2015年3月27日金曜日

【イベントレポ】「学びに困難を抱える子どもたちを支えるために―エクストラレッスン その理論と実践」

掲題の講演に参加してきたので、学びをメモしておく。

まず、エクストラレッスンについては、イベントの告知文から説明を抜粋すると、下記のようなものである。

エクストラレッスンは、1960年代、イギリスのシュタイナー学校の教師をしていたオードリー・マカレンが、学習に困難を抱える子どもたちを助けるために開発し始めたもので、ルドルフ・シュタイナーの「全人的な人間の発達という視点に立ったこどもの教育」に基づいています。こどもの幼少期の発達が、その後の学習や行動そして振る舞いにおける基礎を築くという視点に立っています。エクストラレッスンでは、宇宙や自然界にあるフォルムの動き、重力と拮抗する床での動きを取り入れたエクソサイズや治癒的な働きのある水彩などを繰り返し行うことで、こどもたちのポディジオグラフィー(身体的認識)と空間認識を育て、感覚の統合を助け、こどもの意志を伸ばし、その能力と個性の開花を促し、ホリスティックに子どもの困難に治癒をもたらします。

講師のマリアン・ジャッド氏は、オーストラリアで臨床心理士、エクストラレッスンプラクティショナーとして20年ほど活動し、教職経験に加え、エクストラレッスンについての論文で博士号も持っているなどプロフェッショナルの方だった。

午前の部では主に「学習に困難を抱える子ども」とはどのような子どもたちなのか?なぜ困難を抱えるようになったのか?といった話が中心であり、午後は質疑応答、エクストラレッスンの概要、実践の一部を体験するワークショップ、ジャッド氏のPHT法によるアセスメントの研究についてなどを学んだ。

学習に困難を抱える子どもたち

エクストラレッスンが対象にしている「学習に困難を抱える子どもたち」は、端的に言えば、ADHD、軽度の自閉症スペクトラム障害、ディスプラクシアの子どもたちのことである。
どれもはっきりとした要因は分かっていないのが現状だが、有力な仮説をもとにして簡単に説明すると、下記のようになる。


ADHDは前頭前野の発達遅延により、情報や運動の統合機能が適切に働いていないために、知能は正常にもかかわらず、多動や注意力散漫などが観察される。

軽度の自閉症スペクトラム障害とは、一昔前でいうところのアスペルガー症候群であり、社会性の欠如や常同的行為が観察される。

ディスプラクシアは、計画的な行動や順序立てたタスク処理、文字を書くなどの微細な運動に困難を抱えている。
(オーストラリアでは2006年の調査で学校に通う子どものうち約22%の子どもがディスプラクシアであり、その多くは病識がないあるいは適切な支援を受けられていないとのこと)


こうした子どもたちは、例えば聴覚でいうと本来ならば気にならないような音まで聞こえてしまう「聞こえすぎ」の状態にある。
情報に適切な意味付けができないため、情報過多の状況となり、常にストレスを感じて疲れやすくなったり、イライラしたりしてしまう。

これらの困難は、基本的に感覚処理に障害があることが分かっており、7歳までに健全な発達を完了してこなかったことが深く関わっている。
こうした考え方は、神経系の可塑性(neuro plasticity)という、感覚・運動刺激が脳の発達に影響をおよぼすという概念にもとづいている。
つまり、適切な刺激や運動によって、適切な神経系の発達が起こってくるという考え方である。
したがって、エクストラレッスンはまさにその核となる感覚処理に働きかけるものとして開発された。

シュタイナー教育では、発達を7年ごとに捉え、最初の7歳までの段階では、肉体の発達が重要であるとされている。
ジャッド氏もこれを支持し、この最初の7年の発達が健全に行われることが、その後の学びを円滑に進めるための土台となるということを繰り返し述べていた。

原始反射(primitive reflex)

では、健全に発達してこなかったとはどういうことだろうか?
ジャッド氏によると、それは原始反射が適切な時期に抑制、完了せずに残存したまま年を重ねたということである。

原始反射とは、脳幹によって自動的に引き起こされる身体の運動反応であり、基本的に生まれた時点ですでに幼児は獲得している。(胎内にいるうちから原始反射は始まっている)

例えば、下記のようなものがある。

・モロー反射
大きな音などに対して、闘争または逃避行動をとるための反応として現れる。
自律神経の発達に関わっているとされるため、免疫の強さや消化機能、バランス感覚、空間認識などの能力に関係してくる。

