2014年6月30日月曜日

IBと学習指導要領の融合、ヒドゥン・カリキュラム

先日、ALL関東教育フェスタにて、国際バカロレア機構の坪谷・ニュウエル・郁子さんの講演を聞いた。

現在、日本で推進が図られているIB(国際バカロレア)認定校の増設だが、今はIBのカリキュラムを日本の学習指導要領に「読み換える」という作業が行われているらしい。

これはとても意義のあることである。
数多の教育の方法やメソッドにも、互いに共通する部分があり、その読み換えが効く、ということは、より目の前の子どもや環境に即してより適切な方法を採れるということにつながるからだ。


日本人のよく言われる性質として、折衷主義がある。
あんパンのような成功例もあるが、一般的には良いとされているものを見境なく採り入れ、なんとなく全体的に良さげなものを作った結果、元々のそれぞれの良さを殺し、中途半端なものを作ってしまうというニュアンスで揶揄されることが多い。

IBと学習指導要領の融合においても、上記の懸念は拭えない。
例えば、IBの目指す学習者像に「振り返ることができる人(Reflective)」というものがある。
これを学習指導要領においてどのように読み換えるのかは分からないが、既存の学校文化・環境を見渡したとき、内省的だと感じる部分は非常に少ないように思う。

LFAのプログラムをやっていた頃、参加学生に「今まで出会った良い先生とは?」という質問を良くしていたが、「内省的」「絶えず学び続ける」といった概念に結びつく回答はほとんど無かった。

そうしたカリキュラムの外のカリキュラム=ヒドゥン・カリキュラムにまで意識を配らないと、結果的に中途半端な効果しか生まないのではないかと危惧している。

ヴィゴツキーによれば、教師の意義は生徒に直接作用することではなく、生徒を取り巻く環境を教育的に組織することである。
そこには、何を教えるべきか?という問いに加え、学習者は何を学ぶのか?という視点の統合が求められる。

悲観的に書いたが、IBというすでに権威ある体系だったカリキュラムの導入は、学習指導要領の相対化を促し、内省的なプロセスを生むものであるはずだ。

そしてそれは、IBにとどまらず、サドベリーやモンテッソーリ、シュタイナーといったオルタナティブをも包摂した「多様な公教育」への第一歩である。

良いとされるIBをただ移入するだけではなく、日本でこれまで育まれてきた叡智の一つである学習指導要領との総合によって、日本独自の豊かな教育が生まれることを期待している。

2014年6月5日木曜日

『バベルの学校』試写会に行ってきました。

先日、お誘いをいただいて『バベルの学校』という映画の試写会に行ってきました。

↓公式サイト
http://unitedpeople.jp/babel/

アイルランド、セネガル、ブラジル、モロッコ、中国…。世界中から11歳から15歳の子どもたちがフランスにやって来た。これから1年間、パリ市内にある中学校の同じ適応クラスで一緒に過ごすことになる。 24名の生徒、24の国籍…。この世界の縮図のような多文化学級で、フランスで新生活を始めたばかりの十代の彼らが見せてくれる無邪気さ、熱意、そして悩み。果たして宗教の違いや国籍の違いを乗り越えて友情を育むことは出来るのだろうか。そんな先入観をいい意味で裏切り、私たちに未来への希望を見せてくれる作品。 (公式サイトより)

フランスのジュリー・ベルトゥチェリ監督による1時間半ほどのドキュメンタリー映画です。

移民政策などが進んでいるフランスでは、「適応クラス」なるものがあるということは今回初めて知った。フランスに来た事情は家庭ごとに様々であり、中にはやむにやまれぬ切迫した事情でフランスに来た子どももいる。

24つの国籍を持つ生徒が一緒にいるクラスの運営など、想像もできないほどの課題と苦労があることだろう。
しかし、実際に映画を見ると、受けた印象は「どこの国でも教育的課題は似たようなものなのだな」というものだった。

親の子どもに対する期待と、それに反発する子供。
厳しい家庭事情から、突如として転校を余儀なくされる生徒。
成績が振るわず、進級が認められないことを受け容れられない生徒。
自由の国とうたわれているフランスでさえも無くならない、適応クラスの子どもたちに対する偏見。

個々の事情に、社会的な影響があることは言うまでもないが、しかし日本でも同じような問題は起こり得るし、起こっている。
子どもたちの「よく生きたい」という思いは、どこの国のどんな子どもであろうと、全身から訴えかけてきている。


