2015年10月18日日曜日

身近な人の死について

先日、身近な人を亡くしました。

物心ついてから身近な人の死を経験したのは実は初めてで、色々と考えさせられる体験をしたので書き留めておきます。


遺体を見た時にまず感じたのは、もうその肉体は「その人」ではないのだな、ということ。
完全に何かがそこから抜けてしまった、という感覚。
何か大いなるものからこの世に現在していた存在が、還っていくという仏教的、シュタイナー的な死生観のアクチュアルさを実感した。

そこから、死を悼むということをしようとしてみた。
しかし、その仕方がなかなか分からなかった。
死を悼むということは、その人の人生や今際の際を「良きものだった」と語ることなのか。
何か一言でもその死について語ろうとした瞬間、死そのものを受け入れられなくなるような感覚だった。
だから、結局その時僕は一言も発することができなかった。

それはきっと、死というものがどうしようもなく虚無であるからなのかもしれない。
虚無ということは、語りえないということである。
それが語りえるものになってしまった瞬間に、その死を正面から見つめられなくなる気がした。
今、こうして文章を書いていても、その時に感じた死のリアリティを全く捉えられていないもどかしさと同時に、何か書かないとどうにも整理がつかないから仕方なく書いているだけなのではないかという気まずさを感じている。


デス・エデュケーションという言葉がある。
詳しくは知らないが、文字通り、「死」について教える教育である。
死について学ぶとはどういうことなのだろうか。
こんな何も無いものについて何を学ぶのか。
人が死ぬということは避けられない事実であるということを認識することが肝要なのか。
だから生を豊かにしなければならないと説くのか。

死というものはどうしようもない虚無であり、生を充実させるためにあるものではないと思う。
しかし、では何なのかということに対して答えは出ないし、答えを出すべき問いなのかどうかも定かではない。



結局のところ、僕は身近な人の死に際して色々考えさせられた結果、何一つ学ぶことはできなかったし、何一つ変わったことはなかった。
しかし、それでも死は考えさせることをそう簡単にはやめてはくれないらしいので、もう少しだけ見つめてみようと思う。