2015年10月18日日曜日

身近な人の死について

先日、身近な人を亡くしました。

物心ついてから身近な人の死を経験したのは実は初めてで、色々と考えさせられる体験をしたので書き留めておきます。


遺体を見た時にまず感じたのは、もうその肉体は「その人」ではないのだな、ということ。
完全に何かがそこから抜けてしまった、という感覚。
何か大いなるものからこの世に現在していた存在が、還っていくという仏教的、シュタイナー的な死生観のアクチュアルさを実感した。

そこから、死を悼むということをしようとしてみた。
しかし、その仕方がなかなか分からなかった。
死を悼むということは、その人の人生や今際の際を「良きものだった」と語ることなのか。
何か一言でもその死について語ろうとした瞬間、死そのものを受け入れられなくなるような感覚だった。
だから、結局その時僕は一言も発することができなかった。

それはきっと、死というものがどうしようもなく虚無であるからなのかもしれない。
虚無ということは、語りえないということである。
それが語りえるものになってしまった瞬間に、その死を正面から見つめられなくなる気がした。
今、こうして文章を書いていても、その時に感じた死のリアリティを全く捉えられていないもどかしさと同時に、何か書かないとどうにも整理がつかないから仕方なく書いているだけなのではないかという気まずさを感じている。


デス・エデュケーションという言葉がある。
詳しくは知らないが、文字通り、「死」について教える教育である。
死について学ぶとはどういうことなのだろうか。
こんな何も無いものについて何を学ぶのか。
人が死ぬということは避けられない事実であるということを認識することが肝要なのか。
だから生を豊かにしなければならないと説くのか。

死というものはどうしようもない虚無であり、生を充実させるためにあるものではないと思う。
しかし、では何なのかということに対して答えは出ないし、答えを出すべき問いなのかどうかも定かではない。



結局のところ、僕は身近な人の死に際して色々考えさせられた結果、何一つ学ぶことはできなかったし、何一つ変わったことはなかった。
しかし、それでも死は考えさせることをそう簡単にはやめてはくれないらしいので、もう少しだけ見つめてみようと思う。

2015年6月24日水曜日

自閉症児の天才性を強調する言説について

テンプル・グランディンのTEDトークを見ていた。
彼女は自閉症を抱える動物学者であり、自身の経験にもとづき自閉症児に対する教育の変革を求めている。

自閉症を抱える子どもは、従来そのコミュニケーション能力面におけるディスアビリティなどから、学校文化の中で常に抑圧されてきた存在であったといえる。
彼女自身は、そうした環境の中でも出会いに恵まれ、その天才的な才能を開花させ、社会的な成功をおさめることができた。
したがって、彼女は、自閉症児の持つ天才的な可能性を潰さないために、そうした子どもたちの可能性を引き出すようなチャンスをもっと与えていくべきだと主張する。

平等なチャンスが与えられていない子どもたちに、チャンスを与えるべきであるというのは至極最もであり、彼女の主張には概ね同意する。
しかし、彼女の言っているようなことが社会一般の風潮として共有されたとき、そこには怖さも残る。

「自閉症=天才」という考え方が広まり、ギフテッド教育のような教育が浸透したとき、そこで抑圧されるのは、「自閉症であると同時に、天才性を発揮できない」人である。
好機が与えられているにもかかわらず、価値を生み出せなかった人に「居場所」は与えられるのだろうか?

テンプル・グランディンは、自らに与えられたチャンスを掴み、彼女自身の資質を活かしたことで成功を掴んだ、賞賛されるべき人物であると思う。
しかし、彼女が自閉症を抱える人全てを適切に代表した存在ではないはずだ。
スピヴァクが指摘したように、「代弁者」は意識的にせよ無意識的にせよ、時にマイノリティを抑圧する側に回ることもあるのだ。


繰り返すが、テンプル・グランディンの主張に僕は賛同する。
自閉症児に対する社会的なバリアは、取り除かれていくべきであると思う。
しかし、そうした状況を変えるにあたり、被抑圧者に何らかの「価値」を付与し、その「価値」にもとづいて被抑圧者の復権を求めていくことは、更なる弱者を生み出しかねないのだ。

あくまでそれは手段として、通過点として考えるべきではないだろうか。
「自閉症者が輝く社会」は目的ではなく、手段ではないだろうか。

弱者への共感から始まった社会変革の意志も、一歩間違えれば容易に転落し、更なる弱者を抑圧するものとなってしまう危険性を孕んでいる。
こうした「転落への危険性」の自覚こそが、ソーシャルアクションを志す人間に求められる最低限の資質なのかもしれない。

僕自身NPOに関わる者として、この問題には非常に思うところがあるので、次回また書きたいと思う。

2015年6月19日金曜日

弱さについて

人の弱さについての思索。

社会的弱者は、様々なハンデによって、この社会で「弱い」とみなされている人々である。
それは身体的なハンデの場合もあれば、経済的、心理的など様々なものがある。
こうしたハンデを個性として捉える向きもあるが、何がハンデであって何が個性なのかという意味論は究極的には個人の主観的価値付けでしかないから、ここでは踏み込まない。

リベラルな人々は、こうした社会的弱者を排除する様々な言説に異議を申し立てる。
それは、尊い行いであると素直に思う。

一方で、社会的弱者を排除する人々は、なぜ排除するのだろうか?
異質で理解できない弱者に対し、「気持ち悪い」と遠ざけたり、「自己責任だ」と突き放したりする彼らは、何を考えているのだろうか。
彼らに、「排除せざるを得ない」事情はないのだろうか。
彼らが社会的弱者を抑圧してしまうのも、また一つの「弱さ」なのではないだろうか。

その弱さに共感することなく、単に抑圧を激しく攻撃するのであれば、それは社会的弱者を排除する論理と根本的なところで何も変わらないのではないだろうか。

排除を肯定するつもりは毛頭ない。
しかし、そうした弱さを抱きしめられるような余裕のような何かが、今の社会には決定的に欠けているように思う。
この弱さという悪は、決して無くなることのない、私たちが共存していかなければならないものだと思う。

その弱さを肯定できるのは、おそらく「強さ」ではなく、もっと根源的な何かなのではないだろうか。
強弱の二元にこだわっている限り、解決の糸口は見えてこないように感じるのだが、かといって確からしいものもつかむことができない。

ひょっとして、霊性とか超越性とはそういったものなのかもしれないが、今の自分にはよく分からないので、時間をかけながらゆっくりと探していきたいと思う。

2015年5月26日火曜日

稲葉剛『生活保護から考える』2013

生活保護について、僕らはあまりにも知らないのかもしれない。
勉強してみようと思ってまず手にとってみた本書は、とても勉強になり、ぜひとも他の人に勧めたい良書であった。


著者の稲葉氏は以前一度講演会でお話を聞いたことがあるが、非常に理知的な佇まいでありながら、その奥底には強い想いを秘めていることを伺わせる淡々とした話しぶりが印象的な方だった。

本書では、近年の生活保護を取り巻く様々な状況を踏まえながら、生活保護をめぐる問題について考察している。

主なトピックとしては、2013年に閣議決定された、第二次安部内閣による生活保護基準の引き下げ、福祉事務所における「水際作戦」問題、2013年に国会に提出された生活保護法改正案、その中でも特にとある芸能人の親族が生活保護を利用していたことから議論を呼んだ扶養義務強化の問題点などについて考察されている。

到底ここでは書ききれないような様々な角度、データから、上記の問題を丁寧に論じている本書の文章は、心打たれるものがあった。
もちろん、生活保護受給者の当事者の声といったエピソードも盛り込まれているが、全5章のうちの1章に充てられており、むしろそれ以外の部分ではそうした「お涙頂戴」的な表現を極力避けているようにも思える。

それは、稲葉氏の「可哀相だから助ける」という考えに対する反感から来ているのではないだろうか。
日本の貧困に関する報道は、不正受給者などに対するバッシングなどが中心であったが、中にはそうした貧困にある人々の困難さを視聴者に伝えようとする報道もあった。
だが、そうした報道であっても、殊更に「可哀相」に見えるような演出がされてきたのではないか。

しかし、稲葉氏が述べるように、「可哀相だから助ける」というのは、「可哀相に見えなければ助けなくてもよい」という考え方と表裏一体である。
「可哀相だから助けるべきだ」という言説が強まれば強まるほど、生活保護を受けているのにスマホを持っているとか、外食をしているといった事例(決して生活保護法に違反しているわけではない。詳しくは本書を参照のこと)に対する圧力が高まる。

稲葉氏はまた、そうしたバッシングの背景にある心理について、シベリア勾留を経験した詩人石原吉郎の「弱者の正義」という概念を持ちだしている。

石原によれば、強制収容所の中で、勾留された日本人たちのなかで鋼索を研いで針を作り、それを密売することでパンを得ていた者達が居たが、それが広まりにつれて、内部からの密告が相次いだという。
彼らは、自らの生き延びる条件には何の変化も無いにもかかわらず、自分の不利を叫ぶよりも、躊躇なく隣人の優位の告発を選ぶのである。
これに似た状況が、今の日本でも起きているのではないかというのが稲葉氏の仮説であると思われる。

「自分たちを取り巻く社会環境を主体的に変えることは不可能だ、と感じる人が多数を占めれば、その社会は「人間不信の体系」となり、「隣人の有意の告発をえらぶ」人が増えるのではないかと私は考えます。そして、隣人が実際に「有利な条件」を手にしているかどうかに関係なく、「優位」に見える人々は正義の名のもとに攻撃されるのです。」(p.200 

本書は、長年このような問題に真摯に取り組んできた想いと知見を元に書かれた、非常に質の高い作品である。
一方で、自分自身にまだこうした社会保障制度に対する知識、理解があまりにも欠けているため、客観的に判断がつかない部分も多くある。

特に、新自由主義的改革における「経済成長こそが結果的に弱者を救済する」というテーゼについて、しっかりと学んだことは無いし、確かに社会保障制度を稲葉氏の言うように十分なものへと改善した場合、その財源はどこから来るのか?という疑問は残る。

ひとまず、日々の合間を縫ってこうした問題について学んでいきたいと思う。

ちなみに、もし何かおすすめの書籍や論文などあれば、教えていただけると幸いです。

2015年5月25日月曜日

「教育の多様化」は手段でしかない

多様な子どもに合わせた多様な教育を展開すべきである、という言説について。

教育に熱い思いを持っているとされる人たちにおいて、上記の言説は広く支持されているように思う。
しかし、教育社会学的には、「教育の多様化」を推し進めることのリスクはよく語られてきた。

教育の多様化を進めることの問題点は一言で言ってしまえば、「強い者が得をする」ことにある。
選択肢が多様になれば、その選択肢の幅の広さ、それぞれの選択肢をとった場合のメリット・デメリットをしっかりと把握している者にとっては、選択が与えられていない場合よりも満足度の高い解を見つけ出せる確率は高くなる。

しかし、そもそも情報を持っていない、情報を得る術を持たないような人々にとっては、最適な選択肢を選べる可能性はむしろ低くなる。質が高いとされる選択肢は、「強い者」によって選ばれやすくなるからだ。

結果として、格差の拡大、固定化が進む。
選択肢の多様化は、最終的に自己責任論へと帰属させられるのである。
「より良い選択肢があったはずなのに、それを選べなかった個人が悪い」という論理になってしまう。

では画一的な教育で良いのか、と言われれば、それはもちろん別の問題を孕んでいる。
一人ひとりに合わせた教育が必要になる場面は間違いなくある。
しかし、少なくとも「教育の多様化」は、これまでの教育で報われてこなかった人々を救うものではなく、その中でもごく一部の「強い」マイノリティを救うだけの改革になる危険性がある。

僕は実際に子どもを個別に指導しているとき、その子に合わせた指導を自分にできる範囲で模索する。
子どもが変われば、またその子に合わせた形で指導を変える。
他でもない自分自身がその子の前に立つのであれば、その子にとって最も良いと思われる教育を模索し、実践することが自らの教師としての責任だと考えるからである。

つまり、実際には「多様化」は理念ではなく、手段に過ぎないのである。
その子にとっての最善を考えるから、教育手段が多様化するのであって、多様化すれば最適なものが見つかるわけではない。
どのような教育をすべきか?という当為をやはり考えなくてはならない。その目的を達成するための手段などは、文脈に応じて変えていけば良いのである。

ここにきてカビの生えたような「当為論」かと思う人もいると思われるが、個人的にはこれは外せないところだと思っている。
そしてひょっとしたらそのあたりの端緒を開くのは、シュタイナーの「精神の自由による教育」という捉え方なのではないかと考えているが、そのあたりはまた別の機会に書いてみたい。