・ATNR
乳児の顔の向きに応じて、腕と足が進展する反応で、視覚系の発達に関係する。

・前方TLR
うつぶせの時に、腕で状態を支え、頭が水平になるように保とうとする反応。
ハイハイするための基礎となる。


こうした原始反射は、発達とともに抑制され、大脳皮質の理性によって行動を制御できるようになるが、適切に完了しなかった場合、先に述べたような発達障害などを引き起こすことがあるという。
また、原始反射の次に姿勢反射と呼ばれる姿勢を保つための運動能力が発現してくるが、ここにも影響を与える。
このため、エクストラレッスンはなるべく早い段階で受けた方が良いとジャッド氏は述べていた。

エクストラレッスンでは、こうした原始反射が残存しているかどうかを厳密なアセスメントによって測定し、残存している段階から支援を始める。

エクストラレッスンについて

エクストラレッスンは、まず厳密なアセスメントから始まる。
アセスメントは、プラクティショナーだけではなく、栄養士や検眼士、オステオパシーの治療師などと連携して行われる。

アセスメントは、まず比較的学校での振る舞いに関連する領域から行われる。
というのも、保護者が子供を連れてくるのは、ほとんど学校での振る舞いに何かしらの問題があるとされたことによるからだ。
具体的には、読み書き計算、友人関係、感情面などを評価する。

次に、原始反射の残存具合、姿勢反射が適切に発揮されているか、運動の質、バランス感覚、日々の健康状態、疲れやすさなどを見る。
また、成育歴や出生時および胎内にいるときの様子までヒアリングするようだ。
更に、簡単な視覚検査や聴覚検査、眼と手の協調性、利き手側の身体の統合性、微細運動、粗大運動の質、ボディジオグラフィー(身体の部分の位置関係の認識)などを検査する。
アセッサーとのコミュニケーションから、対人関係能力についても同時にアセスメントを行っているようだ。

こうした複数の領域に渡る厳密なアセスメントを経て、エクストラレッスンは、個々人に合わせた形でプログラムが組まれる。
こうしたアセスメントは、おおよそ20週間ごとのスパンをおきながら、繰り返し行われる。


エクストラレッスン自体は、週に一回のセッションであり、レッスンの無い日には、子供に合わせた宿題が出される。宿題といっても、ドリルのようなものではなく、基本的に運動である。
保護者の状況などで宿題をやり続けるのが難しい場合は、セッションを週2,3回に増やすなどの柔軟な対応をとることもある。

エクストラレッスンによる効果が上がり、完全にレッスンを完了できるのはおおよそ1年程度とのことである。しかし、近年では、子どもをとりまく問題が深刻化したことで2年ほどかかることが多くなっているらしい。
後述するが、特に聴覚的な刺激の質は現代において随分低下しているようで、主に運動面から働きかけるエクストラレッスンに加えて、聴覚にフォーカスした「リスニングセラピー」を併用することでより有効な改善が見られるようである。

エクストラレッスン成功の鍵は、まず子どもとの信頼関係を構築すること。
そして、適切なハードルのチャレンジ(リスク)を子どもに課し、成功体験を沢山積ませることだとジャッド氏は言っていた。

現代の子どもたちをとりまく問題

ジャッド氏は、現代の子どもたちをとりまく問題についていくつか述べていた。

・「選択する」という環境の増加
ジャッド氏は、幼少期の頃から、「何食べたい?」「どこ行きたい?」というように、子どもに選択を迫るようなことが現代では増えているという。
こうした選択は、まだ幼い子どもにとっては十分な決定を下すには圧倒的に情報不足であることが多く、大人がするべきことは状況にふさわしい決定を子どもに見せることであるという。

・好き嫌いの激しさ
これは、味覚の感覚が過敏になってしまっていることに関係があるのではないかとジャッド氏は述べていた。
味覚を過敏にするのは、加工食品などの過剰摂取によるところが大きい。
また、砂糖中毒とも呼べるような状況も多く見られるが、砂糖を摂取することで刺激される部分はコカインのそれと同じであることから、「子どもを麻薬中毒者にしたくなければ砂糖を減らしなさい」とジャッド氏は冗談めかして保護者に伝えるらしい。

・感覚刺激の強さ
テレビや、ボタンを押すと激しく音のなるおもちゃなどの視覚、聴覚刺激は、生まれて間もない子どもにとっては刺激が強すぎるそうだ。
そうした強い刺激を受けてしまうと、適切な発達に結びつかず、発達遅延を引き起こす恐れがある。
ジャッド氏によれば、2歳までテレビからは子どもを遠ざけた方が良いとのことである。


得られた示唆・感想

・厳密なアセスメントの重要性

「子どもはその子なりのスピードでしか発達できない」とジャッド氏は語る。
エクストラレッスンが効果を上げている最大の要因は、実は厳密なアセスメントによって、その子に最適なプログラムを提供していることなのではないかと感じた。
また、そうした子ども一人ひとりのために、専門家のあいだで連携体制がしっかりと構築できているところも、非常に先進的だと感じた。

子どもの発達に目を向けるということは、一人ひとりの子どもにとって最適なものを探り出そうとす
る子ども目線の教育の発展形である。

良い教育とはなにか、という問いは延々と議論され続けているが、多様な方法論の優劣よりも、そもそも徹底的に子ども目線に立とうとするその姿勢を何よりもエクストラレッスンから学ぶべきではないだろうか。
我々は「この教育は良い」と評価する際に、どれだけ子どもに着目しているだろうか?
子どもの感覚処理や幼児期からの成育歴までさかのぼって子どもへの効果を追求できているだろうか?
新しい、流行に乗った教育というだけでそれを賞賛するのは、大人たちの自己満足なのではないだろうか?


