2015年5月26日火曜日

稲葉剛『生活保護から考える』2013

生活保護について、僕らはあまりにも知らないのかもしれない。
勉強してみようと思ってまず手にとってみた本書は、とても勉強になり、ぜひとも他の人に勧めたい良書であった。


著者の稲葉氏は以前一度講演会でお話を聞いたことがあるが、非常に理知的な佇まいでありながら、その奥底には強い想いを秘めていることを伺わせる淡々とした話しぶりが印象的な方だった。

本書では、近年の生活保護を取り巻く様々な状況を踏まえながら、生活保護をめぐる問題について考察している。

主なトピックとしては、2013年に閣議決定された、第二次安部内閣による生活保護基準の引き下げ、福祉事務所における「水際作戦」問題、2013年に国会に提出された生活保護法改正案、その中でも特にとある芸能人の親族が生活保護を利用していたことから議論を呼んだ扶養義務強化の問題点などについて考察されている。

到底ここでは書ききれないような様々な角度、データから、上記の問題を丁寧に論じている本書の文章は、心打たれるものがあった。
もちろん、生活保護受給者の当事者の声といったエピソードも盛り込まれているが、全5章のうちの1章に充てられており、むしろそれ以外の部分ではそうした「お涙頂戴」的な表現を極力避けているようにも思える。

それは、稲葉氏の「可哀相だから助ける」という考えに対する反感から来ているのではないだろうか。
日本の貧困に関する報道は、不正受給者などに対するバッシングなどが中心であったが、中にはそうした貧困にある人々の困難さを視聴者に伝えようとする報道もあった。
だが、そうした報道であっても、殊更に「可哀相」に見えるような演出がされてきたのではないか。

しかし、稲葉氏が述べるように、「可哀相だから助ける」というのは、「可哀相に見えなければ助けなくてもよい」という考え方と表裏一体である。
「可哀相だから助けるべきだ」という言説が強まれば強まるほど、生活保護を受けているのにスマホを持っているとか、外食をしているといった事例(決して生活保護法に違反しているわけではない。詳しくは本書を参照のこと)に対する圧力が高まる。

稲葉氏はまた、そうしたバッシングの背景にある心理について、シベリア勾留を経験した詩人石原吉郎の「弱者の正義」という概念を持ちだしている。

石原によれば、強制収容所の中で、勾留された日本人たちのなかで鋼索を研いで針を作り、それを密売することでパンを得ていた者達が居たが、それが広まりにつれて、内部からの密告が相次いだという。
彼らは、自らの生き延びる条件には何の変化も無いにもかかわらず、自分の不利を叫ぶよりも、躊躇なく隣人の優位の告発を選ぶのである。
これに似た状況が、今の日本でも起きているのではないかというのが稲葉氏の仮説であると思われる。

「自分たちを取り巻く社会環境を主体的に変えることは不可能だ、と感じる人が多数を占めれば、その社会は「人間不信の体系」となり、「隣人の有意の告発をえらぶ」人が増えるのではないかと私は考えます。そして、隣人が実際に「有利な条件」を手にしているかどうかに関係なく、「優位」に見える人々は正義の名のもとに攻撃されるのです。」(p.200 

本書は、長年このような問題に真摯に取り組んできた想いと知見を元に書かれた、非常に質の高い作品である。
一方で、自分自身にまだこうした社会保障制度に対する知識、理解があまりにも欠けているため、客観的に判断がつかない部分も多くある。

特に、新自由主義的改革における「経済成長こそが結果的に弱者を救済する」というテーゼについて、しっかりと学んだことは無いし、確かに社会保障制度を稲葉氏の言うように十分なものへと改善した場合、その財源はどこから来るのか?という疑問は残る。

ひとまず、日々の合間を縫ってこうした問題について学んでいきたいと思う。

ちなみに、もし何かおすすめの書籍や論文などあれば、教えていただけると幸いです。

2015年5月25日月曜日

「教育の多様化」は手段でしかない

多様な子どもに合わせた多様な教育を展開すべきである、という言説について。

教育に熱い思いを持っているとされる人たちにおいて、上記の言説は広く支持されているように思う。
しかし、教育社会学的には、「教育の多様化」を推し進めることのリスクはよく語られてきた。

