2014年12月31日水曜日

2014年面白かった本まとめ

年末なので、備忘録を兼ねて今年読んだ本の中で特に面白かったものを10冊選んでみた。
個別に書評記事を書いていないものを多めに含むようにしてみた。

1. ケン・ウィルバー『統合心理学への道』

僕の思想に最も大きな影響を与えてくれたケン・ウィルバー。
その「インテグラル理論」について知る上でとても分かりやすい名著。
一般には『万物の歴史』が入門書としておすすめとされているが、個人的にはこちらの方がはるかにわかりやすく感じた。
ウィルバーの射程の広さ、深さと、その理論の緻密さは本当に味わい深く、内容以上に読書している体験自体が実に心地よい。
定期的にウィルバーに立ち戻りながら読書していくというサイクルが気づいたら生まれていた。

2. ルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』

シュタイナーの「社会有機体三分節論」について学ぶことができる。
20世紀初頭にすでに資本主義と社会主義の行き詰まりを見抜いていたシュタイナーが構想した社会思想は、現代における社会の未来を考察する上でも非常に示唆に富んでいる。
シュタイナーといえばそのオカルティックな思想から敬遠されがちであるが、社会思想は比較的読みやすい。
『社会の未来』と併せて読めば、その思想について概観することができる。

3. ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』

インテグラルエデュケーション研究会の参考図書として読んだ。
言語と発達というテーマを考察する際に、文化人類学的、歴史的にとても奥深い視点を与えてくれる。例えば、内省という思考形態が言語とどのように関わっているのか、といった内容はこれまで自分は全く思いつかなかった衝撃的な内容であった。
こうした優れた研究が昨今語られる「教育」というものにどれだけ活かされているのか、慨嘆したくなる。
教育の実践に身を置く人にはぜひ読んでほしいと個人的に思っている。

4. 西村拓生『教育哲学の現場』

実践の場から教育哲学を考察する、所謂”臨床教育哲学”的な視点から新しい教育の公共性を論じた著書。そもそもの教育哲学をメタ的に分析しつつ、著者の実体験に基づく事例が興味深く描かれており、非常に面白かった。
取り上げられている課題はどれも深く共感できるものばかりであり、それに対して明確な回答を示している訳ではないが、著者自身もまた悩みながら探求し続けているという姿が感じられた。

5. 天野郁夫『教育と選抜の社会史』

戦前の日本の教育制度から、歴史社会学的手法によって日本における教育と選抜のしくみがどのように形成されてきたのかを論じている。
また、そうした日本の仕組みをドイツやフランス、イギリスなどと比較しながら、日本の教育、選抜システムの特異性を鮮やかに描き出している。
著者の明晰さがにじみ出てくるような簡潔で分かりやすい文に、あっという間に引き込まれて読みきってしまった。
教育社会学的な基礎知識を求めて読んだのだが、それ以上に文の素晴らしさに感銘を受けた印象が強い。

6. V.フランクル『苦悩の存在論』

自分自身が非常に苦しい時期にある種の救いを求めて読んだ本であった。
「態度価値」や、「それでも人生はイエスと言う」といったフランクルの哲学には、当時も強く興味を持ったが、その意味が分かり始めたのはどうもごく最近になってからのように思える。
生きる意味という普遍的な難題について、徹底的に考え抜かれたフランクルの思想は、間違いなく自分の核を形成する思想の一つになっているという実感がある。
また、こうした哲学こそ、教育の場において何かできることがあるのではないかと感じるのである。

7. J.クリシュナムルティ『既知からの自由』

クリシュナムルティの思想もまた、今年自分に大きな影響を与えた思想である。
彼の「あるがままを観察せよ」という思想は、もはや思想を越えている。
思想ではないゆえに、語られる言葉は至って平易であり、万人に伝わり、同時に理解しがたいものでもある。
なぜならそれは、思想を持つ以前の在り方について”無理やり”述べているからである。
思考以前の段階の存在にふと気づいた時、前述のフランクルやシュタイナー、ウィルバーが述べていることがつながってきたように思えた。
観想的な知に触れるには、読書や思考だけしていても意味がないということを教えてくれた一冊である。

8. ローレンス・コールバーグ『道徳性の発達と道徳教育』

道徳性というものが国家、民族、人種を越えて普遍的な発達段階を経て発達していくという道徳性発達の研究と、それを道徳教育にどのように応用していくか、という観点から彼の講演録をまとめた本。
道徳性に発達という法則を見出したコールバーグの洞察の鋭さには舌を巻いた。そこから発達という”現象”について、独自の興味深い考察を行っている。
正直なところ、訳がそれほどよくないのか、あるいは自分の読解力が足りていないのか大分読み進めるのが辛かったのだが、それでも大きな示唆を与えてくれる必読書であると思う。

9. 熊野純彦『西洋哲学史』

哲学を本気でやるつもりは毛頭無いが、必要な読書のための概説的知識を求めて「哲学史」を手にとって見た。
しかし、熊野氏の哲学史は、わかりやすく教科書的な哲学史ではない。
哲学史でありながらどこか哲学的、いや詩的な文体は、不思議な思索とイメージを内面へ投影してくる。
見事に哲学というものを概観してやろうなどという傲慢を恥じることになった。

後に多少勉強して再読してみると、一般的に語られるものとは少し異なった独自の視点からそれぞれの哲学者を取り上げていることが分かる。
不勉強故にこの本の魅力を全く味わい尽くせていないので、また時を置いて挑戦してみたいと思っている一冊である。

10. ロバート・キーガン『なぜ人と組織は変われないのか』

本書もインテグラルエデュケーション研究会での課題図書である。
組織変革における個人の変容というものを、知性の発達と結びつけて論じた研究が非常に興味深いものである。
その方法論をよくよく見てみれば、クリシュナムルティにも通じるようなところがある。
本書の射程は、理性的思考の段階までであるが、ウィルバーやクリシュナムルティと併せて読めば、確かにこの研究はスピリチュアル段階へ接続されるものであるように思う。

組織変革の方法論を求めて読むにも十分に得るものがあると思われるが、それ以上に意義のある研究であると個人的に感じている。




















2014年12月22日月曜日

「アクティブ・ラーニング」の今後の課題と所感(Integral Education研究会12月回メモ)

次期学習指導要領改訂の主要なトピックの一つが、「アクティブラーニング」の初等中等段階への導入である。

(参考:下村文部大臣の中教審への諮問→http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1353440.htm


アクティブラーニングとは、文部科学省の定義によれば、

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れ
た教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、
教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査
学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク
等も有効なアクティブ・ラーニングの方法」(文部科学省 2012)
 である。

アクティブラーニングの定義は上述のように広く、近年急速に広まっている21世紀型スキルやOECDキー・コンピテンシーといった能力を身につけさせる革新的な教育手法として、PBL(Project Based Learning)や、反転授業、学び合いなども含んだ広義の非一斉型授業として理解してよい。
なぜなら、その本質は、「学習者の主体性」に起因しているためである。

こうしたアクティブラーニングのメリットは、協働能力を育めること、個別に最適化された学習を設計しやすいこと、学習者の主体性ゆえに高い学習効果を期待できること、などなどがよく挙げられている。

また、2002年に総合学習が学習指導要領に採り入れられた際との違いは、アクティブラーニングの方法論を文部科学省が積極的に提示している点である。

従来、教員は一般に指導の方法論を”上から押し付けられ”ることを嫌っていたが、今回の改訂では方法論としてアクティブラーニングが含まれており、画期的との見方もある。

シティズンシップ教育やエンパシー教育、ESD(持続可能な開発のための教育)とアクティブラーニングの関係性についても、その相性の良さから論じられることが増えてきた。
そうした点からも、「次世代型」の学習法としてアクティブラーニングは徐々に受け入れられ始めているように見える。


さて、こうした動きにはもちろん批判も多い。
主要な批判の一つは、評価の難しさである。従来型のペーパーテストによる数値評価だけではなく、より多角的な評価が必要であるが、現実に十分に有効であるといえるような評価方法は開発されているとはいえない。
ここには、アクティブラーニングを先進的に導入してきた北欧型社会の「評価観」は、未だに日本では十分に広まっていないという状況がある。


また、こうした多角的な評価は、本田由紀氏が指摘するように、ハイパー・メリトクラシー化を推し進め、より出身階層間での教育格差を助長するものである、といった社会学的な観点からの批判もある。


発達的な観点から言えば、こうしたアクティブラーニングで想定される「集団」の発達段階が考慮されることは少ないと言わざるを得ない。
小学校段階で想定されるアクティブラーニングと、社会人段階で想定されるアクティブラーニングは、扱うテーマには差があるとしても、手法自体はほぼ同じである。
また、集団内のある発達段階に属する個人の割合によって、アクティブラーニングの効果はどのように変わってくるのかなどの研究成果はまだ提出されていないようだ。


このように概観すると、やはり日本におけるアクティブラーニングの受容は、どうも方法論先行の受容のように思える。課題解決のために導入するというより、とりあえず良さそうなアイデアに飛びついた格好である。

そこには、実際に教育を受ける子どもたちや学習者に対する眼差しが驚くほど欠けている。
結局のところ、業績達成は個人の努力の問題であるという潜在的な新自由主義的価値観が、教育政策を支配しているのである。

教育格差をまさに生み出しているその弱者切り捨ての価値観を省みることなしには、公教育における根本的な教育の平等の問題は解決されえないのではないか。

「学習者主体」という建前が建前に成り下がることの無いように、本質的な価値観の転換をもたらすような有用な思想を提示することが、何よりも教育改革において先決である。

2014年11月16日日曜日

リフレクションと瞑想の相似性

リフレクションと瞑想の相似性は、あまり語られることがない。
最近になってマインドフルネスという概念がビジネス界の間でも取り沙汰されるようになってきたが、どこか先進的な香りのする「リフレクション」という言葉と、伝統的な「瞑想」は、まるで別物のように扱われている。

しかし、リフレクションと瞑想は、個人的には非常によく似ている概念であるように思う。
というより、リフレクションを更に深めたものが瞑想なのではないかと感じる。


リフレクションは、日本語で内省や省察と訳される。
自身の経験を相対化、客観視することで、その経験に含まれるパターンやメンタルモデルに気づきを得て、結果的に認識の地平を広げ、より多様な選択肢を取れるようにすることがリフレクションという行為である。

その本質は、深い「気づき」にある。
気づくということは、それまで気づかぬうちに自らを縛っていた固定観念や感情、欲望などの”無意識の桎梏”の存在を知るということである。
多くのリフレクションの方法は、ワークシートや問いを用いて、そうした自分を相対化するような自己客観視をのプロセスを踏む。

一方、瞑想というのは、自己意識そのものを相対化する試みである。
例えば、ヴィパッサナー瞑想では、自分の呼吸を観察する。
自分の思考、感情、欲望に囚われること無く、ただ呼吸のみを観察するのである。
そうすることによって、普段意識されない”身体”を観察することができるようになる。
そして、身体が自分自身であり、自分自身もまた身体であるという合一の感覚を得るとされている。

このとき、瞑想で起きているのは、リフレクションよりも更に深い、徹底的な自己客観視のプロセスだ。
身体を持つ自分、思考する自分、感覚する自分、欲望する自分のどれもが”自分そのもの”ではないということの気づきを得るのである。


瞑想とリフレクションの違いは、はっきり言ってその深さ、射程のみにあると思う。
それはすなわち、「どこまでリフレクションすれば良いのか?」という問いと関連している。

例えば、コルトハーヘン氏のコアリフレクションモデルでは、欲望段階の更に深い段階に、コアクオリティやミッションといった段階を設けている。
以前のALACTモデルでは、欲望段階までしか想定されていなかったものが、より深い段階にまで射程が広がっているのである。
これは、人間の欲望を規定しているさらなる根源的な段階を想定しているということである。

また、人の欲望というものが固定観念を生み出し、自身の行動を規定するのは確かであるが、それだけが我々を規定しているのではない。
例えば、そう、身体というもっと大きく、本質的な規定がある。
身体から我々の思考や感情、欲望が影響を受けるのは、現代科学などを引き合いに出すまでもなく経験的に明らかであり、リフレクションの射程に十分含まれるはずだ。

しかし、更に言えば身体と意識もまた私自身ではないとするならば、更に深い段階、すなわちスピリチュアル段階のリフレクションが存在するはずである。
(ケン・ウィルバーは、こうしたスピリチュアル段階も、膨大な事例研究から厳密に区別をし、段階付けている。)

このように、リフレクションという方法は、深遠な段階までをも射程に入れるものだが、どこまでリフレクションするべきか?という問いについては、そのとき直面している課題と自身の発達段階によるとしか言えないだろう。

コアリフレクションモデルは、他者との関係性の中でリフレクションをするということが一つの特徴である。
一方、瞑想というリフレクションは、物質的なもの(=身体)と心的なもの(=意識)の関係性におけるリフレクションである。
それぞれ、直面している段階によって、リフレクションの形態が異なるのである。


瞑想とリフレクションの相似性というテーマについては、思いの外語られていないように感じるが、伝統的な智慧と先進的な発想の統合は、個人的には非常に興味深い。

ポストモダンとニヒリスティックに結びつく仏教、という思潮を変えていく意味でも、こうした瞑想とリフレクションの関係性について考察することは、なかなか意義深いものなのではないか。




2014年11月6日木曜日

安心と挑戦

安心と挑戦というキーワードは、リスクを取る若者を喚起するようなネットメディアから、学習科学や発達理論に至るまでありふれたものとなっている。

安心とは、いわば当人のcomfort zoneであり、アイデンティティが安定している状況であり、挑戦とはそこからはみ出し、自己を不安定な状態に置くことである。

安心と挑戦が語られる多くの場合、安心は挑戦のための基盤であり、また安心に居座ることなく挑戦することが結果的に個人の成長に寄与するいう考え方が底に流れているように思われる。
発達社会学における異質性受容の理論や、発達心理学の愛着形成理論などがその例である。

しかし、実際には人は「安心」があるからといって「挑戦」に向かうとは限らない。
また、それを強制することは挑戦ではなく、安心の破壊による不安をもたらすことであるから、挑戦に向かわせるという営みは本質的に矛盾している。

以前僕は、それでも確固たる安心を形成することが、結果的に挑戦へと向かわせる契機となるのだということを信じていた。
つまり、挑戦へと向かうことが出来ないという状況は、安心が不完全にしか達成されていないということであると考えた。

しかし、安心というものは独力で形成することは難しい。
特に、アイデンティティの危機に晒され続けている若者や子どもたちにとってそれは、自力ではほぼ不可能であるように思われる。
そのように考えると、結局そうした安心の重要性を十分に認識し、実質化できる他者の存在なしには挑戦へと向かうことはできなくなってしまう。

また、安心の十分性が挑戦という「成果」によってしか見えてこないという技術不足の課題も、どこか釈然としないものを感じていた。


ではどうしたらよいか?
僕は、安心と挑戦の関係が、自由と責任の関係に似ているように思う。

自由を得ている人は、同時にその自由を実現するための何らかの責任を負う。
例えばそれは他者の自由を承認する責任であったり、自分の自由を自分で守るための努力を怠らない責任である。

同様に、安心というものは、その安心に見合った挑戦というものが本質的に求められているものなのではないかと思うのだ。
それは、おそらく倫理的な要求というより道徳的、もっといえば人間本性的な衝動として捉えられるべきものなのではないか?

安心というものが先に述べたように、自分だけでは達成しえないものであるとすれば、安心をもたらしてくれた外部環境に対しての「感謝」の現れが、挑戦なのかもしれない。

このような自覚を持つとすれば、安心の領域から挑戦することが、自己実現の欲求ではなく、人間精神が宇宙秩序と繋がろうとする本性に基づいているものだと捉え直すことができる。

また、十全に安心を実感できていない人は、その程度に応じた挑戦を背負うことでより密度の濃い安心を手に入れる機会を得る。
なぜなら、安心と挑戦というプロセスは、一方通行ではなく、繰り返しながら上昇するスパイラルな過程だからだ。

自身に安心を与えてくれる身近な環境への感謝としての挑戦を捉えることが、自己成長の手段として捉えることよりも、却って高次に至るための捷径なのかもしれない。

2014年10月20日月曜日

インクルーシブ教育の語られ方に対する懸念

昨今、教育界隈でよく聞かれるトピックの1つが、インクルーシブ教育である。

僕は専門外のど素人であるため、ここではインクルーシブ教育とはなにか、という問い直しについて深く言及することは無いが、端的に言えば障害を抱えるとされる子どもたちとそうではないとされる子どもたちを包括的に教育していく思想ということだろう。

そこには、特別支援教育や伝統的な学校教育がそれにフィットしない子どもたちを如何に傷つけ、その可能性を押し込めてきたかという憤りにも似た感情を感じる時がある。

よく聞かれる言説として、例えば教室で授業中ずっと座っていられない子どもを「問題児」とみなして指導する学校教育を批判し、そうした子どもたちがある分野では群を抜いた才能を発揮することなどを挙げ、子どもの多様な可能性をもっと承認していくべきだというものがある。

これについては大いに共感するところだが、少々怖さを感じるのは、その背後にあるであろう「リベラル」な価値観である。

既存の学校現場で”迫害”されてきたような子どもたちの可能性に気づける人は、概して自由で発達した価値観を持っていると思われる。
しかし、そうした価値観は当の子どもたち自身に共有されているかどうかは分からない。
発達的に言えば、前者は比較的発達段階の進んだ人々とみなしうるが、子どもたちはもっと低次の発達段階である可能性が高い。

彼らが「子どもたちはこんなに傷ついている」というのは、彼らの価値観から教育現実を語った一つの物語に過ぎない。子どもたち自身が、どのように感じているかは分からないのだ。

子どもの時は苦痛でしかなかったようなことが、大人になってから意味がわかり、むしろその頃に感謝することができた、などという話はよく聞かれる。
また、椅子に長時間じっとして座ることは、小学校低学年段階の子どもにとって「ルールに従う」力を身につける重要な発達課題である、という主張も可能である。

僕は子どもの意思を無視した教育が正当だとも、それを推進すべきだとも言っていない。
仮に子どもの意思や主体性と反した教育が為されるとしても、人間としての尊厳を傷つけない範囲においてのみ行われるべきなのは当然のことだと思っている。

ただ、高次に発達した自由で受容的な価値観を持つ人々の、「子どもたちへの共感」という幻想に拠ってインクルーシブ教育が推し進められていくのだとしたら、それは必ず大きな過ちを犯すと思うのだ。
なぜなら、それは「子どものため」という皮をかぶった、多様性尊重主義の人々のための教育であるからだ。

そうした感情論ではなく、教育科学や医学の知見を土台にした骨太のインクルーシブ教育を志向する流れは、日本ではそう多くはない。
また、理念的に本来もっとつなげて語られても良いと思うシティズンシップ教育や公共性との統合もあまり進んでいないように思える。

こうした批判を重々自覚しながら、常にリフレクティブにインクルーシブ教育を問いなおしている真摯な人々に期待しつつも、
多様性尊重論が、多様性とはつまるところ何なのか?という問いに答えないまま、弱者への共感や思いやりと結びついた時の暴力性に、どうにも寒気を覚える今日このごろである。

2014年10月15日水曜日

「できること」と「やりたいこと」を分けた就活観

就活について、大学二年生の今、考えてみたい。

僕達の世代は、「ブラック企業」に代表される長期間労働を強いられる正社員の様態や、それにとどまらない「ブラックバイト」や派遣問題など、正規社員並みの過酷な労働を強いられる非正規労働者の問題、更にニート問題など、就職に関して、まるで夢の無いばかり聞かされている。

そうした問題に対して、小中高では文科省主導のキャリア教育がもてはやされ、大学生はインターンシップに精を出す。


僕の周りには、高学歴に属する友人が多い。正確には”高学校歴”である。
彼らも、就活に悩んでいる。
日本型新卒一括採用システムは崩壊したなどと言われつつも、高学校歴が就職市場である程度存在感を持つのは変わっていないし、大学や高校に行けない人々からしたら憎々しい悩みかもしれない。

彼らと話していると、その悩みの多くは、結局のところ「自分のやりたいことが分からない」というものであると感じる。
キャリア教育も、就活支援サービスも、盛んに自己分析を勧め、転職を前提として将来やりたいことを仕事にすればいいというキャリアプランを”正解”として突きつけてくる。
しかし、実際問題として、大学生程度の狭い視野では自分の適職など分かるわけもなく、やりたいことが見つからないと立ちすくむ大学生達の姿がそこにある。

そうした問題に対して教育という観点から論じるならば、本田由紀氏が言うように教育の職業的意義を充実させていくこと、労働者として<抵抗>できるための知を養うことや、児美川孝一郎氏が言うように教育内容における職業的レリバンスを高めることなどは必要な措置であるように思われる。


さて、こうした状況に置かれている学生たちは、とにかく「自分」を起点として就活を考える。
自分にとって良い環境かどうか、自分のやりたいことに職務が適合しているかどうか、そうした自分主体の価値観が当たり前のように横行している。
果たして、職業というものは自分のやりたいことをするべきなのだろうか?