・「7歳までの発達が、その後の学びの土台となる」

これはジャッド氏が繰り返し述べていたことである。
幼児教育が学力に対して非常に大きな要因を持つことは現代ではほぼ基本的に合意されている事実であるが、この言葉が印象に残っているのは、現場で子どもを真摯に観察し続けてきたプロフェッショナルとして断言していたからだと思う。


・公教育への導入の難しさ

先に書いた厳密なアセスメントの負の側面として、コストの大きさがある。
一人ひとりの子どもに最適なものを見つけようとすればするほど、教育にかかるコストは膨大なものになる。
その意味で、エクストラレッスンにかぎらず、子ども目線からの教育はなかなか公教育で広げていくのが難しい。

しかし、この問題には解決の糸口もある。
一つは、それでも現場で多大な努力をし、成果を上げている教員の方が存在すること。
また、テクノロジー的な進歩(現状のe-learningを指しているわけではなく、可能性として)や、そもそもの教育にかかるコストという考え方についての転回によって解決できる可能性はあると僕は考えている。これについては後日改めて書いてみたい。

少なくとも、こうした徹底的な子ども目線の教育は、現状の学習指導要領に基づいた日本の公教育に対する強力なアンチテーゼであることは間違いないのではないかと思う。



簡単ではあるがメモをまとめてみた。
実際には、エクストラレッスンの実践の一部を体験させていただいて、自分の身体感覚が実は意外と統合されていないことに気付かされたり、ジャッド氏の博士論文のテーマである「PHT法によって、学びに困難を抱える子どもを見分ける事ことができるか?」という発表により、オードリー・マカレンの発達論が実証的に支持されることを話していただいたり、わざわざ東京から行った甲斐のある非常に学びのあるイベントだった。

一方で、脳科学や精神医学、臨床心理学、幼児教育学などの知識に乏しいために、話された内容を十分にクリティカルに検討できないことは歯がゆく感じた。
エクストラレッスンやブレインジムのような感覚運動を重視する教育法には批判があるのも事実であり、時間を見つけて知識を得ていきたいと思った。

2015年3月15日日曜日

カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論について(2015/3/18修正版)

先日のインテグラル・エデュケーション研究会にて取り上げられたカート・フィッシャーのダイナミックスキル理論が非常に興味深かったので、紹介してみたい。

ハーバード教育大学院のカート・フィッシャーは、新ピアジェ派の発達心理学者である。
理系の研究者であるフィッシャーは、綿密な科学的研究によって、ダイナミックスキル理論という画期的な発達理論を提唱した。

現在、アメリカではフィッシャーに近い理論モデルが主流になっているようである。
例えば、一昨年著者が邦訳されたロバート・キーガンのモデルなどは、1980年代から変化がなく、すでに最先端からは外れているそうだ。
新しいものが必ずしも正しいとか良いというわけではないが、フィッシャーの理論は素直に「より納得の行く」理論だと感じた。

現在フィッシャーの理論で邦訳されているのは、丹精社より出版されている『成人の知的発達のダイナミクス―発達ウェブからのアプローチ』のみであるが、少々難解であった。
インテグラル・エデュケーション研究会の鈴木規夫さんの解説を聞いて多少理解できたので、自分なりにまとめてみたい。

ダイナミックスキル理論は何が新しいのか?


ダイナミックスキル理論の特徴は、大きく分けて2つである。

1つ目は、知性や能力、意識といったものが人間の内面に蓄積されていくという静的な概念から、「スキル」という環境や状況、他者の関わりなどを含んだ文脈に動的な構造で発達を捉える概念へのシフト。
2つ目は、はしご型の発達モデルから、ウェブ(蜘蛛の巣)型の発達モデルへの転換。

このウェブとスキルという2つの概念が、ダイナミックスキル理論を理解する上で肝要となる。

ダイナミックスキル理論が説明してくれるのは、以下のような問題である。

・「昨日できていたことが今日はできない」「先生と一緒に出来ても、自分一人ではうまくできない」というミクロなレベルにおけるスキルの不安定性。

・「高次の意識段階に至っていると思われる人が、低次の意識段階の人に特徴的な行動をとることがある」という一見したところの矛盾。

・そうしたスキルがいったいどのようなプロセスによって成長していくのか?


