2016年3月17日木曜日

コルトハーヘンの「9つの質問」と陥りがちなリフレクションの罠

教師教育におけるリフレクションの技法として、一昨年コルトハーヘン氏も来日するなど日本における知名度も一段高まったように見える「ALACTモデル」について個人的の気付きをまとめてみる。

私は未熟ながらも、大学生を教師として育成する教師教育者として4年ほどで20人以上の学生を見てきた。この仕事にかけた時間は少なく見積もっても1000時間近いのではないかと思う。
大学生を教師として育成する上で、コルトハーヘンのモデルを基礎としながらリフレクションを促していくのだが、その中で多くの人がつまずく点があることに気づいた。

コルトハーヘンは「9つの質問」というフレームワークで、「置かれた文脈はどのようなものか?」と、自分と他者それぞれの「行動(do)」「思考(think)」「感情(feel)」「欲求(want)」を問うことで、起きた出来事についての本質的な気づきを得られるとしている。


このうち、まず第一の躓きは「思考」と「感情」の混同である。
「思考」というのは、なぜその行動をしたのか?という問いに対する答えとしての「論理」であり、「合理的な言語」である。
例えば、「私は吉野家に行った」という「行動」の理由として、「吉野家に行けば手頃な価格で牛丼が食べられると考えた」というのが「思考」である。

それに対し、「感情」というのは、思考を規定する「感覚」であり、厳密に言えば言語化できないイメージに近いものであると思われる。言葉にするならば、「嬉しい」「悲しい」「楽しい」といったものである。

思考と感情が混同されるのは、日本語においては「思う」という言葉が一見感情を表すようでいて思考も表現できることに要因があるのではないかと思われる。
「私は悲しいと思う」「私は吉野家に行くべきだと思う」というどちらの表現も可能であるが故に、「感情=~と思う」という理解をすると、コルトハーヘンの言う「思考」と「感情」の区別が付かない。

先に述べたように、感情とは本質的に言語ではない、という理解が重要である。
感情はイメージであり、感覚なのであって、思考するものではない。厳密に言えば、思考以前のものであるという理解である。思考以前であるからこそ、思考を規定するものとして感情をリフレクションの枠組みの中に位置づけることができるのである。


第二の躓きは、「欲求」と「規範」の混同である。
欲求は日本語に直すと「~したい」と表現されるが、例えば「私は時間通りに授業を終わらせたい」というのは欲求そのものを捉えてはいない。それは、「時間通りに授業を終わらせるべき」という規範を、何らかの欲求にもとづいて「守りたい」と思っているということである。つまり、規範と欲求を混同している。
この点も、日本人特有なのかどうかは解らないが、非常に多く見られる現象だった。

欲求とはそもそも、何らかの「欠乏」に対して起きるものである。
現時点で自身にとって満たされていないものがあって初めて欲求が生じる。
先の例で言えば、「時間を守る」ということで、「上司に怒られないようにする=上司に認めて欲しい(承認欲求)」なのかもしれないし、「時間通りに授業を終わらせるという目標を達成することで自身の有能性を確かめたい(達成欲求)」なのかもしれない。

コルトハーヘンの枠組みの中で、欲求が最も奥底にあるのは、それが最も強い規定として我々の感情や思考、行動を緊縛するからである。(構造構成主義の「関心相関性」の原理とも共鳴する。)
したがって、欲求は思考よりも抽象的でより人間の生にとって根源的なものになる点に注意をはらうべきである。


最後に、リフレクションとは欲求や感情、思考を変容させる試みである、という誤謬について。
リフレクションの目的は、コルトハーヘンが述べるように、「選択肢の拡大」である。つまり、最終的に変容するのは「行動」であり、思考や感情や欲求を根本的に変化させることを意図するものではない。

フッサールを持ち出すまでもなく、欲求や感情、思考それ自体は否定されえないものである。否定されえないからこそ、それらをメタ的に認知することによって行動の選択肢を拡大できるとコルトハーヘンは言いたいのだろう。

リフレクションしていく中で、「自分はなんでこんな自己中心的なのだ」と落ち込んでしまう人がいる。しかし、それはリフレクションの目指すところではない。
大切なのは、ある規範意識に照らしあわせた時に”醜い”思考や感情、欲求を持っていたとしても、最終的に自身が行動を選択できるという信念を持ち、行動の選択肢を増やしていくことである。その意味で、リフレクションには敢然性への契機が含まれているなあなんて思ったりもするのだが、その話はまたさておき、いたずらに自身を追い詰めることがリフレクションではないということも忘れないようにしたい。