僕は、自分の「できること」と「やりたいこと」を区別して考えている。
そして、仕事にするならば「できること」で良いのではないか、と考えている。
つまり、仕事というものを自己実現の手段ではなく、「人助け」の手段として捉える。
「やりたいこと」は仕事以外の余暇を使って追求すればよいのではないかと思うのだ。

若者の社会起業に対する関心の高まりについて論じられることがあるが、そうした潮流に両手を挙げて賛成しているというわけではない。
むしろ、仕事というものは本質的に誰かの役に立っているものである、と思うのだ。
だからこそ、自分のできることを仕事にする、という在り方は自然な在り方であるような気がする。

もちろん、かといって個人の意思を無視して各人の能力に合わせた職務を配分しろなどいうつもりはない。
また、やりたいこととできることを非凡な努力と運で実現させている人々も少数ながら存在する。
そうした生き方に憧れる気持ちも理解できる。


しかし、今のキャリア教育は、自分のやりたいことを見つけ、そのための能力を身につけるという一つのやり方のみが正解として押しつけられているように思われる。こうした価値観に緊縛された若者たちは、「本当にやりたいことが存在する」という根拠なきゴールを方策もわからず追い求め、疲弊していくのみである。

教育がすべきなのは、やりたいことを見つける支援のみならず、できることを増やしてあげる、ということなのではないか。その両輪を成立させてこそのキャリア教育ではないか。

やりたいことが見つからないという不安は、自分が何も出来ないということの不安と表裏一体のように思う。
教育は、社会の資源である若者達に、「できること」を増やしてあげられる装置であり、そうした「できること」は、社会にとって役に立つことだと、君たちは役に立つことができるのだと、伝えることができるはずだ。
そうした教育を基盤として、やりたいことの探求ができるような道筋(例えばリカレント教育など)を用意してあげられれば良い。
柔軟な専門性とは、個人にとって有用であるのみならず、社会にとっても有益な能力であるという認識、被教育者に対するメッセージングが必要なのではないか。

やりたいことを仕事にするというキャリアパスの他に、できることを仕事にするという道筋もある、という考え方は、共同体主義であるという指摘もあるかもしれない。しかし、僕はむしろ、若者の「挑戦」を可能にする「安心」をもたらすのではないかと考えている。
何か「できること」があるからこそ、自分のやりたいことに向かって挑戦する、という方向に思い切って舵を切れるのではないだろうか。

こうした考え方を実質化するには、もちろん余暇の拡大や職種間差別解消などの問題を乗り越える必要があることは重々承知している。
しかし、こうした課題をすぐに解決するのは難しい。
今個人ができることは、少なくとも「仕事をする」という行為が、自分にとっての自己実現の手段としてのみ捉えるのではなく、どこかの誰かの役に立っている、という感覚を持つこと、そうした価値観も受容し、既存のキャリア教育的思想を相対化して見ることだと思う。

2014年9月30日火曜日

「なぜ国際バカロレアなのか?」の個人的要点まとめ

日本の教育界一大トレンドである国際バカロレア(IB)について、個人的な要点をまとめてみる。
身の回りの知人や友人の間でも、IBに対する関心は高く、導入の意義や是非について多く意見を聞いた。
そうしたなかで、今現在の自分の中でのIBに対する理解をまとめておきたい。
(IBの概要については、ここでは言及しない。入門としては、坪谷ニュウエル郁子著『世界で生きるチカラ』などがおすすめである。)

①既存の評価・選抜システムの相対化

IBは、後期課程(DP)に限ればすでに世界で100カ国以上で導入されている、「権威」づいたプログラムである。
オックスブリッジやアイビー・リーグが認めている評価基準は、日本の東大を頂点とした受験システムを相対化するだけの権威がある。
それは、これまで学習指導要領の体系の中では評価されにくかったが、IBにおいては評価されやすいという子どもが救われることを意味している。
言うなれば、これまで文部科学省主導で定められていた”学力観”というものさしが、唯一絶対のもではなくなることで、既存の教育からはみ出していた子どもたちの一部が社会的に認められる教育達成を実現できる可能性が生まれるのである。

②国際バカロレアを突破口にした多様な教育機会の保障

前項と関連して、よく勘違いされているのが、「国際バカロレアはグローバルで先進的で、学習指導要領よりも素晴らしいから沢山導入するべきだ」という考え方である。
しかし、これについては日本における国際バカロレア導入を推進する、国際バカロレア機構アジア太平洋地区理事の坪谷ニュウエル郁子氏が明確に否定している。

坪谷氏は、「国際バカロレアを突破口として、子どもたちに多様な教育を選択する機会を提供したい」と語っていた。

IBに限らず、シュタイナーやモンテッソーリ、自由学校、サドベリー、その他フリースクールなど、オルタナティブな教育というものはすでに存在している。しかし、日本におけるそうしたオルタナティブ教育を行っている教育機関の割合は、全体の1%にも満たない。
例えば教育先進国と呼ばれるオランダなどでは、約1割程度がこうしたオルタナティブな教育を提供している。

どの教育が本当に優れているかどうかは、その教育を受ける子どもによって異なるという前提を認めるならば、真に求めるべきはより良い全国画一的な教育プログラムではなく、多様な教育プログラムを選択できる可能性を平等に確保することであろう。

そうした意味で、坪谷氏はIBを絶対的な良いものとしてではなく、あくまで選択肢の一つとして、日本の画一的な選抜システムを戦略的に揺さぶろうとしている。

③教員の創造性を重視する仕組み

IBの特色として、教員が扱う教材は教員自身が決めることができるというものがある。
カリキュラムのテーマに沿ってさえいれば、何を用いて指導するかは教員が決めることができる。
その際、IBコーディネーターと呼ばれる人が、教員とディスカッションなどを交わしながら、教員の指導計画がIBのカリキュラムに沿うものとなっているか、指導の目的と手段が合致しているかなどのクオリティ・コントロールを担う。
しかし、IBコーディネーターはあくまでも教員の創造性を最大限に活かすために対話を行うのであり、コーディネーターが教員に対して「このようにやりなさい」と言うことはない。

ここに見られるのは、教員の有能性を信じ、教員が最大限能力を発揮することが結果的に子どもたちにとっても最大限良い影響を与えることに繋がるという信念である。

④徹底した外部評価

前項では、教師に対する有能観という価値観について述べたが、一方で結果の担保に対しても厳しいのがIBの特徴である。
IBでは、課程によって細部は異なるものの、基本的に担当教師が国際バカロレア機構の基準にもとづいて生徒の評価をした上で、更に外部評価をそこに加える。
担当教員が生徒への思い入れや贔屓感情などによって不当な評価をしていないかどうか、外部の目で二重に評価することで、より客観的な評価を目指している。

この外部評価と、教員による評価の食い違いがあまりに大きい場合、教員としての能力適正を疑われることにもなるため、必然的に教員も客観的な評価を意識せざるを得ない。

このように、教員の有能性を信じつつも結果に対してシビアに向き合うという姿勢を両立させている点が、プログラムとしての国際的な評価に繋がっている。

⑤「10の学習者像(Learner Profile)」

IBを端的に述べる際にもよく引かれるのが、この10の学習者像というものである。
IBが目指す教育理念を学習者像という形で表したものである。

Inquirers
探究する人
Knowledgeable
知識のある人
Thinkers
考える人
Communicators
コミュニケーションができる人
Principled
信念のある人
Open-minded
心を開く人
Caring
思いやりのある人
Risk-takers
挑戦する人
Balanced
バランスのとれた人
Reflective
振り返りができる人
(文部科学省HPより)

では、この学習者像は何が良いのか?
目指す教育ということであれば、文部科学省も「生きる力」といったビジョンを発表している。


「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力
(文部科学省HPより)


この2つを見比べた時に個人的に面白いと感じたのは、学習者像の「振り返りができる人」という項目だった。
その他の項目は、おおまかに「生きる力」の各項目に分類することができる。
しかし、この「振り返り」に関しては、「生きる力」からは読み取ることが難しい。

リフレクションという概念は、IBの中では特に重要視されているようで、授業の終わりの振り返りや学期の終わりの振り返りなどは徹底している。

日本の学校でも、振り返りを行っているところはある、という反論もあると思われるが、個人的な経験から言えば、当時その振り返りがどんな意味を持つのかよく理解できていなかったし、生徒に振り返りのできる人間になって欲しいという期待は感じず、ただ授業の成果が抜け落ちないようにしたい、という教師の意図を感じるのみであった。

生涯学習といったテーマに通ずるこのリフレクションという概念をいち早く教育プログラムの中にしっかりと組み込んでいる点は、非常に興味深いものだと感じた。




以上が、個人的にIBについて面白いと感じている点である。
ここには記述しなかったが、もちろんその問題点なども多く予想される。また、IB自体に価値があっても、文科省主導によるIB導入がうまくいくかどうかはまた別の問題である。

しかし、少なくとも学習指導要領の絶対性が揺るがされるという事態は、教育変革の可能性を感じるものである。
戦後新教育やゆとり教育のように、実証的な成果研究がしっかりと行われないうちに世論に改革の機運が握りつぶされないよう願うばかりである。

2014年8月2日土曜日

ビジョンの盲点

ビジョンを描いて接することが重要である、という話をこないだ聞いた。

ビジョンを描くことはなぜ大事なのか?
ビジョンとはなにか?

ビジョンとは、「達成したい最良の未来」を言語化したものだ。
それ故、ビジョンの根底にあるのはビジョンを語る人の根源的な欲望である。
心の底から達成したいと思えないビジョンは、ただの飾りにすぎない。

従ってビジョンが無いということは、したいことがよくわからないということに等しい。
したいことが分からない、という組織や人に対して、我々が価値を感じることは無いから、結果としてビジョンの有無は人への影響力、組織の推進力に大きく関与する。
チームのリーダーにとって最も重要な能力がビジョンを掲げる力であるということは、まさにこの点を言っている。


学習する組織では共有ビジョンという概念が提示されている。
これは、本質的に個々人に属するビジョンをチームで共有し、互いに納得できるまで抽象化した共通了解をチームのビジョンとして掲げることで、メンバーのコミット、組織の生産性を最大化するという考え方である。

こう述べていくと、ビジョンというものは大変魅力的な、それさえあれば何でもできるような魔法のように思える。


一方で、ビジョンに固執することの落とし穴もあるのではないか。


1つ目は、「万人がビジョンを持っている」という前提である。
共有ビジョンが上手く形成されない理由の一つは、個々人にまずビジョンが存在するという前提自体の危うさである。
自分はこれがしたい!と明確に言える人は、今の日本社会で実は少数なのではないか。
ビジョンを持つ人であっても、それが不都合な現実から目を背けた先の自己暗示であるということを否定しきれるほどに強い使命感を持った人は更に少ないと思われる。

まかり間違っても「ビジョンを持つことが素晴らしい」などといった固定観念を振りかざしてはいけない。そんなことをする権利は誰にも無い。
真のビジョンに目覚めた人ほど、自分のビジョンが自分だけのものでしかなく、他者の在り方を規定する権利などないという諦観を持っている。
そうした”先達”たる人々は、ただもがき苦しみながら自分のビジョンを探す人々をあたたかく見守り、求められた時だけ支援するのである。

それでも共有ビジョンを目指すのであれば、我々に残された選択肢はもはや共有ビジョンという奇跡を信じることしかない。
一人ひとりがビジョンに目覚めてくれるという可能性をただ心の底から信じ続け、関わり続けることだけが、唯一の方法である。


2つ目は、ビジョンの本質が個人の欲望である以上、他者と関わる際に常にそのビジョンは独善性をはらむということである。
リーダーが陥りがちな陥穽は、自分のビジョンがチームの共有ビジョンであると錯覚してしまうことだ。
「誰かを幸せにしたい」という素敵なビジョンは、幸せにして欲しいと思っていない人にとっては単なる迷惑でしかない。
掲げたビジョンの美しさに酔って、独善的に暴走する”ビジョナリー”なチームは、見るに耐えないものがある。
だからこそこうした落とし穴を理解している人・組織は、リフレクションに重きを置くのである。


本当のビジョンを持つためには、見たくないものを見る覚悟を持たなくてはならない。
他人を傷つけ、他人に傷つけられる覚悟を持たなくてはならない。


最終的に人を動かすビジョンは、面白さや楽しさよりも、傷だらけになりながらも貫き通されたことで磨かれた輝きと重みを持つ。
積み重ねられた過去にこそ、我々は物語性を見出すからだ。

結局のところ、我々の自覚する使命なんてものは虚構でしかないのかもしれないが、少なくともビジョンが与えてくれる力は、はかりしれない。

そうした力強く鍛えあげられた信念に憧れる気持ちを消化できないうちは、まだまだだなあと思う。

2014年7月8日火曜日

希薄な現実感と意味的動物

現代は、現実感が希薄になってきている時代である。
そんなことを、高3の頃、吉見俊哉先生の本で読んだことがある。

まるでゲームのように人生を生きる人々。
文脈を無視し、おもしろおかしくストーリーを作り上げるマスメディア。

現代社会では、確かに生身の圧倒的なリアリティを感じることが少ないように思う。

社会学的な視点から言えば、情報の氾濫によって、より分かりやすい情報(=物語的、ネタ的)が取り上げられるとか、ベックの言うリスク社会化によって、自身の人生にオーナーシップを持たない人が増えているとか、そんな考察になるのだろうか。

一方で、人間の本性に立ち返ったとき、「人間は意味的動物である」というV.E.フランクルの言葉が思い返される。

人間は、どうしようもなく意味を求める。
それは根元的な欲求である。

我々のメンタルモデルとは、無機質な現実に何らかの意味を与える視座なのだ。
信念とは、その無味乾燥に現前する現実に耐えられずに生み出された拠り所なのかもしれない。

実は、現実はどうしようもなくカオスで、圧倒的に無意味だ。
物語のように分かりやすく一貫性を持った人など実際にはそう居ないし、その在り方が自然だとも僕は思わない。

しかし、そんな風に究極な不安定な世界で、何を確固たるものとして信じれば良いのか、という問いに対し、デカルトをはじめとして挑んできた人々がいる。

そんな中で僕が一番共感しているフッサールは、知覚が欺かれているとしても、現に私が”そう感じている”という現象は確かなものである、とした現象学を打ち立てた。

興味深いのは、現象自体を判断停止するという現象学の姿勢が、現象に意味を与えることをとどめているところだ。
解釈された瞬間に意味性を持ってしまう現象を、判断停止することでそのままに受け止めようとする。
そこには、フッサール自身が危惧し、当時すでに失われつつあったリアリティの回復という志向が、どこかしら存在していたのではないか。


意味を求めることが、悪いというわけではない。それは人間の自然な在り方だ。
しかし、意味を求めていることに自覚的になったとき、現実を見る視点の幅が広がる。

僕は、せめて自分が生きている意味を見出すのならば、「この時代のこの場所に生まれ、今ここに生きている」という実感から出発せざるを得ないと思っている。

だからこそ、「今、ここ」を見極めたい。
虚構の世界で夢を見て死んでいくよりも、無意味な現実を自分の実感を頼りに踏みしめて生きていたい。
そんなささやかな意地が、自分を自分たらしめている。

2014年7月7日月曜日

教育が最低限果たすべき役割とはなにか?

教育が最低限果たすべき役割とはなにか、ということを考えている。

教育を考えるとき、大きな2つの視点として、政治的・経済的・社会的に求められる教育の機能と、教育される個人にとって必要な機能がある。

前者は、民主主義存立の条件であったり、経済成長のための人材育成であったりする。
後者は、自己実現や自己創出といったキーワードと結びつく。
両者の妥協点に、教育という営みが実現されている。
教育とは、本質的に二重に目的を持つものなのである。

ここで課題となるのは、「はたして他人を教育できるのだろうか?」という根本的な問いである。
前述の通り、他人を教育するとは、自分の利益となるように、他者の自己創出を支援するということだ。
それはつまり、win-winの思想である。

しかし、教育は同時に非対称な関係性も内包している。
教育者は常に被教育者に対して権威を持つ。
このとき、本当に互いに納得の行くwin-winが実現されるのは非常に難しい。

そもそも教育が他者を変容させるということは、たとえ蓋然性の高い事実であったとしても、Aと入力したらBと出力されるといったような科学的な作用でもないし、それが被教育者にとって本当に望ましい介入なのかどうかは、被教育者本人にしか分からない。

結局のところ、全ての教育的営為はお節介の域に留まるしかないのである。

それでも人が教育したいと願い、されたいと思うのは、根源的に他者との繋がりを求めるからなのかもしれない。
人は独りで生きていくしかないのにもかかわらず、独りでは生きていけない。
決して分かり合えないからこそ、分かり合おうと求めるエロスの衝動が人の本性には息づいている。

だとすれば、教育者として持つべき矜持は、対象を承認し、認め、繋がりを保つことではないだろうか。例えどんなに「下手くそ」な教育しかできないとしても、他者を承認する、ということだけが最低限守るべきラインなのかもしれない。

他者を承認する力というのは、人間誰しも与えられた力なのではないか。
なぜなら、誰もが他者に認められたいと願っているからだ。
その苦しみを生まれながらに知っている人間という生物だからこそ、他者を承認することができる。
自分の生を肯定されたかったように、他者の生を肯定することができる。
それが本来人間に与えられた祝福ではなかったのだろうか。

実際に今の社会、現実がそうなっているかと言えば首肯しづらいところはある。
他者を肯定するためには、自分を肯定することがまず必要だし、そうさせてくれない環境が根深く絡みついている。

しかし、だからこそ本来の自分の在り方を見つめなおすべきなのかもしれない。
誰しもが他者を認め合える社会などユートピアかもしれない。
けれども、他者を認められないというその現実こそが、自分を認めて欲しいという苦悩の証左であり、それを超克していく可能性なのだと思っている。

2014年7月1日火曜日

水村美苗『日本語が亡びる時―英語の世紀の中で』2008

良質な日本語の文章というものは、かくも心地よく、熱量を持って人を惹きこむものなのか。


先日所用で参加できなかったインテグラルエジュケーション研究会の課題図書である。

内容に関して軽くまとめると、筆者は言語を<普遍語>、<国語>、<現地語>の3つから捉える。
<現地語>とは、その地域で流通している言葉であり、書き言葉を持たない言語も含まれる。
<国語>とは、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」とされる。

では<普遍語>とはなにか?