個人的には、ダイナミックスキル理論は、目から鱗が落ちるような全く新しい知見というより、従来の発達理論が説明できていなかった、あるいは違和感のあった現象や解釈が、よりもっともであると思えるように説明してくれているものだと感じた。

ウェブ状の発達モデル

フィッシャーの発達理論を特徴付けるウェブ状の発達モデルとはなにか?また何が新しいのか?

従来の発達理論は、発達をはしごに例えることが多かった。
発達とは、一段一段はしごを登っていくように起きるものであり、上昇していくことがある種”良い”ことであるかのようなイメージが暗に示されていた。
こうしたイメージのことを、フィッシャーはpre-analytic visionと呼び、このメタファーをまず疑うべきだと述べている。

フィッシャーは、はしごに替えてウェブ(蜘蛛の巣、網の目)というメタファーを提唱している。
一つ一つの線が特定の発達領域をあらわすとして、それらの線が伸びていく中で他の線と結びつき、より複雑で高度なスキルを発揮できるようになるというモデルである。

例えば、紙に線を引くというスキルと、紙を切るというスキルが結びつくことで、我々は工作というスキルを獲得する。
または、論理的思考と、メタ認知のスキルから内省的思考を獲得する。

このようなイメージで発達を捉えると、ある領域において高度な発達段階に至っているとされる人が、別の領域だと低次のパフォーマンスに終始することも不思議ではないといえる。

はしごモデルでは、ある発達領域について、それぞれ単一のリニアな発達段階を想定するため、そうした領域間の相互作用にどうしても目が向きづらいという欠点があった。
ガードナーの多重知能理論においても、複数の領域があるということは主張されても、それらの間の相互作用についてはあまり言及されていなかった。

また、このウェブの形は、生まれ育った環境や先天的な要因から、一人として同じ形になることはない。
どの線がよく伸びていて、どの線があまり伸びていないかは人によって様々なのである。
そのため、発達は個々人独自のものになる。
人によって、ある知識をどのように理解しているか、どんな知識と結びつけているかが異なるという基本的な事実も、フィッシャーの理論に従えば納得しやすい。
既存の発達理論は集団のパフォーマンスから帰納的に導かれたものであったため、常に「例外」として扱われる事例が存在していたが、個人の認知的パフォーマンスから組み立てられるダイナミックスキル理論では、こうした発達の個人差により説得力のある説明を与えることができている。

はしごモデルでは、基本的に発達という現象は「前進/上昇」していくものとして捉えられるが、ウェブモデルでは「広がり」として捉えられる。
スキルを広がりとして捉えることにより、発達はより高次のパフォーマンスを発揮するようになっていくことではなく、課題のレベルに応じて発揮できるレベルの幅を増やしていくことであると説明されるのである。

動的なスキルとはなにか?―スキルと変動性

ダイナミックスキル理論の核である「スキル」とはなにか?
スキルとは、人間の内面的構造と、環境や状況、他者の存在などの文脈が一体となってつくり上げるシステムのことである。

分かりやすく言えば、スキルはそのとき具体的に発揮されているパフォーマンスであり、と同時にそれを可能にする内面的構造そのものである。
文脈依存という意味において、コンピテンシーと少し近いところがあるかもしれない。社会構成主義的な能力観の延長にあるものだと捉えられる。

従来の発達理論では、知識や能力といったものは、人間の内面に蓄積されていくものだと考えられていた。その後、構成主義的な考え方を経て、知識や能力は、文化や社会、環境などの文脈と相互作用しながら構成されていくと考える社会構成主義的な能力感が現在では主流を占めるようになった。

フィッシャーのスキルという概念も、まさに社会構成主義的であるが、更に特徴的なのは、変動性という概念を強調していることである。
スキルが発達するということは、高次のパフォーマンスを常に発揮し続けるということではない。
高次のパフォーマンスを発揮することができるようになるだけであり、実際に発揮されるパフォーマンスはその時々の文脈に応じて変動するのである。

例をあげると、実存的思考段階に至った人は、その日の夕食のメニューを決める際に、「自分の生きる意味はなにか?」ということまで踏まえて意思決定するわけではない。
発達するということは、与えられた課題に対して適切なレベルのスキルを発揮できるということなのである。

従来の発達理論では、高次の発達段階に至るにつれて、発揮されるパフォーマンスは多少の幅はあるものの、全体として高次のものになっていくという重心型のモデルを想定していた。
しかし、フィッシャーのモデルはこうした重心モデルを否定していることになる。

最適レベル(optimal)と機能レベル(functional)

フィッシャーは、発揮されるパフォーマンスのレベルには、支援の有無などの状況の違いによって、差があるとする。
なぜなら、スキルは前に述べたように文脈に依存し、関係性の中で発揮されるからである。

