2016年11月15日火曜日

「人権」について―アガンベンの『ホモ・サケル』を参考にして考えたこと

 ジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』における記述は、「人権」という概念を手放しで賞賛する態度を相対化することに役立つ。もちろん、「人権」を盾に身勝手な主張で他者を抑圧するような政治的活動は「人権」にかぎらず辟易とするものであるが、そうした実際的な局面ではなく、人権という概念装置そのものが生政治的権力と手を結ぶものであることをアガンベンは明らかにしている。

アガンベンによれば、人権はファシズムやナチズムなどの非人道的な権力に抗するものとして生まれたのではなく、「いかに逆説的に見えようと、ファシズムとナチズムは国民主権と人権宣言によって開かれた生政治的な背景の前に置かれてはじめて十全に認識可能なものとなる」(p. 180)のである。


すなわち、人権とは「生まれ」(=自然的な生、ゾーエー)を法的―政治的次元へと取り込むものであった。国民が主権者となることができるのは、この自然的な生においてなのだ。(アンシャン・レジームにおいては、こうした生まれと主権の原則は分離されていた。王権神授説を想起すればよい。)


「19世紀と20世紀の近代国家を基礎づけるのは、自覚ある自由な政治的主体としての人間ではなく、何よりもまず人間の剥き出しの生なのである。」(p.178)


こうして、市民の基礎としての人間の剥き出しの生が政治的な要素として隠された形で主権構造に埋め込まれた。しかし、ここには「生まれ」(人間)が「国民」(市民)に即応するという虚構があった。これが虚構であることは、出生と国籍が分断されている難民を想起すれば言うまでもない。ファシズムやナチズムは、こうした人間と市民の自動的な対応が崩壊しつつある中、「ドイツ人とは何か?」という人間学的で多義的であった問いを政治的なものとして引きうけ、その境界線を再定義する権力として現れたのである。アガンベンによれば、こうした境界線を絶えず画定し、新たな剥き出しの生を生み出していくものが近代における生政治の特徴であるとされる。


一方、こうした状況の中で市民権の前提としてのみ意味を持っていた人権は、次第に市民権の文脈の外部で剥き出しの生を表象し保護するという目的のために用いられるようになった。(p.183)
こうした状況は人道的なものと政治的なものの分裂として捉えられる。しかし、こうした人道的なものは、まさに政治的なものと分離しているがゆえに、「主権が自らの基礎としている聖なる生の分離を再生産することしかできない。」(p.185)


つまり、聖なる不可侵なものとしての人権は、難民の生を剥き出しの生や聖なる生として描き出すことによって救助や保護の対象としての生とするのである。問題にされるべきは、剥き出しの生や聖なる生を分離し、例外化する生政治、生権力そのものの構造であるにも関わらず、政治と分裂しているがゆえに人権は問題に向き合うことすらできない。むしろ、そこで剔抉された悲惨な剥き出しの生を「追認」するという形で「相手取って闘うべき諸勢力とのあいだに心ならずも秘かな連帯を維持している」のである。


アガンベンは、「難民という概念(および難民が表象する生の形象)を人権概念からきっぱりと分離しなければならない」(p.185)と述べる。難民は、人権という倫理的な要請から救助されるべきものではなく、近代の国民国家の基礎的な諸範疇を危機に晒す「限界概念」として見るべきなのである。


こうしたアガンベンの分析は、現代社会において不平等や不正義と闘う上で非常に意義深い示唆を与えてくれる。すなわち、もし不正義や不平等を解決したいのであれば、人権というものを社会的弱者が「救われるべき」正当性の根拠としてはならないということである。
アガンベンは、『到来する共同体』の中で、特定の属性に依拠しない、単に「存在する」という事実を分かち合うことによって成立するような共同体を構想した。仮にそのような共同体が成立するとするならば、その普遍性こそ人権と称するに値する原理ではないだろうか。政治化されたゾーエーを再び存在論の位相に差し戻すことが、目指されるべき「人権」概念の役割ではないだろうか。

2016年4月27日水曜日

「合理的配慮」と「思いやり」についての考察

先日、ディスレクシアについての勉強会に参加した際に考えたことについて。

講師はディスレクシア支援をされているNPO法人の方で、実体験に基づいた語りや、実践的な知恵についてのお話が非常に興味深いものだった。

その中で、合理的配慮についての話があった。
合理的配慮とは、障害者権利条約に示される原則のことで、「障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合、過度な負担になり過ぎない範囲で、社会的障壁を取り除くために必要な便宜のこと」を指す。(wikipediaより)

