2015年1月28日水曜日

言語を用いた内省の限界について

一般的に内省においては「言語化」ということが、内省の程度を測る上で重視される。
内省は自身あるいは自身の行為を客観的に見つめなおすことで、新たな気づきを得ることであるから、その気づきを言語化できていることが一つの指標となる。

しかし、ある領域では、言語を用いた内省に限界を感じるようになった。
それは、特定のスキル領域に関する内省ではなく、実存的な恐怖と向き合う内省においてである。
例えば、他者に拒否されたくないという恐怖や、自身の思想を体現しきることができないかもしれないという恐怖に対して、言語を用いた内省では、根本的な解決を見ないということを実感している。

それはおそらく、恐怖というものが、言語的なもの、すなわち思考によって基礎づけられているものではなく、感情の領域に属するものであるという本質的な要因による。
感情は合理的なものではない。
論理を積み重ねても、感情は説明できないのであって、それを言語によって説明するという試みの中には、必然的に自己欺瞞が生まれる。
まさにウィルバーのいうフラットランド的発想であるといえる。


言語というものは、実は物事を欺く力を内在している。
それはおそらく、言葉の持つ視覚的な力、すなわち「境界を引く」力に起因している。
境界を引くということは、未分離のものから何かを切り落とすということである。
「名前をつける」というごく単純な行為によって、我々は世界に境界を引き、分類し、分解している。
そこには、確かに抜け落ちているものが存在する。

実存的な恐怖に対して、言語はその恐怖と真正面から向き合うことを回避し、自分にとって都合の良い説明を創作しようとする。
そうして生み出された言葉は、どこか”そのもの”を捉えきっていない、欺瞞に満ちた虚構になる。
言語に頼った内省を繰り返せば繰り返すほど、客観視している認識主体であるところの自分が肥大していく。
いみじくもポストモダニストの思想家達が明らかにしたように、人間の認識は真理を捉えることはできない。
言語に頼った思考は、「自分」という感覚を延々と肥大させるばかりで、実は自分と世界という無意識の主客分離の前提が桎梏となっていることに気づかせないのである。

しかし、一方で、あらゆる表現がそうであるように、言語もまた表現しきることのできない”そのもの”を表現しようとする力も持っている。
それは、言語という形態の規定性をはみ出そうとする力である。
我々は、文章を読んだ時に、そこに書かれていることをイメージすることができる。
その想像される世界というのは、単に書かれている文字よりもはるかに豊かな世界である。
言語は確かに、存在そのものを表現することはできない。
言語化することは、同時にありのままの世界知覚を矮小化していることと換言することができる。
にも関わらず、そうして矮小化された一片の言葉から、我々は豊かなイメージを持つことができる。
それはまるで、言語によって切り刻まれた世界の元の在り方を何とかして捉えようとするような試みに見える。
そう考えると、言語というものは、我々を実存的たらしめてくれているものなのかもしれない。


こうして文章を書いている時にさえ、言葉の節々に欺瞞が見え隠れすることを感じる。
しかし、書くことによって、捉えきれない何かに至るということを願うから、書かずにはいられないのである。
いつしか、そんな文章を書いてみたいものだ。

2015年1月27日火曜日

”多様性を尊重する教育”に欠けているもの

多様性尊重という金科玉条は今や教育の分野では当たり前のように見かけるようになった。
多様性尊重の世界観では、定量的なスキルの達成度によって人の価値を評価するのではなく、人格に価値の優劣は無く、多種多様な人が存在することを尊重していこうとする。

人種問題を背景として生まれてきた多文化主義に端を発するこの価値観は、日本の教育では近年文科省が掲げている「共生社会」という方針に現れている。
人種問題が比較的少ない日本では、健常者と障害者という枠組みにおける多様性尊重がクローズアップされているわけである。

こうした価値観は、先に述べたように、点数化できる能力にばかり焦点を当てていた日本の教育、その象徴であった受験戦争の加熱などに対する批判の流れを受けている。
しかし、そこには「多様性」というものについて掘り下げない甘さがあるのではないか。

定量的な測定でしか、価値の大きさを測れないという誤解が生じているのでないだろうか。
100点を取った人と80点を取った人では、前者の方が明らかにその基準では優れている。
しかし、こうした点数化できない主義主張は皆平等な価値を持つものとして捉えられる。