2015年5月22日金曜日

フリースクールの公教育化について個人的備忘録

フリースクールの公教育化が騒がれているが、個人的に前々から興味を持っていたテーマだったので、この機会にまとめてみることにする。

フリースクールの公教育化は、2014年8月の教育再生実行会議の第五次提言を受け、2015年1月から文部科学省が有識者による検討会議を設置するなど、動きが活発化している。
超党派の議員連盟による「多様な教育機会確保法」法案の提出も同時並行で行われた。(2015.5.22付 朝日新聞デジタル版http://www.asahi.com/articles/ASH5M55LQH5MUSPT00D.html)

フリースクールの公教育が進められているのは、もともと不登校問題への対応を中心としてフリースクールが広まっていった結果、不登校児は約11万人にものぼり、正確な数は不明であるがフリースクールの数も全国で400~500程度と、無視できない規模の子供が現状の公教育システムから逸脱していることが背景としてある。

また、フリースクールが一般に抱える問題として、経済面での困難があり、保護者に高額の学費を強いることになったり(二重学費)、スタッフ不足などの問題が常態化している。そこで、現場からは公的な支援をフリースクールへと導入することの必要性が長らく叫ばれてきた。

一方で、フリースクールを公的な支援下に置くということは同時に、フリースクールが公的な規制と評価を受けるということでもある。ここに、フリースクールの持つ自主性や独自性、自律性が、質保証のための規制や評価の目によって侵害されないかという懸念が生まれ、重要な論点となっている。



土方由起子(2011)「フリースクールの公教育化についての検討:「多様化」言説の陥穽」では、こうしたフリースクールの公教育化は、不登校支援に対する新しい方向性であると意義を認めつつも、フーコーの「近代化装置」という概念を援用し、「装置」から逸脱した存在であった不登校が、「既存の学校に復帰しなくてもよい」という「恩恵」を与えられることによって、再び「装置」の中に回収され、結局子供たちが「規格化」されてしまうという恐れがあることを論じている。
特に興味深かったのは、フリースクール側からの公教育化を求める背景にある理念として、「多様な子供のための多様な教育」があり、これは1980年代以降の様々な新自由主義的改革に通底する「教育の多様化」と結びついているという指摘である。「子どものため」という大義名分の下で、公教育における親の「選択」の余地が広がった結果、そうした選択の責任が親に帰せられてしまうという指摘は、真摯に受け止めなくてはならない。

武井哲郎、金志英(2011)の「公教育の担い手として認められるということ―日韓のオルタナティブ・スクールを事例として」では、実際に公的な認可を受けたオルタナティブスクールの事例について、日韓それぞれの学校に対するインタビュー調査で比較しており、公教育化によって教師や親に変化があらわれてきていることを示した。

永田佳之(2005)の「オルタナティブ・スクールと教育行財政に関する国際比較―質保証と公費助成の分析を中心に―」では、諸外国のフリースクールに対する公的支援を類型化している。中でも、積極的な経済的支援を行いつつも、フリースクールの自律性や独自性を最大限保証するような評価、規制の在り方を実現しているデンマークの事例は特記に値する。


このように概観すると、フリースクールの公教育化は様々な問題をはらんでいることが分かる。
しかし、個人的には賛成したい動きでもある。
アクティビズムの視点から捉えれば、既存のシステムに包摂されなかった層が、システムを変革しようと訴えかけた結果とも見ることが出来る。
もちろん、土方が懸念するような「近代化装置」への回収という視点も忘れてはならないが、回収されていく層は同時に「装置」を変革していく積極的な主体でもあるはずだ。
少々楽観的にすぎるかもしれないが、僕は可能性に期待してみたい。

公教育もまた、再帰的に自己組織化するシステムとして構想されるような時代に来ているのかもしれない。

2015年5月15日金曜日

社会課題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?

現在の仕事の関係上、社会問題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?という問いについて考えている。
「当事者意識(オーナーシップ)がある」とは一体どのような行動から判断されるのだろうか?

ここでは当事者意識の定義は、「自身がその課題や現象、状況に対して関係している、責任をもっているという自覚」のことを指すものとする。

当事者意識という言葉が暗に想定しているのは、「客観的に当事者であるにもかかわらず、その自覚がない」「客観的には当事者ではないが、主観的には当事者であると自覚されている」という2つの状況である。

前者の場合、例えば自分の与えられた業務、責任を全うできていない時に「もっと当事者意識を持ちなさい」と言われることになる。
逆に言えば、当事者意識を持っているということはこの場合、「定義された業務をそつなくこなし、目標をしっかりと達成する」ことである。

後者の場合興味深いのは、客観的には当事者ではないため、「当事者意識を持て」という言明は生まれてこないことである。「当事者意識を持って欲しい」としか言うことはできない。
例えば、会社内の別の部署の成績にまで当事者意識を持つのは通常は難しいし、会社もそれを強要することはできない。
もしそれが要求されるのであれば、与えられる権限と報酬も妥当な水準に高められる必要がある。

後者の用法で目指されているのは、「役割を越えた協働」である。
「役割を越えた協働」では、与えられた権限、業務の範囲を越えたところにまで、自責的な意識を持つことで、与えられたものをただこなすだけではたどり着けない成果を生み出すことが意図されている。
この場合、「当事者意識がある」という状況はどの程度「本来の役割を越えた範囲で全体へ貢献できているか」ということになる。

問題は、こうした「役割を越える」ことが過剰に礼賛された結果、本来やるべき「役割」が疎かにされることである。
例えば、マネージャーが飲み会などのイベントを沢山企画してくれたり、勉強会などに頻繁に出席して役立つ知見を紹介してくれたりしていても、肝心のマネジメントを怠っていたらそれは本末転倒であり、むしろ最初に述べた責任感的な当事者意識が欠けているといえる。

こうした事態が起こるのは、スコープがしっかりと定義されていないことに要因がある。
与えられた責任がまず明確に定義されていないと、そこをしっかりと「越える」こともできないのである。


冒頭に述べた社会課題への当事者意識、という文脈で考えるならば、社会の成員としてまず成すべきことをしっかりと成すということ、成すべきことはなにかということを明確に自覚することなしに当事者意識が健全な形で働くことはないのではないかと思う。

ソーシャルビジネスの文脈では、やりたいこと=ビジョンが最も重要なものとして語られることが多く、「あなたのやりたいことはなにか?」という問いが溢れている。
確かにビジョンがなければ、役割をどう越えるかという方向性が決定されないため、ビジョンは重要である。
しかし、それと同時に問われるべきは「自身は何を成すべきか?」という問いではないだろうか。
自身が成すべきことはなにか?という問いに明確に答えられない人間には、やりたいことなんてものは単なるお伽話でしかないように思えてならない。

2015年4月27日月曜日

「メンタルモデルは暴くべき」というメンタルモデルについて

メンタルモデルと聞くと、とりあえずそれを暴き立てることに注力するようなことは無いだろうか。
メンタルモデルとはごく簡単に言ってしまえば固定観念であり、固定観念に則って何かを認知し、判断することは正すべきことであるかのように語られることがままあるように思う。

『学習する組織』の著者、ピーター・センゲは、メンタルモデルについて、学習を阻害する大きな要因であると述べつつも、むしろその力を学習を促進するために使えないかという提起をしている。
また、センゲによれば、「メンタルモデル自体が良いとか悪いとか言っているのではない」。

本来、メンタルモデルというものは、人間の認知を助けるような働きを持っている。
それは学習の成果であり、メンタルモデルを利用することで、認知と判断に関わるコストを減らすことができる。
また、メンタルモデルは思考を規定するものであるから、メンタルモデルをうまく利用することで特定の状況における学習を促進することができる。
センゲが言及しているのも、こうしたメンタルモデルの正の側面の積極的利用についてである。


しかし、メンタルモデルは確かに学習を阻害する要因にもなりうる。
学習というものを自らの既存の世界観の地平を越えることであると定義するならば、まさにその地平を強固に形作っているものがメンタルモデルであるからだ。
その境界が強固であればあるほど、それを越えるのは苦労を要する。

例えば、「他人に対してNOを言うと、その人に嫌われる」というメンタルモデルを持っている人は、なかなか他者に対してしっかりと拒否を伝えることができないということがある。
そうした人に対して、いかに論理的に他者に対して拒否を伝えることが必ずしもその人に嫌われる結果を生まないということを説得しても、根本的なメンタルモデルを変容させることは難しい。

というのも、そもそもメンタルモデルというものは普段自覚されないものだからである。
前述したように、メンタルモデルは私たちの認知のプロセスの一部を無意識的に行うことでメリットを生み出しているので、自覚されないことが当然である。

従って、本質的な学習の第一歩目は、メンタルモデルの自覚から始まる。
越えるべき境界をしっかりと捉えることが、肝要なのである。


以上のような理由から、メンタルモデルというものは一般に明らかにするべきものであり、特定のメンタルモデルに縛られるということは端的に言って「良くない」ことであると思われがちである。
その言説自体が間違っているとは思わないが、問題はメンタルモデルのデメリットが強調されすぎて、本来メンタルモデルの持つメリットが過小評価されてしまうことにある。

センゲが『学習する組織』で提唱していることを自分なりに意訳するならば、「メンタルモデルの影響というのは逃れ得ないものであるのだから、その影響を出来る限り自覚的に最大化しよう」ということである。

あらゆるメンタルモデルに囚われずに現実をありのままに見つめるということは、困難を極める。
そうであるならば、特定のメンタルモデルに依拠してしまう事実を受け入れた上で、可能な限りそれに気づきつつ、どのようなメンタルモデルを持てばより学習が促進されるのか、と問うべきだ、ということである。
すなわち、『学習する組織』はより良いメンタルモデルを築き上げていく方法論なのだ。


メンタルモデルを暴くことが目的化してしまうと、そこに残るのは危機に晒されたアイデンティティと、固定観念に囚われずに世界を見ることができるという幻想に囚われた傲慢な自己のみである。

絶え間ない学習には、虚構に気づきつつ、それを積極的に乗り越えようとしていくような在り方が必要とされているのではないだろうか。

2015年4月8日水曜日

【イベントレポ】「かわいそうだから助ける」への疑問と地域の可能性について

先日参加させていただいたイベントの感想と考えたことについて。

こちらのイベントに参加してきました。
http://www.earthday-tokyo.org/2015/04/02/2175

講師は、一般社団法人つくろい東京ファンド代表理事/自立生活サポートセンター・もやい理事の稲葉剛さんと、NPO法人豊島子どもWAKUWAKUネットワーク理事長の栗林知絵子さん。

就労よりもまず入居を支援することの必要性


稲葉さんは、ホームレスを中心として、湯浅誠さんらと共に長年貧困問題に取り組んできた方である。
そのお話では、住まいの支援が如何に重要かということを強調されていた。
一般に、貧困問題というと就労支援が主な支援としてクローズアップされることが多いが、それよりもまず住まいをしっかりと確保することが何よりも肝要であるという。(ハウジングファースト)

その理由は、まず、住宅が無いということは生死の問題に直結するということがある。
冬の厳しい寒さの中、野宿を強いられることは、特に高齢のホームレスの方にとっては軽視できない危険なことである。
実際に、稲葉さんはホームレスの方々に夜、声をかけて回って安否の確認をする夜回り活動の中で、救急車を呼ぶ事態に出会ったことがあるという。
過去の稲葉さんの調査によれば、そうした路上生活者の死者数は新宿区だけで年間40人程度にのぼることもあったらしい。

また、路上で生活するまでは行かずとも、審査に通らず住宅に入れないためにネットカフェや脱法ハウスに住む人々も存在する。(東京都ではネットカフェ規制条例によって、現在は脱法ハウスを利用する人が多いようだ)
しかし、実際のところネットカフェなどに一ヶ月宿泊し続けると、月5万円程度と決して安くない費用がかかる。
つまり、こうした通常ではない住環境にいること自体が、貧困から抜け出すための足かせとなってしまっている。

年越し派遣村で話題になった派遣寮も、不安定な住環境である。
こうした派遣寮は、派遣社員を募集する際に、住宅や家電付きであることを売りにして募集をかけるため、応募する人々はそうした支援を期待して応募する。
しかし、ひとたび景気が低迷し、「派遣切り」が行われると、こうした寮を寝床としていた人々は住居を失う。
また、こうした派遣寮は、社宅とは違い、家賃も相場並で結局働いた分の多くを家賃にとられてしまう仕組みになっていたり、家電の利用料が設定されていたりと、決して恵まれた環境ではない。

こうした人々の中には、精神的、知的な障碍を持つ人々も一定数いる。
全国的に空き家、空き部屋が増加し、有効に利用したいと考えるオーナーは多いにもかかわらず、そうした人々とは契約したくないと考える人は多い。

「かわいそうだから助ける」の問題点

印象的だったのは、「かわいそうだから助ける」という意識の問題について稲葉さんが語っていたことである。
生活保護や貧困の問題は、テレビ番組などではその「かわいそうさ」を強調するような報道が主流であり、「かわいそうだから支援すべきだ」という考え方が日本ではどこか根強いように感じられる。

