21世紀型スキルについては、実は様々な定義がまだ存在しているようだ。
多くの場合、次世代に求められる能力、といった意味で使われているため、人によって細部の定義が異なっている。

「21世紀型スキル」というATC21sが提唱している定義によれば、21世紀型スキルとは以下の10つである。

思考の方法
1. 創造性とイノベーション
2. 批判的思考、問題解決、意思決定
3. 学び方の学習、メタ認知
働く方法
4. コミュニケーション
5. コラボレーション(チームワーク)
働くためのツール
6. 情報リテラシー
7. ICTリテラシー
世界の中で生きる
8. 地域とグローバルでよい市民であること(シチズンシップ)
9. 人生とキャリア発達
10. 個人の責任と社会的責任(異文化理解と異文化適応能力を含む)

出典:「ATC21s 益川弘如研究室」(http://connect.ed.shizuoka.ac.jp/masukawa/index.php?ATC21s)

引用先の益川先生の研究室では、10つの能力を更に4つに分類している。


全体を見てまず思うのは、「どれもまあ必要だよね」ということである。
これからの時代に求められる能力として、先にOECDの上げているキー・コンピテンシーがあるが、そこでも概ね同じような項目が並んでいる。

ここで言われるこれからの時代とは、よりグローバル化が進み、情報技術が発達し、様々な科学領域がより専門性を増し、複雑化するといった時代である。

つまり、何が正しいのかがわからず(明日にも正しいと信じていることが変わる可能性があり)、様々なバックグラウンドを持った人々と協働する必要があり、高度な情報機器を扱える必要がある時代である。


さて、ここで言いたいのは自分なりに21世紀型スキルを見直す!などといったことではなくて、この21世紀型スキルというものを考えたときに持った違和感、そこから得た気付きについてである。


上記のような背景でうまれた21世紀型スキルは、トップダウンのものとして作られた概念である。
これからの時代、というものを想定し、そこから下ろしてきている。

したがって、現場で子どもと向き合っていた2年間ほどの間、この21世紀型スキルというものに対しては常に現実味を感じなかった。
「重要だとは思うけど、そんなことより引き算の繰り下がりできるようにしなきゃ」と思っていたし、
問題解決能力や協働能力といったものが例えば算数の授業から培われる、というのはどこか無理があるような気がしていた。

しかし、先日プレーパークへ行った際に、ふと感じたことがある。
「こうした遊びの延長線上に21世紀型スキルがあるのではないか?」

プレーパークについてはこちらの記事で書いたのでもし興味があればぜひ読んでいただきたい。

子どもたちが遊びの中で見せる創造性や、子ども同士で意見が対立した際(コンフリクト)の解決力、協力して1つの成果物を作る協働能力、つきない好奇心etc

こうした力が、21世紀型スキルに結びついているのではないか?

これまでトップダウンに作られた「お題目」のようにしか思われなかった21世紀型スキルというものが初めて中身を持ったように思われた瞬間だった。

つまり、これからの時代に求められる能力というのは、我々が何か適切な教育を受けて後天的に獲得するものではなく、生得的に備わっている人間本来の力なのである。

人間が人間らしく発達する手助けというのが実は教育の本義であり、まかり間違っても時代や社会に合うように成形するなんてことではないのだ。

「スキル」という言葉は、何か修練をつむことで得られる技能を意味するが、それだけでは本質的な意味で時代に求められる力というものを捉えられていない(例えばコミュニケーションツールとしての英語やITリテラシーなどはスキルに分類される)
人が本来持つ資質こそが、結局は人が自分の人生を生きるために最も必要な力だったのだ。

こうした資質が本当に全ての人間に平等に与えられたものであるのかについては、まだ不勉強なためなんとも言えないところがあるため、今後の考察の課題としたい。
例えば発達障害者などにおいても同じことが言えるのか、などは探求する必要があるはずだ。


ともあれ、自分の中では非常に大きな気づきだった。
人として生来持つ力を歪んだ教育によって鈍らせてはならない。
それが自分の目指したい教育のあり方なのだと思った。


2014年4月12日土曜日

プレーパークへ行って来ました

光が丘のプレーパークへ行って来ました。
非常に学びがあったので是非紹介したいと思います。

NPO法人あそびっこネットワークさんが運営しているプレーパークで、都内有数の大きな公園である光が丘公園の中にあります。

プレーパークとは一体なんなのか?ということについては、あそびっこネットワークさんのページが詳しいのでそちらをご覧いただければと思います↓

「NPO法人あそびっこネットワーク」
http://asobikkonet.com/

14時ごろから15時過ぎまで、1時間程度の短い時間でしたが、本当に楽しい時間でした。

まず、特筆すべきは自然に囲まれた環境。
雨が降ると自然に水たまりができる場所があったり、駆け登りたくなるような丘や登れと言わんばかりの木々。
幸いにも穏やかな晴天だったため、ベンチで昼寝しているような大人の方もいました。

