2014年4月17日木曜日

教育って学問じゃなくね?と思ったこと

広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』(2009)を読んだ。
平たく言えば、「教育学とはなにか」ということについて論じた本である。

読みかけのクリシュナムルティを自宅に置いてくるという大失態を犯してしまったため、たまたま持っていた本書を読了した。

自分が受けているわけでもないのに教科書販売所で「あ、広田先生のまだ読んでないやつだ!」と思って買ってしまった本である。

教育学を志す初学者にも配慮された本で、教育学をどこか突き放して見ながら、歴史的文脈やその課題についてわかりやすく論じている。1時間程度で読み終わってしまった。

本書の組み立ては、教育学成立の経緯、教育学の分類、教育学の意義と課題、教育学の未来、そして今後教育学を学ぶ人のためへの手引、といった具合である。

ペスタロッチやヘルバルト、デューイといった著名な教育学者の思想を、プレツィンカの「実践教育学」「教育科学」といった枠組みなどから俯瞰的に捉え直している。
恥ずかしながら後者は知らなかったので、とてもおもしろく読めた。
歴史的な視点が弱いなあと反省しきりである。

本書によれば、教育学というものは、本質的に確固たる議論の基盤となる科学的な事実を持ち得ず、その中で規範を創出していかなくてはならない、という悲劇的なものである。
従って、時代や空間に応じて学術的根拠の曖昧な様々な教育理念が溢れているのが常である。

こうしたあるべき教育を論じる姿勢について、下記の部分が特に考えさせられた。

「教育の目的を一般的に語る時、たとえば、「子どもがもって生まれた無限の可能性を引き出し、花開かせてやることである」とか、「全面発達を保証することである」などといういい方が好んで用いられる。ところが、これらのいい方は、一見そうであるのと違い、教育の目的を述べるものではなくて、目的についてはなにも規定するものではない。なんのためにそうするのか、そこにふくまれている人間像はなにか、についてなにもいっていない。」(p110, 原聡介より)

これはなかなか耳に痛い指摘である。
学習支援をしていた時、「子どもの可能性を信じる」ということを内外問わず理念として語っていた経験があるからだ。
また、子どもの発達というものを適切に支援する、という考え方は僕自身の教育観にも非常に近い。

この指摘の前提であるのは、本来教育における目的は外在的であるという考え方である。
教育には、必ず他者が存在する。
「学習」は一人でもできるが、「教育」には必ず教育する者と教育される者が存在するのである。

従って、教育とは発達可能性を持つ他者になんらかの理由、目的があって介入することであり、そこには確かに外在的な目的が存在すると考えるのが妥当であろう。

かといって、そうした目的、例えば「社会化のため」とか、「経済を促進するため」「市民を作るため」といった目的に素直に頷けるかと言えばそうではない。


この難問について思うのは、果たして教育”学”によってこの問題を解決できるのだろうか?ということである。
まともに教育学をやったこともない素人が大それたことを言っている気がするが、素人だからこそ未熟な自分の考えを書き残しておきたい。

教育学が科学としてどこか不安定で脆弱なのは、本書で広田先生が指摘しているように、教育と実証的研究の相性の悪さが大きな要因である。
それに加え、ポストモダンの流行によって、これまで積み上げられて来た教育思想全体の妥当性までが脅かされている。

ここまで教育学が行き詰まっているのは、教育学を学問として成り立たせようとしているからではないのだろうか。
信頼に足る十分な事実に裏付けられた一般性のある仮説なくして、教育を語ることはできない、という思い込みがあるのではないだろうか。

教育の目的は、人間存在に対する深い理解と切っても切れない関係にあるが、そもそも人間存在というものを科学的なアプローチからのみ解明することができるのだろうか?
(もちろん念頭にあるのはインテグラル理論の四象限である)

例えば、思考によってではなく、瞑想などの観察によって至るとされる「本質的な気づき」は、科学的には到達しえない真理である。
もちろん、そうした真理に至った人々のサンプルを集め、そこに普遍的な何かを見出すことはできるだろうが、それは真理自体に至ることとは明確に異なる。

子どもが楽しい!と感じていることを僕らは理解できるかもしれないが、本当の意味でその楽しいという感覚を決して共有することはできない。そもそも彼らが楽しいと呼ぶ感覚と、自分が楽しいと思う感覚が同じであるなどということは決して証明することはできない。


教育の目的を学問によって述べなければならないというのは、教育自体が社会の提供するシステムであり、従って多くの人に受け入れられるように言語的に記述された目的でなくてはならないといった事情に拠るのではないか。

こうした限界を理解することが必要であるように思う。そして、学問的なアプローチと個人・集団の内面的な真理を統合した視点を持つこと。そうして初めて教育というものの本質に迫ることができるような気がするのである。
なぜなら、確かに学問的アプローチには限界があるが、学問的領域において得られた事実と内面的な世界における事実は確かに関係性を持つはずだからだ。
それは場合によっては言語にできないものもあるかもしれない。しかし、僕は言語化できないものにも普遍性を持つものはあるように感じるのだ。

教育には外在的な目的と内在的な目的がある、という考え方はそのとおりだと思うが、実はその外在的な目的、内在的な目的は共にもっと大いなるところから来ているのではないか、という感覚。

ここまで書いて、自分でもうまく言語化できていないことを痛感しているが、そもそも言語化できるものではないのかもしれないといったある種の諦観も感じている。

様々な思想を読んでいても、思考ではなく、本質を直観した経験が先にあって、それをなんとか言語化しようとして書き手が苦しんでいる、という感覚を持つときがよくある。

今のこうした自分の感覚が未熟ゆえの甘ったれた逃避なのか、それとも曲がりなりにも正鵠を射ているのか。学問することによって自分の感考えがどう検証されていくのか、非常に楽しみである。






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