2015年2月13日金曜日

里見実『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』2010

フレイレといえば、教育学の中でも最も有名な思想家であり活動家である。
本書は、彼の主著『被抑圧者の教育学』を、書かれた当時の状況や影響を受けた思想的な文脈などを踏まえながら非常に分かりやすく解説している。

フレイレは、「人間化」という概念をその思想の根本に置いている。
人間という存在は、常に非人間化と人間化双方の可能性に開かれている。
非人間化とは、他者を「モノ」として見るような在り方である。
これは、人間というものが「所有」の概念と結びついており、支配者層は所有することによって自らを人間だと主張し、被支配者層は、持たざる者であることから人間ではなくモノとして扱われてきた。
こうした抑圧の構造を打ち倒すのは、被抑圧者が自らも抑圧者のように「所有」したいと望み、権力に同一化する道ではなく、被抑圧者が自らの置かれている状況に気づき、「人間化」することが必要であるとフレイレは言う。

そして、識字教育はその契機となるものであるとフレイレは考えた。
フレイレの提唱する問題提起型教育は、単に文字を知識として伝達する教育ではなく、文字を通して自分たちの置かれている状況を相対化、対象化していく。
そうすることで、彼らは自分たちの置かれているそうした抑圧の構造を客観的に理解し、それを打ち破るための声をあげることができるようになるのである。
そのため、フレイレは識字教育が、文字を持った人々が文字を持たない人々に対し、「上から」知識を注入していくような支配的なものになってはいけないと強く戒めている。
そうした教育をフレイレは預金型教育と呼び、近代的な学校教育で見られるような一斉指導型の授業にその典型を見ている。


こうしたフレイレの思想が、自分の中でいくつか他の知見と繋がったところがあり、興味深く感じたので述べてみたい。

まずは、ウォルター・J・オングやバリー・サンダースのような、話し言葉と書き言葉についての洞察である。彼らは、書き言葉=文字が、人間の内省的思考と結びついていることを指摘している。
フレイレの言う「意識化」が、文字を習得することと深く関わっていることは、非常に腹落ちするものがある。

また、一方でバジル・バーンステインの言語コード理論を思い出した。
バーンステインは下位階層において用いられる言葉を限定コードと呼び、上位階層で用いられる言葉を普遍コードと呼んだ。そして、こうした言語が貧困の再生産の媒体として機能しているというのが言語コード理論であるが、おそらく限定コードは話し言葉の文化と、普遍コードは書き言葉の文化と親和性が高いのではないだろうか。

忘れてはならないのは、話し言葉=野蛮という安易な蔑視的発想は正しくないということである。
なぜならば、話し言葉の豊かさが書き言葉の世界の豊かさを形作っているからだ。
だからこそ、フレイレのように、自らの生活世界と関連付けた識字教育が有効なのである。
誰もが最初に修得するのは話し言葉からである。
かつて自らも書き言葉を持っていなかったという事実を忘れて、ただ識字教育を文字を持たない人々に与えればいいという発想は、人間に対する洞察があまりにも稚拙であると考える。

言語から教育を考える面白さは、フレイレのような社会的正義の領域と、人間の発達という個人の内面的な領域双方への広がりを感じ取れることであるような気がしている。
教育の内容について、何を教えるべきかという問いは枚挙にいとまがないが、言語を教えるということについては暗黙の了解としてあるように思う。
ではなぜ言語を教えるのか、といった時に、フレイレやオングの洞察が参考になる。
そしてそこから、あるべき言語教育といったものの姿もある程度見えてくるのではないかと思うのだが、さてどうだろうか。


2015年2月12日木曜日

ピースビレッジ第29回「変容の時代を生きる」参加してきました。

以前知人に勧められたNGO世界連邦21世紀フォーラムの講座に参加してきました。
講師は木戸寛孝氏。
色々と興味深いお話が聞けた一方で、整理のつかない部分もあるのでつらつらと書きながらまとめてみます。

愛と力の動的平衡

まず、木戸氏によれば、21世紀の課題は関係性、全体性を重視する愛的なものと、主体性、個別性を重視する力的なものの分断であるという。
これは、冷戦における東と西、社会主義と民主主義、自然と人間、都市と郊外、心と身体といった対立と相似する。