そんな恵まれた環境の中に、様々な遊ぶための道具があります。
遊具と言っても、もちろんPSPやDSのようなものではないです。
ロープやボール、じょうろ、バケツ、ヤカン、シャベルなど、1つの遊びのために使われるような道具ではなく、様々な用途があり、子どもたちが自分で工夫して遊べるようなものばかりでした。

パークにはプレーワーカーと呼ばれる大人の方がいるのですが、彼らは子どもたちにそうした道具を「こうやって使いなさい」「これ使って」などと言うのではなく、子どもが夢中になって遊んでいる時に、近くにそっと置いていきます。
子どもたちは自分で何を使ってどう遊ぶか考え、遊んでいました。


僕は6才の男の子2人と水たまりからシャベルを使って「川を作る」という遊びをしていたのですが(もちろん発案は子どもたち)、そこでの子どもたちの創造性、そして博識さに本当に驚きました。

「ここを掘ってトンネルにしよう!」「こうやって滝を作るんだ!」と次から次へと湧き出るアイデア。

そして、

「水はそんなに急には曲がれないからこうやって迂回させるんだよ」
「シャベルは足を使うと掘りやすいんだよ」

といった遊びのコツ。

誰かに教わったわけでもなく、自分の経験から学んだそうした知識をしっかりと自分のものにしている。
そしてそれをきちんと人に教えることができる。
本当に凄いことだと思いました。
こんな具合で教わったことはもっと山のようにありました。

そして、無事川を作り終えて流れる水を眺めていると、「水がキラキラしてて凄く綺麗!」と、みずみずしい感性も持っている。

美しいものを美しいと素直に思えることは、実は凄く大事な力なんじゃないかと思っています。
そうした美しいと感じるものをどれだけ見てきたかが、世界に対する信頼や安心につながるような気がするからです。


子どもたちと遊んでいると、時には子ども同士で意見が対立することもあります。
やかんで水を流すべきか、バケツごと水を流すべきかで対立したことがありました。
「どうなるのかな?喧嘩になったら叱った方がいいのだろうか」などと見守っていると、子どもたちは自分たちで「じゃあ両方試そう」という結論で合意を導き出しました。
6才の男の子が、自分たちの問題をしっかりと自分たちで解決していました。


また、もう一つ驚いたことは、子どもたちがしっかりとした思いやりを持っていること。
何か道具を渡したときなど、自然に「ありがとう」という言葉が出てくる。
僕は2年間近く、学習支援で小学生と触れ合ってきましたが、なかなか素直に「ありがとう」といえる子はいませんでした。

おやつの時間には、要求したわけでもないのに今日初めてあった僕にもお菓子をくれました。
一緒に遊んでいた6才の男の子達だけではなく、他に来ていた4才の女の子も。


こうした子ども達と触れ合ってみて、自分で驚いたことがあります。
身体は確かに疲れているのに、不思議と元気になっているのです。
一週間の疲れがたまった金曜日、朝も正直だるいところがありました。
それが、プレーパークからの帰り道、不思議なほど自分の精神状態が「健やか」であるように感じました。



僕は、より統合的な教育というものを志向しています。
統合的な教育とは、統合的な人間観に基づくものです。
知識や論理、思考によってのみ人間は成り立っているのではなく、身体や感覚、感情、意志、間主観や社会環境、そうしたもの全てを統合している存在が人間であると考えます。

そうした立場から見た時、このプレーパークは非常に統合的でより自然体な教育の場であるように思えました。

大自然の中で身体を動かしながら、自ら考え、そして他の子どもたちと協力して遊ぶこと。
その中で子どもたちの見せる閃きや問題解決能力、知識、思いやり、行為全てがとても自然体で健全であると感じました。

そう、健全なのです。
6才~12才といえば運動能力が発達し、内面的には友人レベルまで自己中心性が薄まっていくような段階です。
そうした段階をしっかりと経て、次の発達段階へ進むために必要な学びがつまっている場。
だからこそ、プレーパークに「健全さ」を感じたのだと思います。