勉強会では、元来、英語ではaccommodationやprovisionなど、「調整」に近いニュアンスで示されており、配慮という言葉から連想する「思いやり」とは少し違うものである、というお話があった。

では、いったい「合理的配慮」と「思いやり」は何が違うのか。
また、「合理的配慮」の方が「思いやり」よりも優れていると言い切ってしまってよいのか。
そうしたテーマについて考えたことを書き散らしてみたい。


「思いやり」を乗り越える「合理的配慮」の意義


「合理的配慮」と「思いやり」の区別を何を意味するのだろうか。

「思いやり」は、一般に利他性を孕んだ支援者側の行為に向かう態度を指すと思われる。
その意味で、「思いやり」という言葉は、思いやる=支援者側の人間目線の言葉である。
熊本大地震の被災者に対して、寄付をすることも千羽鶴を送ることも共に「思いやり」であるといえる。
もちろん、報酬を期待する行為や自尊心などの欲求に駆動された真に相手のためにならない行為は「思いやり」ではない、と言うことは可能であるが、そうした思いやりの「真実」は一般に外から見分けがつきにくいこと、またそうした解釈のぶれが生じる余地が存在すること自体がここでは問題になっている。

更に踏み込んで言えば、外から見て見分けがつきにくい、というのは正確ではなく、外から見て「分からない」と言った方が厳密である。それはつまり、人によって評価が変わるということであり、世間一般に了解される客観的で純粋な「思いやり」というものは不可能である。
このことによって、「思いやり」は常に偽善であるという批判を受ける脅威に晒されている。

また、「思いやり」という言葉は同時に攻撃的でもある。
利他的な行動をしないことが「思いやりのない人間である」という表示に繋がるからである。
これは、「思いやり」が人間性や人格というものに基づく価値として理解されやすいからである。

一方で「合理的配慮」のポイントは、「合理的」というところである。
合理的という言葉には、「支援者、被支援者など関係者全員にとって望ましい(合意形成されている)」というニュアンスが含まれている。その意味で、思いやりとは違ってより価値中立的な言葉であるように思われる。

また、合理的配慮の実際性を担保するのは、被支援者にとって不利な状況を改善するための技術、テクノロジーであり、思いやりのような個人に属する不可視の内面的資質ではない。
したがって、客観性に担保された合理的配慮はより良い合理的配慮を目指して改善可能であり、制度としての広がりを持つ可能性がある。

「合理的配慮」は端的に言えば「思いやり」がなくても可能なのである。


合理的配慮の厳しさ


合理的配慮に含まれるもう一つ重要な点は、まさに「人権」に関わる「合意形成」の論点である。

合理的配慮の世界観においては、例えばディスレクシアの子どもが漢字の書き取りをディスレクシアではない子どもの数十倍こなすことで漢字を書けるようになる、ということは合理的ではないとされる。
その人が著しく苦手であることについて、苦手ではない人と同様の基準・方法によって努力を課すことに対して合理的配慮は否定的である。

一方で、教育者としての立場にある人の実感として、とはいえ努力すること自体に価値がある、と思われることもあるのではないだろうか。
教育を受けている当時は無為に思えた努力が、後々になって価値があったと感じられるというのは、多くの人に経験されることである。
しかし、バスケがやりたくてバスケ部に入ったのに、「お前はドリブルがなってない」と言われドリブルの基礎練習だけずっとやらされる、というのは合理的配慮の世界観においては否定されるべき事態なのである。

つまり、合理的配慮の世界観とは、例え結果として本人の能力がより伸びうる可能性があったとしても、関係者間の合意形成を優先するものだといえる。
このことの意義は、責任の所在が関係者全員に行き渡ることである。
さきほどのバスケ部の例で言えば、ドリブルの基礎練だけをやらせ続けた結果、本人がバスケがうまくならなかった場合、一義的に指導者の責任とされるが、合理的配慮にもとづいた対応をとった場合、その責任は合意形成に参画した指導者、本人を含む関係者全員にある。

この意味で、合理的配慮の世界観は「厳しい」ものである。
被支援者=他者によって救われる存在ではなく、責任主体としての在り方を求められるからである。
考えてみれば当然のことであるが、自身にとって望ましい便宜を求めることができるということは、同時にそうした便宜を選択する責任主体としての在り方を求められるということと表裏一体なのである。