最適レベルとは、支援者による適切な介入がある場合に発揮されるスキルのレベルであり、機能レベルとは、独力で発揮されるレベルである。
定義上、基本的には最適レベルは機能レベルよりも高いレベルのパフォーマンスである。

例えばスポーツのインストラクターに教えられてやっているときに出来たことが、自分一人でやってみるとうまくいかなかったりすることがあるのは、この概念によって説明がつく。

前者は、右肩上がりの波のような発達曲線を描き、後者はゆるやかに上昇していく。
そして、年齢を重ねるごとに、この2つのスキルレベルの差は広がっていくという。

機能レベルのスキルは、最適レベルとを往還していくことで成長していく。
従って、適切な支援者の存在はスキルの発達において重要なファクターとなる。

更に、フィッシャーはscaffolded(手取り足取り、支援者と一緒にやる)、automated(無意識的、身体知的)なレベルも想定しているが、主に焦点を当てているのは最適レベルと機能レベルの2つである。

重要なのは、関係性によって発揮されるレベルは異なるということであり、例えば最適レベルにしか焦点を当てずに発達測定を行うことは、適切な評価にならない可能性がある。

スキルの発達―Backward TransitionとForward Consolidation

では、このウェブとスキルという概念を踏まえた上で、スキルの発達とはどのようなものなのだろうか?
まず、スキルは発達するにつれて単一的、具体的なレベルからより複雑、抽象的なレベルへと移行していく。


料理を例に取ると、具材を切るというスキル、具材を焼いたり煮たりして火を通すというスキル、味付けをするスキル、盛り付けをするスキルというのはそれぞれ独立したシンプルなスキルであるが、これらが結びつくことで一つの料理を作るというスキルになる。

更に、複数の料理を作れるようになると、和食を作るスキル、洋食を作るスキルというように更に高度で抽象的なスキルを獲得する。
個々の具体的な要素から、一般化された法則(例えば根菜は自ら茹でる、鉄鍋は予熱を必要とするなどなど)を獲得していくことでより抽象的なスキルを構成していくのである。

ここまでは、既存の発達理論で説明されている内容とそう大差はない。
しかし、フィッシャーの理論が面白いのは、更にミクロなレベルでスキルがどのように発達するかということを述べている点である。

フィッシャーによれば、スキルは無数の変化する条件を経験するにつれて、安定的なパフォーマンスを発揮できるようになるという。
引き続き料理の例で説明すると、豚汁を作る際に玉ねぎを試しに人参に変えてみるとする。
すると、どうも玉ねぎで作っていたときのようにうまくいかない。

このように、未知の細かな状況の変化に直面すると、スキルは一時的にかなり低次のレベルまで退行するとフィッシャーはいう。
そして、試行錯誤を繰り返す中で、人参は玉ねぎよりも火の通りが遅いという法則を発見し、再びスキルレベルは回復する。

こうした様々に細かく変化した状況を経験していくことで、安定的にその段階のパフォーマンスを発揮できるようになるのである。

プロフェッショナルとはその分野で誰よりも失敗を重ねた人であるという格言があるが、まさにフィッシャーの理論はそれを支持している。

あるレベルにおいてスキルが安定的に発揮されるまでの過程で、スキルの退行現象(すなわちフィッシャーの言うBackward Transition)が起きるということは非常に興味深い。
失敗を繰り返すということはまるで悪いことのように捉えられがちであるが、実際には我々の発達はリニアでただ上昇していくだけのものではないのである。
前にできていたことができなくなったということを非難してしまうのは、教育現場においてもよくあることだが、そうした発言をしてしまう我々のメンタルモデルを疑う必要があるといえる。

あるスキルレベルが機能レベルで安定的に発揮されるようになるのは、次の最適レベルが出現してからはじめて達成される。
これをForward Consolidation(前進への地固め)とフィッシャーは言う。
つまり、最適レベルの段階が上がったからといって、そのレベルのパフォーマンスを安定的に発揮できるようになる(=機能レベルのパフォーマンスになる)のは、しばらく時間がかかる。
一般に最適レベルから機能レベルへの移行に、成人は3~4年ほどかかるとフィッシャーは述べている。

emergence zone

スキルは、頻繁に退行を繰り返しながら成長していくことを前項で述べたが、複数の独立したスキルが結びつくことで、急激な発達段階の成長、すなわち最適レベルの急上昇(スパーツ)が見られることがある。

興味深いことに、この急上昇は、複数の発達領域を横断して並行的に発生する。
この部分をemergence zoneと呼ぶ。

ウェブにおけるいくつかの能力の線がある程度の長さに伸びている様子を想像して欲しい。
それらの線が突然それぞれ結びつき、より高度で複雑な能力が複数の箇所で開花するのがemergence zoneという部分で起きていることである。
認知心理学的な意味での発達段階の上昇とは、このことを指していると考えられる。