しかし、「かわいそうだから助ける」というのは、「かわいそうじゃなかったら助けなくていい」ということと表裏一体なのではないかと稲葉さんは言う。
ある芸能人の母親が生活保護を不正に受給していたというニュースが、連日のように報道されて多くの人々がそれに便乗したように、かわいそうに見えない人が不正に支援を受けることに対して日本人は非常に怒りを感じるのである。

だが、生活保護の捕捉率は依然として2割程度という低い水準であり、助けられるべき人の多くは支援を受けられていない。
そもそも、健康で文化的な最低限度の生活が保証されるべきなのは、そうじゃないと「かわいそう」などといったロジックの次元ではなく、人権の観点から成立している普遍的な原理である。

確かに、税金を無駄に使われているのだから、不正受給に怒りを感じるのはもっともだ。
しかし、生きることを保証するというのは、それ以前の問題である。
生活保護を受けることは恥だとおもうべきだと述べた政治家が居たらしいが、恥ずべきはまず我々の人権意識の未熟さではないだろうか。

また、こうした問題に取り組む人々も、「かわいそうだから助けるべき」というロジックで訴えかけていないか、自戒を込めてしっかりと省みる必要性があると思った。

「地域の子どもは地域で育てる」

もう一方の講師、栗林さんは、豊島区池袋で子どもの支援をされている。
無料学習支援、プレーパーク、子ども食堂という3つの事業をされていて、子どもをとりまく問題について幅広い角度から支援を行っている点が素晴らしいと感じた。

設立からまだ4年程度と短い時間しか経っていないにもかかわらず、包括的に支援を実施できている理由は、栗林さんの行動力と、地域という枠組みのポテンシャルだと思う。

もともとは栗林さんが地域のある子どもの受験勉強を手伝い始めたところから、活動は始まった。
勉強を教えるために、大学生が必要だから知り合いの大学生に声をかける。
地域の子どものことは、地域で支援するという考え方から、地域の人々からカンパを募って受験のための資金を集めた。

もちろん実際にはもっと多くの苦労や過程があったのだと推察されるが、簡単に言ってしまえばそうした活動が地域の人々の共感を呼び、巻き込み、いつしか団体設立ということに繋がったのだと思われる。

地域の中から弁護士や精神保健福祉士といった専門性を持つ人々がゆるやかにつながり、各々のできることを活かして支援が広がった。
安いお金で子どもたちに健康でバランスのとれた食事を提供する子ども食堂も、地域の人々からの申し出があって場所を確保することができたとのことである。


こうしたモデルは、この先もっと広がっていくのかもしれないと感じた。
「地域の子どもを地域で育てる」という考え方は、実は理にかなっている。
無縁社会と呼ばれるような現代社会、ましてその象徴とも言える池袋という都会の地で、こうした社会を結び直すような試みが着実に成果を上げていることは、大きな希望の光だと思う。






2015年4月2日木曜日

H.R.シャファー『子どもの養育に心理学がいえること』1990

「家族の貧困は、子どもの発達に影響するか?」「最初の愛着形成はいつまで遅れて良いか?」
といった、発達心理学から、子どもの養育についてどんなことが言えるのか?という興味を持っている人にとって絶好の入門書だと思った。

上記にあげたような20のテーマについて、信頼できる研究を並べ、学術研究としていえる書かれた時点での結論を慎重に述べている。
ただし、扱っている段階は乳幼児、児童期にどちらかというと比重がおかれている(もちろん縦断的な研究も数多く含まれるので、青年期や成人期について言及している箇所は多くある)


概してこうした研究から得られる示唆は、必ずしも臨床の場においてはっきりとした問題解決の方針を示してくれるわけではなく、十分な追試が行われていない研究を確たる証拠のように扱ったり、研究の結論を拡大解釈したりしてしまう風潮に対して、最初に注意を促している。
その点でも、僕のような初学者にとってはみだりに衒学的になることを戒めてくれる良書だと思う。


残念な点としては、書かれた年が1990年(その後1998年に大幅に増補した二版が発行され、本書はこの二版の訳である)であるため、2015年現在では、さらなる知見がもたらされている可能性がある。

しかし、心理学にかぎらず、こうした研究はいくつもの実証研究によって支持されることで初めて基本的事実として合意されるのであり、書かれた時点で過去の大量の研究から信頼できる示唆を得ている本書の価値は、さして変わらないと思われる。

特に興味深かったのは、様々な子どもの不健全な発達における、環境―素因という古典的な対立に対し、積み上げられた研究はいずれも環境と素因(気質)の組み合わせから要因を考えなくてはならないことを示していることである。

これは現場に携わる者としてはすなわち、子どもの可能性というものを信じる拠り所であり、同時にまるで全ての責任を親、特に母親に帰属させることを強く戒めるものである。

愛着形成がうまくいかなかったからといって、全ての人が愛着欠損性格になるのではない。
また、乳児期、幼少期のトラウマ体験も、その後の家庭環境次第で影響は克服されうる。

明快な結論を求める人にとっては、どこか釈然としない話かもしれないが、結局それぞれの分野、段階で子どもの発達に携わる人々が、それぞれやるべきことをやるしかないということなのである。
そしてそれは、決して悲観的な結論なのではなく、それぞれの仕事に十分に意味があるという未来ある啓示なのである。

厳密な科学的知見というより、なんだか勇気を貰えるような本である。

2015年3月27日金曜日

【イベントレポ】「学びに困難を抱える子どもたちを支えるために―エクストラレッスン その理論と実践」

掲題の講演に参加してきたので、学びをメモしておく。

まず、エクストラレッスンについては、イベントの告知文から説明を抜粋すると、下記のようなものである。

エクストラレッスンは、1960年代、イギリスのシュタイナー学校の教師をしていたオードリー・マカレンが、学習に困難を抱える子どもたちを助けるために開発し始めたもので、ルドルフ・シュタイナーの「全人的な人間の発達という視点に立ったこどもの教育」に基づいています。こどもの幼少期の発達が、その後の学習や行動そして振る舞いにおける基礎を築くという視点に立っています。エクストラレッスンでは、宇宙や自然界にあるフォルムの動き、重力と拮抗する床での動きを取り入れたエクソサイズや治癒的な働きのある水彩などを繰り返し行うことで、こどもたちのポディジオグラフィー(身体的認識)と空間認識を育て、感覚の統合を助け、こどもの意志を伸ばし、その能力と個性の開花を促し、ホリスティックに子どもの困難に治癒をもたらします。

講師のマリアン・ジャッド氏は、オーストラリアで臨床心理士、エクストラレッスンプラクティショナーとして20年ほど活動し、教職経験に加え、エクストラレッスンについての論文で博士号も持っているなどプロフェッショナルの方だった。

午前の部では主に「学習に困難を抱える子ども」とはどのような子どもたちなのか?なぜ困難を抱えるようになったのか?といった話が中心であり、午後は質疑応答、エクストラレッスンの概要、実践の一部を体験するワークショップ、ジャッド氏のPHT法によるアセスメントの研究についてなどを学んだ。

学習に困難を抱える子どもたち

エクストラレッスンが対象にしている「学習に困難を抱える子どもたち」は、端的に言えば、ADHD、軽度の自閉症スペクトラム障害、ディスプラクシアの子どもたちのことである。
どれもはっきりとした要因は分かっていないのが現状だが、有力な仮説をもとにして簡単に説明すると、下記のようになる。


ADHDは前頭前野の発達遅延により、情報や運動の統合機能が適切に働いていないために、知能は正常にもかかわらず、多動や注意力散漫などが観察される。

軽度の自閉症スペクトラム障害とは、一昔前でいうところのアスペルガー症候群であり、社会性の欠如や常同的行為が観察される。

ディスプラクシアは、計画的な行動や順序立てたタスク処理、文字を書くなどの微細な運動に困難を抱えている。
(オーストラリアでは2006年の調査で学校に通う子どものうち約22%の子どもがディスプラクシアであり、その多くは病識がないあるいは適切な支援を受けられていないとのこと)


こうした子どもたちは、例えば聴覚でいうと本来ならば気にならないような音まで聞こえてしまう「聞こえすぎ」の状態にある。
情報に適切な意味付けができないため、情報過多の状況となり、常にストレスを感じて疲れやすくなったり、イライラしたりしてしまう。

これらの困難は、基本的に感覚処理に障害があることが分かっており、7歳までに健全な発達を完了してこなかったことが深く関わっている。
こうした考え方は、神経系の可塑性(neuro plasticity)という、感覚・運動刺激が脳の発達に影響をおよぼすという概念にもとづいている。
つまり、適切な刺激や運動によって、適切な神経系の発達が起こってくるという考え方である。
したがって、エクストラレッスンはまさにその核となる感覚処理に働きかけるものとして開発された。

シュタイナー教育では、発達を7年ごとに捉え、最初の7歳までの段階では、肉体の発達が重要であるとされている。
ジャッド氏もこれを支持し、この最初の7年の発達が健全に行われることが、その後の学びを円滑に進めるための土台となるということを繰り返し述べていた。

原始反射(primitive reflex)

では、健全に発達してこなかったとはどういうことだろうか?
ジャッド氏によると、それは原始反射が適切な時期に抑制、完了せずに残存したまま年を重ねたということである。

原始反射とは、脳幹によって自動的に引き起こされる身体の運動反応であり、基本的に生まれた時点ですでに幼児は獲得している。(胎内にいるうちから原始反射は始まっている)

例えば、下記のようなものがある。

・モロー反射
大きな音などに対して、闘争または逃避行動をとるための反応として現れる。
自律神経の発達に関わっているとされるため、免疫の強さや消化機能、バランス感覚、空間認識などの能力に関係してくる。

・ATNR
乳児の顔の向きに応じて、腕と足が進展する反応で、視覚系の発達に関係する。

・前方TLR
うつぶせの時に、腕で状態を支え、頭が水平になるように保とうとする反応。
ハイハイするための基礎となる。


こうした原始反射は、発達とともに抑制され、大脳皮質の理性によって行動を制御できるようになるが、適切に完了しなかった場合、先に述べたような発達障害などを引き起こすことがあるという。
また、原始反射の次に姿勢反射と呼ばれる姿勢を保つための運動能力が発現してくるが、ここにも影響を与える。
このため、エクストラレッスンはなるべく早い段階で受けた方が良いとジャッド氏は述べていた。

エクストラレッスンでは、こうした原始反射が残存しているかどうかを厳密なアセスメントによって測定し、残存している段階から支援を始める。

エクストラレッスンについて

エクストラレッスンは、まず厳密なアセスメントから始まる。
アセスメントは、プラクティショナーだけではなく、栄養士や検眼士、オステオパシーの治療師などと連携して行われる。

アセスメントは、まず比較的学校での振る舞いに関連する領域から行われる。
というのも、保護者が子供を連れてくるのは、ほとんど学校での振る舞いに何かしらの問題があるとされたことによるからだ。
具体的には、読み書き計算、友人関係、感情面などを評価する。

次に、原始反射の残存具合、姿勢反射が適切に発揮されているか、運動の質、バランス感覚、日々の健康状態、疲れやすさなどを見る。
また、成育歴や出生時および胎内にいるときの様子までヒアリングするようだ。
更に、簡単な視覚検査や聴覚検査、眼と手の協調性、利き手側の身体の統合性、微細運動、粗大運動の質、ボディジオグラフィー(身体の部分の位置関係の認識)などを検査する。
アセッサーとのコミュニケーションから、対人関係能力についても同時にアセスメントを行っているようだ。

こうした複数の領域に渡る厳密なアセスメントを経て、エクストラレッスンは、個々人に合わせた形でプログラムが組まれる。
こうしたアセスメントは、おおよそ20週間ごとのスパンをおきながら、繰り返し行われる。


エクストラレッスン自体は、週に一回のセッションであり、レッスンの無い日には、子供に合わせた宿題が出される。宿題といっても、ドリルのようなものではなく、基本的に運動である。
保護者の状況などで宿題をやり続けるのが難しい場合は、セッションを週2,3回に増やすなどの柔軟な対応をとることもある。

エクストラレッスンによる効果が上がり、完全にレッスンを完了できるのはおおよそ1年程度とのことである。しかし、近年では、子どもをとりまく問題が深刻化したことで2年ほどかかることが多くなっているらしい。
後述するが、特に聴覚的な刺激の質は現代において随分低下しているようで、主に運動面から働きかけるエクストラレッスンに加えて、聴覚にフォーカスした「リスニングセラピー」を併用することでより有効な改善が見られるようである。

エクストラレッスン成功の鍵は、まず子どもとの信頼関係を構築すること。
そして、適切なハードルのチャレンジ(リスク)を子どもに課し、成功体験を沢山積ませることだとジャッド氏は言っていた。