教育の多様化を進めることの問題点は一言で言ってしまえば、「強い者が得をする」ことにある。
選択肢が多様になれば、その選択肢の幅の広さ、それぞれの選択肢をとった場合のメリット・デメリットをしっかりと把握している者にとっては、選択が与えられていない場合よりも満足度の高い解を見つけ出せる確率は高くなる。

しかし、そもそも情報を持っていない、情報を得る術を持たないような人々にとっては、最適な選択肢を選べる可能性はむしろ低くなる。質が高いとされる選択肢は、「強い者」によって選ばれやすくなるからだ。

結果として、格差の拡大、固定化が進む。
選択肢の多様化は、最終的に自己責任論へと帰属させられるのである。
「より良い選択肢があったはずなのに、それを選べなかった個人が悪い」という論理になってしまう。

では画一的な教育で良いのか、と言われれば、それはもちろん別の問題を孕んでいる。
一人ひとりに合わせた教育が必要になる場面は間違いなくある。
しかし、少なくとも「教育の多様化」は、これまでの教育で報われてこなかった人々を救うものではなく、その中でもごく一部の「強い」マイノリティを救うだけの改革になる危険性がある。

僕は実際に子どもを個別に指導しているとき、その子に合わせた指導を自分にできる範囲で模索する。
子どもが変われば、またその子に合わせた形で指導を変える。
他でもない自分自身がその子の前に立つのであれば、その子にとって最も良いと思われる教育を模索し、実践することが自らの教師としての責任だと考えるからである。

つまり、実際には「多様化」は理念ではなく、手段に過ぎないのである。
その子にとっての最善を考えるから、教育手段が多様化するのであって、多様化すれば最適なものが見つかるわけではない。
どのような教育をすべきか?という当為をやはり考えなくてはならない。その目的を達成するための手段などは、文脈に応じて変えていけば良いのである。

ここにきてカビの生えたような「当為論」かと思う人もいると思われるが、個人的にはこれは外せないところだと思っている。
そしてひょっとしたらそのあたりの端緒を開くのは、シュタイナーの「精神の自由による教育」という捉え方なのではないかと考えているが、そのあたりはまた別の機会に書いてみたい。

2015年5月22日金曜日

フリースクールの公教育化について個人的備忘録

フリースクールの公教育化が騒がれているが、個人的に前々から興味を持っていたテーマだったので、この機会にまとめてみることにする。

フリースクールの公教育化は、2014年8月の教育再生実行会議の第五次提言を受け、2015年1月から文部科学省が有識者による検討会議を設置するなど、動きが活発化している。
超党派の議員連盟による「多様な教育機会確保法」法案の提出も同時並行で行われた。(2015.5.22付 朝日新聞デジタル版http://www.asahi.com/articles/ASH5M55LQH5MUSPT00D.html)

フリースクールの公教育が進められているのは、もともと不登校問題への対応を中心としてフリースクールが広まっていった結果、不登校児は約11万人にものぼり、正確な数は不明であるがフリースクールの数も全国で400~500程度と、無視できない規模の子供が現状の公教育システムから逸脱していることが背景としてある。

また、フリースクールが一般に抱える問題として、経済面での困難があり、保護者に高額の学費を強いることになったり(二重学費)、スタッフ不足などの問題が常態化している。そこで、現場からは公的な支援をフリースクールへと導入することの必要性が長らく叫ばれてきた。

一方で、フリースクールを公的な支援下に置くということは同時に、フリースクールが公的な規制と評価を受けるということでもある。ここに、フリースクールの持つ自主性や独自性、自律性が、質保証のための規制や評価の目によって侵害されないかという懸念が生まれ、重要な論点となっている。



土方由起子(2011)「フリースクールの公教育化についての検討:「多様化」言説の陥穽」では、こうしたフリースクールの公教育化は、不登校支援に対する新しい方向性であると意義を認めつつも、フーコーの「近代化装置」という概念を援用し、「装置」から逸脱した存在であった不登校が、「既存の学校に復帰しなくてもよい」という「恩恵」を与えられることによって、再び「装置」の中に回収され、結局子供たちが「規格化」されてしまうという恐れがあることを論じている。
特に興味深かったのは、フリースクール側からの公教育化を求める背景にある理念として、「多様な子供のための多様な教育」があり、これは1980年代以降の様々な新自由主義的改革に通底する「教育の多様化」と結びついているという指摘である。「子どものため」という大義名分の下で、公教育における親の「選択」の余地が広がった結果、そうした選択の責任が親に帰せられてしまうという指摘は、真摯に受け止めなくてはならない。