思いやりには意義が無いのか


このように考えると、思いやりよりも合理的配慮の方が単純に良いものである、と聞こえるかもしれない。
しかし、そう言い切ってしまうにはどこか抵抗があるのではないだろうか。

事実、「思いやり」に対して我々は価値を感じるのであり、決してそれが世の中から消え去ってしまってもよいとは考えない。思いやりが原理として存在することに対する違和感はあっても、思いやりを全面的に否定してもよいとは考えない。
それは、「思いやり」ということが「他者を尊重する」という根源的な在り方と結びついた態度だからではないだろうか。

合理的配慮は、先に見てきたように選択する主体としての個人を限りなく大事にしようとする思想である。確かに合理的配慮においても他者を大事にするということが重視されているが、ある種それは「個々人の自由を担保する」ために他者を大事にする、という構造であるとも読み取れる。

一方で思いやりというのは、先に述べたように客観的に純粋な在り方としては不可能であるような、利他性そのものを指す言葉である。ゆえに、個人の自由の手段には決して成り得ない。
この不可視性こそ、個人の内面・主観世界を尊重しようとする契機なのではないかと思えるのだ。

発達心理学によれば、我々はまず自身の持つ内面に気づいてから他者を対象化し区別するのではなく、他者性への気付きから我々は自身の内面世界を発見する。
不可視な内面を持つ他者の存在があるからこそ、個人としての自己を見出すことができる。だからこそ、そこから個人の自由を擁護しようとする思想が力を持つのだとは考えられないだろうか。

少なくとも、合理性に還元されない「思いやり」の価値を失ってはいけないという実感は、我々にとって人権よりもずっとアクチュアルなのではないかと思っている。

2016年4月10日日曜日

田中智志・山名淳編、2004. 『教育人間論のルーマン―人間は<教育>できるのか』

半分も理解できている自信が無いが、気になったこと、考えたことをメモしておく。

ルーマンの「自己創出システム理論」

ルーマンの自己創出システム理論について語る上でのキーワードと思われるものを幾つかまとめてみる。

「システム」「複雑性の縮減」「機能的分化」

ルーマンの理論におけるシステムとは、複雑性を縮減することで内と外を区別する同一性のことを指す。システムが生まれる前の世界観は、過剰な可能性に満ちたカオスであり、こうした状況に対処するために人間は「システム」によって文脈を作り、複雑性を縮減しようとする。

機能的分化社会とは、近代以降の複雑性が増大した社会において、経済システムや法システムといった、機能ごとに分化した社会システムが存在している社会のことである。
教育もまた教育システムとして、これらの社会システムのうちの一つとして位置づけられる。

「コード」「プログラム」

コードとは、システムが自分の機能を把握し調整する装置としての「意味世界」を特徴づける二値区別(A/非A)のことである。例えば、経済システムにおけるコードは(支払い/不支払い)、(所有/非所有)である。意味世界においては、肯定値が自明化する。

ルーマンによれば教育システムにおけるコードは(選抜される/されない)である。
「人間形成」や「陶冶」などは、コードではなく、コードの肯定値を実体化させるための「プログラム」の主題であるとされる。プログラムは、具体的な実践計画であるが故に、多様である。

「構造的欠如」と「テクノロジー欠如」概念の導入の意義

ルーマンの教育論を語る上で、「テクノロジー欠如」という概念がよくあげられるのは知っていたが、「構造的欠如」については本書で初めて知った。
「教育テクノロジー」とは、「因果の連鎖を顧慮しながら被教育者の変容をコントロールする技術の総体」(p. 137)であり、「テクノロジー欠如」とは、教育においてそのような「テクノロジーの名に値する一連の手続きは認められない」という教育システムの特性のことをいう。

平たく言えば、どんな状況であっても、どんな子どもであっても、このような方法を用いれば教育目的が達成される、という技術は、教育においては不可能であるということである。
なぜならば、教育という営みは生徒個人の心的システム(生徒個々人の内面=教育される対象もまたルーマンによればシステムとみなされる)の変容を求めるものであるが、心的システムは自己準拠のシステムであるがゆえに、直接そこに教師が介入し変容を起こすことはできない。
せいぜい可能なのは、システムが他のシステムと関連しあう「構造的カップリング」の状態を通じて影響を与えることぐらいである。