平等な価値を持つのは、人格、すなわち人間の尊厳であって、思想そのものではない。
思想には歴然たる事実として、浅いか深いかの価値の優劣が存在する。
「弱肉強食」という社会思想は、「共生社会」の思想よりも、明らかにアイデンティティを狭めた思想である。自分だけ良ければ良い、という意見よりも、社会全体の幸せを考えるという意見の方が、より世界に対し開かれた、公共性の高い意見であることは言うまでもない。

こうした量に還元できない質的な差異を全て平等に扱おうとするのが、今盛んに語られる多様性尊重の価値観であるように思われる。
それは、実は還元できないものを尊重しているようで、実はあくまでも定量的な世界のものさしに押し込めているのである。
1から100に当てはまらないのだからみんな0にした、というのと同じ話である。
つまり、今の多様性尊重という概念は結局はあくまでも定量的にのみ人間を評価しようとする価値観から抜け出せていない。

意識の構造には発達的な構造の変化があり、そこには確かに価値の垂直性が存在するという事実に目を向けない限り、こうした多様性に対する思考停止の態度は変わらない。
そして、この誤謬は多様性尊重論者を苛むことになる。

「自分には到底受け入れがたい意見ではあるが、多様性を尊重しなくてはならないから、その人の意見と自分の意見は確かに同じ価値がある。でも、どう考えても自分の考えが正しい。どうしたものか。」

そうして傲慢な多様性尊重論者は、自らが絶対的に正しいという根拠なき確信のもと、反論されづらい正論を掲げ、多様性尊重の世界観を共有しない他者を追い詰めていく。
そこには、自らの意識がどのように発達してきたかという過去に対する内省が欠けているのである。

多様性を絶対化することをやめ、定量化できないものが一体どのように変化していくのか、というこを謙虚に見つめる姿勢が今の日本の教育に必要なのではないだろうか。
「みんな違ってみんないい」に安易に逃げない態度が、本当の意味で人間の人格を平等に扱える意識を育てるのではないかと思うのである。

2015年1月9日金曜日

価値基準の混同と教育、発達の関連性

価値基準の混同という現象が至るところでおきているように思う。
経済的な合理性という価値基準が日常世界にあまねく浸透しているのではないか。

例えば、目の前で急に苦しそうに倒れた人がいたら、多くの人は何かしらの支援をすることを厭わないだろう。
それは、人の生命の価値というものは、その人を助けることで自分の時間を取られるなどといった「コスト」勘定では測れないものだからだ。

では、身体を壊して精神を病むほどに働く、という選択はどうだろうか。
本来、前述の話であれば、人の生命は明らかに経済的な効用よりも優先される価値を持つ。
にもかかわらず、現実には組織の都合、すなわち経済合理性が人間の生命よりも優先されることがある。

ここに起きているのは、価値基準の混同という現象ではないだろうか。

あらゆる価値観には同等の価値があるという誤った多様性主義は、経済的合理性という価値基準と、倫理的な価値基準がまるで秤にかけられる同等の基準であるかのような錯覚を抱かせた。
しかし、実際にはナチスの思想と、エコロジーの思想は、決して等しい次元で論じられるものではないはずだ。

ここで重要なのは、ナチスの思想や経済的合理性に価値がないとか、劣っているということを言っているのではない。
経済的合理性に則って判断をするべき局面、そうした価値基準が適切である領域は存在する。
しかし、例えば人間の生命や人間の尊厳といった価値基準は、それらよりも高次の段階の価値基準である。

安楽死を認めるべきかという議論を、安楽死を認めた場合の医療コストの増減によってのみ判断するということは根本的に適用すべき価値基準を取り違えている。


教育を論じるのが難しいのは、教育という営みが、複数の価値領域にまたがっているからである。
主なものは、社会的正義の価値基準、内面的自由の価値基準、経済的合理性の価値基準である。

これらそれぞれの領域内で適切だと思われるように教育というものは設計されなくてはならない。間違っても、NCLB法のように経済的合理性によってのみ教育を評価したり、逆に社会的正義、個人の精神の自由といったどれか一つの領域によって教育を構想してはならない。


