2014年4月16日水曜日

苫野一徳『教育の力』2014

今年3月に発売されたばかりの苫野先生の新書である。

教育を考える上で前提として了解すべき価値観、そしてこれからの教育はどうあるべきか?ということについて書かれている。

苫野先生の思想には非常に共感できる部分も多く、それゆえに普段以上に批判的に読んでしまった。

まず、特に共感できたのは「教師の協働」を推進していくべきだという考えである。

「重要な事は、いろんな得手不得手を持った、多様な教師のそれこそ「協同」にあります。みんながみんな、一斉授業の名人である必要はないし、「学び合い」の天才的なファシリテーターである必要もありません。それぞれがそれぞれの得意なものを持ち寄って、一人ひとりの子どもたちの質の高い学びを支えていけばいいのです。(中略)人間ですから、得手不得手があるのは当然です。一人の先生に、何もかも完璧に求めるのはナンセンスです。むしろより重要かつ現実的なことは、多様な教師の力の「協同化」です。」(p112-113)
この考え方には非常に賛同できる。

教師も人間である。弱さもある。
もちろん、子どもの前に立つ上で最低限必要な能力もあるだろうが、現在言われている「教師に求められる力」は最低限の域を超えているのではないか。

一人ひとりが完璧な教師を目指すよりも、教師同士がそれぞれの長所を活かし、短所を補い合うような協同の形を目指したほうが実は総合した時に失敗するリスクも減るし、個々人の教師としての力の成長も見込めるのではないか。

子どもたちにとっても、多様な教師と触れ合えることで、自分に合った教師を見つけることができる可能性が高まる。

小学校の学級担任制をもう少し緩和し、複数人の教師がチームとして子どもたち全体を見ることができるような仕組みができればよいのではないかと思った。


一方、疑問に思った箇所もあった。大きく分けて3つある。

1. 「発達」概念の欠如

苫野先生は、これからの教育の方向性として、学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」の3つをあげている。
これ自体は時代の流行に合致していると思われるし、大きな異論はないのだが、では実際にそのような教育が子どもの発達段階に応じてどのような影響をもたらすのか?本当に全ての段階における子どもたちにとって、これらの教育法は適切なものなのか?といった疑問が残った。

例えば、コールバーグの慣習的段階における子どもたちにとっては、秩序や権威といったものが実は重要である。重要というのは、慣習的段階から後慣習的段階へと発達する上で、慣習的段階に順応し、”浸る”ということが必要だからである。

学びの個別化や協同化といった概念は、例えばこうした前近代的な価値観(秩序と法を重んじ、教義的な世界)を嫌がるように思える。

しかし、子どもの健全な発達においては、こうした段階を適切に経る必要があり、「古臭い教育」と一蹴してしまうのはどこか怖さが残るものである。

苫野先生は何も、そのような権威的な教育を否定しているわけではないが、「教育に多様性を認めるべき」という視点ではなく、発達心理学の視点から語る方が個人的には納得感があると思う。

2. 「自由の相互承認」

苫野先生は、公教育を論じる際に持つべき「共通了解」として、ヘーゲルを引き、「自由の相互承認」という考え方をあげている。
自由の相互承認とは、自分が自由に生きるために、あなたの自由を保証します、という考え方である。
したがって、自分の自由は相手の自由を侵害するものであってはならないし、その逆も然りである。

こうした自由の相互承認といった感覚を教育によって育むことで、被教育者である子ども自身も自由に生きることができるし、社会的にも平和な社会を維持することができる。
つまり、子どものためや社会のためといった対立を越えて教育を論じる前提が生まれるということである。

教育を論じる際に、こうした「共通了解」が非常に重要であることはとても納得できる。
しかし、その結論として「自由の相互承認」という答えを聞いた時、正直あまり魅力を感じなかった。

「自分が自由に生きたいからあなたの自由を認める。あなたの価値観は合わないけど、それは認める。」といった考え方は、寛容に見せかけた無関心と何が違うのだろうか。
そのように寛容を装うことが、表面的な争いを避けるための方法として有効であるからそうしている、という人をこれまでに何人も見てきた。

そうした態度は、本当に理想とすべきあり方なのだろうか。
公教育はなんのためにあるのか。

それを考えるために、もっと個人の内面に光を当て、徹底的に考えてみたい。
この疑問は教育に興味を持ち始めた高校生の頃から、今に至るまでずっと未解決でこれからも抱いていくべき疑問だと思っている。

3. オルタナティブ教育との共存

苫野先生は、あくまで公教育に主軸をおいた議論をされているため、致し方ないことではあると思うが、苫野先生自身が例としてあげているサドベリースクールやドルトン・プラン、イエナプランといったオルタナティブ教育との共存をどのように考えているのかをもっと知りたかった。

古山明男『変えよう!日本の学校システム』によれば、オルタナティブ教育が盛んと言われるオランダやフィンランドでさえ、実はこうした所謂オルタナティブスクールは全体の1割程度であるという。
(ちなみに日本は1%にも満たない)

公教育の変革において、実はこうした私教育、オルタナティブな教育機関をどのように位置づけるのか?というのは非常に重要なテーマであると思う。

苫野先生自身が言うように、個別化、協同化、プロジェクト化の教育が絶対的に優れたものではなく、あくまで1つの「よい」教育であるならば、その他の多様な教育を当然認めなくてはならない。
しかし、同時に公教育は「機会均等」と「教養の獲得保証の平等」を保証しなくてはならない。

この論点マジックをどう乗り越えるのか、が実はキーになっている気がするのである。
オランダやデンマークは如何にして多様な教育を公教育の制度の中に統合していったのか。
この疑問もまた大切にとっておきたい。




以上、3つのことについて自分なりに違和感が残った部分を書き出してみた。
この本は、前著『どのような教育が「よい」教育か』の実践編として位置づけられているとのことなので、ぜひともそちらも読んでみたいと思った。(もうすでに家にはある!)

読みながらすぐに解決できないような疑問を持たせてくれる本は良書だと思っている。
書を読むことで、自分の考えを批判的に、相対的に見ること、そして自分の未熟さを痛切すること。

近頃、十分に読書する時間を取れるので、そうした読書の醍醐味にすっかり夢中になっている。

2 件のコメント:

  1. 初めまして。苫野一徳氏のお話や著書に私も大きな疑問を持ちまして、色々調べていましたらこちらにたどり着きました。遠藤さんの仰る疑問点3つに同感です。

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  2. https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180324-00010001-kyousemi-soci&p=2

    度々すみません。疑問に思ったのはこの文章です。
    救われた。の、時系列がおかしいのです。
    小学5.6年で救われたのに、その後の躁鬱や、中学校の便所飯。
    他人と違う事を認めて、(自覚して)いたのなら、そんなことする必要が無いと思うのです。

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