こうしたテクノロジー欠如の状況にあっては、テクノロジーの代わりに「因果プラン」が採用される。
因果プランとは、科学的に真理とはいえないが、こんなときにはこうすればうまくいくだろう、という擬似的な因果関係のことを言う。教師の実践知と言ってもよい。
このような因果プランが生まれるのは、成功が保障されていないにもかかわらず、手探りで成功の条件を模索し続ける教師の「アクラシア」という態度による。

このようなテクノロジー欠如は、教育システムの根本的な「構造的欠如」に端を発している。その欠如とは、「社会化の企図化」というパラドキシカルな企てである。社会化は、個人の心的システムの内部にしかその契機を持たないからである。

しかし、こうした構造的欠如故に、教育システムとその意味世界は存在することができる。
不可能であるはずの社会化の企図を実現しようとするが故に、教育システムは多様な意味世界を持ちえる。この意味で、ルーマンは構造的欠如を決して「打開するべき状況」ではなく、肯定的なものとして捉えていると本書では語られている。

構造的欠如、テクノロジー欠如といった概念を持ち込むことによって、ルーマンが意図したのは教育学と他の理論との交流である。テクノロジー欠如という自体は、伝統的な教育学の意味世界では「子どもが本来的に持つ自由」として捉えられるが、このような多様な意味世界の存立機制としての構造的欠如を認識することによって、同様に構造的欠如を抱える他のシステムにおけるテクノロジーに関する理論を援用できる可能性が高まるのである。

非営利セクターにおけるルーマン適用の可能性

自身がNPOに関わっていたこともあり、非営利セクターにルーマン理論を適用するとどのように理解されるのだろうか、ということを読みながら考えていた。
非営利セクターを一つのシステムとみなすのであれば、(弱者への支援)あるいは(公平性)というものがコードになるのだろうか。また、同時に仁平典宏先生の「贈与のパラドックス」のような構造的欠如を抱えていると言うこともできる。

しかし、そもそも非営利セクターは一つのシステムとして捉えることができるのだろうか。
一口に非営利といっても、実際の活動内容は多岐にわたる。ホームレス支援と学習支援、障害者支援などをひとまとめにすることはできるのだろうか。むしろ、政治システム、福祉システム、教育システムなどの一つのプログラムとしてとらえた方がよいといえるかもしれない。

このあたりはもう少し勉強しないとなんともいえないところだが、個人的には新たに下位分化しつつあるシステムとして非営利セクターを捉えるのは面白いのではないかと思っている。

インテグラル理論との接続

本書の終章で田中智志先生は、「大事なことは、陳腐な表現であるが、懐の深さを持つことである。」と述べている。これは、ルーマンが子どもの自己創出性を承認するところに教育の可能性を見出したという前章からの内容を引き継いでのまとめとしての言葉であり、教育の不可能性を無視するのでもなく、ニヒリズムに陥るのでもなく、「教育の可能性」へと進むことを支持する記述であると思われる。

ルーマンが言うように、絶えざる生成として子どもをとらえたとしても、現実に一定の程度において「知識は獲得され、蓄積される」ように見えるのであり、我々は優秀さを可視化されたものとして認知することで現在の社会を運営している。そうした側面も、両方大事にする「懐の深さ」が大事なのである。

ウィルバーを用いて補足するなら、それはまさに原理的に我々が抱える、現象に対する視点の盲点の問題である。ウィルバーは四象限という図式によって、我々が世界に対して持ちえる観察の視点は個的―複数、内面―外面のマトリクスで表される4象限のみであり、それぞれが構造的な盲点を内包していると説明している。
懐の深さを持つためには、我々が世界と関わるための視点が限定されているという気付きが重要なのではないだろうか。













2016年3月17日木曜日

コルトハーヘンの「9つの質問」と陥りがちなリフレクションの罠

教師教育におけるリフレクションの技法として、一昨年コルトハーヘン氏も来日するなど日本における知名度も一段高まったように見える「ALACTモデル」について個人的の気付きをまとめてみる。

私は未熟ながらも、大学生を教師として育成する教師教育者として4年ほどで20人以上の学生を見てきた。この仕事にかけた時間は少なく見積もっても1000時間近いのではないかと思う。
大学生を教師として育成する上で、コルトハーヘンのモデルを基礎としながらリフレクションを促していくのだが、その中で多くの人がつまずく点があることに気づいた。