と同時に、子どもたちに「恐怖や不安」といったものを感じなかったからというのも大きな要因であるように思います。
塾や学校で出会う子どもたちの大半は、何かしらの恐怖や不安を根底に持っている子が多いように思います。
その原因は学校という制度そのものであったり、家庭的な問題であったりするでしょうが、現代では遊び場という子どもの聖域にすら様々な規則によって子どもたちを抑圧するような動きがあります。

プレーパークでは、一般に公園ではしてはいけないとされているような行為(例えば木登りなど)も認められています。
プレーワーカーたちは、「危ないからやめろ!」ではなく、子どもたちの注意がそれた隙に安全に遊べるように子どもたちがぶら下がって遊んでいたロープの結び目をきつく締めていました。

なにより、子ども自身が木の枝でチャンバラをするとき、相手の身体に当てるときは少し力を弱める、という話が印象的でした。
そういうルールがあるから、誰かに言われたから、というのではなく、子どもたち自身が遊びを通じて「やってはいけないライン」を知っているのです。

モンテッソーリ教育やシュタイナー教育の根底にある「子どもは有能である」という価値観も、こうした場を一度経験したならば深く首肯できるものだと思います。


もちろん、今日僕が出会った子どもたちは小学校に上がる前の子どもたちであったことや、プレーパークだけではなくご家庭での教育が非常に考えられている可能性なども考慮しなくてはいけないと思いますが、それでもプレーパークにいる子どもたちと触れ合って僕が「癒やされた」ということは紛れもない事実です。

勉強のつもりで行ったのに、「癒やし」を貰ったということが何よりも大きな収穫でした。
誘ってくれたもんじゃらさん、本当にありがとうございました。

興味がある方はぜひ、一度見学に行かれると良いかと思います!

2014年4月10日木曜日

存在論を勉強中。

存在論について勉強している。
まだ存在論というとてつもない山の一合目にも到達していないような状況ではあるが、様々な思想に触れてみて少し思ったことを書いてみる。


原始仏教には、「観る」とか「観ずる」といった言葉がよく出てくる。
単に「見る」のと違って「観る」とはどういうことなのか?

通常、人が何かを見るときには、見る主体と見られる対象とが存在し、見ることで人は対象を対象として認識する。

それに対して、「観る」というときは、主体客体の関係性をそこまで問題にしていない。
仏教における「観る」というのは時間や空間を超越した本質・真理を感覚する、といったニュアンスに近いのではないかと思う。

仏教では、人間を形成する五つの作用(五蘊)のうちで、「識」というものをあげている。
識とは何かを精神的に知覚、認識する作用のことを示すが、単なる認識作用にとどまらず、時間軸をも超越して行き渡るものであるらしい。

思考というのもあくまで人間存在を形作る1つの作用であるとみなす仏教では、この「観ずる」ということの実践として、静的な瞑想術を用いているのだろう。

瞑想において大事なことは、ただ観察することだからだ。
自分の思考や感情すらも相対化し、その作用をただひたすらに観る、ということが結局のところ真理へ近づく最良の道だということである。


はじめに一例として仏教についてとりあげたが、こうした認識論、存在論的な話は様々に有名なものがある。
フッサールやヤスパース、サルトル、フランクルなどの実存主義的なものや、西田幾多郎の行為的直観、鈴木大拙の主客合一なども近いテーマを扱っている気がする。
最近読んでいるクリシュナムルティも「思考を相対化し、事実をただ事実として認める」ことについて語っていた。

各々の立場や細かな思想にはれっきとした違いがあるが、それでも共通して見えてくるのはアートマンとブラフマンの統合への志向性のように思われる。
個人存在としての本質と世界の真理あるいは宇宙的真理の統合、すなわち「空」の概念を思い出さずにはいられない。

多くの思想家が主体と客体という究極の二元論を乗り越えた先に、光が差し込む、とか大いなる祝福とか、平静の境地とか言葉は違うにせよ、計り知れない大きな存在との対面、そして統合といった神秘的体験を語っている。