木戸氏は、世界創造マップという図式の中で、外側(空間性)―内側(時間生)という軸と、横(水平)―縦(垂直)というマトリクスの中でこれらを整理していた。
内側・時間性に属するのは、人の心や意識などミクロな構造であり、外側・空間性に属するのは生命や物質、自然などのマクロな構造である。
横・水平とはすなわち全体性、関係性であり、縦・垂直とは個別性、主体性を指す。
世界創造マップについては簡単にしか触れられていなかったので、もう少し含意のある分類だと思われるが、そこまでは理解できなかったのでひとまずこれは置いておく。

愛は、関係性や全体性を志向するため、共同体の一体感や平等を重視する。
一方で力は、個別性や主体性を志向するため、自己実現や自由を重視する。
これらは相互に作用すべきものであり、片方のみが行き過ぎてしまっては、破壊的な共産主義や資本主義のように、どこか歪んだ思想となってしまう。
そこで、重要なのは「動的平衡」という概念である。

動的平衡とは、やじろ兵衛や人間の歩行のように、静的ではなく、短期的に見れば常にバランスを崩しているように見えながらも、その絶え間ない動きによって全体としてバランスを保つという状態のことである。
関係性と主体性に単に50%の力を配分すれば良いというわけではなく、常に省察を繰り返しながら前に進み、変化していくという在り方を提案しているのだとここでは理解した。

この動的平衡という概念は、自分の思考のフレームワークとしてはこれまであまり使ってこなかったが、色々な場面で用いることができそうだ。
確かに、人間の所謂成長というものは、既存の価値観に対する反抗や否定の反復という側面を持つ。
そうした発達のメカニズムは、微視的に見れば各段階でその都度危機に陥るものの、確かに全体としてみれば調和のとれた形となっている。

ちょうど講演会へ赴く電車の中で、オートポイエーシスについて書かれた本を読み始めていたため、この動的平衡という概念が奇しくも講座の中で出てきたことに驚いた。
木戸氏のこうした洞察は、下記に述べる自然観と密接に結びついているが、動的平衡という生物学のシステム論で用いられるような概念を援用していることも納得がいった。

現代における自然観のシフトについて

話は古代ギリシャと中世のベーコン、デカルトによる科学観、自然観の対比へと映る。
古代ギリシャにおいては、科学と倫理は切り離せないものであった。自然とは支配するものではなく、観察するものであり、そこに見いだされる真理と、善や美といった概念は結びついていた。

しかし、17世紀のヨーロッパにおいては、地動説を説いたブルーノは火炙りにされ、ケプラーの母親は魔女だと言われて迫害され、ガリレオは異端審問にかけられた。
その結果、科学は宗教的対立や倫理を離れて中立的として研究したいという思いが科学者の間で強まっていった。

そこに決定的な思想的要因を与えたのが、ベーコンやデカルトの思想であり、これらによって「自然は人間にとって利用され、支配されるもの」になった。

それに対し、現代では自然は「創発的自己組織系」として捉える見方が生まれてきている。
自然は単なる機械とは違って、自己組織化の力を持つ。
それは、主体的に自らの対称性を破ると同時に、分化した要素が互いに関係性を持って動的平衡を保つというダイナミクスである。
例えて言うならば、我々の身体は機械とは違って、呼吸によって”酸化した”細胞も自然と入れ替わるようにできている。人間の細胞は数年もすればほぼ入れ替わると言われているが、変化しているにもかかわらず、全体としては一個の個体として一貫しているのである。

こうした動的平衡の力動論が、自然においても人間においても同様に働いているという洞察が、人間対自然という図式を越えて、有機体全体にアイデンティティを持てるような世界観へと繋がっている。

なぜ自然観のシフトが現代において必要なのか?

このような自然観の転換は、現代に生きる我々にとってどのような示唆を与えてくれるのか?
人間対自然という対立ではなく、人間も自然も創発的自己組織系の一部として、主体性を持ちつつも関係性の中に位置付けられているという自然観の変容は、真に自然と共生する社会を実現するために必要不可欠である。

木戸氏によれば、2050年には、地球の人口が100億人に達するそうだ。
そうなると、必然的に水が足りなくなり、間違いなく争いが起きる。
世界連邦を志す人々は、こうした危機感を共有しているようだ。
だからこそ、今の時代に必要なのは、「生命」というものをコンセプトにした新しい世界観であると主張する。

生命とはつまり、存在の前提である。
自己実現も平等も、存在なくしてはそもそも論じることすらできない。
その前提が、実はあと100年もしないうちに崩れ去ろうとしている。
その危機を乗り越えるためには、こうした新しい世界観が必要なのではないかという木戸氏の主張は、至極妥当なものだと感じた。