コルトハーヘンは「9つの質問」というフレームワークで、「置かれた文脈はどのようなものか?」と、自分と他者それぞれの「行動(do)」「思考(think)」「感情(feel)」「欲求(want)」を問うことで、起きた出来事についての本質的な気づきを得られるとしている。


このうち、まず第一の躓きは「思考」と「感情」の混同である。
「思考」というのは、なぜその行動をしたのか?という問いに対する答えとしての「論理」であり、「合理的な言語」である。
例えば、「私は吉野家に行った」という「行動」の理由として、「吉野家に行けば手頃な価格で牛丼が食べられると考えた」というのが「思考」である。

それに対し、「感情」というのは、思考を規定する「感覚」であり、厳密に言えば言語化できないイメージに近いものであると思われる。言葉にするならば、「嬉しい」「悲しい」「楽しい」といったものである。

思考と感情が混同されるのは、日本語においては「思う」という言葉が一見感情を表すようでいて思考も表現できることに要因があるのではないかと思われる。
「私は悲しいと思う」「私は吉野家に行くべきだと思う」というどちらの表現も可能であるが故に、「感情=~と思う」という理解をすると、コルトハーヘンの言う「思考」と「感情」の区別が付かない。

先に述べたように、感情とは本質的に言語ではない、という理解が重要である。
感情はイメージであり、感覚なのであって、思考するものではない。厳密に言えば、思考以前のものであるという理解である。思考以前であるからこそ、思考を規定するものとして感情をリフレクションの枠組みの中に位置づけることができるのである。


第二の躓きは、「欲求」と「規範」の混同である。
欲求は日本語に直すと「~したい」と表現されるが、例えば「私は時間通りに授業を終わらせたい」というのは欲求そのものを捉えてはいない。それは、「時間通りに授業を終わらせるべき」という規範を、何らかの欲求にもとづいて「守りたい」と思っているということである。つまり、規範と欲求を混同している。
この点も、日本人特有なのかどうかは解らないが、非常に多く見られる現象だった。

欲求とはそもそも、何らかの「欠乏」に対して起きるものである。
現時点で自身にとって満たされていないものがあって初めて欲求が生じる。
先の例で言えば、「時間を守る」ということで、「上司に怒られないようにする=上司に認めて欲しい(承認欲求)」なのかもしれないし、「時間通りに授業を終わらせるという目標を達成することで自身の有能性を確かめたい(達成欲求)」なのかもしれない。

コルトハーヘンの枠組みの中で、欲求が最も奥底にあるのは、それが最も強い規定として我々の感情や思考、行動を緊縛するからである。(構造構成主義の「関心相関性」の原理とも共鳴する。)
したがって、欲求は思考よりも抽象的でより人間の生にとって根源的なものになる点に注意をはらうべきである。


最後に、リフレクションとは欲求や感情、思考を変容させる試みである、という誤謬について。
リフレクションの目的は、コルトハーヘンが述べるように、「選択肢の拡大」である。つまり、最終的に変容するのは「行動」であり、思考や感情や欲求を根本的に変化させることを意図するものではない。

フッサールを持ち出すまでもなく、欲求や感情、思考それ自体は否定されえないものである。否定されえないからこそ、それらをメタ的に認知することによって行動の選択肢を拡大できるとコルトハーヘンは言いたいのだろう。

リフレクションしていく中で、「自分はなんでこんな自己中心的なのだ」と落ち込んでしまう人がいる。しかし、それはリフレクションの目指すところではない。
大切なのは、ある規範意識に照らしあわせた時に”醜い”思考や感情、欲求を持っていたとしても、最終的に自身が行動を選択できるという信念を持ち、行動の選択肢を増やしていくことである。その意味で、リフレクションには敢然性への契機が含まれているなあなんて思ったりもするのだが、その話はまたさておき、いたずらに自身を追い詰めることがリフレクションではないということも忘れないようにしたい。

2016年3月2日水曜日

インクルーシブ教育についての勉強会をやってみて考えたこと

先日、所属するNPOの人々とインクルーシブ教育についての勉強会を開催した。
その際に考えたことなどについて軽く自分用にメモしておく。

イメージできない人々こそ真に抑圧されているということ

勉強会では、日本におけるインクルーシブ教育に焦点を当てたため、特別支援教育についての話が多かった。視聴覚教材として発達障害についてのビデオなどを取り上げたため、議論の中身もそうした内容に寄ってしまった部分もある。