こうした神秘的体験は、おそらく言語的に理解するだけでは到底体験しようがないものなのだろう。
まさに「観る」ことで初めて到達できる境地であると思った。

山の頂はめちゃくちゃ遠いなあと思うのでありました。

2014年4月9日水曜日

課題解決しやすくするために僕がしていること

こんにちは。
最近ナッツ&フルーツというそのまんますぎる名前のものを常食していますが、これと水だけで生きていける気がする今日この頃。


なんだか課題解決について教えてくれという相談がたまに、でも定期的にやってきます。
また、嬉しい話ですがよく視野が広いねーというフィードバックをいただきます。

そんな僕の課題解決のやり方について、よく他人とやり方が違うなーと感じるので、良し悪しはさておき自分なりのやり方をちょっと言語化してみたいと思います。


■自分なりの課題解決のやり方

1. 課題を設定する
2. MECE分解を試みる
3. システム思考で考える
4. 氷山モデルで深掘れているか検証してみる
5. とりあえず打ち手っぽいものを出す
6. インテグラル理論(quadrants)で抜け漏れを確認する

1. 課題設定

課題を設定しましょう!という時にはどの本を読んでも「問いの形で立てましょう」みたいなことが書いてあります。
課題は必ず「お金が無い」ではなく、「どうすればお金を手に入れることができるか?」と書きます。

なぜかというと、課題とは現状と理想状態のギャップだからです。
「お金が無い」はあくまで現状であって、課題ではないのです。

すごく当たり前の話ですが、課題解決をすればするほどこれ大事だなーと思います。
その理由は、大抵課題解決がうまくいかない時、しっくりこない時の原因は理想状態の設定が変なときだからです。

場数を踏んでいる人ほどこのあたり敏感で、すぐに「そもそもそれ理想なの?」的なことを突っ込んできます。

必ず理想をしっかりと描くこと、これがまず失敗しないコツかなと思います。

2. MECE分解を試みる

あえて試みるという表現にしたのは、MECEの生みの親である某コンサルティングファームで修行した訳でもない一大学生が「これがMECE分解だ!」とか言えないなーと思っているからです。

MECEはよく「漏れ無くダブリ無く」と説明されます。
課題の要因をきっちりと要素分解するための考え方です。
「なぜ?」という問いを繰り返し要因を深ぼる前に、まず要素を分解するのです。

「なぜ?」の繰り返しが縦に深ぼるイメージなら、MECEは横に広げるイメージ。糊を隅々まで伸ばすような。


MECE分解をする際に有効なのは、ありふれたフレームワークだと思っています。
よく使うのはこんなの。

  • 主体/客体
  • 人/モノ/カネ
  • 時間/空間
  • マーケティングの5Cとか5Pとか
  • A/Aの補集合

だいぶざっくりと書いてますが、(最後のとかほんとすみません)ぶっちゃけほぼこれだと思っております。

他にも厳密にはMECEではないですが、短期的/長期的とかもよく使うかも。

たまに凄く斬新でどっから考えつくのそれ?みたいな分解の仕方をしてくる人がいますが、8割ぐらいはMECEじゃないし、2割具合は天才の所業なのでどうやってるのかわかりません。

完璧なるMECEもよくわからないし、そんなにここに労力を割くのもなんかバカらしいなあと思ってしまうタチなので、僕はいつもなんとなくMECEを目指してさっさとここを通りすぎています。

3. システム思考で考えてみる

多分このあたりから他人とだいぶ違う気がします。
一般に課題解決というとMECE的な話をよくされますが、僕は必ずシステム思考を併用することにしています。

システム思考とは、簡単に言うと物事(この場合は課題)を有機的なシステムとして捉える思考法です。
一つ一つの変数(要素)がどのように他の変数と影響し合い、システムを形成しているかを捉えることで、部分と全体を統合し、課題を解決するレバレッジポイントを見つけ出すのに役立ちます。

システム思考は最初にそのシステムにおける変数を洗い出すのですが、この変数に相当するものが実は前のMECE分解で出てくるような要素だったりします。

そうして洗いだした変数がお互いにどのように関係しているかをループ図という図にします。


変数A →(+) 変数B →(-)変数C →(+)変数A


のようになります。+は変数Aが増えると変数Bが増える、-は変数Aが増えると変数Bが減る、の意味です。
便宜上こんな書き方をしてますが、実際に紙とかホワイトボードでやるときは色変えたり矢印記号変えたりしてわかりやすくした方が良いと思います。