<普遍語>とは、<国語>の枠を越えた言語である。
数ある<国語>の中で一番使われている言語、というだけではなく、叡智を求めるために使われ、読まれるべきものとなる言語である。
中世ヨーロッパではラテン語であり、近代では英語・ドイツ語・フランス語の3語であった<普遍語>は、まさに最高に美しいもの、究極の真理を求めるための言語として<普遍語>であった。

そうした学問の言葉としての<普遍語>に対し、学問を乗り越えるものとして文学の言葉として<国語>が成立してくる可能性が生まれる。

明治時代、大量に流れこんできた欧米の叡智を前にして、まず日本人は片っ端から海外の書物を翻訳しようとした。翻訳とは、普遍語で書かれた叡智を、意味を変えずにその地域で伝わるような言語形式に置き換える作業である。
現代でも使われている多くの単語が、この時代の外国語の翻訳であったという事実からも「日本語に翻訳される」という作業を通じて、現地語が国語へ移行していくプロセスを見て取れる。

しかし、そうした翻訳を続けていく中で、人文系の学問などでは単に翻訳されただけの言葉では適切に自国の状況を説明できないという悩みに突き当たる。
夏目漱石の英訳が冴えないように、決して翻訳できないものが国語には存在するからだ。
そうした微妙な表現できないものをなんとか表現しようとして国語は洗練されていき、黄金の日本近代文学の時代を作り上げた。

英語が普遍語となりつつある現代における日本語の危機は、叡智を求める人々が叡智を求めるが故に英語ばかりを読み、日本語を読まなくなり、日本語が滅びていくことである。叡智を求める人々が日本語を読まなくなれば、書き手も日本語で書かなくなる。
そうした悪循環がまさに始まろうとしているのが現代であると筆者は指摘する。

最後に、筆者はこうした悪循環を生んだ要因は日本語教育の観点から論じ、国民全員が「書く主体」となることを目指した悪平等の教育理念から、国民全員が読まれるべき日本語文を読むようにする、という理念への転換を求める。
それは、書き言葉が単なる話し言葉の文字化であるとする「表音主義」に異を唱え、時空を超越した世界との繋がり、そして人類がこれまで蓄えてきた叡智を刻む言葉としての「書き言葉」の本質に立ち返るべきだという筆者の主張である。


以上が僕の理解したこの本の要旨だ。

この本で一番感動したのは、内容もさることながら、その文章の巧みさ、味わい深さである。
読み進めながら、質の高い日本語文章の心地よさ、そして直接心に染み入ってくるような感覚を久々に思い出した。

最近翻訳本などばかり読んでいたからかもしれない。もちろん、翻訳が悪いというわけではない。
ただ、日本語を愛し、日本語に熟達した人が、その思いを日本語で表現するとここまでの文章になるのか、とすっかり感服したのである。それはほんの些細な、微妙なニュアンス、リズム、言い回し、単語、などなどあげれば切りがないほどの「言語の壁」であり、決して翻訳可能なものではない。

筆者は、叡智を求める人が英語ばかりを読み、それによって書き手も英語ばかりで書くようになることで日本語が亡びていくという展望を示しているが、僕はもう少し楽観的である。
この文章を読み、確かにこの文章は日本語でしか書けないと感じられるということは、日本語でしか書かれないことがあるということだ。

他の言語では決して捉えられない日本のリアリティは、日本語でしか書くことはできない。
叡智を求めるという行為が、現実を離れた夢想のような所業に終わらず、現実を更新する強い意志に支えられたものであるならば、彼らが見据えた現実はきっと日本語で表現されるべきなのだと思う。
普遍語に対する国語としての日本語の危機こそが、再び日本語を煌めかせるだろうと、漠然と思っている。


密かに僕の夢に、水村氏のように美しく、人の心を打つ日本語文を書けるようになる、という夢が加わった。

2014年6月30日月曜日

IBと学習指導要領の融合、ヒドゥン・カリキュラム

先日、ALL関東教育フェスタにて、国際バカロレア機構の坪谷・ニュウエル・郁子さんの講演を聞いた。

現在、日本で推進が図られているIB(国際バカロレア)認定校の増設だが、今はIBのカリキュラムを日本の学習指導要領に「読み換える」という作業が行われているらしい。

これはとても意義のあることである。
数多の教育の方法やメソッドにも、互いに共通する部分があり、その読み換えが効く、ということは、より目の前の子どもや環境に即してより適切な方法を採れるということにつながるからだ。


日本人のよく言われる性質として、折衷主義がある。
あんパンのような成功例もあるが、一般的には良いとされているものを見境なく採り入れ、なんとなく全体的に良さげなものを作った結果、元々のそれぞれの良さを殺し、中途半端なものを作ってしまうというニュアンスで揶揄されることが多い。

IBと学習指導要領の融合においても、上記の懸念は拭えない。
例えば、IBの目指す学習者像に「振り返ることができる人(Reflective)」というものがある。
これを学習指導要領においてどのように読み換えるのかは分からないが、既存の学校文化・環境を見渡したとき、内省的だと感じる部分は非常に少ないように思う。

LFAのプログラムをやっていた頃、参加学生に「今まで出会った良い先生とは?」という質問を良くしていたが、「内省的」「絶えず学び続ける」といった概念に結びつく回答はほとんど無かった。

そうしたカリキュラムの外のカリキュラム=ヒドゥン・カリキュラムにまで意識を配らないと、結果的に中途半端な効果しか生まないのではないかと危惧している。

ヴィゴツキーによれば、教師の意義は生徒に直接作用することではなく、生徒を取り巻く環境を教育的に組織することである。
そこには、何を教えるべきか?という問いに加え、学習者は何を学ぶのか?という視点の統合が求められる。

悲観的に書いたが、IBというすでに権威ある体系だったカリキュラムの導入は、学習指導要領の相対化を促し、内省的なプロセスを生むものであるはずだ。

そしてそれは、IBにとどまらず、サドベリーやモンテッソーリ、シュタイナーといったオルタナティブをも包摂した「多様な公教育」への第一歩である。

良いとされるIBをただ移入するだけではなく、日本でこれまで育まれてきた叡智の一つである学習指導要領との総合によって、日本独自の豊かな教育が生まれることを期待している。

2014年6月5日木曜日

『バベルの学校』試写会に行ってきました。

先日、お誘いをいただいて『バベルの学校』という映画の試写会に行ってきました。

↓公式サイト
http://unitedpeople.jp/babel/

アイルランド、セネガル、ブラジル、モロッコ、中国…。世界中から11歳から15歳の子どもたちがフランスにやって来た。これから1年間、パリ市内にある中学校の同じ適応クラスで一緒に過ごすことになる。 24名の生徒、24の国籍…。この世界の縮図のような多文化学級で、フランスで新生活を始めたばかりの十代の彼らが見せてくれる無邪気さ、熱意、そして悩み。果たして宗教の違いや国籍の違いを乗り越えて友情を育むことは出来るのだろうか。そんな先入観をいい意味で裏切り、私たちに未来への希望を見せてくれる作品。 (公式サイトより)

フランスのジュリー・ベルトゥチェリ監督による1時間半ほどのドキュメンタリー映画です。

移民政策などが進んでいるフランスでは、「適応クラス」なるものがあるということは今回初めて知った。フランスに来た事情は家庭ごとに様々であり、中にはやむにやまれぬ切迫した事情でフランスに来た子どももいる。

24つの国籍を持つ生徒が一緒にいるクラスの運営など、想像もできないほどの課題と苦労があることだろう。
しかし、実際に映画を見ると、受けた印象は「どこの国でも教育的課題は似たようなものなのだな」というものだった。

親の子どもに対する期待と、それに反発する子供。
厳しい家庭事情から、突如として転校を余儀なくされる生徒。
成績が振るわず、進級が認められないことを受け容れられない生徒。
自由の国とうたわれているフランスでさえも無くならない、適応クラスの子どもたちに対する偏見。

個々の事情に、社会的な影響があることは言うまでもないが、しかし日本でも同じような問題は起こり得るし、起こっている。
子どもたちの「よく生きたい」という思いは、どこの国のどんな子どもであろうと、全身から訴えかけてきている。


個人的には、保護者の思いにも非常に共感してしまった。

「この子には良い大学に行ってほしい。故郷に戻ったら女性器切除をしなくてはならない。それはこ
の子の幸せのためにはならない」

悲痛な保護者の願いは、親の子どもに対する期待の押しつけは良くない、という一言の正論で片づけられない重さがある。


リード文にあるような「未来への希望」を感じる作品かといえば、そうとも言い切れない気がする作品だった。
ドキュメンタリーという作品についての一般的な考え方について明るいわけではないが、物語ではなく現実を切り取った描写であるとするならば、そこに希望を見るのも絶望を感じるのも見た人の自由であるはずだ。
そこに製作者の恣意が紛れることを否定はできないにしても、そういった意味でなんだかすっきりしない、というこの作品はドキュメンタリーとして良質であるように思う。

「これを見れば多様性がわかる」とか、「子どもたちの可能性は素晴らしい」といったメッセージ性を期待してみた人は、きっとどこか釈然としないものを感じるはずだ。
この作品の中では、多様性も可能性も、現実の厳しさもありのままのものとして描かれている。そこに良いとか悪いといった価値観は存在していない。

しかし、そんなモヤモヤが、物語としての多様性や子どもの可能性に対するアンチテーゼでもあり、ゆえに心に残るものとなるのだろう。


近頃読書に引きこもってばかりの自分をたまには外に連れ出してくれたこの巡りあわせに感謝しつつ。

2014年6月4日水曜日

「共感力」、コンピテンシー、多様性

共感力、がもてはやされている。
教育の分野でも、エンパシー教育が流行の兆しを見せている。
共感こそ、これから求められる能力であり、教育で養っていかなくてはいけない、ということが常識になる時代がもしかしてくるのかもしれない。

そう考えたとき、ふと違和感を感じる。
共感力とはなんだろうか?すべての人間に生来備わっている力で、適切な教育によって全員が最低限必要とされるレベルまで達することができるような能力なのだろうか。
それとも、それが求められる状況で適切な行動をとることができる、そんなコンピテンスなのだろうか。

こんな問いを持ったのは、もし共感力がこのままもてはやされていったらそれは「学力」が「共感力」に置き換わるだけではないのかと思ったからだ。
「あの人は共感力が高いから優秀だ」といった言説がまかり通り、共感できない人はどんどん締め出されていく、というのはあまりにも皮肉すぎるにしても、共感力がある人が共感力のない人に共感し、共感力のない人は共感しない、という社会もまたなんだか気持ちが悪い。

そう考えたとき、問題は2つである。

1つは先に述べたコンピテンシーの問題。
日本人の能力観は、いまだにこのコンピテンシーの概念を受容できていない。
コンピテンシーとは、固定化された数値で測れるような能力ではなく、それが求められる状況において再現性を持った適切な行動ができる、という資質のことである。

何ができるか?というdoの部分に焦点がおかれていること、したがって非常にプラクティカルな概念であり、「純粋な能力」とは言えないかもしれない。

しかし、コンピテンシーの概念を受容することの大きなメリットは、人材評価の軸がより現実に即したものになることだ。「学力が高い人」が優秀なのではなく、「困っている人に声かけして助力を申し出ることが日常的にできる人」が優秀なのである。

一方で、コンピテンシーのシビアなところは、再現性という観点を持つことで、本当に「弱い」人にとっては逆転の可能性が厳しくなるというところである。
センター試験のような一律型の一発試験の評価であれば、それまでどんなに怠惰で堕落した高校生活を送っていたとしても、試験で良い成績さえ取れれば認められる。
この平等性は、家柄や家庭の経済的格差をリセットする可能性を持つものとして、一定の価値があった。
しかし、コンピテンシーは定義上一発試験などで測られるものではないため、そうした逆転を狙う人にとっては厳しいものとなる。


そこから思い当ったのが2つ目の問題で、多様性という概念について。
これも近頃よく言われるようになった。多様性尊重というやつである。

そもそも多様性とは、価値中立の概念である。
多様性がある、ということはプラスでもマイナスでもない、ただの解釈である。
にもかかわらず、「ダイバーシティがある」なんてことが平然とメリットに載せられていたりするのがよく目につく。

確かに、個々人の長所が異なるベクトルを持つことを多様性と呼ぶのは間違っていないが、足りない。
多様性とは、長所と同じように人間だれしも、それぞれ異なった短所を持っているということも含意しているはずだ。
そうした人間としての何かしらの「欠落」の集合が多様性なのだという意識は、実はあまり浸透していない気がしている。

多様性という言葉の価値中立性を意識せず、「多様性万歳」と繰り返すだけでは、いつしか多様性が錦の御旗にようなお題目となって、多くの人を苦しめることになるだろう。

共感力がある人もいれば、ない人もいる。
もちろん、それを涵養していく教育の重要性は否定されるべくもないが、真の共感力はこうした「多様性」というものに対する曇りない気づきを得たところにあるのではないか。

自分も欠落しているし、他人もまた欠落している。そんな人々が集まって多様性が生まれているのがこの社会であり、自身はその社会を構成する一員として生きていく。
そんな事実を受け容れてもらうことが、教育の意義である。
















2014年6月2日月曜日

真木悠介『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』1993

この仕事の中で問おうとしたことは、とても単純なことである。
ぼくたちの「自分」とは何か。
人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。
他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。
そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準している。
(あとがきより)
見田宗介先生の本を読んだのは初めてであったが、率直に感銘を受けた。
広範で深遠な知識と、切れ味鋭い洞察、無駄なく、それでいて筆者の息遣いが伝わるような文章。
圧倒的な知性を感じた。

本書は、全5部からなる<自我の比較社会学>構想の第1部に位置付けられている。
全体の構想は、

1. 動物社会における個体と個体間関係
2. 原始共同体における個我と個我間関係
3. 文明諸社会における個我と個我間関係
4. 近代社会における自我と自我間関係
5. 現代社会における自我と自我間関係

となっている。

動物社会学を軸とした議論が展開されるため、専門的な話は正直ついていけない部分も多かったのだが、それでも非常に面白く読むことができた。


ドーキンスによる、遺伝子は”利己的”であるという論は、動物の利他的行動すらも説明できる。(サケの産卵のための遡上や親鳥が雛をかばうために羽の折れたふりをして敵の注意を引く行為など)
つまり、個体としての利己的行動ではなく、自身の遺伝子を残したい、という遺伝子の利己性によって、我々にとって一見「利他的」に見える行為すら説明できるのである。
(この解釈はドーキンス本人ではなく、著者のものである)

では、個体というのは一体なんなのか?
利己的な遺伝子が乗りこなす生存機械にすぎないのであろうか?(なんともフラットランド的な考え方である)

個体の存立起源は、多細胞生物の発生に関わる。
多細胞生物は、真核細胞の共生体として考えることができる。つまり、個体とは共生体なのである。
ウイルスが個体という共生体から外れた漂流する生成子であるとすれば、個体というのはそうした生成子たちのサライ(宿)としての共同体とかんがえられるかもしれない。

そうした共生体としての個体は、いつしかある種の主体性を持つ。
はじめは、共生体としての機能をよりよく維持するための「エージェント的主体性」から始まり、それは次第にそのシステム自体を支配する本来の力への反逆すら可能にする「テレオノミー的主体性」を持つに至る。
ここに、利己的な遺伝子に対する個体の優越が立ち現れてくるというのである。
(こうした構造は、ロバート・キーガンの知性の発達モデルとも類似する点があり、興味深い。)

しかし、そうした個体は、形成された後であっても、外部の生成子に開かれている。
ドーキンスは「表現の延長型」という理論を展開している。
例えば、我々は幼児を愛くるしいと感じる。
幼児の行動によって我々が直接的な不利益を被ったとしても、成人のそれと比べて不快感を感じることは少ないだろう。
ドーキンスは、こうした幼児の愛くるしさによって他者による庇護を可能にすることもまた、生成子の表現の延長型であるとする。

ここに見られるのは、究極的に利己的な他者との関わりとは、他者に「愛される」こと(利他的な行動をとらせること)であるということである。
個体は、個体として在ってもなお、外部に開かれているのである。

そして、こうした個体と個体の関わり方、テレオノミー的主体性から、著者は個体というものに本質的に備わる自己超越性を指摘する。
テレオノミー的主体性を獲得した個体は、遺伝子の再生成の機械としても規定されないし、個体としての存続を自己目的化するよう迫られてもいない。
究極に利己的にも、利他的にも生きることができるのであり、利己性と利他性は極限の次元で統合される。


こうして概観してみると、生物学的な探求が確かにウィルバーの語るような全体に包括されていることを改めて実感した。

誤解を招かないために言っておきたいのは、著者はカール・ポパーとエクルスの対話にページを割き、脳科学は真の意味で自我の起源を明らかにしないということを述べている。
意識が大脳によって創出されたということが分かったとしても、我々の意識がどのように生まれてきたか、その起源を本当の意味で知ることは決してできないのである。
ウィルバーに則れば、外的な象限による真実と内的・個的な象限による真実は矛盾しないが、一方によって他方を説明しきることもできないのである。

人間という現象を単なる生存機械やガイアシステムに組み込まれた「部品」として扱うフラットランド的な論調とも、神に肉薄する霊長類として神秘性を強調する宗教的論調とも距離を離れ、あるがままを見つめようとする著者の慧眼に、心底恐れいった。

