2014年11月16日日曜日

リフレクションと瞑想の相似性

リフレクションと瞑想の相似性は、あまり語られることがない。
最近になってマインドフルネスという概念がビジネス界の間でも取り沙汰されるようになってきたが、どこか先進的な香りのする「リフレクション」という言葉と、伝統的な「瞑想」は、まるで別物のように扱われている。

しかし、リフレクションと瞑想は、個人的には非常によく似ている概念であるように思う。
というより、リフレクションを更に深めたものが瞑想なのではないかと感じる。


リフレクションは、日本語で内省や省察と訳される。
自身の経験を相対化、客観視することで、その経験に含まれるパターンやメンタルモデルに気づきを得て、結果的に認識の地平を広げ、より多様な選択肢を取れるようにすることがリフレクションという行為である。

その本質は、深い「気づき」にある。
気づくということは、それまで気づかぬうちに自らを縛っていた固定観念や感情、欲望などの”無意識の桎梏”の存在を知るということである。
多くのリフレクションの方法は、ワークシートや問いを用いて、そうした自分を相対化するような自己客観視をのプロセスを踏む。

一方、瞑想というのは、自己意識そのものを相対化する試みである。
例えば、ヴィパッサナー瞑想では、自分の呼吸を観察する。
自分の思考、感情、欲望に囚われること無く、ただ呼吸のみを観察するのである。
そうすることによって、普段意識されない”身体”を観察することができるようになる。
そして、身体が自分自身であり、自分自身もまた身体であるという合一の感覚を得るとされている。

このとき、瞑想で起きているのは、リフレクションよりも更に深い、徹底的な自己客観視のプロセスだ。
身体を持つ自分、思考する自分、感覚する自分、欲望する自分のどれもが”自分そのもの”ではないということの気づきを得るのである。


瞑想とリフレクションの違いは、はっきり言ってその深さ、射程のみにあると思う。
それはすなわち、「どこまでリフレクションすれば良いのか?」という問いと関連している。

例えば、コルトハーヘン氏のコアリフレクションモデルでは、欲望段階の更に深い段階に、コアクオリティやミッションといった段階を設けている。
以前のALACTモデルでは、欲望段階までしか想定されていなかったものが、より深い段階にまで射程が広がっているのである。
これは、人間の欲望を規定しているさらなる根源的な段階を想定しているということである。

また、人の欲望というものが固定観念を生み出し、自身の行動を規定するのは確かであるが、それだけが我々を規定しているのではない。
例えば、そう、身体というもっと大きく、本質的な規定がある。
身体から我々の思考や感情、欲望が影響を受けるのは、現代科学などを引き合いに出すまでもなく経験的に明らかであり、リフレクションの射程に十分含まれるはずだ。

しかし、更に言えば身体と意識もまた私自身ではないとするならば、更に深い段階、すなわちスピリチュアル段階のリフレクションが存在するはずである。
(ケン・ウィルバーは、こうしたスピリチュアル段階も、膨大な事例研究から厳密に区別をし、段階付けている。)

このように、リフレクションという方法は、深遠な段階までをも射程に入れるものだが、どこまでリフレクションするべきか?という問いについては、そのとき直面している課題と自身の発達段階によるとしか言えないだろう。

コアリフレクションモデルは、他者との関係性の中でリフレクションをするということが一つの特徴である。
一方、瞑想というリフレクションは、物質的なもの(=身体)と心的なもの(=意識)の関係性におけるリフレクションである。
それぞれ、直面している段階によって、リフレクションの形態が異なるのである。


瞑想とリフレクションの相似性というテーマについては、思いの外語られていないように感じるが、伝統的な智慧と先進的な発想の統合は、個人的には非常に興味深い。

ポストモダンとニヒリスティックに結びつく仏教、という思潮を変えていく意味でも、こうした瞑想とリフレクションの関係性について考察することは、なかなか意義深いものなのではないか。




2014年11月6日木曜日

安心と挑戦

安心と挑戦というキーワードは、リスクを取る若者を喚起するようなネットメディアから、学習科学や発達理論に至るまでありふれたものとなっている。

安心とは、いわば当人のcomfort zoneであり、アイデンティティが安定している状況であり、挑戦とはそこからはみ出し、自己を不安定な状態に置くことである。

安心と挑戦が語られる多くの場合、安心は挑戦のための基盤であり、また安心に居座ることなく挑戦することが結果的に個人の成長に寄与するいう考え方が底に流れているように思われる。
発達社会学における異質性受容の理論や、発達心理学の愛着形成理論などがその例である。

しかし、実際には人は「安心」があるからといって「挑戦」に向かうとは限らない。
また、それを強制することは挑戦ではなく、安心の破壊による不安をもたらすことであるから、挑戦に向かわせるという営みは本質的に矛盾している。

以前僕は、それでも確固たる安心を形成することが、結果的に挑戦へと向かわせる契機となるのだということを信じていた。
つまり、挑戦へと向かうことが出来ないという状況は、安心が不完全にしか達成されていないということであると考えた。

しかし、安心というものは独力で形成することは難しい。
特に、アイデンティティの危機に晒され続けている若者や子どもたちにとってそれは、自力ではほぼ不可能であるように思われる。
そのように考えると、結局そうした安心の重要性を十分に認識し、実質化できる他者の存在なしには挑戦へと向かうことはできなくなってしまう。

また、安心の十分性が挑戦という「成果」によってしか見えてこないという技術不足の課題も、どこか釈然としないものを感じていた。


ではどうしたらよいか?
僕は、安心と挑戦の関係が、自由と責任の関係に似ているように思う。

自由を得ている人は、同時にその自由を実現するための何らかの責任を負う。
例えばそれは他者の自由を承認する責任であったり、自分の自由を自分で守るための努力を怠らない責任である。

同様に、安心というものは、その安心に見合った挑戦というものが本質的に求められているものなのではないかと思うのだ。
それは、おそらく倫理的な要求というより道徳的、もっといえば人間本性的な衝動として捉えられるべきものなのではないか?

安心というものが先に述べたように、自分だけでは達成しえないものであるとすれば、安心をもたらしてくれた外部環境に対しての「感謝」の現れが、挑戦なのかもしれない。

このような自覚を持つとすれば、安心の領域から挑戦することが、自己実現の欲求ではなく、人間精神が宇宙秩序と繋がろうとする本性に基づいているものだと捉え直すことができる。

また、十全に安心を実感できていない人は、その程度に応じた挑戦を背負うことでより密度の濃い安心を手に入れる機会を得る。
なぜなら、安心と挑戦というプロセスは、一方通行ではなく、繰り返しながら上昇するスパイラルな過程だからだ。

自身に安心を与えてくれる身近な環境への感謝としての挑戦を捉えることが、自己成長の手段として捉えることよりも、却って高次に至るための捷径なのかもしれない。