こうした価値基準の領域の分別というものは、発達に関わるものであるように思われる。
ローレンス・コールバーグは、道徳性の発達を、道徳的価値を道具的価値などその他の価値とより分けられるようになっていくプロセスでもあると言った。
人間は意識の発達段階を経ていく中で、それぞれの段階で新たな価値基準を一時的な格率として身に付ける。
従って、前の段階で中心的であった価値基準は、次の段階に至った際、それはもはや中心的ではないものとして相対化されている。

それ故に、段階を経るごとにそれまでの過程で獲得してきた価値基準を適切な領域に当てはめて柔軟に使えるのではないだろうか。
高次に発達した人が、寛容さと決断の素早さを兼ね備えるのも、こうしたところが起因しているように思う。

最も、自分自身がまだ大して高次の段階まで発達していないこともあり、憶測にすぎない部分が多いのだが、気づきを記してみた。








2015年1月8日木曜日

本質を直観する力と想像力は似ている

本質を見抜く力と想像力というのは、どこか似ている。

本質とは、物事の表面的ではないところに隠された意味であり、ある種主観的なものである。
主観的というのは、本質の本質らしさは論理的に検証できるというよりも、もっと感覚的なものだからである。

一方、想像力というのは、現前していないイメージや物語を創出するものであり、それらは純粋な意味で他人と共有されることはない。

しかし、古来から哲学者たちが指摘しているように、想像というのは決して現実と全く切り離された世界を指すのではない。確かに目の前にある客観的なものと想像されたものはどんな形であれ紐付いている。
その意味で、想像力の源泉は現実体験の豊かさである。


ルドルフ・シュタイナーは、子どもを教育するときに概念や記憶、知識ではなくイメージや想像力で育てよ、ということを言う。
概念や記憶、知識といったものは、思考力と結びつく。
では、イメージや想像力は何と結びつくのか、と考えた時、ふと「本質を見抜く力」と巷で言われるような力に思い当たった。

人間の意識は、思考のみによって形成されるわけではない。
明らかに、思考以前の段階を我々は持っている。
「本質を見抜く」と言う時、何か精緻な思考の軌跡をたどって至ったというよりも、直観的に「観た」という方が近いニュアンスを感じる。

それは、ある種の想像力ではないかと思えるのだ。
体験を概念ではなく、想像力やイメージと結びつけていくことが、鋭く本質を洞察する”センス”を育てるのではないか。

そして、この想像力という力は、思考力の形成にも影響を与えていると思われる。
人間の理解の段階は、一般にブルームのモデルを基本として様々なモデルが提唱されているが、単なる記憶段階からそれを実際に適用し、さらに他の概念と統合していく段階へと移行する。

しかし、この段階間には大きな隔絶がある。
単に知識を覚えることと、その知識を別の場面に応用していくことは根本的に違う。
一見当たり前に見えるのは、我々がそれをいとも簡単に成し遂げているからだ。
知識を定着させることで、それが使えるようになるというのは厳密に考えれば明らかにロジックとして繋がっていない。

わかりやすく言えば、コンピュータに情報を入力し、情報を蓄積することと、蓄積された情報を用いてコンピュータが別の場面にその情報を適用することは全く違うアーキテクチャが必要なはずだ。

それを可能にしているものの一つは、この想像力という、思考力とは違うところから来る力なのではないか?
ある段階から違う段階へのジャンプを生み出すのが、生身の体験の豊かさを元にしたイメージの力であるとすれば、幼少期にイメージで育てるべきとするシュタイナーの思想も理解できる。


実際には、具体的体験とそこから生まれる想像の豊かさが発達に与える影響を考慮した教育は少ない。
工藤順一氏が『国語のできる子どもを育てる』の中で、小学校中学年時にファンタジーを読むことを推奨しているのも、こうした想像力の涵養が、結局のところ、より高次の段階へと発達を遂げた際に、論理的思考力にまで影響してくることを直観的に感じていたからではないかと思う。


ここで述べたことは仮説にすぎないが、あまりにも思考化されたものばかりに意識を向けた教育というものに感じる違和感は、大切にしていきたいと思う。