現代の子どもたちをとりまく問題

ジャッド氏は、現代の子どもたちをとりまく問題についていくつか述べていた。

・「選択する」という環境の増加
ジャッド氏は、幼少期の頃から、「何食べたい?」「どこ行きたい?」というように、子どもに選択を迫るようなことが現代では増えているという。
こうした選択は、まだ幼い子どもにとっては十分な決定を下すには圧倒的に情報不足であることが多く、大人がするべきことは状況にふさわしい決定を子どもに見せることであるという。

・好き嫌いの激しさ
これは、味覚の感覚が過敏になってしまっていることに関係があるのではないかとジャッド氏は述べていた。
味覚を過敏にするのは、加工食品などの過剰摂取によるところが大きい。
また、砂糖中毒とも呼べるような状況も多く見られるが、砂糖を摂取することで刺激される部分はコカインのそれと同じであることから、「子どもを麻薬中毒者にしたくなければ砂糖を減らしなさい」とジャッド氏は冗談めかして保護者に伝えるらしい。

・感覚刺激の強さ
テレビや、ボタンを押すと激しく音のなるおもちゃなどの視覚、聴覚刺激は、生まれて間もない子どもにとっては刺激が強すぎるそうだ。
そうした強い刺激を受けてしまうと、適切な発達に結びつかず、発達遅延を引き起こす恐れがある。
ジャッド氏によれば、2歳までテレビからは子どもを遠ざけた方が良いとのことである。


得られた示唆・感想

・厳密なアセスメントの重要性

「子どもはその子なりのスピードでしか発達できない」とジャッド氏は語る。
エクストラレッスンが効果を上げている最大の要因は、実は厳密なアセスメントによって、その子に最適なプログラムを提供していることなのではないかと感じた。
また、そうした子ども一人ひとりのために、専門家のあいだで連携体制がしっかりと構築できているところも、非常に先進的だと感じた。

子どもの発達に目を向けるということは、一人ひとりの子どもにとって最適なものを探り出そうとす
る子ども目線の教育の発展形である。

良い教育とはなにか、という問いは延々と議論され続けているが、多様な方法論の優劣よりも、そもそも徹底的に子ども目線に立とうとするその姿勢を何よりもエクストラレッスンから学ぶべきではないだろうか。
我々は「この教育は良い」と評価する際に、どれだけ子どもに着目しているだろうか?
子どもの感覚処理や幼児期からの成育歴までさかのぼって子どもへの効果を追求できているだろうか?
新しい、流行に乗った教育というだけでそれを賞賛するのは、大人たちの自己満足なのではないだろうか?


・「7歳までの発達が、その後の学びの土台となる」

これはジャッド氏が繰り返し述べていたことである。
幼児教育が学力に対して非常に大きな要因を持つことは現代ではほぼ基本的に合意されている事実であるが、この言葉が印象に残っているのは、現場で子どもを真摯に観察し続けてきたプロフェッショナルとして断言していたからだと思う。


・公教育への導入の難しさ

先に書いた厳密なアセスメントの負の側面として、コストの大きさがある。
一人ひとりの子どもに最適なものを見つけようとすればするほど、教育にかかるコストは膨大なものになる。
その意味で、エクストラレッスンにかぎらず、子ども目線からの教育はなかなか公教育で広げていくのが難しい。

しかし、この問題には解決の糸口もある。
一つは、それでも現場で多大な努力をし、成果を上げている教員の方が存在すること。
また、テクノロジー的な進歩(現状のe-learningを指しているわけではなく、可能性として)や、そもそもの教育にかかるコストという考え方についての転回によって解決できる可能性はあると僕は考えている。これについては後日改めて書いてみたい。

少なくとも、こうした徹底的な子ども目線の教育は、現状の学習指導要領に基づいた日本の公教育に対する強力なアンチテーゼであることは間違いないのではないかと思う。



簡単ではあるがメモをまとめてみた。
実際には、エクストラレッスンの実践の一部を体験させていただいて、自分の身体感覚が実は意外と統合されていないことに気付かされたり、ジャッド氏の博士論文のテーマである「PHT法によって、学びに困難を抱える子どもを見分ける事ことができるか?」という発表により、オードリー・マカレンの発達論が実証的に支持されることを話していただいたり、わざわざ東京から行った甲斐のある非常に学びのあるイベントだった。

一方で、脳科学や精神医学、臨床心理学、幼児教育学などの知識に乏しいために、話された内容を十分にクリティカルに検討できないことは歯がゆく感じた。
エクストラレッスンやブレインジムのような感覚運動を重視する教育法には批判があるのも事実であり、時間を見つけて知識を得ていきたいと思った。

2015年3月15日日曜日

カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論について(2015/3/18修正版)

先日のインテグラル・エデュケーション研究会にて取り上げられたカート・フィッシャーのダイナミックスキル理論が非常に興味深かったので、紹介してみたい。

ハーバード教育大学院のカート・フィッシャーは、新ピアジェ派の発達心理学者である。
理系の研究者であるフィッシャーは、綿密な科学的研究によって、ダイナミックスキル理論という画期的な発達理論を提唱した。

現在、アメリカではフィッシャーに近い理論モデルが主流になっているようである。
例えば、一昨年著者が邦訳されたロバート・キーガンのモデルなどは、1980年代から変化がなく、すでに最先端からは外れているそうだ。
新しいものが必ずしも正しいとか良いというわけではないが、フィッシャーの理論は素直に「より納得の行く」理論だと感じた。

現在フィッシャーの理論で邦訳されているのは、丹精社より出版されている『成人の知的発達のダイナミクス―発達ウェブからのアプローチ』のみであるが、少々難解であった。
インテグラル・エデュケーション研究会の鈴木規夫さんの解説を聞いて多少理解できたので、自分なりにまとめてみたい。

ダイナミックスキル理論は何が新しいのか?


ダイナミックスキル理論の特徴は、大きく分けて2つである。

1つ目は、知性や能力、意識といったものが人間の内面に蓄積されていくという静的な概念から、「スキル」という環境や状況、他者の関わりなどを含んだ文脈に動的な構造で発達を捉える概念へのシフト。
2つ目は、はしご型の発達モデルから、ウェブ(蜘蛛の巣)型の発達モデルへの転換。

このウェブとスキルという2つの概念が、ダイナミックスキル理論を理解する上で肝要となる。

ダイナミックスキル理論が説明してくれるのは、以下のような問題である。

・「昨日できていたことが今日はできない」「先生と一緒に出来ても、自分一人ではうまくできない」というミクロなレベルにおけるスキルの不安定性。

・「高次の意識段階に至っていると思われる人が、低次の意識段階の人に特徴的な行動をとることがある」という一見したところの矛盾。

・そうしたスキルがいったいどのようなプロセスによって成長していくのか?


個人的には、ダイナミックスキル理論は、目から鱗が落ちるような全く新しい知見というより、従来の発達理論が説明できていなかった、あるいは違和感のあった現象や解釈が、よりもっともであると思えるように説明してくれているものだと感じた。

ウェブ状の発達モデル

フィッシャーの発達理論を特徴付けるウェブ状の発達モデルとはなにか?また何が新しいのか?

従来の発達理論は、発達をはしごに例えることが多かった。
発達とは、一段一段はしごを登っていくように起きるものであり、上昇していくことがある種”良い”ことであるかのようなイメージが暗に示されていた。
こうしたイメージのことを、フィッシャーはpre-analytic visionと呼び、このメタファーをまず疑うべきだと述べている。

フィッシャーは、はしごに替えてウェブ(蜘蛛の巣、網の目)というメタファーを提唱している。
一つ一つの線が特定の発達領域をあらわすとして、それらの線が伸びていく中で他の線と結びつき、より複雑で高度なスキルを発揮できるようになるというモデルである。

例えば、紙に線を引くというスキルと、紙を切るというスキルが結びつくことで、我々は工作というスキルを獲得する。
または、論理的思考と、メタ認知のスキルから内省的思考を獲得する。

このようなイメージで発達を捉えると、ある領域において高度な発達段階に至っているとされる人が、別の領域だと低次のパフォーマンスに終始することも不思議ではないといえる。

はしごモデルでは、ある発達領域について、それぞれ単一のリニアな発達段階を想定するため、そうした領域間の相互作用にどうしても目が向きづらいという欠点があった。
ガードナーの多重知能理論においても、複数の領域があるということは主張されても、それらの間の相互作用についてはあまり言及されていなかった。

また、このウェブの形は、生まれ育った環境や先天的な要因から、一人として同じ形になることはない。
どの線がよく伸びていて、どの線があまり伸びていないかは人によって様々なのである。
そのため、発達は個々人独自のものになる。
人によって、ある知識をどのように理解しているか、どんな知識と結びつけているかが異なるという基本的な事実も、フィッシャーの理論に従えば納得しやすい。
既存の発達理論は集団のパフォーマンスから帰納的に導かれたものであったため、常に「例外」として扱われる事例が存在していたが、個人の認知的パフォーマンスから組み立てられるダイナミックスキル理論では、こうした発達の個人差により説得力のある説明を与えることができている。

はしごモデルでは、基本的に発達という現象は「前進/上昇」していくものとして捉えられるが、ウェブモデルでは「広がり」として捉えられる。
スキルを広がりとして捉えることにより、発達はより高次のパフォーマンスを発揮するようになっていくことではなく、課題のレベルに応じて発揮できるレベルの幅を増やしていくことであると説明されるのである。

動的なスキルとはなにか?―スキルと変動性

ダイナミックスキル理論の核である「スキル」とはなにか?
スキルとは、人間の内面的構造と、環境や状況、他者の存在などの文脈が一体となってつくり上げるシステムのことである。

分かりやすく言えば、スキルはそのとき具体的に発揮されているパフォーマンスであり、と同時にそれを可能にする内面的構造そのものである。
文脈依存という意味において、コンピテンシーと少し近いところがあるかもしれない。社会構成主義的な能力観の延長にあるものだと捉えられる。

従来の発達理論では、知識や能力といったものは、人間の内面に蓄積されていくものだと考えられていた。その後、構成主義的な考え方を経て、知識や能力は、文化や社会、環境などの文脈と相互作用しながら構成されていくと考える社会構成主義的な能力感が現在では主流を占めるようになった。

フィッシャーのスキルという概念も、まさに社会構成主義的であるが、更に特徴的なのは、変動性という概念を強調していることである。
スキルが発達するということは、高次のパフォーマンスを常に発揮し続けるということではない。
高次のパフォーマンスを発揮することができるようになるだけであり、実際に発揮されるパフォーマンスはその時々の文脈に応じて変動するのである。

例をあげると、実存的思考段階に至った人は、その日の夕食のメニューを決める際に、「自分の生きる意味はなにか?」ということまで踏まえて意思決定するわけではない。
発達するということは、与えられた課題に対して適切なレベルのスキルを発揮できるということなのである。

従来の発達理論では、高次の発達段階に至るにつれて、発揮されるパフォーマンスは多少の幅はあるものの、全体として高次のものになっていくという重心型のモデルを想定していた。
しかし、フィッシャーのモデルはこうした重心モデルを否定していることになる。

最適レベル(optimal)と機能レベル(functional)

フィッシャーは、発揮されるパフォーマンスのレベルには、支援の有無などの状況の違いによって、差があるとする。
なぜなら、スキルは前に述べたように文脈に依存し、関係性の中で発揮されるからである。

最適レベルとは、支援者による適切な介入がある場合に発揮されるスキルのレベルであり、機能レベルとは、独力で発揮されるレベルである。
定義上、基本的には最適レベルは機能レベルよりも高いレベルのパフォーマンスである。

例えばスポーツのインストラクターに教えられてやっているときに出来たことが、自分一人でやってみるとうまくいかなかったりすることがあるのは、この概念によって説明がつく。

前者は、右肩上がりの波のような発達曲線を描き、後者はゆるやかに上昇していく。
そして、年齢を重ねるごとに、この2つのスキルレベルの差は広がっていくという。

機能レベルのスキルは、最適レベルとを往還していくことで成長していく。
従って、適切な支援者の存在はスキルの発達において重要なファクターとなる。

更に、フィッシャーはscaffolded(手取り足取り、支援者と一緒にやる)、automated(無意識的、身体知的)なレベルも想定しているが、主に焦点を当てているのは最適レベルと機能レベルの2つである。

重要なのは、関係性によって発揮されるレベルは異なるということであり、例えば最適レベルにしか焦点を当てずに発達測定を行うことは、適切な評価にならない可能性がある。

スキルの発達―Backward TransitionとForward Consolidation

では、このウェブとスキルという概念を踏まえた上で、スキルの発達とはどのようなものなのだろうか?
まず、スキルは発達するにつれて単一的、具体的なレベルからより複雑、抽象的なレベルへと移行していく。