こうしたスパーツの発生は、大脳皮質の活動のパターンと相互関連性があるという研究もすでに存在しているようである。

実際に、どんなスキルがどのぐらい成長することでemergence zoneが起きるのか、ということについて詳しいことは分かっていない。
そもそも発達のウェブは個々人によって異なるため、そうした一般的な法則は得られないのかもしれない。

しかし、少なくとも、いわゆる発達段階の上昇というものは、単一のスキルをただ成長させていてもなかなか起こりづらいものであり、多様な発達領域において研鑽を積む必要があるということがここから学び取れる。

まとめ・示唆

以上がダイナミックスキル理論についての僕の理解をまとめたものである。
要約すれば、以下のようになる。

私たちは複数の能力を独立した線として、網の目のように、個々人に独自の形で多方向に拡張していく形で発達していく。
また、そうした能力は、関係性や周りの環境、自分の感情や体調など、様々な文脈に依存しており、常にパフォーマンスは変化しているような動的なもの(=スキル)である。
そうして発達していった複数の独立した能力は、emergence zoneにおいて互いに結びつくことで、次なる最適レベルが出現する。
最適レベルのパフォーマンスは、出現した当初は適切な支援者の介入を必要とし、安定的に発揮できないが、無数の変化する状況を経験していく中で、その都度スキルは退行しながらも、徐々に安定して発揮できるようになっていく。
そうして更に次の最適レベルが出現するときになって、ようやく前のレベルでのパフォーマンスが安定的なもの(=機能レベル)になるのである。


この最先端の発達理論は、非常に示唆に富んでいる。ざっとあげるだけでも、以下のようなことが考えられる。


  • 生涯教育への応用:年齢を重ねるごとに最適レベルと機能レベルの差が拡大するということから、適切な支援者の介入の必要性が重視される。また、emergence zoneでのスパーツは、複数の能力の発達が、認知心理学的な発達において重要であることを示唆する。従って、時代に求められる意識構造を持つためには、単一の領域のみの探究では心許ないものとなる。
  • 退行現象の見方のポジティブな転換:これまでの発達=前進というメンタルモデルの中では、「この前できていたことができなくなった」というのは、失敗や良くないこととして捉えられがちであった。しかし、退行現象がスキルをより安定させ、より高い段階へと発達させるために必然的に起こる現象であるという理解は、例えば教育の場面においてより適切な評価をもたらす。

また、フィッシャーは「発達はゆっくりと起こるべきだ」とも述べる。
実はピアジェは、American problemという「何事も効率的に迅速にやることが良い」という固定観念を批判し、フィッシャーと同様のことを述べている。
しっかりと基礎固めをし、緊密で強固なウェブを作ることで、より大きくウェブを広げることができるのである。
アメリカでは、早期英才教育を受けた人々の発達は途中で停滞し、ゆっくりと発達してきた人はその後も成長し続け、前者を追い抜いていくといった研究結果も提出され始めているようだ。
教育者としては、最適レベルのパフォーマンスをしっかりと引き出すためにも、焦らずに時間をかけて指導するという姿勢が求められるだろう。

不勉強の身であり、しっかりと原典やフィッシャーの他の論文を読み込めていないことは非常に心苦しいが、ひとまず現時点での理解をまとめてみたかったこと、周りの教育に関心を持っている人に紹介したかったことから記事を書いた。
今後、フィッシャーの論文についてはweb上で読めるものも多いので、しっかりと読み込んでいきたいと思う。

参考

Kurt W. FISCHER, Zheng YAN, Jeffrey STEWART, 中川恵里子訳 (2003)『成人の知的発達のダイナミクス―発達ウェブからのアプローチ』丹精社

「発達理論の学び舎」http://www.yoheikato-integraldevelopment.com/(2015/3/15)

インテグラル・エデュケーション研究会 2015年第1回講義(2015/3/14)








2015年3月13日金曜日

僕が「発達」という視点に惹かれる理由

発達理論の難しいところは、ある発達理論もまた、ある発達段階から記述されたものに過ぎないというところである。

「人間の発達は〇〇である」という言明は、話者の発達段階からの見識である以上、話者の発達の程度によってもまたその内容は変化しうる。
例えば、単線型のはしごモデルは、古典的な発達に関するメタファーであるが、これは合理性段階の思考と親和性が高いように思われる。
それに対し、カート・フィッシャーのようなウェブ(網)状のモデルは、人間に発達というものをよりメタに、ホリスティックにとらえている点で高次の発達段階と親和性が高いように感じる。