そして、こうした自然科学的な知見というものの重要さを痛感した次第である。

2014年5月28日水曜日

暗黙知の大きい組織は持続可能ではないという話

先日の第5回インテグラルエジュケーション研究会に参加しました。
前回と同様、非常に学び多く、豊かな空間でした。
惜しむらくは、前日夜勤&当日6時起床のコンボで睡眠時間が1時間だったので、後半へとへとであまり頭が回らなかったことです。



研究会の中でも特に印象に残ったのが、暗黙知の話である。
結論から言えば、暗黙知の比率が大きい業界では、上下関係が強くなるということである。

暗黙知とは、文字で記述されないが、確かにその仕事を進める上で役立つ知のことである。
厳密に言えば、本来的に文字で記述できないもの、すなわち身体感覚などに由来する経験知と、文字化しようと思えばできるのに、されていない知の2つがある。
実際に日本でナレッジマネジメントの分野で問題とされているのは主に後者であるように思う。

暗黙知の割合が大きい分野としては、例えば「琴」や武術などを思い浮かべて欲しい。
そこでは、厳然たる「師匠」の存在があり、弟子が師匠に対しフラットに意見を言う、などという情景は思い浮かべにくい。師匠が弟子に秘伝を口伝えするようなイメージである。

一方、その逆としては例えばプログラミングの世界などがわかりやすいだろう。
プログラミングの世界では、Githubなどによって非常にオープンに各人のナレッジが共有されている。プログラマーの序列は、年齢や経験によって決まるのではなく、純粋に作られたプログラムの質(成果)に依拠するところが大きい。


知が記述されないということは、一回性を持っているということである。
書くことは、知を自身の外の世界に繋ぎ止め、永遠化する試みであるから、書かれない知はその人”だけ”のものなのである。
一回性を持っているから、そこに固有の価値が生まれ、固有の価値は権威を持つ。
暗黙知は権威性を帯びるのである。


暗黙知が多くなった組織は、硬化し、質が低下していく。
長く在籍しているスタッフは沢山暗黙知を持っているから、その人に対して「自分ごときが意見を言っても仕方がない」と感じてしまい、フラットな意見交換が起きにくい。

逆に、暗黙知を多く持っている人というのは、自分自身も何か形式化された知から学んできた、というより、自分の経験をしっかりと内省し、経験知を身につけてきたという感覚があるから、「自分でなんとかしろ」と言いたくなって暗黙知の形式知化に積極的ではなくなる。

結果として、古参は懐古に浸って現状を憂い、新人は自分の未熟さを痛感しながらもどうしたらよいかわからず苦しむのである。


もちろん、全ての暗黙知が形式知化できるというわけではないことは上述の通りであるし、経験によって培われた暗黙知の量は、確かに業務遂行能力の優劣を生むことは事実である。
しかし、そうした暗黙知を学びやすい形で極力形式知化することで、そうしたブランクを埋めるのにかかる時間をはるかに短縮することはできるはずだ。

持続的な組織の成長のために、そうした暗黙知を形式知化するという意識を常にメンバー全員が持てるかどうか。特に組織の人員の入れ替わりの激しい組織では、ここがポイントになってくると思う。長期雇用が基本であった日本で、こうした暗黙知の形式知化に対する意識が低かったのも納得がいく話である。


実際に暗黙知を学びやすい形で形式知化するのは実は非常に難しいことであるように思うが、複数の優秀なメンバーから抽出された知を検討していくことで洗練された形式知が生まれてくると思う。
組織の何よりのプロパティは、そうした内省的な積み重ねを研磨し続けていくことで生まれてくる知にほかならないのではないか。


2014年5月23日金曜日

西條剛央『構造構成主義とは何か』2005

予てより周りの人からよく耳にした構造構成主義について、はじめて本を読んだ。
あらゆる分野の人々にとって、踏まえ無くてはならない原理であると感じた。

構造構成主義の要諦は、「関心相関性の原理」である。
関心相関性の原理とは、存在、意味、価値といった現象が主体の関心に相関的に規定される、という原理である。

筆者の例をそのまま引くと、通常我々には単なる水たまりにしか見えないものも、死ぬほど喉が乾いている人にとっては<飲料水>として見える、ということである。

考えてみれば当たり前のこの原理を基に、構造構成主義は”現象”が疑い得ない規定であること、構造化された現象は恣意性を持つが、構造化されることで構造自体の共通了解可能性を高めていけることなどを緻密に論じていく。

筆者によれば、科学とは客観的実在世界を説明する絶対的真理を追究することでも、帰納的あるいは反証可能性を厳密に踏まえたものでもなく、こうした構造の共通了解可能性を限りなく高めた、「より上手く説明される」理論を見つけ出していく営みなのである。

特に感銘を受けたのは、構造構成主義を支える先人たちの様々な思想を取り上げる上で、その根本動機、すなわち何を関心としていたのか、何を解決しようとしたのか、という点をしっかりと抑えている点である。
こうした態度自体が、まさに構造構成主義的であると言えるだろう。

アナロジー的に説明するとすれば、構造構成主義はまさに欲求といった「学習する組織」でいうところのメンタルモデルの次元まで射程に入れた内省的な視点を持つことで、統合的な科学論を実現している、ということだろう。

絶対的真理を否定することによる相対主義や、その帰結としてのニヒリズムからも、メタ的な次元へと距離を採ることで、より創造的、建設的な問題解決を志向している点で、まさにこれからの時代に必要な科学論ではないかと思われる。



一方で、違和感を感じた部分について2点書く。

1点目は、「共通了解」される過程そのものについてである。
筆者の主張は以下である。

このような「構造」は、同一性としてのコトバを含んでいるため純粋に客観的なものではないが、コトバとコトバの関係自体は客観的(共通了解可能)なものである。したがって、構造化することによって、非客観的なコトバ(たとえば「水」)が、客観的な形式を付与した分だけ、より客観的になったのは確かである。 
(中略)
すなわち、現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型ならば、私の「現象→コトバのシニフィエ(同一性)」とあなたの「現象→コトバのシニフィエ(同一性)」の間に完全な平行性が成立し、この平行性はコトバのシニフィアンの同一性に支えられて、構造において完全な共通了解可能性をもちうるのである。(p123)
現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型である、という仮定は果たして共通了解可能性を持つだろうか。筆者はソシュールを引いて、我々が恣意的に言語を学んでいることを前述している。したがって、「現象からコトバの同一性を引き出すやり方」自体が、恣意的な慣習によって獲得されている。

つまり、上記で筆者が述べる「完全な共通了解可能性」が担保されるためには、「現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型である」という共通了解可能な前提が必要であり、これは循環してしまうのではないか。


2点目は、関心相関性の「関心」である。

構造構成主義の中核を成すのは関心相関性の原理である、ということは先に述べたが、ではこの関心とはなんなのか、について筆者はあまり深く掘り下げていないように思われる。

つまり、「関心とはどのようにして生まれてくるのか?」「なぜその関心を持つに至ったのか?」という存在論的な問いである。

関心は各人各様であるから、それに応じて様々な構造が生まれる、というのは理解できるが、その大本である関心自体の存在論的な解明が無い限り、どこか物足りないものを感じてしまう。
筆者が何度も言うように、「当たり前」のように感じてしまい、根源的に揺さぶられるような興奮を感じないのである。
(筆者は当たり前であるが、意義がないというわけではない、ということを繰り返し強調しており、その点は同意である)


構造構成主義が、こうした実存的な問いと合流したときに、ウィルバーのようなコスモロジーに至るのかもしれない、などと邪推してみたのだが。


2点目の違和感については、特に気になっているので、もし誰かうまく解説してくれる方がいたら、ぜひ教えていただけると幸いです。


2014年5月20日火曜日

「ダイアローグ温泉」

「ダイアローグ温泉」という言葉が、最近日本にダイアローグを持ち込んできた人々の間で流行っているらしい。
ぬるま湯に浸かりきった偽物の”ダイアローグ”ということだろう。

ダイアローグとは、単なる情報のやりとりとしてのコミュニケーションを越えた、話し手と聞き手が、互いの価値観や背景、感情などを理解し、共感した上で行われる建設的な対話のことをいう。
学習する組織を代表とする、様々な組織論や課題解決の手法として、近年よくとりあげられるようになった。

この「共感」という部分が曲者である。
相手の意見を、一つの意見として肯定することは確かにダイアローグの前提となるが、「あなたの意見は良いと思います。でも僕は違う意見です。お互い尊重しましょうね」といって終わってしまうのは、真のダイアローグではない。
「みんな違ってみんな良い」がダイアローグの本質ではない。

日本人の和を重んずる文化的深層心理に拠るものなのか、それとも世界中で同じように見られるものなのかは分からないが、この「ダイアローグ温泉」というのはよく見られる光景であるように思う。

これに対し、「対立を恐れるな」という言説もまた、よく言われる話であるが、そもそも「対立」という捉え方自体に、実は落とし穴があるのではないかと思っている。



知人からお借りしたマーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』を読んだ。
NVCとは、「Non-Violent Communication」の略で、名前の通り、マハトマ・ガンジーの「非暴力」という思想に由来する、暴力を解決するためのコミュニケーション方法である。

NVCの4つの要素は、

  1. 観察(observation)
  2. 感情(feeling)
  3. 必要としていること(needs)
  4. 要求(request)

と説明される。

評価を交えない具体的な事実を観察し、言及すること。
自覚した感情を表現し、また相手の感情を汲み取ること。
感情の奥底にある欲求、固定観念に至ること。
上述のプロセスを経て、互いを豊かにする建設的で具体的な要求を示すこと。

である。

これを読んだ時、とっさに思い浮かんだのはコルトハーヘンのリアリスティックアプローチである。
コルトハーヘンは、教師の内省を深め、本質的な気づきを得るためのアプローチとして、教師と子どもそれぞれについて、Do(行為)、Think(思考)、Feel(感情)、Want(欲求)の4つを省察し、それぞれの連関を把握する、という手法を提案している。

NVCとリアリスティックアプローチに共通するのは、感情や欲求といった、不可視ではあるが、我々の行動を最も強く規定している深層を見ようとする態度である。
このことは、内省的な振り返りによって、コミュニケーションにおいて共感を生むことができる、ということを示している。

NVCに求められるのは、相手の話を聞いて、適切なアドバイスをあげたり、自分の経験を語ったりするような態度ではなく、「ただそこに在る」という共感の態度である。
相手という他者に対する自己として、どんな意見を持つか、という認識ではなく、自己と相手の感情や欲求が言動や無意識の行動に結びつき、相互作用を及ぼし合う有機的なシステムそのものと一体化する、そうした共存在としての在り方をNVCは理想とする。
自己と他者、主体と客体といった二元論を共感という人間本来の力によって超えているのである。

ダイアローグが意図しているのも、おそらく同じことであると思われる。
相手への深い共感と一体化の先に、真に創造的なコミュニケーションが行われる。
創造的対立は、そのとき対立ではなく、共に可能性に開かれ、よりよいものを志向する運動の息吹に変わるはずだ。

逆説的に言えば、ダイアローグ温泉になってしまうのは、真の共感が達成されていないということである。相手に共感し、また共感されていると感じているとき、自分の意見を素直に表現することは難しくない。その時、おそらく自分の意見を相手の意見に対立するものと意識して表現している人は居ないだろう。それは、素朴な要求であり、更に豊かな在り方を目指すための提案である。

我々がダイアローグをダイアローグとして用いようとする際、多くの場合何らかの問題解決を念頭に置いている。対話によって「相手を変えよう」としているのである。
しかし、このようにダイアローグの本質を考えれば、そもそも「相手を変えよう」とする態度自体がダイアローグの理念から程遠いものとなってしまっている。

自分の役割に応じた義務、例えば、教師教育者として優秀な教師を育成しなくてはならない、などといった「〇〇ねばならない」という思考こそ、NVCを阻害する大きな要因だとローゼンバーグも述べている。

こうした変容、ギャップアプローチへの信仰をどう乗り越えていくのか、あるいはビジネスの文脈ではそぐわないものとして、ダイアローグ的な理念が廃れていくのかは、21世紀の重要な課題の一つであるように思われる。







2014年5月19日月曜日

なぜ内省的な積み重ねが価値を持つのか

D・ショーン『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』を読了した。
1980年代に出版されたこの本は、あらゆる分野に影響を与え、今日語られる「プロフェッショナル」論はほぼ彼の論に依拠しているように思われる。
彼は、技術的に熟達した専門家像(高度に体系化された理論としての知識を持つ専門家)から、行為の中で常に省察する、reflectiveな専門家像こそ、これからの時代に求められるのではないか、という提起をしている。


僕は、内省的な積み重ねこそ、現代において確たる価値を持つという信念を持っている。
それはなぜか。

テクノロジーの驚異的な進歩や、国際化が進む現代において、我々が日常直面する課題もますます多様化、複雑化している。
「何か絶対の正しい正解がある」というイデア志向は限界を迎え、不断の努力によってより良いものを目指し続ける、というデューイのメリオリズム的なものへと価値観がシフトしてきている。

絶え間ない省察とは、本来我々が持っている力だったのではないか。
ショーンは著書の中で、幼い子どもが、重心が中心からずれた積み木を積み上げる実験を通して、子どもが「長方形の積み木の中心に重心がある」という幾何学的法則を経験によって修正し、重心のずれた積み木も器用に積み重ねていけるようになる、というピアジェ派の実験について言及している。
無意識的にせよ、意識的にせよ、我々にとって内省とは生来備わっている力のように思われるのだ。


内省の積み重ねは、固有性の価値を生む。
ある人の経験は一つとして同じものは無いし、同様に内省によって何に気づくか、もまた千差万別である。そうした内省のプロセスの積み重ねの先には、その人にしかたどり着けない境地があり、すなわち固有性を形成するのである。

唯一の正解が無い状況において志向されるべきは、こうした内省のプロセスを不断に行うことができるという態度である。
もちろん、「内省こそ正解だ!」と述べることは、自己矛盾であるから、「本当に我々は不断の内省をしていく必要があるのだろうか」と内省し続けることもまた重要である。
そうした意味では、信念などというものもまた虚構なのかもしれない。


内省によって得られるべきは、「本質的な諸相への気づき」であり、それを基にした「選択肢の拡大」である。
それまで無意識によって条件付けられていた自分の行為を、内省というプロセスによって意識化し、同じような状況に遭遇したときに、違った選択肢を採ることができる、というのが内省による発達だろう。

そうした内省を繰り返した先にあるのはなんだろうか。
無限の選択肢を採れるということは、無限に自由であるということである。
自身を縛る無意識構造に気づき続けることで、人は自由を拡大していく。
内省こそ、人が自由に生きるための真に実存的な営みなのではないか。


だが、疑問は残る。

我々はどのようにして内省を手に入れたのか?(このあたりは一つ前の記事で書いた、W-J・オングの『声の文化と文字の文化』が興味深い)
内省が得意な人とそうではない人がいるのはなぜか?このことは何を意味しているのか?


内省というものを、単に自己実現のプロセスや学習科学の一要素とだけ捉えているのでは、その本態に迫ることができないように感じている。
オングのように、社会・文化的な側面や、あるいは脳科学のような生物学的側面、仏教や弁証法、ポストモダン思想などの思想的な側面からも探求していきたいと思う。






2014年5月16日金曜日

W-J・オング『声の文化と文字の文化』1991

圧倒的な知的興奮。
ちょうど「内省とは何か?」という問いに向き合っていた自分が当に読むべき一冊だった。

インテグラルエジュケーション研究会の参考図書として購入したのだが、相変わらず実に学びが多い。というより、自分の興味関心分野、視点にとても近い。

本書は、「書く」ことが発明される以前の「声の文化(オラリティ)」から、「文字の文化(リテラシー)」へと発達してきた過程を明らかにしながら、そうした移行が我々の意識段階にまで大きな変容をもたらしていること、そして我々がいかに「文字の文化」に縛られた思考様式を用いているか、ということに気づかせてくれる。

声の文化とは、書くことが発明される以前の世界である。
例えばホメロスの詩を思い出してもらえれば良いと思う。

著者は声の文化の特徴として、以下の9つをあげる。

  1. 累加的であり、従属的でない
  2. 累積的であり、分析的でない
  3. 冗長ないし「多弁的」
  4. 保守的ないし伝統主義的
  5. 人間的な生活世界への密着
  6. 闘技的なトーン
  7. 感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない。
  8. 恒常性維持的
  9. 状況依存的であって、抽象的ではない
1~3に関しては、例えば、「イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである」
といったような文言を思い浮かべてもらえればよい。
冗長であり、累加的であることが分かる。
この冗長性にも意味はある。

声は、音から生まれている。
著者によれば、「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」

したがって、声の文化においては「過去」は意識されない。
常に「現在」を生きるのが声の文化である。

発生と同時に消えてしまう音の世界では、記憶するためには必然的に冗長で独特のリズム、韻に基づいた言い回し、決まり文句が必要となってくる。
だからこそ、現代の我々にとって、声の文化で生まれたテクストを読む際にはある種の苦痛を感じるのである。


聴覚と視覚の対比は、声の文化と文字の文化の対比につながる。
(前述した9つの特徴のうち、5,7,8あたりに通ずる話である)

聴覚は、人間の感覚の中であるものの内部を直接的に感覚するのに最も有効な感覚である。
視覚は、ある物理的な立体の内面を見たとしても、それはあくまで「外面」として認識される。
しかし、我々は箱を叩いた音によって、箱の内面を感覚することができるのである。

「視覚は分離し、音は合体させる。視覚においては、見ている者が、見ている対象の外側に、そして、その対象から離れたところに位置づけられるのに対し、音は、聞く者の内部に注ぎ込まれる。」
(p153)
視覚の理想は、明晰判明性(分けて見ること)であるのに対し、聴覚の理想はハーモニーなのである。

聴覚に立脚する声の文化の時代、人間は「内面」というものに気づいていなかった。
自分を中心として、世界が自分の周りに広がっている、という感覚である。
このとき、世界と自分は分離されていない。

文字の文化、すなわち視覚優位の時代になって初めて、人間は自身と世界を分離して捉えることができるようになった。主体-客体という認知が生まれたのである。
こうして、人間は具体的な生活世界を離れた抽象世界を作り出すことができた。
その象徴として、著作はプラトンの「イデア説」をあげている。
現実の生活世界とは離れたところに、整然とした、完全性の真実の世界が存在する、という思考は、まさしく書くことによって生まれた抽象的・分析的・内省的な思考様式が基盤となっているのである。

また、9については、ヴィゴツキーの弟子であったルリアの実験が引き合いに出されている。
ここで具体例を述べることはしないが、個人的な経験に通ずる部分があり、とても頷ける話であった。
大学に通わない人が同世代の50%にのぼる、という感覚は、大学生にとっては意外かもしれない。
大学に入ること=優秀である、などという陳腐な話をしたいわけではないが、例えば大学に行っていないような友人と話す際に微妙に感じる「話が咬み合わない」感に似たものをルリアの洞察から感じた。
それは決して論理的に劣っているということではなく、声の文化の中では合理的に発せられている文言なのであるということは、貴重な示唆であると感じた。


筆者はこうして、膨大な言語学、文学研究の知見を惜しみなく披露しながら、我々がどのように声の文化から文字の文化へと移行してきたか、それはいかなる場面に見られるのか、について述べているが、ここでは割愛する。

重要な指摘は、我々が普段当たり前のように用いている論理的思考ないし分析的、構造的、内省的思考といったものは、「書く」というテクノロジーをもってして初めて生まれてきたものではないか、ということだ。

書く行為と話す行為の最大の違いは、聞き手の存在である。
話すときは、目の前に必ず聞き手の存在が絶えず意識されている。(意識的な独り言であっても、自分に向かって語りかけているといえるだろう。)
コミュニケーションは、メディアを通じた単なる情報のやりとりではなく、前提として相手の存在を互いの精神に内在化している必要がある。
その意味で、我々は独りで話すことは出来ないのであり、話しているときは独りではないのである。

しかし、書くことは孤独な行為である。
書き手である自分に対する読み手というものは常に虚構である。
書くとき、我々は常に虚構としての読み手を想像しなくてはならない。自分と世界という相対する構造がそこに生まれてくる。
したがって、書くという行為は内省的思考と密接に結びついているのである。

筆者は最後に、二次的な文字の文化=エレクトロニクスの文化についても言及しているが、この本が書かれた当時はまだTwitterもFacebookもLINEも無かった。
TwitterやFacebookで書かれているテクストは、読み手の不在によって限りなく孤独であった「書く」ことから、曖昧にではあるが読み手の存在を意識できる「つぶやく」ことに変化していると思われる。
そこに内省的な思考は存在するのだろうか?