料理を例に取ると、具材を切るというスキル、具材を焼いたり煮たりして火を通すというスキル、味付けをするスキル、盛り付けをするスキルというのはそれぞれ独立したシンプルなスキルであるが、これらが結びつくことで一つの料理を作るというスキルになる。

更に、複数の料理を作れるようになると、和食を作るスキル、洋食を作るスキルというように更に高度で抽象的なスキルを獲得する。
個々の具体的な要素から、一般化された法則(例えば根菜は自ら茹でる、鉄鍋は予熱を必要とするなどなど)を獲得していくことでより抽象的なスキルを構成していくのである。

ここまでは、既存の発達理論で説明されている内容とそう大差はない。
しかし、フィッシャーの理論が面白いのは、更にミクロなレベルでスキルがどのように発達するかということを述べている点である。

フィッシャーによれば、スキルは無数の変化する条件を経験するにつれて、安定的なパフォーマンスを発揮できるようになるという。
引き続き料理の例で説明すると、豚汁を作る際に玉ねぎを試しに人参に変えてみるとする。
すると、どうも玉ねぎで作っていたときのようにうまくいかない。

このように、未知の細かな状況の変化に直面すると、スキルは一時的にかなり低次のレベルまで退行するとフィッシャーはいう。
そして、試行錯誤を繰り返す中で、人参は玉ねぎよりも火の通りが遅いという法則を発見し、再びスキルレベルは回復する。

こうした様々に細かく変化した状況を経験していくことで、安定的にその段階のパフォーマンスを発揮できるようになるのである。

プロフェッショナルとはその分野で誰よりも失敗を重ねた人であるという格言があるが、まさにフィッシャーの理論はそれを支持している。

あるレベルにおいてスキルが安定的に発揮されるまでの過程で、スキルの退行現象(すなわちフィッシャーの言うBackward Transition)が起きるということは非常に興味深い。
失敗を繰り返すということはまるで悪いことのように捉えられがちであるが、実際には我々の発達はリニアでただ上昇していくだけのものではないのである。
前にできていたことができなくなったということを非難してしまうのは、教育現場においてもよくあることだが、そうした発言をしてしまう我々のメンタルモデルを疑う必要があるといえる。

あるスキルレベルが機能レベルで安定的に発揮されるようになるのは、次の最適レベルが出現してからはじめて達成される。
これをForward Consolidation(前進への地固め)とフィッシャーは言う。
つまり、最適レベルの段階が上がったからといって、そのレベルのパフォーマンスを安定的に発揮できるようになる(=機能レベルのパフォーマンスになる)のは、しばらく時間がかかる。
一般に最適レベルから機能レベルへの移行に、成人は3~4年ほどかかるとフィッシャーは述べている。

emergence zone

スキルは、頻繁に退行を繰り返しながら成長していくことを前項で述べたが、複数の独立したスキルが結びつくことで、急激な発達段階の成長、すなわち最適レベルの急上昇(スパーツ)が見られることがある。

興味深いことに、この急上昇は、複数の発達領域を横断して並行的に発生する。
この部分をemergence zoneと呼ぶ。

ウェブにおけるいくつかの能力の線がある程度の長さに伸びている様子を想像して欲しい。
それらの線が突然それぞれ結びつき、より高度で複雑な能力が複数の箇所で開花するのがemergence zoneという部分で起きていることである。
認知心理学的な意味での発達段階の上昇とは、このことを指していると考えられる。

こうしたスパーツの発生は、大脳皮質の活動のパターンと相互関連性があるという研究もすでに存在しているようである。

実際に、どんなスキルがどのぐらい成長することでemergence zoneが起きるのか、ということについて詳しいことは分かっていない。
そもそも発達のウェブは個々人によって異なるため、そうした一般的な法則は得られないのかもしれない。

しかし、少なくとも、いわゆる発達段階の上昇というものは、単一のスキルをただ成長させていてもなかなか起こりづらいものであり、多様な発達領域において研鑽を積む必要があるということがここから学び取れる。

まとめ・示唆

以上がダイナミックスキル理論についての僕の理解をまとめたものである。
要約すれば、以下のようになる。

私たちは複数の能力を独立した線として、網の目のように、個々人に独自の形で多方向に拡張していく形で発達していく。
また、そうした能力は、関係性や周りの環境、自分の感情や体調など、様々な文脈に依存しており、常にパフォーマンスは変化しているような動的なもの(=スキル)である。
そうして発達していった複数の独立した能力は、emergence zoneにおいて互いに結びつくことで、次なる最適レベルが出現する。
最適レベルのパフォーマンスは、出現した当初は適切な支援者の介入を必要とし、安定的に発揮できないが、無数の変化する状況を経験していく中で、その都度スキルは退行しながらも、徐々に安定して発揮できるようになっていく。
そうして更に次の最適レベルが出現するときになって、ようやく前のレベルでのパフォーマンスが安定的なもの(=機能レベル)になるのである。


この最先端の発達理論は、非常に示唆に富んでいる。ざっとあげるだけでも、以下のようなことが考えられる。


  • 生涯教育への応用:年齢を重ねるごとに最適レベルと機能レベルの差が拡大するということから、適切な支援者の介入の必要性が重視される。また、emergence zoneでのスパーツは、複数の能力の発達が、認知心理学的な発達において重要であることを示唆する。従って、時代に求められる意識構造を持つためには、単一の領域のみの探究では心許ないものとなる。
  • 退行現象の見方のポジティブな転換:これまでの発達=前進というメンタルモデルの中では、「この前できていたことができなくなった」というのは、失敗や良くないこととして捉えられがちであった。しかし、退行現象がスキルをより安定させ、より高い段階へと発達させるために必然的に起こる現象であるという理解は、例えば教育の場面においてより適切な評価をもたらす。

また、フィッシャーは「発達はゆっくりと起こるべきだ」とも述べる。
実はピアジェは、American problemという「何事も効率的に迅速にやることが良い」という固定観念を批判し、フィッシャーと同様のことを述べている。
しっかりと基礎固めをし、緊密で強固なウェブを作ることで、より大きくウェブを広げることができるのである。
アメリカでは、早期英才教育を受けた人々の発達は途中で停滞し、ゆっくりと発達してきた人はその後も成長し続け、前者を追い抜いていくといった研究結果も提出され始めているようだ。
教育者としては、最適レベルのパフォーマンスをしっかりと引き出すためにも、焦らずに時間をかけて指導するという姿勢が求められるだろう。

不勉強の身であり、しっかりと原典やフィッシャーの他の論文を読み込めていないことは非常に心苦しいが、ひとまず現時点での理解をまとめてみたかったこと、周りの教育に関心を持っている人に紹介したかったことから記事を書いた。
今後、フィッシャーの論文についてはweb上で読めるものも多いので、しっかりと読み込んでいきたいと思う。

参考

Kurt W. FISCHER, Zheng YAN, Jeffrey STEWART, 中川恵里子訳 (2003)『成人の知的発達のダイナミクス―発達ウェブからのアプローチ』丹精社

「発達理論の学び舎」http://www.yoheikato-integraldevelopment.com/(2015/3/15)

インテグラル・エデュケーション研究会 2015年第1回講義(2015/3/14)








2015年3月13日金曜日

僕が「発達」という視点に惹かれる理由

発達理論の難しいところは、ある発達理論もまた、ある発達段階から記述されたものに過ぎないというところである。

「人間の発達は〇〇である」という言明は、話者の発達段階からの見識である以上、話者の発達の程度によってもまたその内容は変化しうる。
例えば、単線型のはしごモデルは、古典的な発達に関するメタファーであるが、これは合理性段階の思考と親和性が高いように思われる。
それに対し、カート・フィッシャーのようなウェブ(網)状のモデルは、人間に発達というものをよりメタに、ホリスティックにとらえている点で高次の発達段階と親和性が高いように感じる。

しかし、最初に述べたように、それもまた、ある発達段階から見た発達論なのであり、どちらかが絶対に正しいという話ではない。
そのように考えると、単一の発達理論に執着することは、それ自体発達に対する理解を欠いているといえる。

つまるところ、あらゆる発達理論は人間の限界を伴った認識にもとづいているため、「そのように発達している」というのは、「そのように発達しているように私が見ている」ということなのである。
そして、見ている私もまた、発達している動的な存在であり、本質的な意味で静的な構造が存在しているわけではない。
発達という概念は、人間が世界を認識するときに使う一つのフレームワークなのである。
世界がそのようにあるのではなく、人がそのように見ているからそう見えるだけであって、そこを履き違えると世界の真実をそこに見たような誤謬を犯す。


それでも僕が発達理論に惹かれるのは、発達という視点は世界に在るものを包摂する考え方であるからだ。一見矛盾しているように見える様々な概念や理論、考え方が、発達という視点で捉えることで全てあるべくしてあったものとして世界に位置付けられる。
それは、自らが個人として世界と対峙しているのではなく、空間的・時間的に世界に織り込まれ、また世界と一つであるという感覚へと至る道である。
発達という視点は、世界を統合するための考え方なのである。

自分が日々生きている世界を丁寧に生きること。目を背けないこと。
その姿勢が、発達していく存在としての自分と、発達していくように見える世界の在り方とを結びつける、人間の本来的な在り方なのではないかと思うのである。





2015年3月8日日曜日

未来教育会議に参加して思ったこと

先日、未来教育会議シンポジウム2015に参加してきたので思ったことをまとめてみる。

まず、本イベントは300名近くの参加者がおり、教育系のイベントにしては規模が大きい。
対象者は教育に興味関心はあるものの、専門にはしていないような一般企業や行政の人、学生などを想定しているように感じた。
博報堂のチームと組んでいることもあり、全体的に「かっこいい」デザインのイベントだった。

教育課題を解決するには、社会全体で取り組まなくてはならない、というポリシーが強く現れていて、直接教育に携わっていない人々でもなんらかのアクションを起こして欲しいという思いが伝わってきた。
日本人は教育に問題意識を持つ人々が多い一方で、いざどのように行動に移すか、というところでなかなかハードルが高い現状がある。そうした意味で、教育関係者を問わず、よりよい教育に向けて多くの人々を巻き込む場があることは、非常に意義深いものだと思う。


さて、一方で批判的に捉えられる事柄もいくつかあった。


まず、圧倒的な「子ども目線」の不足である。
取り上げられる話はLearning for Allを除いて多くの場合「大人達がこんな新しいことをしました!」というお話だった。
子どもたちに実際どのような効果があったのか、ということについても、僅かな評価基準しか持っていない。
リフレクションの重要性について、再三プレゼンされていたが、子どもに対する効果という視点からリフレクションしていないのだとすれば、それは単なる大人たちの自己満足にすぎない。
教育は大人の問題である、ということを強調していたが、それは大人が色々と派手でキャッチーな手法を用いて教育を盛り上げていくということよりも、そうした大人主語の教育改革をまず内省する必要があるということなのではないだろうか。
「自分たちは子どもたちのためになることをやっている」というメンタルモデルを本当に疑い切れているのか、正直なところ疑問に思った。


それに関連して、そうした新しく見える手法の導入が目的化しているのではないか、という点が2番目の懸念である。
リフレクションをすべきだ、ということを声高に主張する人々は、実際には学校に通っている時に質の高いリフレクションを授業で学んできたわけではないが、これまでの人生の中でリフレクション的なものをしっかりと積み上げてきたからその重要性を理解しているという類の人であると思う。
実際的なリフレクションは、リフレクションシートを常に書き続けるようなものではない。
本当にリフレクションできている人は、どんな状況でも無意識に、自然とリフレクションする。
つまり、リフレクションが身体化されているのである。

しかし、「リフレクションを授業の中に採り入れています」ということだけがまるで斬新で画期的なアイデアのように語られている中では、あたかも「リフレクションをしやすくするための工夫」を導入することが成果であるかのように見える。
それはまるで、自転車に乗れるようにするために補助輪をつける、ということが素晴らしいアイデアであり、補助輪をつけたことに満足しているようなものだ。
実際に社会に出て必要とされるのは、補助輪など無くても自転車に乗れる力であって、そのことを見失っていてはむしろ学校と社会との距離は遠くなるばかりである。


3点目は、「21世紀型スキル」というものについての語られ方である。
未来教育会議は、21世紀型スキルを身につけさせるような教育が良い教育であるというメンタルモデルが非常に強い。
そして、21世紀スキルの重要性は20世紀型の画一的な教育に対置される形で強調される。
実際に21世紀スキルの中身をよく見てみると、批判的思考力、協働的課題解決能力、コミュニケーション能力やITリテラシーなどが挙げられているが、果たしてそれらは本当に20世紀型とされる教育の中では育たないものなのだろうか?

文化祭に打ち込むことは協働能力を育てないのだろうか?
試合で勝つために自分の練習を振り返ることはリフレクション能力の涵養にはつながらないのだろうか?