発達障害がそもそも近年注目されている一つの要因は、それが「新たに発見された」障害であるからだ。
もともと、ADHDや自閉症スペクトラムなどと言われるような障害は、クラスに一人ぐらいはいる「変な子」として認知されていた。つまり、障害があるとは思われていなかった。
発達障害は、「見えにくい」障害だったからこそ対応が遅れたのであり、当事者はずっと苦しめられてきたのだ。

ここから考えると、インクルーシブ教育において求められるのは、未だ想像すらされていない状況にある人々こそ、本当に抑圧されているのであり、そうした人々を包摂していこうとし続ける態度なのではないかと思う。
単に、発達障害の子どもとそうではない子どものニーズがすべて満たされている状態を実現することがインクルーシブ教育ではないのである。

すべての人にとって了解されなくては意味が無い

教育者としてインクルーシブ教育の理念をどう実際化するか、というのは実践的な問いであるが、教育する場においてのみインクルーシブであるということは、そもそもの理念からして矛盾する。

教室で教師がいくらインクルーシブ教育的な実践を成立させていても、子どもたちだけで遊ぶときに排除が起きていては意味が無い。
つまり、インクルーシブ教育の理念は、教育者が教育意図として持っていても意味がなく、すべての人にとって了解されるものでなくてはならない。

しかし、例えばADHDを持つ子どもの衝動的な行動が、他の子どもに不快感を与えるという事実は無視することはできないし、それを禁止することもできない。それを禁止した瞬間に、そもそもインクルーシブではなくなる。

決して排除を擁護するわけではないが、排除が起きる背景には、個人的感情などの理由が必ず存在するし、そうした感情を持つことは尊重されるべきである。

前項でも述べたように、肝心なのはインクルーシブ教育の要諦が、「インクルーシブ」とされる状態を志向し続ける姿勢にあることだ。
個人が他者の行為から不快な感情を喚起させたという事実は否定することなく、その上でどのような態度をとっていくのか、という次元においてインクルーシブ教育の理念は機能する。

そこを踏まえずに単にインクルーシブ教育を金科玉条のように押し付けていては、何も乗り越えていないことになる。

インクルーシブ教育と「自己決定の尊重」

ここまで考えると、インクルーシブ教育を成り立たせている基底には、「自己決定権の尊重」が含まれているように思われる。
当然といえば当然の話なのだが、インクルーシブ教育が成立すると信じるには、人間は感情や思考に支配されることなく、それらを包含した上で「態度を自己決定することができる」という人間観が必要である。

社会的に排除されている人々が私達の想像の範疇にも及ばないところにまで存在している。
それに対し自分はある意味特権的な”立場”にいる。
抑圧されている人々とのコミュニケーションは、自分にとって不快なものである可能性がある。

そうしたことを自覚した上で、私達はどんな態度をとるべきなのか?という問いかけが、インクルーシブ教育が私達に投げかけているものなのではないだろうか。
態度の次元の話だということが理解されないと、結局インクルーシブ教育は画餅として終わっていくのではないかと思った。

「態度」の合意形成と抑圧

では集団としての「態度」はどのように合意形成されるのか?
ここで注意しなくてはいけないのは、「インクルーシブ教育的な理念に賛同するに至った」ということ自体が一つの特権である可能性である。

例えば、その日一日の食事の調達にも苦しむほどの状況にある人々に対し、インクルーシブ教育の理念を説いて賛同してもらえないからといって、その人を責めることができるだろうか。

インクルーシブ教育などというものについて論じることが出来る時点で、これまで社会の中で十分に包摂されてきた人も、被抑圧者の側にいると自認している人も、共にある種の特権的な立場にあると考えるべきである。

特権的であるということ自体が悪なのではない。
そういう立場にあることを自覚した上で、現実にどんな態度をとるかという話なのだ。

そのように考えると、合意形成において重要なのは、如何にしてインクルーシブを是とするに至ったのかというプロセスを共有することに他ならないだろう。多少迂遠に思えたとしても、インクルーシブという理念に至ることができた道のりこそを省察し、語っていくことが必要なのではないか。
そしてそのプロセスを一般化できた時に、仕組みとしてのインクルーシブを実現する体制を構築することが可能になるのではないだろうか。





結論としていささか面白みのないものになってしまったが、引き続きインクルーシブ教育については時間を見つけて勉強していきたいと思う。