インテグラル理論との関係と考えたこと

木戸氏の話を聞きながら、終始思い出していたのはウィルバーのインテグラル理論である。
インテグラル理論では、地球規模で人類全体に対する愛を持てるようになった段階の先に、自然を含む有機体全体に対する帰属意識というものがあるという。

人間同士であれば、究極対話することによって理解しあうことができる。
しかし、自然とは対話することはできない。つまり、これは自然に対する認識の問題なのである。

最近流行しているソーシャルビジネスなどは、社会における弱者に目を向けている点で、人間全体に対してアイデンティティを持っている運動だと思われる。
その先にあるものとして、自然と人間もまた同じ全体であり部分であるという世界観が存在するのではないだろうか。

教育とは人と人との関わりであるという側面が強調されることが多いが、人は自然の一部でもある。
教育は子どものためであるとか、いや社会のためだとかそうした対立は、どこか不毛で空虚に感じるし、そうした対立を実は子どものためであることが社会のためなのだと弁証法的に解決したように見える考え方も、結局は人間同士の世界の話で完結している。
自然と人との相互作用を考慮に入れない教育は、やはりどこかで持続可能なものではないのかもしれない。

今回の講演で聞いた話は、頭では非常に納得できるものであったが、同時にまだ実体験として腑に落ちていないという感覚もある。
また、参加者の一人から精神障害の人を包摂する理論になっていないのではという指摘があったが、これも僕がインテグラル理論に対してずっと感じてきた疑問の一つであり、まだまだ答えを出せていない。
焦ることでもないから、自然というものに対して少し意識したりしてみつつ、自分なりにもう少し咀嚼してみたいと感じた。

2015年2月8日日曜日

大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』

教師を志す人が最初に読むべき名著、と率直に思った。

昨今の「学習者主体」という流行語に踊らされた教育観に対し、「教える」ということの意義、教師の使命について真っ向から論じた本である。
教師として考えぬかれた大村はまの哲学は、まさに「言い尽くしている」という心持ちがする。

特に面白かったところを3つほどあげる。

1つ目は、「教える」ということは子どもの個性を損なうのか?という問題である。
これに対して、大村はまは「損なわれない」と一刀両断している。
その根拠は実証的なデータによるものではないという点には注意が必要だが、大村はまが指摘するように、学習者の自発性や教えないことがさも正しいかのような風潮が、教える側の怠慢と結びついているのではないか、という批判は鋭いのではないだろうか。

2点目は、苅谷剛彦による「なぜ勉強するのですか?」という問いの欺瞞についての指摘である。
「なぜ勉強するのか?」という問いは、あたかも教育の本質的な問いであり、それに答えられることが良い教師の条件であるかのようにみなされている。
しかし、この問いは、そもそも大人たちによる「なぜ教えるのか?」という問いに対する「ゆらぎ」を反映したものなのではないか、と苅谷剛彦は指摘する。

大人たちが教えることの意義を信じられなり、「なぜ教えるのか?」という問いに十分に答えられなくなったから、その問いを子どもたちの問題に置き換えることで、責任逃れをしているという洞察には、一定の真実味があるように思われる。
子ども主体という一見ヒューマニズム的な耳触りの良い言葉に酔いしれるあまり、「なぜ教えるのか?」という教師にとしての責任や使命に関わる根本的な問いから目を背けていないだろうか。

自分自身、小学六年生の子どもに対して学習支援をしていた時、子どもたちに寄り添うという考え方は常にあったものの、「教える」ということそのものに対して考える時間は短かったように思う。
子どもたちに合った教え方こそが最良であるというのは、確かに正しい。
しかし、それを自らの教師としての教え方の洗練を怠る言い訳として使うのは、本末転倒であろう。

これと関連して、大村はまはとある研究授業で、教師に質問した子どもに対して「自分で考えなさい」と言った教師を見て、失望したというエピソードを述べている。
大村は、せめて考えるためのヒントとなる選択肢を提示すべきではないかと言う。
昨今の教育観からすれば、自発的に考えるということは良いことであり、子どもの自主性を尊重し、子どもの可能性に期待した良い指導であるとみなされがちであるこの事例に対し、大村はまはせっかく子どもが学びを得るチャンスをみすみす無駄にしていると考えた。

教師の教える者としての専門性は、子どもが考えるための方法を、適切なタイミングで適切に支援することである。
肝心なのは、子どもにとっては自分の力でやり遂げられたと感じられるように、そっと背中を押すことであって、全く教えないというのは単なる極論でしかない。