例えば、


空腹度 →(+) 食欲 →(+)何か食べ物を買いたい欲 →(-)お金


みたいな。
普通はこれをつないでいくとループする仕組みになっています。

ループには自己強化ループとバランスループという2つのループがあるのですが、後者は更に広くシステムを捉えると自己強化ループに吸収されていきます。

システムがシステムとして成立するために、こうしたループによる自己強化が行われている、程度に理解しておけば良いと思います。


システム思考についての説明で少し脇道に反れましたが、要はシステム思考をMECEと併用すると良いよ、ということです。

なぜ良いかというと、MECE分解でそのまま要因を深ぼっていくのと比べ、1)時間軸的、動的な視点が生まれる 2)課題の打ち手を考えたときに、思わぬところに影響が出る可能性を事前に想定をできる という2つの利点があります。

MECEによるロジックツリーは完成すると美しく、網羅性があるのですが、課題というものをまるで1つの絵画のように扱っていて、なんだか静的なものとして見てしまうような気がします。

一方でシステム思考によるループ図は連続した時間軸が意識されますし、レバレッジポイントを見つけてここを変える!とした時に、そのループがどう変わっていくかを追っかけていけばどこにどんな影響が出るか想定することが出来ます。

そんなこんなで何度も言いますが、システム思考とMECEの併用、おすすめです。

4. 氷山モデルで深掘れているか検証する

これもこんな風に考えている人あんまり見たこと無い気がします。
氷山モデルというのもシステム思考における1つのフレームワークです。

簡単に言うと目の前に見えている課題は、氷山の一角にすぎず、水面下に更に根深い要因が隠されている、という話です。

氷山を下に進むに連れて、

1. 表面課題
2. 短期的要因
3. 繰り返し現れるパターン
4. 固定観念(メンタルモデル)

というように階層が深化していきます。

これをどう使うかというと、MECEとシステム思考で分析した課題要因が氷山モデルにおける深いレベルにまで到達しているかどうか?という検証用に使います。

氷山モデルで一番深いところにあるのはメンタルモデルですが、メンタルモデル自体も実はシステムです。

固定されちゃうほどの観念なわけですから、めちゃくちゃ強い自己強化フィードバックが働いているシステムなのです。

このシステムを、3の分析を終えた段階で見出すことができているかどうか。
できていない場合は深堀りが足りないと考えた方がまず安全です。

固定観念のレベルまで行かなくても解決できてしまうような課題もよくありますが、複雑で難易度の高い課題ほどより根本的なところに要因があるため、このレベルまで深掘れていないと本質的な課題解決に結びつきません。

5. とりあえず打ち手っぽいものを出す

ここまで来たらあとはとりあえず打ち手を出してみましょう。
課題解決なんて実は分析がきちんと出来てたら打ち手なんてほとんど明らかな場合が多いです。

そしてここまで来て前提をひっくり返すようなことを言いますが、大抵1の時点で打ち手的なものは頭にすでにあったりします。
2~4まではその打ち手が正しいんだよって人に言うためのロジックというか。

なんで打ち手が早い段階で思いつくのかはまた別に機会に書くとして、とにかくここで大事なのは課題解決のレバレッジポイントを見つけ、そこを突くこと。
レバレッジポイントとは、そこを突くと最小労力で最大成果が出るようなポイントのことです。

(力点)-(支点)--------------(作用点)みたいになってる「てこ」のイメージ笑

課題解決においてもかの有名な2:8(ニハチ)の法則が適用されるようで、2割の要因(=レバレッジポイント)が課題の8割に影響しているぐらいに考えておいた方が良いかと思います。

6. (おまけ)インテグラル理論による抜け漏れ確認

ここは完全に蛇足な気もしますが、僕は大抵最後にインテグラル理論における四象限(quadrants)を用いて抜け漏れがないかを確認しています。

四象限とは、内面―外面、個人―集合の二軸によるマトリクスのことです。
めっちゃシンプル!笑


こんな感じです。

左上は個人かつ内面、哲学や思想、美徳の世界
左下は集団かつ内面、間主観、文化、善悪の世界
右上は個人かつ外面、物理、自然科学、真理の世界
右下は集団かつ外面、システム、制度、同じく真理の世界


詳しく述べると長いので簡単にquadrantsについて説明すると、


  • そもそも我々が世界を認識するには上記4つの象限のうちどれかを通してしか認識することはできない。
  • 4つの視点それぞれが正しい。視点が違うから同じものを見ていても違った認識・解釈になりうるが、それは互いに誤ったものではなく、それぞれが正しいものとして受容すべき。