もちろん、IT教育などについてのノウハウは、まだまだ未熟なものであり、更に良い物へと高められる可能性が大きいだろう。
しかし、実際に子どもたちが学んでいる姿、遊んでいる姿を見ていれば、21世紀型スキルと言われるものの萌芽は確かに観察できるし、学校側の取り組みもそうしたものを意識した方向へと移ってきている。
21世紀型スキル的なものの核は、おそらくペダゴジー的なものを問わず本来人間に備わっていたものなのではないかと僕は考える。
つまり、21世紀型スキルは、教えるのではなく、発達を促進するという類のものなのではないか。
そこで必要となるのは、上述したように、子ども目線の教育観、すなわち、教育とは人間の本性を見極め、それにそって健全で自然な発達を促進する営為であるという理解である。

21世紀型スキルを身につけるために考案された具体的なプログラムだけ見れば、現にそうなっているではないか、という批判があるかもしれない。
しかし、前に述べたように、そうした試みの裏側に子ども目線で教育を捉えるという思考の土台があるようには僕には見えなかった。
もし、こうした教育観の転回を抜きにして21世紀型の教育を推し進めるのだとすれば、結局教育を受ける側にとってはなんのリアリティも無い押しつけられた教育が形を変えて展開されるだけだろう。


最後に、もう一つ気になった矛盾点がある。
それは、ビジョンを描いて現状とのギャップをあぶりだし、それを埋めていくという思考様式についてである。
未来教育会議では、あるべき未来を描き、現状とのギャップからそれに基づいてアクションを起こしていくことを推奨していた。
この思考形態は、はっきり言って合理性至上主義の賜物である。
こうした考え方を乗り越えるものとして持続可能という新しいパラダイムが生まれてきたにもかかわらず、あくまでもギャップ的な課題解決思考に頼るのでは、本質を見抜き損なっていると言わざるをえない。

教育は、完全に合理的なものではない。
もちろん、合理的思考によって改善されていく部分も多くあるし、そうした改善されるべき箇所が未だに手を付けられていないという現状があるのは理解できる。
しかし、21世紀型の教育に求められるのは、まさに持続可能という理念を持った教育なのである。
持続可能であるとういうことは、不確実性に対して寛容であるということである。
持続可能の世界観では、無限の右肩上がりの成長というものは幻想にすぎないことが了解されている。
リフレクションが必要なのは、その都度目の前に立ち現れる不確実な状況に対して、最善の手段を見つけ出すためであり、成長を繰り返して上昇していくためではない。
リフレクションすることで、どんどん成長していく、というのは、能力が上昇していくようなイメージではないのである。

アクティブ・ラーニングやピースフルスクール、PBL、反転授業を採り入れるということが、持続可能な教育を生み出す訳ではない。
そうした教育が、これまでの教育が一定方向に偏りすぎていたバランスを揺り戻すために必要とされているのであり、こうした施策ばかりを推進していれば、また逆にバランスは悪くなる。
持続可能なシステムというのは、こうしたバランスを崩しながらも全体としては動的平衡を保つようなシステムのことである。
21世紀型教育は正解ではないし、20世紀型教育よりも良いものでもない。
大事なのは全体として揺れ動きながらもバランスを保つことである。
こうした理解無しに「改革」を進めるのであれば、それはリフレクションを欠いた単なる思いつきと本質的には大差ないものだろう。


長くなってしまったが、思ったことをつらつらと書かせていただいた。
他にも、多様な教育の在り方をまるで絶対あるべきものかのように語るであったり(多様な教育を認めることは、同時に学校ごとの集団の同質性を高め、実は学校内での多様性は低まるという社会学の基礎的な原理に言及しない)、新自由主義的改革とコミュニタリアニズム的改革を同様に論じていたりと少々教育について雑に語り過ぎではないかと思うこともあった。


もちろん、シンポジウムに参加した方や主催者の方の全てがこのような考えに陥っているとして批判しているわけではないし、僕の個人的な思いであるから、はたして正しい洞察かは分からない。
「そんなことわかっている上でやってるんだよ」と言われるかもしれない。
ただ、そうは感じなかった、という個人の感想である。

しかし、それでもアクションを起こしている人々は素晴らしい。
僕は、アクションもしないのにああだこうだ言っているだけの人間であり、大した説得力も無い。
だからこそ、そうしたアクションを起こしている人々をこれからも応援したいと思っているし、早く自分もアクションする側に立ちたいと思っている。
より良い教育を志すという思いは、きっとみんな共有している願いなのだから。

2015年2月13日金曜日

里見実『パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』2010

フレイレといえば、教育学の中でも最も有名な思想家であり活動家である。
本書は、彼の主著『被抑圧者の教育学』を、書かれた当時の状況や影響を受けた思想的な文脈などを踏まえながら非常に分かりやすく解説している。

フレイレは、「人間化」という概念をその思想の根本に置いている。
人間という存在は、常に非人間化と人間化双方の可能性に開かれている。
非人間化とは、他者を「モノ」として見るような在り方である。
これは、人間というものが「所有」の概念と結びついており、支配者層は所有することによって自らを人間だと主張し、被支配者層は、持たざる者であることから人間ではなくモノとして扱われてきた。
こうした抑圧の構造を打ち倒すのは、被抑圧者が自らも抑圧者のように「所有」したいと望み、権力に同一化する道ではなく、被抑圧者が自らの置かれている状況に気づき、「人間化」することが必要であるとフレイレは言う。

そして、識字教育はその契機となるものであるとフレイレは考えた。
フレイレの提唱する問題提起型教育は、単に文字を知識として伝達する教育ではなく、文字を通して自分たちの置かれている状況を相対化、対象化していく。
そうすることで、彼らは自分たちの置かれているそうした抑圧の構造を客観的に理解し、それを打ち破るための声をあげることができるようになるのである。
そのため、フレイレは識字教育が、文字を持った人々が文字を持たない人々に対し、「上から」知識を注入していくような支配的なものになってはいけないと強く戒めている。
そうした教育をフレイレは預金型教育と呼び、近代的な学校教育で見られるような一斉指導型の授業にその典型を見ている。


こうしたフレイレの思想が、自分の中でいくつか他の知見と繋がったところがあり、興味深く感じたので述べてみたい。

まずは、ウォルター・J・オングやバリー・サンダースのような、話し言葉と書き言葉についての洞察である。彼らは、書き言葉=文字が、人間の内省的思考と結びついていることを指摘している。
フレイレの言う「意識化」が、文字を習得することと深く関わっていることは、非常に腹落ちするものがある。

また、一方でバジル・バーンステインの言語コード理論を思い出した。
バーンステインは下位階層において用いられる言葉を限定コードと呼び、上位階層で用いられる言葉を普遍コードと呼んだ。そして、こうした言語が貧困の再生産の媒体として機能しているというのが言語コード理論であるが、おそらく限定コードは話し言葉の文化と、普遍コードは書き言葉の文化と親和性が高いのではないだろうか。

忘れてはならないのは、話し言葉=野蛮という安易な蔑視的発想は正しくないということである。
なぜならば、話し言葉の豊かさが書き言葉の世界の豊かさを形作っているからだ。
だからこそ、フレイレのように、自らの生活世界と関連付けた識字教育が有効なのである。
誰もが最初に修得するのは話し言葉からである。
かつて自らも書き言葉を持っていなかったという事実を忘れて、ただ識字教育を文字を持たない人々に与えればいいという発想は、人間に対する洞察があまりにも稚拙であると考える。

言語から教育を考える面白さは、フレイレのような社会的正義の領域と、人間の発達という個人の内面的な領域双方への広がりを感じ取れることであるような気がしている。
教育の内容について、何を教えるべきかという問いは枚挙にいとまがないが、言語を教えるということについては暗黙の了解としてあるように思う。
ではなぜ言語を教えるのか、といった時に、フレイレやオングの洞察が参考になる。
そしてそこから、あるべき言語教育といったものの姿もある程度見えてくるのではないかと思うのだが、さてどうだろうか。


2015年2月12日木曜日

ピースビレッジ第29回「変容の時代を生きる」参加してきました。

以前知人に勧められたNGO世界連邦21世紀フォーラムの講座に参加してきました。
講師は木戸寛孝氏。
色々と興味深いお話が聞けた一方で、整理のつかない部分もあるのでつらつらと書きながらまとめてみます。

愛と力の動的平衡

まず、木戸氏によれば、21世紀の課題は関係性、全体性を重視する愛的なものと、主体性、個別性を重視する力的なものの分断であるという。
これは、冷戦における東と西、社会主義と民主主義、自然と人間、都市と郊外、心と身体といった対立と相似する。


木戸氏は、世界創造マップという図式の中で、外側(空間性)―内側(時間生)という軸と、横(水平)―縦(垂直)というマトリクスの中でこれらを整理していた。
内側・時間性に属するのは、人の心や意識などミクロな構造であり、外側・空間性に属するのは生命や物質、自然などのマクロな構造である。
横・水平とはすなわち全体性、関係性であり、縦・垂直とは個別性、主体性を指す。
世界創造マップについては簡単にしか触れられていなかったので、もう少し含意のある分類だと思われるが、そこまでは理解できなかったのでひとまずこれは置いておく。

愛は、関係性や全体性を志向するため、共同体の一体感や平等を重視する。
一方で力は、個別性や主体性を志向するため、自己実現や自由を重視する。
これらは相互に作用すべきものであり、片方のみが行き過ぎてしまっては、破壊的な共産主義や資本主義のように、どこか歪んだ思想となってしまう。
そこで、重要なのは「動的平衡」という概念である。

動的平衡とは、やじろ兵衛や人間の歩行のように、静的ではなく、短期的に見れば常にバランスを崩しているように見えながらも、その絶え間ない動きによって全体としてバランスを保つという状態のことである。
関係性と主体性に単に50%の力を配分すれば良いというわけではなく、常に省察を繰り返しながら前に進み、変化していくという在り方を提案しているのだとここでは理解した。

この動的平衡という概念は、自分の思考のフレームワークとしてはこれまであまり使ってこなかったが、色々な場面で用いることができそうだ。
確かに、人間の所謂成長というものは、既存の価値観に対する反抗や否定の反復という側面を持つ。
そうした発達のメカニズムは、微視的に見れば各段階でその都度危機に陥るものの、確かに全体としてみれば調和のとれた形となっている。

ちょうど講演会へ赴く電車の中で、オートポイエーシスについて書かれた本を読み始めていたため、この動的平衡という概念が奇しくも講座の中で出てきたことに驚いた。
木戸氏のこうした洞察は、下記に述べる自然観と密接に結びついているが、動的平衡という生物学のシステム論で用いられるような概念を援用していることも納得がいった。

現代における自然観のシフトについて

話は古代ギリシャと中世のベーコン、デカルトによる科学観、自然観の対比へと映る。
古代ギリシャにおいては、科学と倫理は切り離せないものであった。自然とは支配するものではなく、観察するものであり、そこに見いだされる真理と、善や美といった概念は結びついていた。

しかし、17世紀のヨーロッパにおいては、地動説を説いたブルーノは火炙りにされ、ケプラーの母親は魔女だと言われて迫害され、ガリレオは異端審問にかけられた。
その結果、科学は宗教的対立や倫理を離れて中立的として研究したいという思いが科学者の間で強まっていった。

そこに決定的な思想的要因を与えたのが、ベーコンやデカルトの思想であり、これらによって「自然は人間にとって利用され、支配されるもの」になった。

それに対し、現代では自然は「創発的自己組織系」として捉える見方が生まれてきている。
自然は単なる機械とは違って、自己組織化の力を持つ。
それは、主体的に自らの対称性を破ると同時に、分化した要素が互いに関係性を持って動的平衡を保つというダイナミクスである。
例えて言うならば、我々の身体は機械とは違って、呼吸によって”酸化した”細胞も自然と入れ替わるようにできている。人間の細胞は数年もすればほぼ入れ替わると言われているが、変化しているにもかかわらず、全体としては一個の個体として一貫しているのである。

こうした動的平衡の力動論が、自然においても人間においても同様に働いているという洞察が、人間対自然という図式を越えて、有機体全体にアイデンティティを持てるような世界観へと繋がっている。

なぜ自然観のシフトが現代において必要なのか?