しかし、最初に述べたように、それもまた、ある発達段階から見た発達論なのであり、どちらかが絶対に正しいという話ではない。
そのように考えると、単一の発達理論に執着することは、それ自体発達に対する理解を欠いているといえる。

つまるところ、あらゆる発達理論は人間の限界を伴った認識にもとづいているため、「そのように発達している」というのは、「そのように発達しているように私が見ている」ということなのである。
そして、見ている私もまた、発達している動的な存在であり、本質的な意味で静的な構造が存在しているわけではない。
発達という概念は、人間が世界を認識するときに使う一つのフレームワークなのである。
世界がそのようにあるのではなく、人がそのように見ているからそう見えるだけであって、そこを履き違えると世界の真実をそこに見たような誤謬を犯す。


それでも僕が発達理論に惹かれるのは、発達という視点は世界に在るものを包摂する考え方であるからだ。一見矛盾しているように見える様々な概念や理論、考え方が、発達という視点で捉えることで全てあるべくしてあったものとして世界に位置付けられる。
それは、自らが個人として世界と対峙しているのではなく、空間的・時間的に世界に織り込まれ、また世界と一つであるという感覚へと至る道である。
発達という視点は、世界を統合するための考え方なのである。

自分が日々生きている世界を丁寧に生きること。目を背けないこと。
その姿勢が、発達していく存在としての自分と、発達していくように見える世界の在り方とを結びつける、人間の本来的な在り方なのではないかと思うのである。





2015年3月8日日曜日

未来教育会議に参加して思ったこと

先日、未来教育会議シンポジウム2015に参加してきたので思ったことをまとめてみる。

まず、本イベントは300名近くの参加者がおり、教育系のイベントにしては規模が大きい。
対象者は教育に興味関心はあるものの、専門にはしていないような一般企業や行政の人、学生などを想定しているように感じた。
博報堂のチームと組んでいることもあり、全体的に「かっこいい」デザインのイベントだった。

教育課題を解決するには、社会全体で取り組まなくてはならない、というポリシーが強く現れていて、直接教育に携わっていない人々でもなんらかのアクションを起こして欲しいという思いが伝わってきた。
日本人は教育に問題意識を持つ人々が多い一方で、いざどのように行動に移すか、というところでなかなかハードルが高い現状がある。そうした意味で、教育関係者を問わず、よりよい教育に向けて多くの人々を巻き込む場があることは、非常に意義深いものだと思う。


さて、一方で批判的に捉えられる事柄もいくつかあった。


まず、圧倒的な「子ども目線」の不足である。
取り上げられる話はLearning for Allを除いて多くの場合「大人達がこんな新しいことをしました!」というお話だった。
子どもたちに実際どのような効果があったのか、ということについても、僅かな評価基準しか持っていない。
リフレクションの重要性について、再三プレゼンされていたが、子どもに対する効果という視点からリフレクションしていないのだとすれば、それは単なる大人たちの自己満足にすぎない。
教育は大人の問題である、ということを強調していたが、それは大人が色々と派手でキャッチーな手法を用いて教育を盛り上げていくということよりも、そうした大人主語の教育改革をまず内省する必要があるということなのではないだろうか。
「自分たちは子どもたちのためになることをやっている」というメンタルモデルを本当に疑い切れているのか、正直なところ疑問に思った。


それに関連して、そうした新しく見える手法の導入が目的化しているのではないか、という点が2番目の懸念である。
リフレクションをすべきだ、ということを声高に主張する人々は、実際には学校に通っている時に質の高いリフレクションを授業で学んできたわけではないが、これまでの人生の中でリフレクション的なものをしっかりと積み上げてきたからその重要性を理解しているという類の人であると思う。
実際的なリフレクションは、リフレクションシートを常に書き続けるようなものではない。
本当にリフレクションできている人は、どんな状況でも無意識に、自然とリフレクションする。
つまり、リフレクションが身体化されているのである。

しかし、「リフレクションを授業の中に採り入れています」ということだけがまるで斬新で画期的なアイデアのように語られている中では、あたかも「リフレクションをしやすくするための工夫」を導入することが成果であるかのように見える。
それはまるで、自転車に乗れるようにするために補助輪をつける、ということが素晴らしいアイデアであり、補助輪をつけたことに満足しているようなものだ。
実際に社会に出て必要とされるのは、補助輪など無くても自転車に乗れる力であって、そのことを見失っていてはむしろ学校と社会との距離は遠くなるばかりである。


3点目は、「21世紀型スキル」というものについての語られ方である。
未来教育会議は、21世紀型スキルを身につけさせるような教育が良い教育であるというメンタルモデルが非常に強い。
そして、21世紀スキルの重要性は20世紀型の画一的な教育に対置される形で強調される。
実際に21世紀スキルの中身をよく見てみると、批判的思考力、協働的課題解決能力、コミュニケーション能力やITリテラシーなどが挙げられているが、果たしてそれらは本当に20世紀型とされる教育の中では育たないものなのだろうか?