個人的には、保護者の思いにも非常に共感してしまった。

「この子には良い大学に行ってほしい。故郷に戻ったら女性器切除をしなくてはならない。それはこ
の子の幸せのためにはならない」

悲痛な保護者の願いは、親の子どもに対する期待の押しつけは良くない、という一言の正論で片づけられない重さがある。


リード文にあるような「未来への希望」を感じる作品かといえば、そうとも言い切れない気がする作品だった。
ドキュメンタリーという作品についての一般的な考え方について明るいわけではないが、物語ではなく現実を切り取った描写であるとするならば、そこに希望を見るのも絶望を感じるのも見た人の自由であるはずだ。
そこに製作者の恣意が紛れることを否定はできないにしても、そういった意味でなんだかすっきりしない、というこの作品はドキュメンタリーとして良質であるように思う。

「これを見れば多様性がわかる」とか、「子どもたちの可能性は素晴らしい」といったメッセージ性を期待してみた人は、きっとどこか釈然としないものを感じるはずだ。
この作品の中では、多様性も可能性も、現実の厳しさもありのままのものとして描かれている。そこに良いとか悪いといった価値観は存在していない。

しかし、そんなモヤモヤが、物語としての多様性や子どもの可能性に対するアンチテーゼでもあり、ゆえに心に残るものとなるのだろう。


近頃読書に引きこもってばかりの自分をたまには外に連れ出してくれたこの巡りあわせに感謝しつつ。

2014年6月4日水曜日

「共感力」、コンピテンシー、多様性

共感力、がもてはやされている。
教育の分野でも、エンパシー教育が流行の兆しを見せている。
共感こそ、これから求められる能力であり、教育で養っていかなくてはいけない、ということが常識になる時代がもしかしてくるのかもしれない。

そう考えたとき、ふと違和感を感じる。
共感力とはなんだろうか?すべての人間に生来備わっている力で、適切な教育によって全員が最低限必要とされるレベルまで達することができるような能力なのだろうか。
それとも、それが求められる状況で適切な行動をとることができる、そんなコンピテンスなのだろうか。

こんな問いを持ったのは、もし共感力がこのままもてはやされていったらそれは「学力」が「共感力」に置き換わるだけではないのかと思ったからだ。
「あの人は共感力が高いから優秀だ」といった言説がまかり通り、共感できない人はどんどん締め出されていく、というのはあまりにも皮肉すぎるにしても、共感力がある人が共感力のない人に共感し、共感力のない人は共感しない、という社会もまたなんだか気持ちが悪い。

そう考えたとき、問題は2つである。

1つは先に述べたコンピテンシーの問題。
日本人の能力観は、いまだにこのコンピテンシーの概念を受容できていない。
コンピテンシーとは、固定化された数値で測れるような能力ではなく、それが求められる状況において再現性を持った適切な行動ができる、という資質のことである。

何ができるか?というdoの部分に焦点がおかれていること、したがって非常にプラクティカルな概念であり、「純粋な能力」とは言えないかもしれない。

しかし、コンピテンシーの概念を受容することの大きなメリットは、人材評価の軸がより現実に即したものになることだ。「学力が高い人」が優秀なのではなく、「困っている人に声かけして助力を申し出ることが日常的にできる人」が優秀なのである。

一方で、コンピテンシーのシビアなところは、再現性という観点を持つことで、本当に「弱い」人にとっては逆転の可能性が厳しくなるというところである。
センター試験のような一律型の一発試験の評価であれば、それまでどんなに怠惰で堕落した高校生活を送っていたとしても、試験で良い成績さえ取れれば認められる。
この平等性は、家柄や家庭の経済的格差をリセットする可能性を持つものとして、一定の価値があった。
しかし、コンピテンシーは定義上一発試験などで測られるものではないため、そうした逆転を狙う人にとっては厳しいものとなる。


そこから思い当ったのが2つ目の問題で、多様性という概念について。
これも近頃よく言われるようになった。多様性尊重というやつである。

そもそも多様性とは、価値中立の概念である。
多様性がある、ということはプラスでもマイナスでもない、ただの解釈である。
にもかかわらず、「ダイバーシティがある」なんてことが平然とメリットに載せられていたりするのがよく目につく。

確かに、個々人の長所が異なるベクトルを持つことを多様性と呼ぶのは間違っていないが、足りない。
多様性とは、長所と同じように人間だれしも、それぞれ異なった短所を持っているということも含意しているはずだ。
そうした人間としての何かしらの「欠落」の集合が多様性なのだという意識は、実はあまり浸透していない気がしている。

多様性という言葉の価値中立性を意識せず、「多様性万歳」と繰り返すだけでは、いつしか多様性が錦の御旗にようなお題目となって、多くの人を苦しめることになるだろう。

共感力がある人もいれば、ない人もいる。
もちろん、それを涵養していく教育の重要性は否定されるべくもないが、真の共感力はこうした「多様性」というものに対する曇りない気づきを得たところにあるのではないか。