このような自然観の転換は、現代に生きる我々にとってどのような示唆を与えてくれるのか?
人間対自然という対立ではなく、人間も自然も創発的自己組織系の一部として、主体性を持ちつつも関係性の中に位置付けられているという自然観の変容は、真に自然と共生する社会を実現するために必要不可欠である。

木戸氏によれば、2050年には、地球の人口が100億人に達するそうだ。
そうなると、必然的に水が足りなくなり、間違いなく争いが起きる。
世界連邦を志す人々は、こうした危機感を共有しているようだ。
だからこそ、今の時代に必要なのは、「生命」というものをコンセプトにした新しい世界観であると主張する。

生命とはつまり、存在の前提である。
自己実現も平等も、存在なくしてはそもそも論じることすらできない。
その前提が、実はあと100年もしないうちに崩れ去ろうとしている。
その危機を乗り越えるためには、こうした新しい世界観が必要なのではないかという木戸氏の主張は、至極妥当なものだと感じた。

インテグラル理論との関係と考えたこと

木戸氏の話を聞きながら、終始思い出していたのはウィルバーのインテグラル理論である。
インテグラル理論では、地球規模で人類全体に対する愛を持てるようになった段階の先に、自然を含む有機体全体に対する帰属意識というものがあるという。

人間同士であれば、究極対話することによって理解しあうことができる。
しかし、自然とは対話することはできない。つまり、これは自然に対する認識の問題なのである。

最近流行しているソーシャルビジネスなどは、社会における弱者に目を向けている点で、人間全体に対してアイデンティティを持っている運動だと思われる。
その先にあるものとして、自然と人間もまた同じ全体であり部分であるという世界観が存在するのではないだろうか。

教育とは人と人との関わりであるという側面が強調されることが多いが、人は自然の一部でもある。
教育は子どものためであるとか、いや社会のためだとかそうした対立は、どこか不毛で空虚に感じるし、そうした対立を実は子どものためであることが社会のためなのだと弁証法的に解決したように見える考え方も、結局は人間同士の世界の話で完結している。
自然と人との相互作用を考慮に入れない教育は、やはりどこかで持続可能なものではないのかもしれない。

今回の講演で聞いた話は、頭では非常に納得できるものであったが、同時にまだ実体験として腑に落ちていないという感覚もある。
また、参加者の一人から精神障害の人を包摂する理論になっていないのではという指摘があったが、これも僕がインテグラル理論に対してずっと感じてきた疑問の一つであり、まだまだ答えを出せていない。
焦ることでもないから、自然というものに対して少し意識したりしてみつつ、自分なりにもう少し咀嚼してみたいと感じた。

2015年2月8日日曜日

大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』

教師を志す人が最初に読むべき名著、と率直に思った。

昨今の「学習者主体」という流行語に踊らされた教育観に対し、「教える」ということの意義、教師の使命について真っ向から論じた本である。
教師として考えぬかれた大村はまの哲学は、まさに「言い尽くしている」という心持ちがする。

特に面白かったところを3つほどあげる。

1つ目は、「教える」ということは子どもの個性を損なうのか?という問題である。
これに対して、大村はまは「損なわれない」と一刀両断している。
その根拠は実証的なデータによるものではないという点には注意が必要だが、大村はまが指摘するように、学習者の自発性や教えないことがさも正しいかのような風潮が、教える側の怠慢と結びついているのではないか、という批判は鋭いのではないだろうか。

2点目は、苅谷剛彦による「なぜ勉強するのですか?」という問いの欺瞞についての指摘である。
「なぜ勉強するのか?」という問いは、あたかも教育の本質的な問いであり、それに答えられることが良い教師の条件であるかのようにみなされている。
しかし、この問いは、そもそも大人たちによる「なぜ教えるのか?」という問いに対する「ゆらぎ」を反映したものなのではないか、と苅谷剛彦は指摘する。

大人たちが教えることの意義を信じられなり、「なぜ教えるのか?」という問いに十分に答えられなくなったから、その問いを子どもたちの問題に置き換えることで、責任逃れをしているという洞察には、一定の真実味があるように思われる。
子ども主体という一見ヒューマニズム的な耳触りの良い言葉に酔いしれるあまり、「なぜ教えるのか?」という教師にとしての責任や使命に関わる根本的な問いから目を背けていないだろうか。

自分自身、小学六年生の子どもに対して学習支援をしていた時、子どもたちに寄り添うという考え方は常にあったものの、「教える」ということそのものに対して考える時間は短かったように思う。
子どもたちに合った教え方こそが最良であるというのは、確かに正しい。
しかし、それを自らの教師としての教え方の洗練を怠る言い訳として使うのは、本末転倒であろう。

これと関連して、大村はまはとある研究授業で、教師に質問した子どもに対して「自分で考えなさい」と言った教師を見て、失望したというエピソードを述べている。
大村は、せめて考えるためのヒントとなる選択肢を提示すべきではないかと言う。
昨今の教育観からすれば、自発的に考えるということは良いことであり、子どもの自主性を尊重し、子どもの可能性に期待した良い指導であるとみなされがちであるこの事例に対し、大村はまはせっかく子どもが学びを得るチャンスをみすみす無駄にしていると考えた。

教師の教える者としての専門性は、子どもが考えるための方法を、適切なタイミングで適切に支援することである。
肝心なのは、子どもにとっては自分の力でやり遂げられたと感じられるように、そっと背中を押すことであって、全く教えないというのは単なる極論でしかない。

ヴィゴツキーやカート・フィッシャーの発達理論に見られるように、人がスキルを発達させていく上で、熟達者の関わりというのは発達を加速させる上で非常に有効な要因である。
また、フィッシャーによれば、そうした熟達者の支援があれば、多くの人がある程度のレベルまで到達することが可能であるという。

”教えない教育”というのは、”教える教育”よりもはるかに高度に「教えている」。
大村はまは、話し合いの授業が最も疲れたとコメントしているが、まさに子どもたちが自主的に学び合っている空間というのは、その実教師の膨大な努力によって成り立っているような、「教えるプロ」による教育なのである。


こうした大村はまの「教える」ということを徹底的に追求した哲学は、現代の教育においても全く古びることはない。
学び合いであろうと、アクティブラーニングであろうと、教師が「如何に教えるか」という問いからは逃れられないし、逃れてはならない。
その当たり前の教師としての原点を提示してくれる貴重な本であった。

対話形式が大半であり、すぐに読み終えることのできる本なので、教えるという仕事をしている人にはぜひ読んでもらいたい一冊である。


2015年2月6日金曜日

諸領域における価値体系の類似性と主客未分

自然科学分野において見られる価値構造と、人文科学、社会科学分野において見られる価値構造が類似している、ということは繰り返し指摘されていることである。
ホワイトヘッドの粒子に対する洞察が、釈迦の説いた宇宙論と同形であることなどについて知ったときは、大いに感銘を受けたものである。

しかし、これは考えてみれば至極当然のことであった。
自然科学的に説明された世界もまた、人間の限りある認識において表現された世界観なのであり、その意味で内面的な世界の探求も類似した価値構造を持つことはまったくもって自然なことである。

我々は、自然科学的に説明された世界をまるで実在しているかのように受け取ってしまう。
現代において物理法則は真理であり、宗教はうさんくさいものである。
だが、これらは突き詰めて考えればどちらも人間の”眼”を通して認識された世界から構築された体系であり、その意味で真理そのものと呼べるものではない。

つまり、こうした様々な世界の”説明”における類似構造の存在は、神秘的な「究極の真実」の存在を示す傍証なのではなく、人間が世界を捉える視点というものが常に盲点を内包し、限定されているという事実を裏付けるのみなのである。


こうしたあらゆる価値体系の空虚さを明らかにしたのはポストモダンの思想であるが、ウィルバーのインテグラル理論はポストモダンを乗り越えようとした試みなのだと思われる。

あらゆる価値体系が真理ではないという事実は厳然たるものだけれども、その構造をよくよく見ていけば、そこには深さと広がりという2つの尺度が存在していることが観取される。
限定された視点の中で、より深い洞察は、より広い視野と一体となった構造を形作っている。
この世界認識の発達という実存的な構造が、我々が本来実存的な生命体であるということを示唆している。
「このような仕方でしか世界を認識し得ない」ということが、まさに人間の生きる意味、存在の意味と重なりあう。
そうした認識の諸規定性に気づき、そのうちでの自由を模索しつつ、その規定性を越えていこうとする自己超越の在り方が、人間本来の存在の仕方なのではないだろうか。


こうした認識の限界への気づきは、自我と世界という主客二分の世界観への反省をもたらす。
自らの視点を通してでしか世界を認識できないということは、すなわち世界とは客体であると同時に主体でもあるということである。
「私」は、認識していると同時に「世界」に認識されているのである。

主客未分の思想自体は理解できていたような気がしていたが、この思索に至ってようやく自分なりに腹落ちしたような感覚がしている。

2015年2月4日水曜日

「社会を変える」の不都合な真実と「教育から社会を変える」の意味。

「社会を変える」
もはや陳腐という域を越えたように思われる言葉である。

ビジョンやミッション、リーダーシップという言葉が呪文のように唱えられながら、ムーブメントを起こすことが社会課題解決に必要なのだとという論理が横行する。
社会的正義の名のもとに、不正義を断罪するという熱狂的快感と、”有能”な人間は行動し、何かを変革していく人であるという経済合理的な価値観が結びついたとき、こうした社会変革の活動は批判できない論理でもって人々を絡めとる。

ハンナ・アレントは、こうした社会的正義に怒り、社会的弱者に共感し同情する人々が、民主主義という黄金の看板を手に入れたとき、ファシズムが生まれるということを見抜いていた。
そうした社会的正義に酔いしれる人々は、その実現のためには何を破壊しても構わないのである。
従って、社会課題の性急な解決を望み、破壊的な改革の必要性を連呼する。
彼らは自分たちの正義を信じているから、卓越した行動力で無自覚に”民意”を形成しようとする。
自分たちの正義にくみさない者は、不正義であるとして、激しく攻撃することもある。


社会問題の解決とは、我々の精神の変容という課題であると言ったのは、ルドルフ・シュタイナーである。
シュタイナーは、社会というものが、本質的に人間の認識という限定的な視座によって生まれているものであることに気づいていたように思われる。
それは、精神が世界観と深く関わっているからである。

ケン・ウィルバーによれば、我々が世界を見る見方は、常に限定的である。
人間は視点というもの無しに世界を認識することはできず、視点は必ず盲点を内包する。
従って、どのような認識も、ありのままを見るということはできない。
しかし、人間の意識構造は発達していく。
意識構造の発達は、質的な変化であり、それは自己中心性の逓減という法則に貫かれている。
発達段階を踏むごとに、見える世界が広がるのである。
初めは母親と自分しか居なかった世界に父親が現れ、家族とその他の人々を認識し、クラスメートを、学校を、地域を、国家を、地球を認識し、帰属意識を感じていくようになる。

地球規模のアイデンティティを獲得した人にとっては、国家にとっての正義は相対化されているから、それだけに基づいた正義に両手を挙げて賛同することはない。
そうした人にとっては、価値というものが本質的に階層的な構造を持っているということが深く認識されているから、みんなの総意や納得解というものが常に正当化されるべきではないということが当然のように感じられている。
これは、論理的な思考による問題ではない。精神の発達は、人が世界を認識する根本的な枠組みにおいて質的な変化をもたらすのである。


社会を変えたように見せかけるには、確かにムーブメントが必要である。
大衆が熱狂し、世論を形成することで政治には大きな圧力がかかる。それは確かに目に見える形での成果かもしれない。
しかし、本当に社会課題を生み出しているのは、我々の精神構造なのである。
例え外面的には成果が生まれたと記述することができても、その内実が未熟な精神構造によるものであれば、そうした改革はすぐにボロを出すである。
我々の精神構造が、見たくないものから目を背け、もっともらしい言説に主体性を明け渡し、無責任に振る舞うという幼い精神である限り、自分のやるべき範囲での自由を行使して最善をつくすということが社会を良くしていくのだという当たり前の事実に気がつかない。

批判的思考力、協働力、論理的思考力などなど、様々な力がこれからの時代に必要だという。
しかし、そうした知性を持っていても、精神を発達させない限り、結局のところ社会課題は解決しない。
誰もが平等に価値のある意見を持っているという幻想をいい加減打ち破らなくてはいけない。
その分野においてより発達した人がより価値のある意見をいうことができるのである。
こうした価値を混同せずに見いだせる人もまた、精神の発達した人である。

こうした考え方は、エリート主義的であるとか、差別的だと言われる向きもあるだろう。
しかし、エリートは社会に必要な存在であるし、そう認められているからエリートなのである。
エリート主義の否定は、翻ってエリートの存在を肯定している。
我々は常に少数のエリートに先導されてここまで歴史を積み重ねてきたのであり、エリートという垂直的な価値を否定することは、極端すぎる暴論である。

ある領域におけるエリートと、そうではない人々との間において平等なのは、存在としての尊厳であり、その人格である。
だからこそ、行政に民主主義を持ち込んではいけないし、司法にも民主主義は持ち込んではいけなかったはずである。

社会を変革するということに真摯に取り組む人は、自らの認識に限界があることを悟り、その限定された世界の中で、自分のやるべきことを粛々と遂行する。
そして、自らの精神を高めることが真に社会を良くしていくということに確信を持っている。
だから、僕はいたずらに大衆を熱狂させ、その熱狂の規模によって社会に与えたインパクトを測ろうとする動きには懐疑的である。