文化祭に打ち込むことは協働能力を育てないのだろうか?
試合で勝つために自分の練習を振り返ることはリフレクション能力の涵養にはつながらないのだろうか?

もちろん、IT教育などについてのノウハウは、まだまだ未熟なものであり、更に良い物へと高められる可能性が大きいだろう。
しかし、実際に子どもたちが学んでいる姿、遊んでいる姿を見ていれば、21世紀型スキルと言われるものの萌芽は確かに観察できるし、学校側の取り組みもそうしたものを意識した方向へと移ってきている。
21世紀型スキル的なものの核は、おそらくペダゴジー的なものを問わず本来人間に備わっていたものなのではないかと僕は考える。
つまり、21世紀型スキルは、教えるのではなく、発達を促進するという類のものなのではないか。
そこで必要となるのは、上述したように、子ども目線の教育観、すなわち、教育とは人間の本性を見極め、それにそって健全で自然な発達を促進する営為であるという理解である。

21世紀型スキルを身につけるために考案された具体的なプログラムだけ見れば、現にそうなっているではないか、という批判があるかもしれない。
しかし、前に述べたように、そうした試みの裏側に子ども目線で教育を捉えるという思考の土台があるようには僕には見えなかった。
もし、こうした教育観の転回を抜きにして21世紀型の教育を推し進めるのだとすれば、結局教育を受ける側にとってはなんのリアリティも無い押しつけられた教育が形を変えて展開されるだけだろう。


最後に、もう一つ気になった矛盾点がある。
それは、ビジョンを描いて現状とのギャップをあぶりだし、それを埋めていくという思考様式についてである。
未来教育会議では、あるべき未来を描き、現状とのギャップからそれに基づいてアクションを起こしていくことを推奨していた。
この思考形態は、はっきり言って合理性至上主義の賜物である。
こうした考え方を乗り越えるものとして持続可能という新しいパラダイムが生まれてきたにもかかわらず、あくまでもギャップ的な課題解決思考に頼るのでは、本質を見抜き損なっていると言わざるをえない。

教育は、完全に合理的なものではない。
もちろん、合理的思考によって改善されていく部分も多くあるし、そうした改善されるべき箇所が未だに手を付けられていないという現状があるのは理解できる。
しかし、21世紀型の教育に求められるのは、まさに持続可能という理念を持った教育なのである。
持続可能であるとういうことは、不確実性に対して寛容であるということである。
持続可能の世界観では、無限の右肩上がりの成長というものは幻想にすぎないことが了解されている。
リフレクションが必要なのは、その都度目の前に立ち現れる不確実な状況に対して、最善の手段を見つけ出すためであり、成長を繰り返して上昇していくためではない。
リフレクションすることで、どんどん成長していく、というのは、能力が上昇していくようなイメージではないのである。

アクティブ・ラーニングやピースフルスクール、PBL、反転授業を採り入れるということが、持続可能な教育を生み出す訳ではない。
そうした教育が、これまでの教育が一定方向に偏りすぎていたバランスを揺り戻すために必要とされているのであり、こうした施策ばかりを推進していれば、また逆にバランスは悪くなる。
持続可能なシステムというのは、こうしたバランスを崩しながらも全体としては動的平衡を保つようなシステムのことである。
21世紀型教育は正解ではないし、20世紀型教育よりも良いものでもない。
大事なのは全体として揺れ動きながらもバランスを保つことである。
こうした理解無しに「改革」を進めるのであれば、それはリフレクションを欠いた単なる思いつきと本質的には大差ないものだろう。


長くなってしまったが、思ったことをつらつらと書かせていただいた。
他にも、多様な教育の在り方をまるで絶対あるべきものかのように語るであったり(多様な教育を認めることは、同時に学校ごとの集団の同質性を高め、実は学校内での多様性は低まるという社会学の基礎的な原理に言及しない)、新自由主義的改革とコミュニタリアニズム的改革を同様に論じていたりと少々教育について雑に語り過ぎではないかと思うこともあった。


もちろん、シンポジウムに参加した方や主催者の方の全てがこのような考えに陥っているとして批判しているわけではないし、僕の個人的な思いであるから、はたして正しい洞察かは分からない。
「そんなことわかっている上でやってるんだよ」と言われるかもしれない。
ただ、そうは感じなかった、という個人の感想である。

しかし、それでもアクションを起こしている人々は素晴らしい。
僕は、アクションもしないのにああだこうだ言っているだけの人間であり、大した説得力も無い。
だからこそ、そうしたアクションを起こしている人々をこれからも応援したいと思っているし、早く自分もアクションする側に立ちたいと思っている。
より良い教育を志すという思いは、きっとみんな共有している願いなのだから。