2016年3月2日水曜日

インクルーシブ教育についての勉強会をやってみて考えたこと

先日、所属するNPOの人々とインクルーシブ教育についての勉強会を開催した。
その際に考えたことなどについて軽く自分用にメモしておく。

イメージできない人々こそ真に抑圧されているということ

勉強会では、日本におけるインクルーシブ教育に焦点を当てたため、特別支援教育についての話が多かった。視聴覚教材として発達障害についてのビデオなどを取り上げたため、議論の中身もそうした内容に寄ってしまった部分もある。

発達障害がそもそも近年注目されている一つの要因は、それが「新たに発見された」障害であるからだ。
もともと、ADHDや自閉症スペクトラムなどと言われるような障害は、クラスに一人ぐらいはいる「変な子」として認知されていた。つまり、障害があるとは思われていなかった。
発達障害は、「見えにくい」障害だったからこそ対応が遅れたのであり、当事者はずっと苦しめられてきたのだ。

ここから考えると、インクルーシブ教育において求められるのは、未だ想像すらされていない状況にある人々こそ、本当に抑圧されているのであり、そうした人々を包摂していこうとし続ける態度なのではないかと思う。
単に、発達障害の子どもとそうではない子どものニーズがすべて満たされている状態を実現することがインクルーシブ教育ではないのである。

すべての人にとって了解されなくては意味が無い

教育者としてインクルーシブ教育の理念をどう実際化するか、というのは実践的な問いであるが、教育する場においてのみインクルーシブであるということは、そもそもの理念からして矛盾する。

教室で教師がいくらインクルーシブ教育的な実践を成立させていても、子どもたちだけで遊ぶときに排除が起きていては意味が無い。
つまり、インクルーシブ教育の理念は、教育者が教育意図として持っていても意味がなく、すべての人にとって了解されるものでなくてはならない。

しかし、例えばADHDを持つ子どもの衝動的な行動が、他の子どもに不快感を与えるという事実は無視することはできないし、それを禁止することもできない。それを禁止した瞬間に、そもそもインクルーシブではなくなる。

決して排除を擁護するわけではないが、排除が起きる背景には、個人的感情などの理由が必ず存在するし、そうした感情を持つことは尊重されるべきである。

前項でも述べたように、肝心なのはインクルーシブ教育の要諦が、「インクルーシブ」とされる状態を志向し続ける姿勢にあることだ。
個人が他者の行為から不快な感情を喚起させたという事実は否定することなく、その上でどのような態度をとっていくのか、という次元においてインクルーシブ教育の理念は機能する。

そこを踏まえずに単にインクルーシブ教育を金科玉条のように押し付けていては、何も乗り越えていないことになる。

インクルーシブ教育と「自己決定の尊重」

ここまで考えると、インクルーシブ教育を成り立たせている基底には、「自己決定権の尊重」が含まれているように思われる。
当然といえば当然の話なのだが、インクルーシブ教育が成立すると信じるには、人間は感情や思考に支配されることなく、それらを包含した上で「態度を自己決定することができる」という人間観が必要である。

社会的に排除されている人々が私達の想像の範疇にも及ばないところにまで存在している。
それに対し自分はある意味特権的な”立場”にいる。
抑圧されている人々とのコミュニケーションは、自分にとって不快なものである可能性がある。

そうしたことを自覚した上で、私達はどんな態度をとるべきなのか?という問いかけが、インクルーシブ教育が私達に投げかけているものなのではないだろうか。
態度の次元の話だということが理解されないと、結局インクルーシブ教育は画餅として終わっていくのではないかと思った。

「態度」の合意形成と抑圧

では集団としての「態度」はどのように合意形成されるのか?
ここで注意しなくてはいけないのは、「インクルーシブ教育的な理念に賛同するに至った」ということ自体が一つの特権である可能性である。

例えば、その日一日の食事の調達にも苦しむほどの状況にある人々に対し、インクルーシブ教育の理念を説いて賛同してもらえないからといって、その人を責めることができるだろうか。

インクルーシブ教育などというものについて論じることが出来る時点で、これまで社会の中で十分に包摂されてきた人も、被抑圧者の側にいると自認している人も、共にある種の特権的な立場にあると考えるべきである。

特権的であるということ自体が悪なのではない。
そういう立場にあることを自覚した上で、現実にどんな態度をとるかという話なのだ。

そのように考えると、合意形成において重要なのは、如何にしてインクルーシブを是とするに至ったのかというプロセスを共有することに他ならないだろう。多少迂遠に思えたとしても、インクルーシブという理念に至ることができた道のりこそを省察し、語っていくことが必要なのではないか。
そしてそのプロセスを一般化できた時に、仕組みとしてのインクルーシブを実現する体制を構築することが可能になるのではないだろうか。





結論としていささか面白みのないものになってしまったが、引き続きインクルーシブ教育については時間を見つけて勉強していきたいと思う。