自分も欠落しているし、他人もまた欠落している。そんな人々が集まって多様性が生まれているのがこの社会であり、自身はその社会を構成する一員として生きていく。
そんな事実を受け容れてもらうことが、教育の意義である。
















2014年6月2日月曜日

真木悠介『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』1993

この仕事の中で問おうとしたことは、とても単純なことである。
ぼくたちの「自分」とは何か。
人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。
他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。
そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準している。
(あとがきより)
見田宗介先生の本を読んだのは初めてであったが、率直に感銘を受けた。
広範で深遠な知識と、切れ味鋭い洞察、無駄なく、それでいて筆者の息遣いが伝わるような文章。
圧倒的な知性を感じた。

本書は、全5部からなる<自我の比較社会学>構想の第1部に位置付けられている。
全体の構想は、

1. 動物社会における個体と個体間関係
2. 原始共同体における個我と個我間関係
3. 文明諸社会における個我と個我間関係
4. 近代社会における自我と自我間関係
5. 現代社会における自我と自我間関係

となっている。

動物社会学を軸とした議論が展開されるため、専門的な話は正直ついていけない部分も多かったのだが、それでも非常に面白く読むことができた。


ドーキンスによる、遺伝子は”利己的”であるという論は、動物の利他的行動すらも説明できる。(サケの産卵のための遡上や親鳥が雛をかばうために羽の折れたふりをして敵の注意を引く行為など)
つまり、個体としての利己的行動ではなく、自身の遺伝子を残したい、という遺伝子の利己性によって、我々にとって一見「利他的」に見える行為すら説明できるのである。
(この解釈はドーキンス本人ではなく、著者のものである)

では、個体というのは一体なんなのか?
利己的な遺伝子が乗りこなす生存機械にすぎないのであろうか?(なんともフラットランド的な考え方である)

個体の存立起源は、多細胞生物の発生に関わる。
多細胞生物は、真核細胞の共生体として考えることができる。つまり、個体とは共生体なのである。
ウイルスが個体という共生体から外れた漂流する生成子であるとすれば、個体というのはそうした生成子たちのサライ(宿)としての共同体とかんがえられるかもしれない。

そうした共生体としての個体は、いつしかある種の主体性を持つ。
はじめは、共生体としての機能をよりよく維持するための「エージェント的主体性」から始まり、それは次第にそのシステム自体を支配する本来の力への反逆すら可能にする「テレオノミー的主体性」を持つに至る。
ここに、利己的な遺伝子に対する個体の優越が立ち現れてくるというのである。
(こうした構造は、ロバート・キーガンの知性の発達モデルとも類似する点があり、興味深い。)

しかし、そうした個体は、形成された後であっても、外部の生成子に開かれている。
ドーキンスは「表現の延長型」という理論を展開している。
例えば、我々は幼児を愛くるしいと感じる。
幼児の行動によって我々が直接的な不利益を被ったとしても、成人のそれと比べて不快感を感じることは少ないだろう。
ドーキンスは、こうした幼児の愛くるしさによって他者による庇護を可能にすることもまた、生成子の表現の延長型であるとする。

ここに見られるのは、究極的に利己的な他者との関わりとは、他者に「愛される」こと(利他的な行動をとらせること)であるということである。
個体は、個体として在ってもなお、外部に開かれているのである。

そして、こうした個体と個体の関わり方、テレオノミー的主体性から、著者は個体というものに本質的に備わる自己超越性を指摘する。
テレオノミー的主体性を獲得した個体は、遺伝子の再生成の機械としても規定されないし、個体としての存続を自己目的化するよう迫られてもいない。
究極に利己的にも、利他的にも生きることができるのであり、利己性と利他性は極限の次元で統合される。


こうして概観してみると、生物学的な探求が確かにウィルバーの語るような全体に包括されていることを改めて実感した。

誤解を招かないために言っておきたいのは、著者はカール・ポパーとエクルスの対話にページを割き、脳科学は真の意味で自我の起源を明らかにしないということを述べている。
意識が大脳によって創出されたということが分かったとしても、我々の意識がどのように生まれてきたか、その起源を本当の意味で知ることは決してできないのである。
ウィルバーに則れば、外的な象限による真実と内的・個的な象限による真実は矛盾しないが、一方によって他方を説明しきることもできないのである。

人間という現象を単なる生存機械やガイアシステムに組み込まれた「部品」として扱うフラットランド的な論調とも、神に肉薄する霊長類として神秘性を強調する宗教的論調とも距離を離れ、あるがままを見つめようとする著者の慧眼に、心底恐れいった。

そして、こうした自然科学的な知見というものの重要さを痛感した次第である。