また、LINEに代表される「スタンプ」という機能も、この視点から見ると興味深い。
読み書きは出来ないが、スタンプで会話できる人、なんて存在はひょっとしたら一定数いるのではないか。
最近、Facebookの投稿は読めるが、学校で扱う文章にはついていけない子どもが出てきている、という話を聞いたのだが、これはまさしく、そうしたSNS的な場で書かれるテクストと、伝統的な書かれたものとが、根本的に違う技術であるということに起因する話かもしれない。



教育という側面から考えた時、内省、言語、発達のこの3つの密接な結び付きを解きほぐしていくことは非常に有意義であると思う。

先日のエントリーで、内省において言語化することにこだわり過ぎてはいけない、という主張をしたが、それは著者の言う「プレテクスト(テクスト化される前のもの)」と「テクスト」の差異の話と近い。
テクストは根元的にプレテクストであり、プレテクストとテクストは一対一対応のような関係でもない。

一方で、確かに我々の内省的な思考の基盤は書くことに大きく依存しているのであり、書くことの技術を磨くことは、より内省的な思考を育む上で重要なのかもしれない。

しかし、著者はこの点に関して明確な言明をしていないように思われる。
もちろん、教育的観点から書かれたものではないため、批判には値しないが、内省的思考が育まれるから書くことが生まれたのか、書くことが発明されたから内省的思考様式が生まれたのかについては、正確なところが分かっていない、という言うべきではないだろうか。

少なくとも、我々の個人的な発達段階と、集団(文明)としての発達段階の相関がここでも見られるということは忘れてはならない。
教育というものは常に時代の要請に応えるべきものでもあるからだ。

そして、もう一つ大事なことは、こうした思索自体が、テクストに依存しているということである。
こうしてブログに文章化している時点で、僕の思考は書くことによる文字の文化に強く規定されているしという内省的気付きを大切にしたい。


この本から得られた示唆を到底すべてここに記述することができた気がしないので、ぜひ興味を持たれた方は読んでみて欲しいと思う。
特に、内省について興味のある人や、教育に携わる人であれば。

次にイノベーションが起こるとしたら、「ありがとう」と頭で思い浮かべるだけで発音され、特定の相手に伝達できるような、テレパシー的なテクノロジーだろうか。などと夢想しつつ。

2014年5月12日月曜日

持続可能な理念とは。

2年間のマネージャー経験で、常につきまとったのは「ビジョンの体現」という課題だった。
リーダーはビジョンを体現しなくてはならない。
考えてみれば当たり前のように思われるこの原則は、実は非常に難易度が高いように思われる。

教育思想史に関する本をここ最近読んでいるが、数多の教育思想が、実践にばかり着目した誤解から批判され、廃れていく歴史を実感している。
最近でも、西川純先生による『学び合い』が、西川先生の理念を歪めるような形で広まり、本質からずれたところで批判や対立が起こっているように見える。

なぜ、理念は正しく理解されないのか。
理論と実践は乖離せざるを得ないものなのだろうか。

そう考えた時、前述した「ビジョンの体現」という話を思い出した。
リーダーはビジョンを語るだけではなく、行動で、全身で、そのビジョンを体現しなくてはならない。
すなわち、言行一致の一貫性である。
一貫性が信頼と安心を土台とした協同のチームを作る。

ここで重要なのは、リーダーが語るビジョンにおいて、リーダー自身を例外としない、という構造である。
「全ての人が幸せに働くことを目指す」と言っておきながら、「ただし自分は例外」というのは、そのビジョンの限界あるいは脆弱性を認めていることと同義だし、持続可能ではない。

リーダーが自省的であるべきなのは、究極このビジョンに自分が誠実かどうか、という一点である。
自身の行動、言動、その他全ての在り方が、掲げる理念に即しているかどうかを反省し続けることがリーダーの条件である。

教育思想にも同じことが言えるのではないだろうか。
デューイの掲げた教育思想に則っていると自負していた実践者たちは、子ども中心主義への批判を受けた際に、真にメリオリズム的に行動していたのだろうか。

教育思想はともすれば、思想に基づく実践自身をその思想から疎外しているような傾向はないだろうか。
「子どもに何も押し付けてはいけない」という人々は、その思想を誰かに押し付けていないだろうか。
「すべての意見には平等に価値がある」という人々は、その意見を一段高みにおいて上から目線に陥っていないだろうか。

思想が思想家のものではないように、理念とは、掲げる誰かのものではない。
理念は、共有される人々の間という無形の空間にあるものだ。
だからこそ、不断の内省によってそれは鍛え上げられ、より多くの人を魅了するようになるのである。

当為は「当に為される」から当為なのであって、口先だけの理想は実を持たない。
医者の不養生が笑い話になるように、考えてみれば呆れ返るほどの事態なのだが、実際にこれを体現するのは非常に難しい。
だからこそ、省みるという習慣を大事にしたいと思う。


2014年5月11日日曜日

言語化至上主義を揺さぶりたい。

我々は言語を誰もが同じように使える当然の能力として見てはいないだろうか。

以前LFAでリフレクションを設計していたときのこと、
リフレクションシートと呼ばれる内省用のシートの記述が少ないことから、内省が足りていないと判断した、という話を聞いた。
しかし、実際にその教師の指導が改善していないわけではなかった。

言語化できる、ということの前提条件として、言語能力がある程度発達していることが求められる。
記述すれば自明のことだが、あるいは無意識の前提(メンタルモデル)となってしまっていないだろうか。

確かに、言語化できないということは思考が足りていないことと重なっていることは多い。
我々は言語なくして思考できないからだ。
それに、言語が内面的事実を共有する上で最も有用なツールであることも疑い得ないと思っている。

しかし同時に、本質的な気付きというのはうまく言語化できないことが多いのも事実である。
なぜなら、コルトハーヘンのリアリスティックアプローチにも示されているように、本質的な諸相への気付きへと至るためには、思考面だけではなく、行動、感情、欲求といったレベルも含めた内省が必要だからである。

言語化された気付きというのは、言語化されえない気付きをなんとか言語化しようと試みた結果なのであり、重要なのは言語化されえないものを言語化しようとする敢然性にある。
そこに気づかず、ただ言語化された「結果」だけを読んで理解しようとすると、真の意味で学びを共有することはできない。

他者の学びを観測するには、言語によって測るしかないという現実的制約が、我々に言語というものをある種絶対化し、あたかも客観的な尺度かのように錯覚させているのではないか。

僕は当時言語化にこだわらないリフレクションとして絵やレゴブロックを使った学びの共有を発想したが、そうした手法が本質なのではない。

「これが自分の欲求です」と書かれていたとしても、そこに言語化されたことと、その人が実際に自覚している欲求との間には抜け落ちているものがあり、それを人間に本来的に備わっている力によって汲み取ることが重要なのである。




2014年5月10日土曜日

「すべての人が生きたいように生きている社会」への反論

少し前まで寒かったのに、あっという間に半袖で外出したくなる季節。
教育の意義とはなにか。相変わらず考えている中、ウィルバーの『無境界』をふと思い出した。


内省という試みは、無意識を意識化することであると過去のエントリーで書いたが、無意識を意識化するとはどういうことか、更に深く考えてみる。

結論から述べれば、内省とは「境界線に気づく」行為である。
私たちは差異の世界に生きている。
差異を差異として認めるために、境界を引く。
最たるものは、「命名」だろうか。名付けることで、対象を「分類」する境界線を引く。
そうして数多に引かれた境界線の世界で、我々は生きている。

そうした境界線に気づくことが、内省という思考である。構造を把握する、といっても良い。
境界線に気づくことがなぜ重要かといえば、境界線を引くことで分断され、「ありのまま」ではなくなってしまったことによって起きる葛藤を克服することができるからである。

例えば、他者との間で起きる諍いは、自分とその人の立脚する価値観やメンタルモデルの相違が根本的な原因である。自分を縛るメンタルモデルに気づくことは、実は他者と自分の境界線を越えることにほかならない。

内面的な葛藤においても、自分を縛る固定観念からの解放こそが鍵をにぎる。自分という存在を何らかの境界線によって自己に押し込めていることが、実は内的葛藤を生んでいる構造的要因である。

そうした内省をとことん深くつきつめると、どこに至るのだろうか?
「すべての人が生きたいように生きること」こそ大事なのだという言説をたまに耳にする。
しかし、これに僕は違和感を感じている。

「自分が生きたいように生きる」という段階の先(内省によって至る)には、「自分が生きたいように生かされている(そうなっている)」という段階があるのではないか。

僕は、全ての人が生きたいように生きている社会よりも、全ての人が生きたいように生かされていることに気づきつつ、生きたいように生きている社会がよいと思う。
その方が、社会というものを構成して生きていかざるを得ない我々の本態に寄り添っている気がするからだ、


教育の意義とは、なんだろうか。
教育において未来永劫疑いようのない事実は、「教育とは、人格と人格との相互活動である」ということだと思う。
このありのままの事実を見落としてしまうような境界線を引くと、どこかで誰かが苦しみ、泣き、憤っていることになる。

であれば、教育において最も大切なことは、相互活動を通じて、自己と世界が本質的に区別されていないということに気づくことかもしれない。

自分自身その段階に至っているかと言えばそうと言い切れないが、入り口ぐらいは覗けている気がする今日この頃。

2014年5月8日木曜日

田中智志『教育臨床学 <生きる>を学ぶ』2012

ずっとおすすめされて積んであった本。
なるほど、これは自分が読むべきだった。
少しいつもより気合を入れて書いてみた。

筆者の提唱する教育臨床学の要点は、以下と理解した。

①教育という営為の倫理的基底(すなわち人の根源的様態であり、日常性の存立条件である)を存在論的に捉える。
②我々自身が社会に参画し、社会を形作る一員であるということを認識するため、社会構造論を踏まえる。
③その人の固有性を肯定し、自己創出を支援することが「よい」教育である
④倫理的基底と社会構造論を踏まえた教育の再構築は、不断により良いものを目指すというメリオリズム的なものでなくてはならない。


①については、本書で最も多く語られているところである。
この倫理的基底を支える概念として、作者は、「命の固有性」「重層する関係性」「衝迫の倫理感覚」という3つの基礎概念をあげている。

「命の固有性」とは、一見当たり前のように思われる概念だが、ここでは存在論的にその固有性を論じている点が特徴である。
「あの人は優秀だ、有用だ」といった卓越性や、「一人として同じ顔の人はいない」といった生物学的特殊性ではなく、存在論的関係性の中に命の固有性を見出しているのである。

すなわち、私たちは情念的に強く結ばれた誰かとの関係性の中で初めて、「かけがえのない存在」となるのであり、その「かけがえのなさ」は私が所有しているものではなく、私と親密な誰かとの関係性に在る。

ではそうした関係性を存立させているのはなにか。
それが倫理的な感覚を伴いながら他者の命に共鳴共振するという我々の本来的に持つ感覚なのである。
目の前で死にかけた人を見た時、その人を助けるべきかどうか思考する前に手を差し伸べてしまう。そんな衝迫の感覚である。
「衝迫する」のは、我々が他人に無関心ではいられないということである。

こうした倫理感覚がどのように養われていくのか、残念ながら本書では明確な結論は出ていない。
しかし、おそらく無条件の肯定に支えられた世界という他者と自己との相互浸透が大きく関わっているのではないかと筆者は述べている。


ここから少し自分なりに考えたことを書きたい。

1つ目は、先日ブログに書かせていただいた苫野先生の『どのような教育が「よい」教育か』との関連について。

実は非常に光栄なことだが、先の記事を苫野先生自身がTwitterでお読み下さり、疑問に応えてくださった。
Twitterを利用しての苫野先生とのやりとりは非常に心躍るものであったし、同時に自らの未熟さを実感する契機ともなった。

ともかく、上記の本で苫野先生は、「よい」教育を論ずる上での共通了解はなにか、という問いに向き合っているが、その際に「よさ」を論ずる基底として、『我々は「生きたいように生きたい」と我々が感じている』という現象学的事実をとりあげている。

本著『教育臨床学 <生きる>を学ぶ』では、人間を自己創出し続ける人格システムとして捉える。
自己創出とは、「自分を重視する視点に立って思考し・感受するとともに、他者を重視する視点に立って思考し感受することで、自分を作りかえるシステムである。」(p249)
つまり、自己創出は、他者言及無しにはなされない。ここに教育という営みを支える関係性ないし倫理的基底の存在が浮かび上がってくる。
また、自己創出は「生まれ変わり続ける」システムである。ここにも、不断に「今、ここ」ではない場所を目指す我々の実存性が垣間見られると言える。

田中先生が言いたいことを、苫野先生が言おうとしていることと比較してみると面白い。
苫野先生は、どのような教育が「よい」教育かを考えるための共通了解はなにか、ということを問うていて、田中先生はそうした共通了解を得ようとする教育という営み自体を支えようとしているように感じた。
このあたりはまだ少しもやもやしているので、今後も考えていきたい。


2つ目は、発達との関連について。
本著で唯一欠けているとしたら、「発達」の視点ではないだろうか。
本書で語られているような存在論的な了解に至るには、段階的な発達を経る必要があると思われるし、筆者が再三に渡って教育には相応しくないと批判する「交換の思考」や「目的合理性」は、インテグラル理論的には合理性段階の産物として(乗り越えられていくものとしても)理解できる。

逆に言うと、インテグラル理論的な発達の視点を持って本書を読むと、その完成度の高さに舌を巻く。特に印象深かったのは、やはり敢然性(メリオリズム)という態度、そして自己創出し続けるシステムという人間観が、発達を健全化するというインテグラル理論の思想と親和性が高かったことである。


やはり教育哲学をやる上で、最新の発達心理学はかかせないと感じた。
ウィルバーから、カート・フィッシャーやロバート・キーガンにも興味を持つようになったのだが、彼らのような最先端の発達心理学者の知見は、こうした教育哲学の最先端とも実は親和性が高いのではないか。

この仮説はかなり面白い気がしているので密かに温めておこうと思う。






2014年5月2日金曜日

J.クリシュナムルティ『子どもたちとの対話』1992

Time誌が選ぶ20世紀の聖人5人の中で、ダライ・ラマやマザーテレサとならんで選出されているクリシュナムルティ。
彼が子どもたちに向かって行った講話の記録である。

クリシュナムルティは、15歳の時すでに神智学協会の指導者によって見出され、「星の教団」の指導者となる。その後、「真理は道なき土地であり、組織できない」として教団を解散させてしまう。

ここまで聞くと、オカルティックな「触れてはいけないタイプの思想」のような気がするが、一般的なそうしたカルト的思想に見られるような難解な概念語は全く出てこないし、言っていることは終始一貫していてドグマ的な要素もない。

クリシュナムルティという人は、日本では教育に興味がある人にとっても非常にマイナーな人間である。知っているという人に会ったことは殆ど無いのだが、これもめぐり合わせか、過去一度だけイベント企画でお世話になった友人がクリシュナムルティを知っていた。

お互いに「なんで知ってるの!?」という興奮から、「勉強会をしよう」という話になり、カフェでクリシュナムルティを巡って話し合ってきた次第である。

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クリシュナムルティの思想は明快で、要は「条件付けに気づき、観察しつづけることで自由になれる」ということである。
条件付けというのは、我々の思考や行動は、絶えず生起する様々な欲望や恐怖、不安を紛らわすための一種の防衛反応として無意識に反応してしまっているということである。

例えば、「もっと実力をつけたい」という思考は、実力がないことによって自分の価値が否定されることへの恐怖によって条件付けられている。
繰り返される思考は、思考することでそうした恐怖から目を背け、紛らわせようとする反応なのである。

我々はこうした無数の条件付けによって、苦しいこと、辛いことから目を背け、誰にも否定できないような美辞麗句を並べ立ててセルフブランディングに勤しんだり、何か一つの信念に固執したりする。

こうした条件付けが、恐怖や不安によって起こっていることに気づき、ひたすら観察すること(あるいはクリシュナムルティは「ありのままを観ること」と呼んでいるが)によって、我々は真に豊かな生に目覚めるのである。


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このクリシュナムルティの言っていることは、まさに我々が「内省」と呼んでいるものに近い(特に、仏教における「観< vipassanā>」に類似していると感じた)
内省とは、無意識を意識化するプロセスである。
内省の中で認知される自身のメンタルモデルは、最も深いところで確かに恐れや不安といった感情と結びついている。

クリシュナムルティは、こと教育に情熱を注いだ人でもあり、インドに5校、アメリカに1校、イギリスに1校、クリシュナムルティスクールと呼ばれる学校を設立している。
クリシュナムルティの教育理念は、子どもたちがこうした条件付けに縛られないように支援する、というものだ。
教育における内省の重要性について問いなおす上で、クリシュナムルティの思想は非常に参考になると思われる。


この著作を読んで感じた疑問は2は、クリシュナムルティは、既存の学校システムを恐怖によって条件付けられているとし、子どもたちには、条件付けから自由になるためにそうではない安心できる空間を提供しなくてはならないとしている。
しかし、現実的にはそのような条件付けに縛られている人、システムが社会の中では至るところに見られるし、我々が成長していく中でそうした条件付けに縛られてしまうことはある種必要なことのように思われる。
全てに自覚的であるとしたら、様々なことが気になって他者とのコミュニケーションなどできないだろう。条件付けもまた、我々にとって生きていくための一つの方策である。
また、子どもの発達段階を考慮した際に、幼い段階からこのような高度な内省能力が身につくのか、といった疑問もある。