といったことになります。

インテグラル理論の提唱者であるウィルバーは、様々な課題に対し、この4つの視点全てを統合したアプローチをとることを推奨しています。

実際に使ってみるとこのフレームワークは非常に強力で、これを知っているだけで視野の広さが段違いになると思います。

「あれ、この議論なんか内面にばっか寄ってるなー」
とか、
「個人の中で話完結してるけど集団の話は加味しなくていいのだろうか」
といった具合に使えます。

このフレームワークを教えてくださった方は、「レポート書くのに使えるよ」ともおっしゃっていました。




以上、なんだか予想以上に長くなってしまいましたが、自分なりの課題解決のやリかたについて書いてみました。

課題解決のやり方って教科書的に語られるけど、実は課題解決を日常的にするような立場の人は自分流にアレンジしているような気がします。
ですが、あまりそうした自己流の方法を聞くことも機会が無いのがちょっと残念だな、と思っています。


色々と説明不十分な部分もあるかと思いますがお許しを。

ではでは!


2014年4月8日火曜日

内省と身体化

ブログを始めてみました。

理由はまたおいおい書くとして、まずは続けることを目標に。週3ぐらいで更新できたらいいなあ…

最初のテーマは、常々感じていた「全ての行動に意図を持つ」というものに対する違和感について。
(しょっぱなから某団体向けな記事になってしまった笑)

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学習を促進する、という立場に立ったとき、学習のメカニズムについて理解を深めることは非常に重要である。
中でも内省と身体化ということをセットで捉えるのは、学習をデザインする上で重要な理解の枠組みだと思っている。
(広義の「学習」には内省を必要としないような知識の詰め込みなども含まれると思うが、ここでは内省を要するレベルの学習について述べる)

学習理論において「内省」の重要性は至る所で叫ばれているが、一方で「身体化」についてはあまり語られることが無い印象を受ける。

内省とは、自身の行動を客観的に省みることで、無意識の固定観念(メンタルモデル)を発見し、「気づき」を得るというプロセスだ。
ハーバード教育大学院の発達心理学者であるR.キーガン氏の言う「適応(知性の発達)を要する課題」と向き合う際に効果を発揮する。

それに対し身体化とは、反復や訓練によって、意識せずともその行動をとれるように身体に染み付かせる、ということである。

つまり、内省は無意識を有意識に、身体化は有意識を無意識にしていくものだと捉えられる。


内省によって得た気づきを、訓練や反復によって身体化し、無意識にそれを行えるようになって初めて学習といえる。
どちらか一方に偏ってはいけない。

内省なき反復は、不適切な学習を引き起こす可能性がある。
例えば、ゴルフを学ぶ際、最初に間違ったフォームを覚えてしまうとその後変えづらくなってしまうなんて話はよく聞く。
かといって正しいフォームについて「腕の角度はこうで、足の開き幅はこうで…」とやたら詳しくても、練習していない人は対してゴルフは上手くないだろう。

内省によって気づきを言語化して満足するのではなく、その気づきを行動に落としこんで繰り返し実践する。
自分がしっかりと実践できているか、自分だけではなく周囲からの評価も含めて検証しながら、いつしか無意識のうちに自然とそれができるようにする。
そのためには多くの反復と時間が必要だが、それを怠ってしまうと結局のところ「あの人いい振り返りしてたのにあんまり成長してないよね」となってしまう。
意識して繰り返していたことがいつの間にか無意識にできるようになっていた、というのが理想である。


僕が関わっていたLearning for Allという団体では、「全ての行動に意図を持つ」ということが重要だというポリシーがあった。
この教えは組織に内省の土壌を育むという点で非常に素晴らしいと思う。
一方で、それはあくまで通過点にしか過ぎないのではないか?と思うのだ。

全ての行動に意図を持ったあと、無意識にそう行動できるようになって初めて学習したといえる。
やるべきことを息をするようにできること、と言い換えても良い

その道の達人と呼ばれる人たちは、みな洗練されたオーラをまとっている。
それはきっと、意識して「こうすべきだ」と考えているのではなく、必要なことを無意識に自然体で実践できているからだと思う。

人間やるべきだと分かっていてもそんなにあれもこれもちゃんと意識して出来ないものである。
1つずつ、まずは意識しなくてもできるように繰り返し続けていけば良いのではなかろうか。

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自分自身、内省に偏ってしまうので自戒を込めて書いてみた。

内面的な発達(内省)が外面的な発達(身体化)と強く関連するというのはインテグラル理論とも整合するように思われるが、ここでは深く触れないことにします笑

ではでは。