ヴィゴツキーやカート・フィッシャーの発達理論に見られるように、人がスキルを発達させていく上で、熟達者の関わりというのは発達を加速させる上で非常に有効な要因である。
また、フィッシャーによれば、そうした熟達者の支援があれば、多くの人がある程度のレベルまで到達することが可能であるという。

”教えない教育”というのは、”教える教育”よりもはるかに高度に「教えている」。
大村はまは、話し合いの授業が最も疲れたとコメントしているが、まさに子どもたちが自主的に学び合っている空間というのは、その実教師の膨大な努力によって成り立っているような、「教えるプロ」による教育なのである。


こうした大村はまの「教える」ということを徹底的に追求した哲学は、現代の教育においても全く古びることはない。
学び合いであろうと、アクティブラーニングであろうと、教師が「如何に教えるか」という問いからは逃れられないし、逃れてはならない。
その当たり前の教師としての原点を提示してくれる貴重な本であった。

対話形式が大半であり、すぐに読み終えることのできる本なので、教えるという仕事をしている人にはぜひ読んでもらいたい一冊である。


2015年2月6日金曜日

諸領域における価値体系の類似性と主客未分

自然科学分野において見られる価値構造と、人文科学、社会科学分野において見られる価値構造が類似している、ということは繰り返し指摘されていることである。
ホワイトヘッドの粒子に対する洞察が、釈迦の説いた宇宙論と同形であることなどについて知ったときは、大いに感銘を受けたものである。

しかし、これは考えてみれば至極当然のことであった。
自然科学的に説明された世界もまた、人間の限りある認識において表現された世界観なのであり、その意味で内面的な世界の探求も類似した価値構造を持つことはまったくもって自然なことである。

我々は、自然科学的に説明された世界をまるで実在しているかのように受け取ってしまう。
現代において物理法則は真理であり、宗教はうさんくさいものである。
だが、これらは突き詰めて考えればどちらも人間の”眼”を通して認識された世界から構築された体系であり、その意味で真理そのものと呼べるものではない。

つまり、こうした様々な世界の”説明”における類似構造の存在は、神秘的な「究極の真実」の存在を示す傍証なのではなく、人間が世界を捉える視点というものが常に盲点を内包し、限定されているという事実を裏付けるのみなのである。


こうしたあらゆる価値体系の空虚さを明らかにしたのはポストモダンの思想であるが、ウィルバーのインテグラル理論はポストモダンを乗り越えようとした試みなのだと思われる。

あらゆる価値体系が真理ではないという事実は厳然たるものだけれども、その構造をよくよく見ていけば、そこには深さと広がりという2つの尺度が存在していることが観取される。
限定された視点の中で、より深い洞察は、より広い視野と一体となった構造を形作っている。
この世界認識の発達という実存的な構造が、我々が本来実存的な生命体であるということを示唆している。
「このような仕方でしか世界を認識し得ない」ということが、まさに人間の生きる意味、存在の意味と重なりあう。
そうした認識の諸規定性に気づき、そのうちでの自由を模索しつつ、その規定性を越えていこうとする自己超越の在り方が、人間本来の存在の仕方なのではないだろうか。


こうした認識の限界への気づきは、自我と世界という主客二分の世界観への反省をもたらす。
自らの視点を通してでしか世界を認識できないということは、すなわち世界とは客体であると同時に主体でもあるということである。
「私」は、認識していると同時に「世界」に認識されているのである。

主客未分の思想自体は理解できていたような気がしていたが、この思索に至ってようやく自分なりに腹落ちしたような感覚がしている。

2015年2月4日水曜日

「社会を変える」の不都合な真実と「教育から社会を変える」の意味。

「社会を変える」
もはや陳腐という域を越えたように思われる言葉である。

ビジョンやミッション、リーダーシップという言葉が呪文のように唱えられながら、ムーブメントを起こすことが社会課題解決に必要なのだとという論理が横行する。
社会的正義の名のもとに、不正義を断罪するという熱狂的快感と、”有能”な人間は行動し、何かを変革していく人であるという経済合理的な価値観が結びついたとき、こうした社会変革の活動は批判できない論理でもって人々を絡めとる。

