2015年6月24日水曜日

自閉症児の天才性を強調する言説について

テンプル・グランディンのTEDトークを見ていた。
彼女は自閉症を抱える動物学者であり、自身の経験にもとづき自閉症児に対する教育の変革を求めている。

自閉症を抱える子どもは、従来そのコミュニケーション能力面におけるディスアビリティなどから、学校文化の中で常に抑圧されてきた存在であったといえる。
彼女自身は、そうした環境の中でも出会いに恵まれ、その天才的な才能を開花させ、社会的な成功をおさめることができた。
したがって、彼女は、自閉症児の持つ天才的な可能性を潰さないために、そうした子どもたちの可能性を引き出すようなチャンスをもっと与えていくべきだと主張する。

平等なチャンスが与えられていない子どもたちに、チャンスを与えるべきであるというのは至極最もであり、彼女の主張には概ね同意する。
しかし、彼女の言っているようなことが社会一般の風潮として共有されたとき、そこには怖さも残る。

「自閉症=天才」という考え方が広まり、ギフテッド教育のような教育が浸透したとき、そこで抑圧されるのは、「自閉症であると同時に、天才性を発揮できない」人である。
好機が与えられているにもかかわらず、価値を生み出せなかった人に「居場所」は与えられるのだろうか?

テンプル・グランディンは、自らに与えられたチャンスを掴み、彼女自身の資質を活かしたことで成功を掴んだ、賞賛されるべき人物であると思う。
しかし、彼女が自閉症を抱える人全てを適切に代表した存在ではないはずだ。
スピヴァクが指摘したように、「代弁者」は意識的にせよ無意識的にせよ、時にマイノリティを抑圧する側に回ることもあるのだ。


繰り返すが、テンプル・グランディンの主張に僕は賛同する。
自閉症児に対する社会的なバリアは、取り除かれていくべきであると思う。
しかし、そうした状況を変えるにあたり、被抑圧者に何らかの「価値」を付与し、その「価値」にもとづいて被抑圧者の復権を求めていくことは、更なる弱者を生み出しかねないのだ。

あくまでそれは手段として、通過点として考えるべきではないだろうか。
「自閉症者が輝く社会」は目的ではなく、手段ではないだろうか。

弱者への共感から始まった社会変革の意志も、一歩間違えれば容易に転落し、更なる弱者を抑圧するものとなってしまう危険性を孕んでいる。
こうした「転落への危険性」の自覚こそが、ソーシャルアクションを志す人間に求められる最低限の資質なのかもしれない。

僕自身NPOに関わる者として、この問題には非常に思うところがあるので、次回また書きたいと思う。

2015年6月19日金曜日

弱さについて

人の弱さについての思索。

社会的弱者は、様々なハンデによって、この社会で「弱い」とみなされている人々である。
それは身体的なハンデの場合もあれば、経済的、心理的など様々なものがある。
こうしたハンデを個性として捉える向きもあるが、何がハンデであって何が個性なのかという意味論は究極的には個人の主観的価値付けでしかないから、ここでは踏み込まない。

リベラルな人々は、こうした社会的弱者を排除する様々な言説に異議を申し立てる。
それは、尊い行いであると素直に思う。

一方で、社会的弱者を排除する人々は、なぜ排除するのだろうか?
異質で理解できない弱者に対し、「気持ち悪い」と遠ざけたり、「自己責任だ」と突き放したりする彼らは、何を考えているのだろうか。
彼らに、「排除せざるを得ない」事情はないのだろうか。
彼らが社会的弱者を抑圧してしまうのも、また一つの「弱さ」なのではないだろうか。

その弱さに共感することなく、単に抑圧を激しく攻撃するのであれば、それは社会的弱者を排除する論理と根本的なところで何も変わらないのではないだろうか。

排除を肯定するつもりは毛頭ない。
しかし、そうした弱さを抱きしめられるような余裕のような何かが、今の社会には決定的に欠けているように思う。
この弱さという悪は、決して無くなることのない、私たちが共存していかなければならないものだと思う。

その弱さを肯定できるのは、おそらく「強さ」ではなく、もっと根源的な何かなのではないだろうか。
強弱の二元にこだわっている限り、解決の糸口は見えてこないように感じるのだが、かといって確からしいものもつかむことができない。

ひょっとして、霊性とか超越性とはそういったものなのかもしれないが、今の自分にはよく分からないので、時間をかけながらゆっくりと探していきたいと思う。