つまり、条件付けによって縛られる、というのは一つの発達段階として捉えるべきではないか、ということである。
条件付けによって縛られるからこそ、その条件付けを自覚できるようになるのだ。
そうした意味で、端から縛られない教育というのは志向されるべきではあるが現実に完全に実現されないし、されるべきではないと思う。

クリシュナムルティは、そうした条件付けから究極に自由になった段階、かなり高度な段階について述べているが、その間の段階については言及していない。(発達的な発想が見られない)
そのため一見してとっつきづらく、難解に感じられるのではないかと思うのだ。
ここはインテグラル理論的に段階という概念を持ちこむことで、クリシュナムルティの言っていることが我々の現在の延長線上にあることを実感でき、理解できると思う。

本書は子どもたち向けに話された内容であるため、要諦を掴んでしまうと少々冗長に感じる部分もある。
クリシュナムルティは他にも教育について語っている本があるので、ぜひとも読んでみようと思う。

自分の理解について、話すことでより思考が明確になり、とても文章が書きやすいことに気づいた。


2014年4月30日水曜日

小玉重夫『シティズンシップの教育思想』2003

シティズンシップとはなにか、という問いについての入門書。

ソクラテス、プラトンからポストモダンまでの思想を踏まえながら、シティズンシップという概念がどのように形成されてきたのかを概説している。

200ページにも満たない非常に読みやすい本ながら、ある程度思想的な知識がないと読み解けないところもある気がした。
あくまで入門的な概説であるため、衝撃を受けるような深い味わいは感じられないものの、これからの教育を考える上で必要な知識、考え方を教えてくれる。

教師は「真理の代弁者」でもシニシズムに陥った「プラグマニスト」でもなく、「過去と未来の間」に立った(教師自身を脱構築した)存在であることが求められる、という主張は、ポストモダンを乗り越えていく統合的な思想の一つだと言える。
単なる中道論を越えた統合的な発想というのが、今後メインストリームになっていくことを予感させた。

シティズンシップ教育というのは、ルーマン的に言えば「政治機能システム」からの「教育機能システム」への要請である。
教育という社会的機能が、政治や経済機能から強く規定されている、というのは自明のことであるが、一方で教育は子どものためであるという思想も根強く、これらは常に対立しているように見える。
こうした対立を乗り越え、あるべき公教育の姿を考える一つの方法として、シティズンシップ教育という発想は優れているのではないかと思う。

ただ、筆者はこうしたシティズンシップ教育を具体的に実践していく場として総合的な学習の時間の活用をあげているが、それに対しては疑問が残った。
プラトン的な知識偏重教育への反省として、教科科目と道徳的活動あるいは課外活動の並列化、という発想が見られるが、シティズンシップに求められるパブリックな場で異質な他者と協働していく力は、そもそも教科横断的な要素である気がする。
教育とは、それ自体が人と人との関係的行為であるから、これはシティズンシップ教育の授業で、これはそうではない、ということは本質的には間違っている。

科学的知識を伝授するカリキュラムと、シティズンシップを涵養するカリキュラムは、まるでDNAの二重らせんのように絡み合っているもののように思う。


アレントをちゃんと読まねばならないなあと思ったのであった。
(読まねばならないものばっかり増えていく…)

2014年4月29日火曜日

なぜ「ThinkPad x240s」なのか

たまには趣向を変えて。
ノートPCの選び方としても参考になる、かも?

僕が愛用しているノートPC、「ThinkPad x240s」
実は中学生時代からThinkPadに惚れ込んでいるのだが、なぜThinkPadが素晴らしいのか。
一度語ってみたかった…!

まず、前提として今持ち歩きを前提とするノートPCを買うならば、「Ultrabook」一択だろう。
Ultrabookとは、intelが認定する要件を満たしたノートのみ名乗ることができる、薄型ノートPCの種類である。
前述のとおり、非常に薄い(厚みは23mm以下)
薄いので軽い。
以前僕は重量2kg近くのノートPCを持ち歩いていたが、肩が凝って仕方がなかった。
軽さというのは持ち歩きを意図したノートPC選びではかなり重要なファクターである。

Ultrabookを選ぶという前提の上で、なぜThinkPadを選んだのか。
それには大きく分けて4つの理由がある。

①キーボード

ThinkPadと言えばキーボードである。特許を取得しているほどのその技術は、長時間打っていても疲れない、心地良い打鍵感を実現している。
x240sから導入された7列アイソレイテッドキーボードは、古参のファンからは賛否両論だが、個人的には十分満足できる。

一般にUltrabookは薄さを実現するために、キーボードを犠牲にしている。
クッションが十分に考慮されない薄いキーボードは、30分打っているだけでも疲れる。
お気に入りの携帯用キーボードを持ち歩く主義の人は構わないが、USBポートを一つ食うし、持ち運ぶ荷物も増えるので、ノートPCを買う際にはキーボードの心地よさはぜひとも考慮にいれるべきだと思う。

②堅牢性

ThinkPadのもう一つの特徴、それは堅牢性である。
「落としても壊れない」これはとても重要である。
据え置きではないノートPCは、常に損傷の危険性にさらされているといっても過言ではない。

特に壊れやすいのは、ヒンジの部分だ。
x240sは、ヒンジがステンレス素材であり、左右2つに分かれている上、外側にはみ出していない(伝わりづらくて申し訳ないです)
某Dellなどはこの部分までアルミ素材でコストカットしているので非常に脆い。
開いたり閉じたりすることが多いノートPCにおいて、壊れたら即修理に出さないといけないヒンジ部分の強さは見落とせないポイントである。

また、ThinkPad x240sの更に素晴らしいところは、開閉角度がほぼ180度であるところだ。
ノートPCを実際に使ってみると、180度開閉のありがたみがよく分かる。
椅子に座る角度に合わせて自在に角度を変えられるし、思わず手が滑ってしまっても、180度開閉なのでモニタ部分が折れてしまった!なんてことはない。

PCを懇切丁寧に扱う自身のないめんどくさがり屋の人にはぜひおすすめしたい。

③非光沢液晶

デザイナーならともかく、文書作成ぐらいの用途であれば、非光沢液晶をおすすめする。
映り込みがないため、長時間見ていても疲れないし、汚れもそこまで気にならない。
VAIOの液晶などは確かに美しいが、僕はそんなに写真や動画を美しく見るためにUltrabookを選んでいるわけではないので、非光沢液晶を選ぶべきだと思う。

④RGB端子

プロジェクターとの接続に必要なRGB端子。
Ultrabookでは、mini-port化されていることが多いが、今でも多くのプロジェクターはRGB接続である。いちいち変換ケーブルを買って持ち歩くのは非常に面倒くさいので、こうした配慮は実にありがたい。


以上がThinkPad x240sを選んだ主なポイントだろうか。
正直CPUやメモリなどはどこもそんなに変わらないので、とりあえずなるだけハイスペックなものを選んでおけば良い。(特にメモリは糸目をつけない)
HDDかSSDか、に関してはSSDがおすすめだが、僕のように特に雑にPCを扱う人間や大容量を求める人はHDDが良い。

最有力の対抗馬であるMacbookとの比較では、薄さはMacbook、拡張性はThinkpad(windows)に上がるが、仕事をする際に最も気になっていた起動時間についてはwindows8になることでほぼ解消されたので、お高いMacbookを選ぶ理由がなくなってしまった。

ThinkPad x240sの弱点を強いてあげるとすれば、ファンクションキーだろうか。
個人的には、音量の調節などはファンクションキーではなく、独立ボタンの方が良い。
しかし、それほど致命的な弱点でも無いように思われる。


以上、高い機能性と堅牢性を実現するThinkPadの設計思想に惚れ込んでいる男の戯言でした。

2014年4月28日月曜日

柴田義松『ヴィゴツキー入門』2006

ピアジェと並ぶ、「心理学におけるモーツァルト」とまで評されたロシアの天才心理学者、ヴィゴツキーの入門書である。

入門書なだけあって、全体的に平易に語られており、内容も広く浅く、といった印象を受けた。

ヴィゴツキーの発達理論の要諦は以下だと理解した。

・教育は、一人では出来ないが、協同によって達成できる<発達の最近接領域>に合わせて行われるべきである。
・精神発達は、生物学的/個的な所与の条件によってのみ解明されるものではなく、文化的/社会的/歴史的環境に影響を受ける。
・子どもの発達を媒介するのは、言語である。高次の精神機能は、他者とのコミュニケーションなどの外部に向けた社会活動と、内省的、論理的思考などの内部に向けた活動において立ち現れるが、その際双方とも言語を心理的道具として用いている。
・具体的、直接的な経験によって形成される生活的概念(自然発生的概念)と、抽象的、間接的で体系性を持つ科学的概念の結び合わせがあるべき学習の本質である。

正直なところ、ヴィゴツキーの代表的著作『思考と言語』や筆者がおすすめしている『教育心理学講義』を読まないと、何も分からないという感覚に包まれている。

ヴィゴツキーの興味深いところは、言語と発達の関わりについて鋭く洞察しているところと、発達というメカニズムの本質を明らかにしながら、教育の意義をしっかりとそこに組み込んでいるところだと思う。

特に後者については、よく幼い子どもたちの発揮する創造性を目の当たりにして、まるで偉大な芸術家であるかのようにその有能性を崇拝する思想や、児童中心主義的楽観論と距離をとり、現実的で説得力のある理論を展開しているところが好ましく思えた。

ヴィゴツキーは、フロイト心理学やゲシュタルト心理学がまるで世界の根本の理論であるかのように振る舞っていったことを強く批判している。
(今日でも、「全ては性欲だ」などといった言説は自覚的無自覚的にかかわらず我々の世界には根強く浸透している観念だろう)

苫野先生の著書を読んでいて思ったことだが、本質とか真理とかいったものは錐体のような形なのだと思う。
「真実は多面的だ」などいった話はよく聞くが、それだけでは足りない。
真理は確かに様々な面を持つが、それと同時に深み、高さを持っている。(更に言えば時間的な概念もあるだろうが)
全てが並列に並び立つ”多様性”の世界ではなく、様々な洞察を統合していく洞察もまたありうる。
そこにあるのは水平の関係性ではなく、垂直的な関係性のはずだ。

もちろん、そうした垂直性を優劣の基準として捉えることは致命的な誤謬であるし、人類の危機をもたらす。そこをどう乗り越えるか、というのが今後の課題だろうか…


書評からだいぶ脱線してしまった気がするが、ヴィゴツキーは日本ではピアジェなどと比べてあまり知られていない気がする。(ヴィゴツキー的な教育実践は数多くあるとしても)

とても興味深い理論なので、ぜひ一度手にとって見てはどうだろうか。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』2011

「かっこいいなあ」というのが最初の感想だった。

現代教育学の行き詰まりは広田先生らによって至る所で語られている(気がする)が、そんな中で「よい」教育とはなにか、という本質的な難問に切り込んでいくのは本当にかっこいい。

それを解き明かすのは、実に難しいからである。

本書を読んでいて、共感できる部分が多かった。7割ぐらいは苫野先生の言っていることに共感する。
例えばコミュニタリアニズムやリバタリアニズムを対立的な構図としてではなく、その上位に一つメタ的な原理を置くことで相補的な理論実践として捉える、といった発想は筆者が言うように「当たり前」だと感じていた。
(特に僕は対して勉強していないので、政治哲学なんぞをやっておられる方々はそんなことは当然すぎるのでスルーしてたものとばかり思っていた。)

しかし、一方でどうしても違和感を拭えない部分が2つ、正確には1つ残った。
それは、筆者が教育の本質を「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」としている、まさしく根本の部分である。
具体的には3章の部分にあたる。

1つ目の違和感について。
筆者はこの結論に至る過程で、現象学的なアプローチを用いている。
現象学は、絶対的な事実ではなく、個人に訪れる実感こそ、唯一確信に値すると考える。
(りんごが赤い、というのは事実かどうか確かめられない。しかし、私が「あのりんごは赤い」と感じる実感は疑い得ない)

だからこそ、筆者が議論の出発点としているのは絶対の人間観や道徳観などではなく、個人の欲望からである。欲望は、個々人が自らに問うことでその妥当性を検証できるからだという。
そして、この欲望の中で最も本質的なものは「自由」への欲望である、と筆者は言う。

しかし、本当にそうなのだろうか?

最も本質的な欲望が自由である、という論理は、例えば「高価なクルマが欲しい」「沢山お金が欲しい」といった欲望それ自体が、現状への不満(不自由)に規定されているからこそ、常に欲望というものが自由への志向性を持つ、というように説明されている。
だが、ここで欲望を底版として据えたのは、現象学的アプローチを採用したからこそだ。

「最も本質的な欲望が自由である」という実感が全ての人に訪れるなんてことはまず無いだろう。
そしてそのように述べる因果関係は決して現象学的ではないように思われる。
「君の『草になりたい』という欲望は、『自由になりたい』ってことなんだよ」と諭しでもすれば、そのような実感に至ることはあるかもしれないが、それを認めてしまったら本書で述べている大半のことが無意味になってしまうだろう。

2つ目の違和感について。

そもそも自由について、筆者はまずこう述べている。

私たちは、私たちの欲望それ自体において規定されている(制限されている)。しかしそれでもなお、この諸規定性の内にあって、自らの意志において選択・決定の可能性が開かれていると感じられた時、その時に私たちは、まさに<自由>の感度を得ることができるのだ、と。「我欲す」と「我成しうる」の一致の実感、これこそが、私たちが<自由>という時のその本質なのである。(p114-115)
また、自由の相互承認のために、筆者(というよりヘーゲル)は他者からの承認が必要であるという。
世界各地において、歴史上、奴隷は必ず反乱を起こした。十八~十九世紀ヨーロッパにおいて、自由を抑圧された人々は革命を起こした。前世紀、アメリカの黒人たちは公民権運動を起こし、自由を制限されていた女性たちは女性解放運動を起こした。そして今もなお、私たちは世界各地で起こる革命を目撃し続けている。自らの<自由>を他者に認めさせることができない限り、私たちは<自由>を感じることができないのだ。(p120)
 端的に言うと、自由であると感じられるためには、自らを規定する欲望に自覚的でありつつ、そこに自由な意思決定の可能性を見出すことが必要であり、同時にその自由を他者に認めさせる必要がある、ということだ。
ここに違和感がある。

そもそも自らを規定する欲望に気づく、というのはどういうことか。
この文言を見てすぐに思いつくのは内省のプロセスだ。
自分を縛り付ける固定観念をメタ認知することで、そこから「自由」になるための方法が内省である。
そうした内省によって感じられるであろう自由は、他者からの承認を受ける必要があるのだろうか。

V.E.フランクルは、人間の本質的な価値として「態度価値」をあげている。
態度価値とは、人間が何も創造できず、体験できない状況であったとしても、自分の力ではどうにもできない運命に対して、どのような態度をとるか、という点で価値を生み出すことができる、という思想である。
そしてフランクルは、まさに態度価値を発揮する局面において人は自由を感じるのだという。
逃れられない、変えようもない運命を前にしてなお、人はどんな態度をとるか、という選択の自由を持つ。それこそが究極の自由であり、人が自由であるという証左なのである。

このフランクルの考え方においては、自由というものは他者からの承認は必要ないように思える。
フランクルの考え方が全て正しいと主張するわけではない。
(僕自身が考える自由は、クリシュナムルティの言う自由に近いと思っているが、要は究極のメタ認知である。)

どのみち思うのは、先の引用の後者で述べている自由と、前者で述べている自由は少し違うのではないか、ということだ。

前者で述べている自由は、人間存在を俯瞰的にとらえている点で確かにその本質に通ずる部分があると思う。しかし、後者でいう自由は、あくまで政治的、経済的な権利といった皮相的なレベルでの自由にとどまっているように思われる。


おそらく、他者からの承認を必要とする次元の自由もあるのだろう。
しかし、そこで終わりではない。
自己を承認し、他者を承認し、他者から承認されることが自由と感じられるための成立条件だと筆者は述べている。
ここに発達的な視座が欠けている。
自己を承認できる段階、他者を承認できる段階、他者から承認されたと感じる段階、それぞれの関係性を明らかにしなくてはならない。そこに通底している志向性こそが、きっと本当の原理につながっているのではないか。

自由になれたら、そこで終わりなのだろうか?
自由とは一度実感したらずっと自由なのだろうか?
自由になった人たちの欲望は何なのだろうか?
自由の相互承認がされ、各自の自由が実現した社会はどんな社会なのだろうか?
他者の自由を承認する、というのは、無関心と何が違うのだろうか?
自由はそもそも実現できるものなのだろうか?