社会を良くするためには、精神的に発達しなくてはならない、ということはとても言いづらいことだ。
この言説を現実化する限りにおいて、社会課題の解決を教育に求めるということは一定の正当性があると思っている。
つまり、子どもの発達が、知性面だけではなく精神面においても適切になされなくてはいけないのは、社会を良くしていくためであるからといえるのである。

その意味で、子どもの健全な発達を支援するという教育思想が、一部のオルタナティブにしか見受けられないのは至極残念なことである。

2015年1月28日水曜日

言語を用いた内省の限界について

一般的に内省においては「言語化」ということが、内省の程度を測る上で重視される。
内省は自身あるいは自身の行為を客観的に見つめなおすことで、新たな気づきを得ることであるから、その気づきを言語化できていることが一つの指標となる。

しかし、ある領域では、言語を用いた内省に限界を感じるようになった。
それは、特定のスキル領域に関する内省ではなく、実存的な恐怖と向き合う内省においてである。
例えば、他者に拒否されたくないという恐怖や、自身の思想を体現しきることができないかもしれないという恐怖に対して、言語を用いた内省では、根本的な解決を見ないということを実感している。

それはおそらく、恐怖というものが、言語的なもの、すなわち思考によって基礎づけられているものではなく、感情の領域に属するものであるという本質的な要因による。
感情は合理的なものではない。
論理を積み重ねても、感情は説明できないのであって、それを言語によって説明するという試みの中には、必然的に自己欺瞞が生まれる。
まさにウィルバーのいうフラットランド的発想であるといえる。


言語というものは、実は物事を欺く力を内在している。
それはおそらく、言葉の持つ視覚的な力、すなわち「境界を引く」力に起因している。
境界を引くということは、未分離のものから何かを切り落とすということである。
「名前をつける」というごく単純な行為によって、我々は世界に境界を引き、分類し、分解している。
そこには、確かに抜け落ちているものが存在する。

実存的な恐怖に対して、言語はその恐怖と真正面から向き合うことを回避し、自分にとって都合の良い説明を創作しようとする。
そうして生み出された言葉は、どこか”そのもの”を捉えきっていない、欺瞞に満ちた虚構になる。
言語に頼った内省を繰り返せば繰り返すほど、客観視している認識主体であるところの自分が肥大していく。
いみじくもポストモダニストの思想家達が明らかにしたように、人間の認識は真理を捉えることはできない。
言語に頼った思考は、「自分」という感覚を延々と肥大させるばかりで、実は自分と世界という無意識の主客分離の前提が桎梏となっていることに気づかせないのである。

しかし、一方で、あらゆる表現がそうであるように、言語もまた表現しきることのできない”そのもの”を表現しようとする力も持っている。
それは、言語という形態の規定性をはみ出そうとする力である。
我々は、文章を読んだ時に、そこに書かれていることをイメージすることができる。
その想像される世界というのは、単に書かれている文字よりもはるかに豊かな世界である。
言語は確かに、存在そのものを表現することはできない。
言語化することは、同時にありのままの世界知覚を矮小化していることと換言することができる。
にも関わらず、そうして矮小化された一片の言葉から、我々は豊かなイメージを持つことができる。
それはまるで、言語によって切り刻まれた世界の元の在り方を何とかして捉えようとするような試みに見える。
そう考えると、言語というものは、我々を実存的たらしめてくれているものなのかもしれない。


こうして文章を書いている時にさえ、言葉の節々に欺瞞が見え隠れすることを感じる。
しかし、書くことによって、捉えきれない何かに至るということを願うから、書かずにはいられないのである。
いつしか、そんな文章を書いてみたいものだ。

2015年1月27日火曜日

”多様性を尊重する教育”に欠けているもの

多様性尊重という金科玉条は今や教育の分野では当たり前のように見かけるようになった。
多様性尊重の世界観では、定量的なスキルの達成度によって人の価値を評価するのではなく、人格に価値の優劣は無く、多種多様な人が存在することを尊重していこうとする。

人種問題を背景として生まれてきた多文化主義に端を発するこの価値観は、日本の教育では近年文科省が掲げている「共生社会」という方針に現れている。
人種問題が比較的少ない日本では、健常者と障害者という枠組みにおける多様性尊重がクローズアップされているわけである。

こうした価値観は、先に述べたように、点数化できる能力にばかり焦点を当てていた日本の教育、その象徴であった受験戦争の加熱などに対する批判の流れを受けている。
しかし、そこには「多様性」というものについて掘り下げない甘さがあるのではないか。

定量的な測定でしか、価値の大きさを測れないという誤解が生じているのでないだろうか。
100点を取った人と80点を取った人では、前者の方が明らかにその基準では優れている。
しかし、こうした点数化できない主義主張は皆平等な価値を持つものとして捉えられる。

平等な価値を持つのは、人格、すなわち人間の尊厳であって、思想そのものではない。
思想には歴然たる事実として、浅いか深いかの価値の優劣が存在する。
「弱肉強食」という社会思想は、「共生社会」の思想よりも、明らかにアイデンティティを狭めた思想である。自分だけ良ければ良い、という意見よりも、社会全体の幸せを考えるという意見の方が、より世界に対し開かれた、公共性の高い意見であることは言うまでもない。

こうした量に還元できない質的な差異を全て平等に扱おうとするのが、今盛んに語られる多様性尊重の価値観であるように思われる。
それは、実は還元できないものを尊重しているようで、実はあくまでも定量的な世界のものさしに押し込めているのである。
1から100に当てはまらないのだからみんな0にした、というのと同じ話である。
つまり、今の多様性尊重という概念は結局はあくまでも定量的にのみ人間を評価しようとする価値観から抜け出せていない。

意識の構造には発達的な構造の変化があり、そこには確かに価値の垂直性が存在するという事実に目を向けない限り、こうした多様性に対する思考停止の態度は変わらない。
そして、この誤謬は多様性尊重論者を苛むことになる。

「自分には到底受け入れがたい意見ではあるが、多様性を尊重しなくてはならないから、その人の意見と自分の意見は確かに同じ価値がある。でも、どう考えても自分の考えが正しい。どうしたものか。」

そうして傲慢な多様性尊重論者は、自らが絶対的に正しいという根拠なき確信のもと、反論されづらい正論を掲げ、多様性尊重の世界観を共有しない他者を追い詰めていく。
そこには、自らの意識がどのように発達してきたかという過去に対する内省が欠けているのである。

多様性を絶対化することをやめ、定量化できないものが一体どのように変化していくのか、というこを謙虚に見つめる姿勢が今の日本の教育に必要なのではないだろうか。
「みんな違ってみんないい」に安易に逃げない態度が、本当の意味で人間の人格を平等に扱える意識を育てるのではないかと思うのである。

2015年1月9日金曜日

価値基準の混同と教育、発達の関連性

価値基準の混同という現象が至るところでおきているように思う。
経済的な合理性という価値基準が日常世界にあまねく浸透しているのではないか。

例えば、目の前で急に苦しそうに倒れた人がいたら、多くの人は何かしらの支援をすることを厭わないだろう。
それは、人の生命の価値というものは、その人を助けることで自分の時間を取られるなどといった「コスト」勘定では測れないものだからだ。

では、身体を壊して精神を病むほどに働く、という選択はどうだろうか。
本来、前述の話であれば、人の生命は明らかに経済的な効用よりも優先される価値を持つ。
にもかかわらず、現実には組織の都合、すなわち経済合理性が人間の生命よりも優先されることがある。

ここに起きているのは、価値基準の混同という現象ではないだろうか。

あらゆる価値観には同等の価値があるという誤った多様性主義は、経済的合理性という価値基準と、倫理的な価値基準がまるで秤にかけられる同等の基準であるかのような錯覚を抱かせた。
しかし、実際にはナチスの思想と、エコロジーの思想は、決して等しい次元で論じられるものではないはずだ。

ここで重要なのは、ナチスの思想や経済的合理性に価値がないとか、劣っているということを言っているのではない。
経済的合理性に則って判断をするべき局面、そうした価値基準が適切である領域は存在する。
しかし、例えば人間の生命や人間の尊厳といった価値基準は、それらよりも高次の段階の価値基準である。

安楽死を認めるべきかという議論を、安楽死を認めた場合の医療コストの増減によってのみ判断するということは根本的に適用すべき価値基準を取り違えている。


教育を論じるのが難しいのは、教育という営みが、複数の価値領域にまたがっているからである。
主なものは、社会的正義の価値基準、内面的自由の価値基準、経済的合理性の価値基準である。

これらそれぞれの領域内で適切だと思われるように教育というものは設計されなくてはならない。間違っても、NCLB法のように経済的合理性によってのみ教育を評価したり、逆に社会的正義、個人の精神の自由といったどれか一つの領域によって教育を構想してはならない。


こうした価値基準の領域の分別というものは、発達に関わるものであるように思われる。
ローレンス・コールバーグは、道徳性の発達を、道徳的価値を道具的価値などその他の価値とより分けられるようになっていくプロセスでもあると言った。
人間は意識の発達段階を経ていく中で、それぞれの段階で新たな価値基準を一時的な格率として身に付ける。
従って、前の段階で中心的であった価値基準は、次の段階に至った際、それはもはや中心的ではないものとして相対化されている。

それ故に、段階を経るごとにそれまでの過程で獲得してきた価値基準を適切な領域に当てはめて柔軟に使えるのではないだろうか。
高次に発達した人が、寛容さと決断の素早さを兼ね備えるのも、こうしたところが起因しているように思う。

最も、自分自身がまだ大して高次の段階まで発達していないこともあり、憶測にすぎない部分が多いのだが、気づきを記してみた。








2015年1月8日木曜日

本質を直観する力と想像力は似ている

本質を見抜く力と想像力というのは、どこか似ている。

本質とは、物事の表面的ではないところに隠された意味であり、ある種主観的なものである。
主観的というのは、本質の本質らしさは論理的に検証できるというよりも、もっと感覚的なものだからである。

一方、想像力というのは、現前していないイメージや物語を創出するものであり、それらは純粋な意味で他人と共有されることはない。

しかし、古来から哲学者たちが指摘しているように、想像というのは決して現実と全く切り離された世界を指すのではない。確かに目の前にある客観的なものと想像されたものはどんな形であれ紐付いている。
その意味で、想像力の源泉は現実体験の豊かさである。


ルドルフ・シュタイナーは、子どもを教育するときに概念や記憶、知識ではなくイメージや想像力で育てよ、ということを言う。
概念や記憶、知識といったものは、思考力と結びつく。
では、イメージや想像力は何と結びつくのか、と考えた時、ふと「本質を見抜く力」と巷で言われるような力に思い当たった。

人間の意識は、思考のみによって形成されるわけではない。
明らかに、思考以前の段階を我々は持っている。
「本質を見抜く」と言う時、何か精緻な思考の軌跡をたどって至ったというよりも、直観的に「観た」という方が近いニュアンスを感じる。

それは、ある種の想像力ではないかと思えるのだ。
体験を概念ではなく、想像力やイメージと結びつけていくことが、鋭く本質を洞察する”センス”を育てるのではないか。

そして、この想像力という力は、思考力の形成にも影響を与えていると思われる。
人間の理解の段階は、一般にブルームのモデルを基本として様々なモデルが提唱されているが、単なる記憶段階からそれを実際に適用し、さらに他の概念と統合していく段階へと移行する。

しかし、この段階間には大きな隔絶がある。
単に知識を覚えることと、その知識を別の場面に応用していくことは根本的に違う。
一見当たり前に見えるのは、我々がそれをいとも簡単に成し遂げているからだ。
知識を定着させることで、それが使えるようになるというのは厳密に考えれば明らかにロジックとして繋がっていない。

わかりやすく言えば、コンピュータに情報を入力し、情報を蓄積することと、蓄積された情報を用いてコンピュータが別の場面にその情報を適用することは全く違うアーキテクチャが必要なはずだ。

それを可能にしているものの一つは、この想像力という、思考力とは違うところから来る力なのではないか?
ある段階から違う段階へのジャンプを生み出すのが、生身の体験の豊かさを元にしたイメージの力であるとすれば、幼少期にイメージで育てるべきとするシュタイナーの思想も理解できる。


実際には、具体的体験とそこから生まれる想像の豊かさが発達に与える影響を考慮した教育は少ない。
工藤順一氏が『国語のできる子どもを育てる』の中で、小学校中学年時にファンタジーを読むことを推奨しているのも、こうした想像力の涵養が、結局のところ、より高次の段階へと発達を遂げた際に、論理的思考力にまで影響してくることを直観的に感じていたからではないかと思う。


ここで述べたことは仮説にすぎないが、あまりにも思考化されたものばかりに意識を向けた教育というものに感じる違和感は、大切にしていきたいと思う。