ハンナ・アレントは、こうした社会的正義に怒り、社会的弱者に共感し同情する人々が、民主主義という黄金の看板を手に入れたとき、ファシズムが生まれるということを見抜いていた。
そうした社会的正義に酔いしれる人々は、その実現のためには何を破壊しても構わないのである。
従って、社会課題の性急な解決を望み、破壊的な改革の必要性を連呼する。
彼らは自分たちの正義を信じているから、卓越した行動力で無自覚に”民意”を形成しようとする。
自分たちの正義にくみさない者は、不正義であるとして、激しく攻撃することもある。


社会問題の解決とは、我々の精神の変容という課題であると言ったのは、ルドルフ・シュタイナーである。
シュタイナーは、社会というものが、本質的に人間の認識という限定的な視座によって生まれているものであることに気づいていたように思われる。
それは、精神が世界観と深く関わっているからである。

ケン・ウィルバーによれば、我々が世界を見る見方は、常に限定的である。
人間は視点というもの無しに世界を認識することはできず、視点は必ず盲点を内包する。
従って、どのような認識も、ありのままを見るということはできない。
しかし、人間の意識構造は発達していく。
意識構造の発達は、質的な変化であり、それは自己中心性の逓減という法則に貫かれている。
発達段階を踏むごとに、見える世界が広がるのである。
初めは母親と自分しか居なかった世界に父親が現れ、家族とその他の人々を認識し、クラスメートを、学校を、地域を、国家を、地球を認識し、帰属意識を感じていくようになる。

地球規模のアイデンティティを獲得した人にとっては、国家にとっての正義は相対化されているから、それだけに基づいた正義に両手を挙げて賛同することはない。
そうした人にとっては、価値というものが本質的に階層的な構造を持っているということが深く認識されているから、みんなの総意や納得解というものが常に正当化されるべきではないということが当然のように感じられている。
これは、論理的な思考による問題ではない。精神の発達は、人が世界を認識する根本的な枠組みにおいて質的な変化をもたらすのである。


社会を変えたように見せかけるには、確かにムーブメントが必要である。
大衆が熱狂し、世論を形成することで政治には大きな圧力がかかる。それは確かに目に見える形での成果かもしれない。
しかし、本当に社会課題を生み出しているのは、我々の精神構造なのである。
例え外面的には成果が生まれたと記述することができても、その内実が未熟な精神構造によるものであれば、そうした改革はすぐにボロを出すである。
我々の精神構造が、見たくないものから目を背け、もっともらしい言説に主体性を明け渡し、無責任に振る舞うという幼い精神である限り、自分のやるべき範囲での自由を行使して最善をつくすということが社会を良くしていくのだという当たり前の事実に気がつかない。

批判的思考力、協働力、論理的思考力などなど、様々な力がこれからの時代に必要だという。
しかし、そうした知性を持っていても、精神を発達させない限り、結局のところ社会課題は解決しない。
誰もが平等に価値のある意見を持っているという幻想をいい加減打ち破らなくてはいけない。
その分野においてより発達した人がより価値のある意見をいうことができるのである。
こうした価値を混同せずに見いだせる人もまた、精神の発達した人である。

こうした考え方は、エリート主義的であるとか、差別的だと言われる向きもあるだろう。
しかし、エリートは社会に必要な存在であるし、そう認められているからエリートなのである。
エリート主義の否定は、翻ってエリートの存在を肯定している。
我々は常に少数のエリートに先導されてここまで歴史を積み重ねてきたのであり、エリートという垂直的な価値を否定することは、極端すぎる暴論である。

ある領域におけるエリートと、そうではない人々との間において平等なのは、存在としての尊厳であり、その人格である。
だからこそ、行政に民主主義を持ち込んではいけないし、司法にも民主主義は持ち込んではいけなかったはずである。

社会を変革するということに真摯に取り組む人は、自らの認識に限界があることを悟り、その限定された世界の中で、自分のやるべきことを粛々と遂行する。
そして、自らの精神を高めることが真に社会を良くしていくということに確信を持っている。
だから、僕はいたずらに大衆を熱狂させ、その熱狂の規模によって社会に与えたインパクトを測ろうとする動きには懐疑的である。


社会を良くするためには、精神的に発達しなくてはならない、ということはとても言いづらいことだ。
この言説を現実化する限りにおいて、社会課題の解決を教育に求めるということは一定の正当性があると思っている。
つまり、子どもの発達が、知性面だけではなく精神面においても適切になされなくてはいけないのは、社会を良くしていくためであるからといえるのである。

その意味で、子どもの健全な発達を支援するという教育思想が、一部のオルタナティブにしか見受けられないのは至極残念なことである。