教育学における規範論という極めてカオスな分野に一石を投じた苫野先生の著書。
読後、全くすっきりしない感覚を味わい、長い時間考えてしまった。
自らの教育観を鍛えあげる上で、ぜひともおすすめしたい一冊になりそうだ。

2014年4月24日木曜日

セレンディピティと統合のカタルシス

最近読んだ本や、人と話したことが、なぜか不思議と結びついてくる感覚を持つことが多い。

苫野先生の本と広田先生の本は、子どもにとっての「安心できる学習空間」について同じことを述べているし、これはクリシュナムルティにもつながる。

クリシュナムルティはヴィパッサナーの概念と強く結びつく。

インテグラルエジュケーション研究会でテーマとなった言語と発達について考えていたところ、熊野先生の中でルソーとコンディヤックの言語についての認識に出会った。

フランクルの『意味への意志』を読んでいたら、ウィルバーの”統合への衝動”が頭をよぎった。

ロックの観想やアリストテレスの存在論は、気づけば原始仏教と比較しながら読んでいた。

それぞれ、上で述べたような気付きを求めて選んだ本ではない。
全く偶然の導きで、どんどん様々な体系がつながっていく。

昔、ある人に「君の強みは、他の人にとって一本の細い線でつながるかどうかといったことが、いくつもの線でで結び合わされているように見えるんだね。」というようなことを言われたことがある。


ブルーム理論における「統合」という働きに近いと思う。

確かに自分はそうした「統合」という思考作用に強く魅了されているけども、今はそれ以上にこうした「セレンディピティ」的な何かに神秘性を感じている。

鈴木規夫氏がブログの中で、探求という行為自体が何か大いなるものに与えられた特権である、というようなことを述べていたが、その感覚が今なんとなく分かる気がする。

もちろん、自分の興味関心に合わせて手にとった本なのだから、ある程度似通っているといえば似通っているのかもしれないが、それにしてもこうした出会いに数多く恵まれることに対しては幸運を感じる。

統合という方法は、世界の見え方をより深く、直観に近づけていく方法だと思う。
この世界を、フロイト心理学や量子論だけで説明できると思っている人はあまりいないだろう(いるかもしれないけど)
それぞれの世界で探求していった結果、経験的に獲得されたその領域での真理を統合していくことで、ありのままを観ることができるような気がする。


ブルーム理論では、統合の先に「創造」がある。
最終的に自分が何を創造できるのか、自分ごとながら楽しみだなーと思ったコーヒーブレイクでした。



2014年4月21日月曜日

第四回インテグラルエジュケーション研究会に行って来ました

遂に、ずっと行きたかったインテグラルエジュケーション研究会へ行くことができました。

僕がかつて参加したどんな勉強会よりも良質な空間だった気がします。

参加されている他の方々の発達のレベルが凄い。
社会人の方ばかりだったのですが、それぞれ多様な立場から教育を探求している方で、皆さん本当に素晴らしい知見をお持ちでした。
かといって、それをひけらかすような態度が全く無い。
包容力とみずみずしい知的好奇心を備えた素敵な方ばかりでした。

テーマは言語と発達について。
工藤順一先生の課題図書を参考にしながら、あっという間に3時間語り合いました。

ここにきちんと書くとものすごい分量になってしまうので、自分への備忘録も兼ねて今回はメモの形で学びを記述しておきたいと思います。

■ロバート・キーガンの発達理論について
「本当に著書で述べているようなエクササイズだけで人は変容するのか?」
➡いくつかの条件がある。

例えば、4つのコラムを”しっかり”と埋められていること。
当人にとって、根幹に関わるような重大なテーマを記述できていることが必要。
他人にとってそうしたテーマは些細に見えることも多い。

一人ではなかなかそうしたテーマを書き出すことは難しいので、コーチの意義が生ずる。

また、一回ではなく、そうしたテーマを複数克服していくことではじめて変容に至る。

■言語と発達
クロイターによる文章による発達段階のテスト。
ヴィゴツキー 「言語が発達を媒介している」
外国語学習によって初めて母国語を相対化できる➡自己と世界の相対化、という構図が発達の構図と似ている

■神話的段階と神話的合理性段階の違い

・神話的段階
「ベッドの下になにかいる」という感覚
未知のものに対する恐怖を物語、解釈によって安定させる。
おみくじや占星術、手相などを信じたくなる。

・神話的合理性段階
「神学」
神話に対して内省的になる段階。
客観的前提を共有できている他者としか対話できない。

・合理性段階
「宗派を越えた対話」「ダブルループラーニング」
自身の前提を相対化できる。

・前期ヴィジョン・ロジック段階
無意識を相対化できる。
他者に対し、私自身をも相対化できる。
➡他者の価値観から物事を見ることができる(共感、想像力)
➡存在そのものがフィクションであるという認識。ポストモダンへ。※ポストモダンと仏教の親和性

■読み書きと評価
他人に分かるように伝える、というのは非常に高度な能力である。
よく読むことができるのに国語のテストはできない、という子ども。
➡ザック・スタイン 学習における測定の位置づけ

国語力は伸びない。
国語によって算数の成績が決まり、算数によって理社が決まる。

■話し言葉から書き言葉へ
話し言葉は、空間、時間を共有している相手にしか伝えられない。
書き言葉は、空間、時間を超越する。➡他者、世界への気づき


■言語と身体性
我々の言語はメタファー思考にもとづく。
「宇宙は大きい」というのは、自分の身体と比較して語っている。
「明らかにする」という表現は、視覚のメタファーである。

身体性(body)と言語(abstract)の関わりは密接であると同時に、大きなジャンプでもある。
抽象化される前の情報量が貧しいと、そこから生まれる概念も貧しい。

英語が得意な人は、自分の身体的感覚と英語を結びつけるのが上手い。

※オイリュトミー…音ごとに動きが存在し、更に感情が加わる。神道にも見られる発想。
音の持つ神秘性、霊性にシュタイナーは気づいていた。

■感覚と言語
そもそも感覚が5つに分かれている、ということは自明ではない。
シュタイナー教育では、「十二感覚論」を採用している。

言語も一つの感覚ではないか?我々は言語を手足と同じように使っている。

経験から抽象を取り出す力を積まないと、他者の経験を自分のものにできない。
ファンタジーは、bodyのレベルを俯瞰的に追体験する。

「読書に没頭することとルービック・キューブに没頭することは同じか?」
➡モンテッソーリの気づき「子どもは誰から教授されずとも、そうした具体物への没頭の中で、自ら抽象概念(法則)を取り出すことができる」

「音読と黙読はどのような関係にある?」
聞く、話すは話し言葉=bodyの次元
読む、書くは書き言葉=abstractの次元

音読は自分で口を動かす、音をだすことが大事なのか。その音を聞くことが大事なのか。

読めている=「本を読む姿勢ができている」
外界との関わりを断って、本の世界に没入できているということ。

読むときに内面的に声がしている人、そうではない人がいる。
➡自分の経験では、論述的な文章は内面で音読しているが、物語ではセリフなどのみ音がしている感覚。


松岡正剛「人類が黙読を始めた時期と、無意識に気づいた時期が重なる」

ウィルバーやヴィゴツキー、工藤先生、シュタイナーの理論を統合して考えれば、読書感想文を小学校低学年段階の子どもに書かせるというのは極めてナンセンスなのではないか?



■自分の中で消化されなかった問い、気付き
・工藤先生は、ファンタジーにおける愛や未知への好奇心が子どもにとって、周りの世界に対する信頼を形作るとしているが、そこのつながりがよくわからない。
・ヴィジョン・ロジック段階の思想である脱構築では、言語すら解体されてしまう。そんな世界では、言語は発達とどのように関わるのか?
・感覚を研ぎ澄ませることで見えるもの、逆に抽象世界の概念を知ることで見えるものがある。
(前者の例は瞑想、後者の例としては、サッカーのルールを知らない人と知っている人ではゲームの見え方が違う、など)この2つの関係性についてうまく説明したい。
・インテグラル理論や、メタ的、統合的な理論の意義は、多分世界のありのままに近づくための方法を教えてくれることではないか。













2014年4月19日土曜日

パーソナルマスタリーでは「恐怖」を語れ

パーソナルマスタリーという概念がある。
かの有名なピーター・センゲが『学習する組織』の中で提唱した五つのディシプリン(柱)のうちの1つである。
パーソナルマスタリーとは、己を知り、自らの意思でそこに立ち、ビジョン実現のために行動できることです。
パーソナルマスタリーは、学習する組織の要です。
学習する組織における活動は、一人ひとりの動機の源泉に結びつけ考えられます。
そのためには、一人ひとりが、自己の動機の源泉を知ることがとても重要な前提となります。

パーソナルマスタリーを持つ人は ・・・
・ 自分を知っている
・ どうやって今の自分にたどり着いたのかを知っている
・ これから自分がどうなりたいのかがわかる
・ どうしたらそれを実現できるかを知っている
 (「熊平美香ウェブサイト」 http://www.a-kumahira.co.jp/fifth/personal.html)

手元に諸事情で『学習する組織』が無いという痛恨のミスを犯してしまったので、熊平氏ことべあみかさんのウェブサイトから引用させていただいた。

パーソナルマスタリーは、学習する組織におけるメンバーには不可欠な能力であり、まさに根幹であるといえる。

所属していた団体でも、このパーソナルマスタリーは非常に重要視されており、プログラムに教師として参加した時やスタッフとして入会した時、まずはじめにパーソナルマスタリーの共有というセッションに十二分な時間を割いていた。今でもこれは団体が作り上げた最も優れた組織文化のうちの1つであると思っている。

そのセッションでは、自分が何を経験し、なぜこの団体に参加し、将来何を達成したいと思い、何を大切にしているのか、などについて用意された問いに事前に記入した上でわりかし自由に各人が話す。

このレベルでの深い自己開示には相当の内省力が前提とされることはもちろん、安心できる空間が何よりも重要であるが、それを毎回きちんと構築できているところが本当に素晴らしいところだったと思う。話している中で思わず感極まって涙する人もいるぐらいである。


しかし、どこか違和感を感じる箇所もあった。
パーソナルマスタリーとは一体何なのか?
そもそも自分は、「自分はこういう者である」と確信を持って語ることができるのか?
そんな風に語っている人を思い浮かべてみる。
なぜか、どこか敬遠したくなる気がするのである。

また、いかに素晴らしい場作りをしたとしても、聞いていて「薄っぺらい」と思えてしまう話もあった。
(非常に失礼な発言をしていると思うが、その人が薄っぺらい体験しかしていないとか人格が薄っぺらいとかそういう話ではなく、あくまでパーソナルマスタリーの語り方について述べていることを釈明しておきます)

この非常に微妙な違和感について、組織に属していた際は十分に考える余裕がなかった。
今では少し時間がとれるので、自分なりに考察してみた。

そもそもパーソナルマスタリーという概念が前提としているのは、「人間は誰しも人生の中で達成したいと思っていることがある」という考え方である。

達成したいというのはどういうことか?
達成したいということは、今現在達成されていない何か、つまり現状が存在する。
現状からの変容を望むのである。

変容を望む以上そこには何かしらの「不満」が存在しているはずだ。

なぜ不満なのか。
J・クリシュナムルティは、変容を望む不満とはすなわち恐怖と不安であると言う。
満たされない恐怖が不満なのだ。

パーソナルマスタリーの定義上、達成したいビジョンが個人について外在的なものを対象としていたとしても、それは個人の内在的な経験や所謂原体験などに根ざしていることは前提である。
したがってこの場合の恐怖は個人の恐怖である。

「こうありたい」「こうしたい」という思考の背後には必ず恐怖がある。
だからこそ、そこを認知し、語るからパーソナルマスタリーに実が伴うのではないかと思うのだ。
自分の恐怖を認知し、受容してこそ初めて「私はこういう者である」と語り得るのではないか。
同時に、そうした自分の恐怖、そしてそこから生み出される「自己防衛システム」(R. キーガン 2013)という自己強化型ループを自覚することが何よりも変容への第一歩であり変容それ自体である。


僕自身、この「パーソナルマスタリー共有」は少し苦手な部分があった。
先ほど薄っぺらいという話をしたが、聞く人によっては「お前の話だろ」とツッコミを入れておられることだと思う。

それはきっと、本当の意味で自分の恐怖を語っていなかったからだと思う。

くわしく語ると非常に長いので省くが、僕は団体が一番見たいと思っていた子どもたちとしっかりと向き合った経験が無かった。
NPOという団体の性質上、「当事者意識」というものは何よりも重視される。
企業におけるサラリーが、NPOではやりがいに相当する、なんて言説もあるほどだ。

団体では、「自分たちが教師として向き合ってきた子どもたち」こそがやりがい、当事者意識の原点だった。
そんな中で、向き合ってきた子どもたちをある種持たない僕は、団体のビジョンやミッションを真に理解しているという資格などなかったと思うし、そのことは実感としてあった。

それでも団体に残っていたのは子どもたちというより団体に所属していた他のスタッフやこれまで関わってきてくれた多くの人々のため、といった視点の方が強かった。

しかし、そうした自分の辛さや意識のズレを周りになかなか共有することができなかった。そこには確かに、異端として白い目で見られる恐怖があったように思う。


見苦しい自分語りに脱線してしまったが、言いたいのは「恐怖」ぬきに語られるパーソナルマスタリーはどこか胡散臭さを持っていて、その理由はきっと人ってもっとどろどろしてるとこもあるし弱いところもあるんだよっていう当たり前の結論である。

ビジョンやミッションを自明のものとして置く考え自体が実はウィルバー的に言えば合理的思考段階の域にとどまっているようにも思える。
ビジョンやミッションより先んじて、ありのままにそこにあるものがあるのではないか。

現に、今僕にはやりたいことがあるが、それは何かを変えるとか達成する、という感覚ではなかったりする。
やりたいこと、達成したいことの裏にある恐怖を見つめ続けていった結果、なぜかよくわからないし、それがなんのメリットがあるのか人に全然説明できないけどそれが残った、といった感覚である。

今の自分を変容させる、というより今の自分の延長線上に間違いなくそれが「ある」のである。
わかりやすく言うと、ビジョンと現状の創造的緊張は、「〇〇ねばならない」「変容しなくてはならない」という緊張を生むが、そうは決して思わない、ということである。
気づいたら「変容」に向けて歩き始めていて、〇〇しなくてはならない、ということはそこには存在しない、という感覚。

伝わるだろうか?
「他人にそのメリットを全く説明できない」というのがある種何かヒントになっている気がするのだが…

パーソナルマスタリーについて自分なりに考察してみたが、そもそもパーソナルマスタリーという概念自体を正確に認識できているのか、自分でも少々自信がないので、もし見当違いのことを言っていたら申し訳ない。多めに見てやってください。

最近気づいたのだが、僕のブログは全く明瞭な結論に達しないし結論に達したように見えてもうまく説明できていなかったりして本当に自分の思考の稚拙さには顔から火が出るばかりの思いだけれど、それがあるがままの自分でもあるのということで、一つ。

























2014年4月17日木曜日

教育って学問じゃなくね?と思ったこと

広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』(2009)を読んだ。
平たく言えば、「教育学とはなにか」ということについて論じた本である。

読みかけのクリシュナムルティを自宅に置いてくるという大失態を犯してしまったため、たまたま持っていた本書を読了した。

自分が受けているわけでもないのに教科書販売所で「あ、広田先生のまだ読んでないやつだ!」と思って買ってしまった本である。

教育学を志す初学者にも配慮された本で、教育学をどこか突き放して見ながら、歴史的文脈やその課題についてわかりやすく論じている。1時間程度で読み終わってしまった。

本書の組み立ては、教育学成立の経緯、教育学の分類、教育学の意義と課題、教育学の未来、そして今後教育学を学ぶ人のためへの手引、といった具合である。

ペスタロッチやヘルバルト、デューイといった著名な教育学者の思想を、プレツィンカの「実践教育学」「教育科学」といった枠組みなどから俯瞰的に捉え直している。
恥ずかしながら後者は知らなかったので、とてもおもしろく読めた。
歴史的な視点が弱いなあと反省しきりである。

本書によれば、教育学というものは、本質的に確固たる議論の基盤となる科学的な事実を持ち得ず、その中で規範を創出していかなくてはならない、という悲劇的なものである。
従って、時代や空間に応じて学術的根拠の曖昧な様々な教育理念が溢れているのが常である。

こうしたあるべき教育を論じる姿勢について、下記の部分が特に考えさせられた。

「教育の目的を一般的に語る時、たとえば、「子どもがもって生まれた無限の可能性を引き出し、花開かせてやることである」とか、「全面発達を保証することである」などといういい方が好んで用いられる。ところが、これらのいい方は、一見そうであるのと違い、教育の目的を述べるものではなくて、目的についてはなにも規定するものではない。なんのためにそうするのか、そこにふくまれている人間像はなにか、についてなにもいっていない。」(p110, 原聡介より)

これはなかなか耳に痛い指摘である。
学習支援をしていた時、「子どもの可能性を信じる」ということを内外問わず理念として語っていた経験があるからだ。
また、子どもの発達というものを適切に支援する、という考え方は僕自身の教育観にも非常に近い。

この指摘の前提であるのは、本来教育における目的は外在的であるという考え方である。
教育には、必ず他者が存在する。
「学習」は一人でもできるが、「教育」には必ず教育する者と教育される者が存在するのである。

従って、教育とは発達可能性を持つ他者になんらかの理由、目的があって介入することであり、そこには確かに外在的な目的が存在すると考えるのが妥当であろう。

かといって、そうした目的、例えば「社会化のため」とか、「経済を促進するため」「市民を作るため」といった目的に素直に頷けるかと言えばそうではない。


この難問について思うのは、果たして教育”学”によってこの問題を解決できるのだろうか?ということである。
まともに教育学をやったこともない素人が大それたことを言っている気がするが、素人だからこそ未熟な自分の考えを書き残しておきたい。

教育学が科学としてどこか不安定で脆弱なのは、本書で広田先生が指摘しているように、教育と実証的研究の相性の悪さが大きな要因である。
それに加え、ポストモダンの流行によって、これまで積み上げられて来た教育思想全体の妥当性までが脅かされている。

ここまで教育学が行き詰まっているのは、教育学を学問として成り立たせようとしているからではないのだろうか。
信頼に足る十分な事実に裏付けられた一般性のある仮説なくして、教育を語ることはできない、という思い込みがあるのではないだろうか。

教育の目的は、人間存在に対する深い理解と切っても切れない関係にあるが、そもそも人間存在というものを科学的なアプローチからのみ解明することができるのだろうか?
(もちろん念頭にあるのはインテグラル理論の四象限である)

例えば、思考によってではなく、瞑想などの観察によって至るとされる「本質的な気づき」は、科学的には到達しえない真理である。
もちろん、そうした真理に至った人々のサンプルを集め、そこに普遍的な何かを見出すことはできるだろうが、それは真理自体に至ることとは明確に異なる。

子どもが楽しい!と感じていることを僕らは理解できるかもしれないが、本当の意味でその楽しいという感覚を決して共有することはできない。そもそも彼らが楽しいと呼ぶ感覚と、自分が楽しいと思う感覚が同じであるなどということは決して証明することはできない。


教育の目的を学問によって述べなければならないというのは、教育自体が社会の提供するシステムであり、従って多くの人に受け入れられるように言語的に記述された目的でなくてはならないといった事情に拠るのではないか。

こうした限界を理解することが必要であるように思う。そして、学問的なアプローチと個人・集団の内面的な真理を統合した視点を持つこと。そうして初めて教育というものの本質に迫ることができるような気がするのである。
なぜなら、確かに学問的アプローチには限界があるが、学問的領域において得られた事実と内面的な世界における事実は確かに関係性を持つはずだからだ。
それは場合によっては言語にできないものもあるかもしれない。しかし、僕は言語化できないものにも普遍性を持つものはあるように感じるのだ。

教育には外在的な目的と内在的な目的がある、という考え方はそのとおりだと思うが、実はその外在的な目的、内在的な目的は共にもっと大いなるところから来ているのではないか、という感覚。

ここまで書いて、自分でもうまく言語化できていないことを痛感しているが、そもそも言語化できるものではないのかもしれないといったある種の諦観も感じている。

様々な思想を読んでいても、思考ではなく、本質を直観した経験が先にあって、それをなんとか言語化しようとして書き手が苦しんでいる、という感覚を持つときがよくある。

今のこうした自分の感覚が未熟ゆえの甘ったれた逃避なのか、それとも曲がりなりにも正鵠を射ているのか。学問することによって自分の感考えがどう検証されていくのか、非常に楽しみである。






2014年4月16日水曜日

苫野一徳『教育の力』2014

今年3月に発売されたばかりの苫野先生の新書である。

教育を考える上で前提として了解すべき価値観、そしてこれからの教育はどうあるべきか?ということについて書かれている。

苫野先生の思想には非常に共感できる部分も多く、それゆえに普段以上に批判的に読んでしまった。

まず、特に共感できたのは「教師の協働」を推進していくべきだという考えである。

「重要な事は、いろんな得手不得手を持った、多様な教師のそれこそ「協同」にあります。みんながみんな、一斉授業の名人である必要はないし、「学び合い」の天才的なファシリテーターである必要もありません。それぞれがそれぞれの得意なものを持ち寄って、一人ひとりの子どもたちの質の高い学びを支えていけばいいのです。(中略)人間ですから、得手不得手があるのは当然です。一人の先生に、何もかも完璧に求めるのはナンセンスです。むしろより重要かつ現実的なことは、多様な教師の力の「協同化」です。」(p112-113)
この考え方には非常に賛同できる。