武井哲郎、金志英(2011)の「公教育の担い手として認められるということ―日韓のオルタナティブ・スクールを事例として」では、実際に公的な認可を受けたオルタナティブスクールの事例について、日韓それぞれの学校に対するインタビュー調査で比較しており、公教育化によって教師や親に変化があらわれてきていることを示した。

永田佳之(2005)の「オルタナティブ・スクールと教育行財政に関する国際比較―質保証と公費助成の分析を中心に―」では、諸外国のフリースクールに対する公的支援を類型化している。中でも、積極的な経済的支援を行いつつも、フリースクールの自律性や独自性を最大限保証するような評価、規制の在り方を実現しているデンマークの事例は特記に値する。


このように概観すると、フリースクールの公教育化は様々な問題をはらんでいることが分かる。
しかし、個人的には賛成したい動きでもある。
アクティビズムの視点から捉えれば、既存のシステムに包摂されなかった層が、システムを変革しようと訴えかけた結果とも見ることが出来る。
もちろん、土方が懸念するような「近代化装置」への回収という視点も忘れてはならないが、回収されていく層は同時に「装置」を変革していく積極的な主体でもあるはずだ。
少々楽観的にすぎるかもしれないが、僕は可能性に期待してみたい。

公教育もまた、再帰的に自己組織化するシステムとして構想されるような時代に来ているのかもしれない。

2015年5月15日金曜日

社会課題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?

現在の仕事の関係上、社会問題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?という問いについて考えている。
「当事者意識(オーナーシップ)がある」とは一体どのような行動から判断されるのだろうか?

ここでは当事者意識の定義は、「自身がその課題や現象、状況に対して関係している、責任をもっているという自覚」のことを指すものとする。

当事者意識という言葉が暗に想定しているのは、「客観的に当事者であるにもかかわらず、その自覚がない」「客観的には当事者ではないが、主観的には当事者であると自覚されている」という2つの状況である。

前者の場合、例えば自分の与えられた業務、責任を全うできていない時に「もっと当事者意識を持ちなさい」と言われることになる。
逆に言えば、当事者意識を持っているということはこの場合、「定義された業務をそつなくこなし、目標をしっかりと達成する」ことである。

後者の場合興味深いのは、客観的には当事者ではないため、「当事者意識を持て」という言明は生まれてこないことである。「当事者意識を持って欲しい」としか言うことはできない。
例えば、会社内の別の部署の成績にまで当事者意識を持つのは通常は難しいし、会社もそれを強要することはできない。
もしそれが要求されるのであれば、与えられる権限と報酬も妥当な水準に高められる必要がある。

後者の用法で目指されているのは、「役割を越えた協働」である。
「役割を越えた協働」では、与えられた権限、業務の範囲を越えたところにまで、自責的な意識を持つことで、与えられたものをただこなすだけではたどり着けない成果を生み出すことが意図されている。
この場合、「当事者意識がある」という状況はどの程度「本来の役割を越えた範囲で全体へ貢献できているか」ということになる。

問題は、こうした「役割を越える」ことが過剰に礼賛された結果、本来やるべき「役割」が疎かにされることである。
例えば、マネージャーが飲み会などのイベントを沢山企画してくれたり、勉強会などに頻繁に出席して役立つ知見を紹介してくれたりしていても、肝心のマネジメントを怠っていたらそれは本末転倒であり、むしろ最初に述べた責任感的な当事者意識が欠けているといえる。

こうした事態が起こるのは、スコープがしっかりと定義されていないことに要因がある。
与えられた責任がまず明確に定義されていないと、そこをしっかりと「越える」こともできないのである。


冒頭に述べた社会課題への当事者意識、という文脈で考えるならば、社会の成員としてまず成すべきことをしっかりと成すということ、成すべきことはなにかということを明確に自覚することなしに当事者意識が健全な形で働くことはないのではないかと思う。

ソーシャルビジネスの文脈では、やりたいこと=ビジョンが最も重要なものとして語られることが多く、「あなたのやりたいことはなにか?」という問いが溢れている。
確かにビジョンがなければ、役割をどう越えるかという方向性が決定されないため、ビジョンは重要である。
しかし、それと同時に問われるべきは「自身は何を成すべきか?」という問いではないだろうか。
自身が成すべきことはなにか?という問いに明確に答えられない人間には、やりたいことなんてものは単なるお伽話でしかないように思えてならない。