教師も人間である。弱さもある。
もちろん、子どもの前に立つ上で最低限必要な能力もあるだろうが、現在言われている「教師に求められる力」は最低限の域を超えているのではないか。

一人ひとりが完璧な教師を目指すよりも、教師同士がそれぞれの長所を活かし、短所を補い合うような協同の形を目指したほうが実は総合した時に失敗するリスクも減るし、個々人の教師としての力の成長も見込めるのではないか。

子どもたちにとっても、多様な教師と触れ合えることで、自分に合った教師を見つけることができる可能性が高まる。

小学校の学級担任制をもう少し緩和し、複数人の教師がチームとして子どもたち全体を見ることができるような仕組みができればよいのではないかと思った。


一方、疑問に思った箇所もあった。大きく分けて3つある。

1. 「発達」概念の欠如

苫野先生は、これからの教育の方向性として、学びの「個別化」「協同化」「プロジェクト化」の3つをあげている。
これ自体は時代の流行に合致していると思われるし、大きな異論はないのだが、では実際にそのような教育が子どもの発達段階に応じてどのような影響をもたらすのか?本当に全ての段階における子どもたちにとって、これらの教育法は適切なものなのか?といった疑問が残った。

例えば、コールバーグの慣習的段階における子どもたちにとっては、秩序や権威といったものが実は重要である。重要というのは、慣習的段階から後慣習的段階へと発達する上で、慣習的段階に順応し、”浸る”ということが必要だからである。

学びの個別化や協同化といった概念は、例えばこうした前近代的な価値観(秩序と法を重んじ、教義的な世界)を嫌がるように思える。

しかし、子どもの健全な発達においては、こうした段階を適切に経る必要があり、「古臭い教育」と一蹴してしまうのはどこか怖さが残るものである。

苫野先生は何も、そのような権威的な教育を否定しているわけではないが、「教育に多様性を認めるべき」という視点ではなく、発達心理学の視点から語る方が個人的には納得感があると思う。

2. 「自由の相互承認」

苫野先生は、公教育を論じる際に持つべき「共通了解」として、ヘーゲルを引き、「自由の相互承認」という考え方をあげている。
自由の相互承認とは、自分が自由に生きるために、あなたの自由を保証します、という考え方である。
したがって、自分の自由は相手の自由を侵害するものであってはならないし、その逆も然りである。

こうした自由の相互承認といった感覚を教育によって育むことで、被教育者である子ども自身も自由に生きることができるし、社会的にも平和な社会を維持することができる。
つまり、子どものためや社会のためといった対立を越えて教育を論じる前提が生まれるということである。

教育を論じる際に、こうした「共通了解」が非常に重要であることはとても納得できる。
しかし、その結論として「自由の相互承認」という答えを聞いた時、正直あまり魅力を感じなかった。

「自分が自由に生きたいからあなたの自由を認める。あなたの価値観は合わないけど、それは認める。」といった考え方は、寛容に見せかけた無関心と何が違うのだろうか。
そのように寛容を装うことが、表面的な争いを避けるための方法として有効であるからそうしている、という人をこれまでに何人も見てきた。

そうした態度は、本当に理想とすべきあり方なのだろうか。
公教育はなんのためにあるのか。

それを考えるために、もっと個人の内面に光を当て、徹底的に考えてみたい。
この疑問は教育に興味を持ち始めた高校生の頃から、今に至るまでずっと未解決でこれからも抱いていくべき疑問だと思っている。

3. オルタナティブ教育との共存

苫野先生は、あくまで公教育に主軸をおいた議論をされているため、致し方ないことではあると思うが、苫野先生自身が例としてあげているサドベリースクールやドルトン・プラン、イエナプランといったオルタナティブ教育との共存をどのように考えているのかをもっと知りたかった。

古山明男『変えよう!日本の学校システム』によれば、オルタナティブ教育が盛んと言われるオランダやフィンランドでさえ、実はこうした所謂オルタナティブスクールは全体の1割程度であるという。
(ちなみに日本は1%にも満たない)

公教育の変革において、実はこうした私教育、オルタナティブな教育機関をどのように位置づけるのか?というのは非常に重要なテーマであると思う。

苫野先生自身が言うように、個別化、協同化、プロジェクト化の教育が絶対的に優れたものではなく、あくまで1つの「よい」教育であるならば、その他の多様な教育を当然認めなくてはならない。
しかし、同時に公教育は「機会均等」と「教養の獲得保証の平等」を保証しなくてはならない。

この論点マジックをどう乗り越えるのか、が実はキーになっている気がするのである。
オランダやデンマークは如何にして多様な教育を公教育の制度の中に統合していったのか。
この疑問もまた大切にとっておきたい。




以上、3つのことについて自分なりに違和感が残った部分を書き出してみた。
この本は、前著『どのような教育が「よい」教育か』の実践編として位置づけられているとのことなので、ぜひともそちらも読んでみたいと思った。(もうすでに家にはある!)

読みながらすぐに解決できないような疑問を持たせてくれる本は良書だと思っている。
書を読むことで、自分の考えを批判的に、相対的に見ること、そして自分の未熟さを痛切すること。

近頃、十分に読書する時間を取れるので、そうした読書の醍醐味にすっかり夢中になっている。

2014年4月15日火曜日

工藤順一『国語のできる子どもを育てる』(講談社現代新書, 1999)

読書の意味とは一体なんだろうか?

第四回インテグラル・エデュケーション研究会の課題図書ということで購入した本。
最近分厚いハードカバーばかり読んでいたので、新書は少々心もとなく感じてしまったが、
内容的にはとても興味深いものだった。

筆者は、「国語専科教室」という塾を主宰し、国語教育に非常に造詣の深い人である。
この本も、国語教育者なら必読の名著として有名であるようだ。

この本は3部構成になっている。
1部では「書くこと」、2部では「読むこと」、3部では「読解力」について、それぞれその本質についての考察と現代日本教育における課題、更に実践的な指導法について触れている。

特に面白いと感じたのは、読書の意味と発達段階に応じた読書教育のトピックだった。

読書の意味とはなにか?
冒頭にも書いたこの問いに対し、筆者は次のように述べている。

「本来、読み書きは表裏一体のもののはず、あるいは、同じことを逆方向から見ているにすぎないことでもあります。両者とも頭の中で意味を組み立てていかなければなりません。とりわけ書くことは、他者の書いたものを読み、自分の位置からさらにそれを考え直し生き直すことの中で発展していくものです。読むこともまた、単なる情報の収集を越えて、自分で書くことを通し、より深い確信と世界観に到達してその人の人生を構築していくはずです。
もっと簡単に言うと、読んだものについて、何か書くということは、どんな関わり方であれ、その内容に自分が関わるということです。」(p90)

つまり、読み書きとは読む、あるいは書く、という行為を通じて自己と他者(世界)を構築し、そこに関係性を構築することなのだと筆者は指摘している。
そしてこうした関係性を否定するような国語のいわゆる読解問題批判へと持論を展開していく。

子どもは読書を通して初めて他者を構築するのである。
ファンタジーを読み、空想の世界に浸り、主人公になりきって物語を追うことを通して、現実と空想世界という異なった世界があることを知り、そうした物理的な実態のない世界にも真理が存在することや、それでも自身が生きていく世界こそ現実であるということを知るのである。

したがって、適切な読書経験無くしては、世界を真に深く洞察し、「不易」に気づくことはできない。
読書によって育まれた内面的世界の広がりが、我々の生きる現実としての世界の広がりに対応しているのだ。

こうした読書を通じた子どもの発達段階について、筆者は以下の5段階をあげている。

段階/目的
1. 小学校低学年/おしゃべりと黙読への導入
2. 小学校中学年/黙読の自立化
3. 小学校高学年/仮想現実を生きる試行錯誤
4. 中高生/身体の覚醒と現実への帰還
5. 高校生以上/現実の更新と新しい共同性の構築

小学校低学年時においては、読むや書くといったことよりも、より生得的な「声」という技術を利用した「話す」や「聞かせる」といったことも交えながら、まずは読書を好きにさせることが肝要である。

そして、中学年時の黙読を通じて、孤独と自己に対する世界の認識を得る。
自分が見ているのとは違った現実があること、自分の知らない深いところに存在する多くの関係が世界を作っていることを認識するのである。

第3段階において、筆者はファンタジーを読むことを勧めている。
それは、ファンタジーに含まれる「未知なるものへのこだわりやひっかかり」が、この世界そのものに対する根元的な愛につながっていく、ということらしい。
正直ここがよくわからなかったので、研究会ではぜひとも聞いてみたいものである。

空想の世界から現実へと帰還する第4段階では、第3段階で培った「愛と未知に開かれた心」を通して、「自分の身体で現実を生きる」ことが可能になる。
そうして初めて、現実を相対的に把握し、自分の立ち位置を定めて世界と関わっていくことができるのである。

最後に筆者は独自の意見として第5段階を示している。
第5段階は、こうした発達を通して、自身が世界との距離を測り、世界を変えるためにどうあるべきか?ということについて説明されている。ここについては、また別の記事で他の考察と絡めて書きたいと思う。

注目すべきは、段階ごとに自己否定的な発達が見られることだろうか。
ここにもウィルバーのインテグラル理論における「超えて含む」の構造が見られる。


ここまで書いて、ではこうした発達は読書活動を通じてでしか成し得ないものなのだろうか?という疑問が湧いてきた。
おそらく、読書活動によってのみ達成される、というわけではないが、読書に勝る方法は無い、というのが現時点での自分の答えだ。
文章ほど情報量が詰まっていて、かつ内面世界を充実させる想像の余地を絶妙に残した表現方法は無いだろうからだ。


実は先ほどの5つの段階で、筆者は、第2段階では多読を、第3段階ではファンタジーを勧めている
のだが、ここはまさしく僕の小学生時代の読書生活そのものだった。

幼稚園に通っていたある日、僕は母と一緒に、姉の習い事を待つ間図書館で待つことになった。
それが運命の転機だった。

図書館という世界はなぜか当時の自分には本当に魅力的に思え、むさぼるような本を読んだ。
両親は僕を理系に育てたくて博物館などを連れ回したらしいが、そんなことはさておき、ひたすら本に没頭した。
小学校低学年の頃には日本の伝記シリーズやドリトル先生シリーズをさっさと読み終え、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパン、世界の名作シリーズを読破し、三国志や水滸伝などに手を出していた。
筆者が第2、第3段階であげていた推薦図書は一冊を除いて全て読んだことがあった。

小学校高学年からは宮部みゆきや浅田次郎などを読みあさっていたのだから実に生意気なガキだったなあと思う。

今にして思えば、こうした経験が僕を比較的内省が得意なタイプの人間に育てたのだと思うし、物事の本質や真理(筆者の言う不易)への強いこだわりといった現在の自分の感性を形成したのだと思う。

フィンランドでは、読書の時間をとったあと、その内容について何かしら話す時間を必ず取るらしい。
読んだ本の内容をしっかりと他人に伝えられるということは、自己が世界、他者と関わるための必要条件であり、読書教育における第一義であるように思われる。

僕の場合は、母親によく読んだ本の内容を話していた。面白いと思う部分を見せに行って、いかに面白いかを説明しようとしていた経験がそれにあたるのではないかと思う。


僕は読書教育を実施した経験が無いので、ところどころ実感を伴った理解が難しい箇所もあったが、国語教育というものについて非常に深い洞察を与えてくれる名著であった。
国語教育にとどまらず、教育に携わる人ならばぜひ一度手にとってみてはいかがだろうか?









2014年4月14日月曜日

「21世紀型スキル」についての気付き

「21世紀型スキル」という言葉が教育分野において叫ばれている。

これは、国際団体ATC21sが2009年に提唱した、これからの時代に求められる能力のことである。
当然、教育は時代にあったものであるべきだし、その意味でこうした定義は各国の教育政策の根幹に影響する非常に重要な提言であると思う。

21世紀型スキルについては、実は様々な定義がまだ存在しているようだ。
多くの場合、次世代に求められる能力、といった意味で使われているため、人によって細部の定義が異なっている。

「21世紀型スキル」というATC21sが提唱している定義によれば、21世紀型スキルとは以下の10つである。

思考の方法
1. 創造性とイノベーション
2. 批判的思考、問題解決、意思決定
3. 学び方の学習、メタ認知
働く方法
4. コミュニケーション
5. コラボレーション(チームワーク)
働くためのツール
6. 情報リテラシー
7. ICTリテラシー
世界の中で生きる
8. 地域とグローバルでよい市民であること(シチズンシップ)
9. 人生とキャリア発達
10. 個人の責任と社会的責任(異文化理解と異文化適応能力を含む)

出典:「ATC21s 益川弘如研究室」(http://connect.ed.shizuoka.ac.jp/masukawa/index.php?ATC21s)

引用先の益川先生の研究室では、10つの能力を更に4つに分類している。


全体を見てまず思うのは、「どれもまあ必要だよね」ということである。
これからの時代に求められる能力として、先にOECDの上げているキー・コンピテンシーがあるが、そこでも概ね同じような項目が並んでいる。

ここで言われるこれからの時代とは、よりグローバル化が進み、情報技術が発達し、様々な科学領域がより専門性を増し、複雑化するといった時代である。

つまり、何が正しいのかがわからず(明日にも正しいと信じていることが変わる可能性があり)、様々なバックグラウンドを持った人々と協働する必要があり、高度な情報機器を扱える必要がある時代である。


さて、ここで言いたいのは自分なりに21世紀型スキルを見直す!などといったことではなくて、この21世紀型スキルというものを考えたときに持った違和感、そこから得た気付きについてである。


上記のような背景でうまれた21世紀型スキルは、トップダウンのものとして作られた概念である。
これからの時代、というものを想定し、そこから下ろしてきている。

したがって、現場で子どもと向き合っていた2年間ほどの間、この21世紀型スキルというものに対しては常に現実味を感じなかった。
「重要だとは思うけど、そんなことより引き算の繰り下がりできるようにしなきゃ」と思っていたし、
問題解決能力や協働能力といったものが例えば算数の授業から培われる、というのはどこか無理があるような気がしていた。

しかし、先日プレーパークへ行った際に、ふと感じたことがある。
「こうした遊びの延長線上に21世紀型スキルがあるのではないか?」

プレーパークについてはこちらの記事で書いたのでもし興味があればぜひ読んでいただきたい。

子どもたちが遊びの中で見せる創造性や、子ども同士で意見が対立した際(コンフリクト)の解決力、協力して1つの成果物を作る協働能力、つきない好奇心etc

こうした力が、21世紀型スキルに結びついているのではないか?

これまでトップダウンに作られた「お題目」のようにしか思われなかった21世紀型スキルというものが初めて中身を持ったように思われた瞬間だった。

つまり、これからの時代に求められる能力というのは、我々が何か適切な教育を受けて後天的に獲得するものではなく、生得的に備わっている人間本来の力なのである。

人間が人間らしく発達する手助けというのが実は教育の本義であり、まかり間違っても時代や社会に合うように成形するなんてことではないのだ。

「スキル」という言葉は、何か修練をつむことで得られる技能を意味するが、それだけでは本質的な意味で時代に求められる力というものを捉えられていない(例えばコミュニケーションツールとしての英語やITリテラシーなどはスキルに分類される)
人が本来持つ資質こそが、結局は人が自分の人生を生きるために最も必要な力だったのだ。

こうした資質が本当に全ての人間に平等に与えられたものであるのかについては、まだ不勉強なためなんとも言えないところがあるため、今後の考察の課題としたい。
例えば発達障害者などにおいても同じことが言えるのか、などは探求する必要があるはずだ。


ともあれ、自分の中では非常に大きな気づきだった。
人として生来持つ力を歪んだ教育によって鈍らせてはならない。
それが自分の目指したい教育のあり方なのだと思った。


2014年4月12日土曜日

プレーパークへ行って来ました

光が丘のプレーパークへ行って来ました。
非常に学びがあったので是非紹介したいと思います。

NPO法人あそびっこネットワークさんが運営しているプレーパークで、都内有数の大きな公園である光が丘公園の中にあります。

プレーパークとは一体なんなのか?ということについては、あそびっこネットワークさんのページが詳しいのでそちらをご覧いただければと思います↓

「NPO法人あそびっこネットワーク」
http://asobikkonet.com/

14時ごろから15時過ぎまで、1時間程度の短い時間でしたが、本当に楽しい時間でした。

まず、特筆すべきは自然に囲まれた環境。
雨が降ると自然に水たまりができる場所があったり、駆け登りたくなるような丘や登れと言わんばかりの木々。
幸いにも穏やかな晴天だったため、ベンチで昼寝しているような大人の方もいました。

そんな恵まれた環境の中に、様々な遊ぶための道具があります。
遊具と言っても、もちろんPSPやDSのようなものではないです。
ロープやボール、じょうろ、バケツ、ヤカン、シャベルなど、1つの遊びのために使われるような道具ではなく、様々な用途があり、子どもたちが自分で工夫して遊べるようなものばかりでした。

パークにはプレーワーカーと呼ばれる大人の方がいるのですが、彼らは子どもたちにそうした道具を「こうやって使いなさい」「これ使って」などと言うのではなく、子どもが夢中になって遊んでいる時に、近くにそっと置いていきます。
子どもたちは自分で何を使ってどう遊ぶか考え、遊んでいました。


僕は6才の男の子2人と水たまりからシャベルを使って「川を作る」という遊びをしていたのですが(もちろん発案は子どもたち)、そこでの子どもたちの創造性、そして博識さに本当に驚きました。

「ここを掘ってトンネルにしよう!」「こうやって滝を作るんだ!」と次から次へと湧き出るアイデア。

そして、

「水はそんなに急には曲がれないからこうやって迂回させるんだよ」
「シャベルは足を使うと掘りやすいんだよ」

といった遊びのコツ。

誰かに教わったわけでもなく、自分の経験から学んだそうした知識をしっかりと自分のものにしている。
そしてそれをきちんと人に教えることができる。
本当に凄いことだと思いました。
こんな具合で教わったことはもっと山のようにありました。

そして、無事川を作り終えて流れる水を眺めていると、「水がキラキラしてて凄く綺麗!」と、みずみずしい感性も持っている。

美しいものを美しいと素直に思えることは、実は凄く大事な力なんじゃないかと思っています。
そうした美しいと感じるものをどれだけ見てきたかが、世界に対する信頼や安心につながるような気がするからです。


子どもたちと遊んでいると、時には子ども同士で意見が対立することもあります。
やかんで水を流すべきか、バケツごと水を流すべきかで対立したことがありました。
「どうなるのかな?喧嘩になったら叱った方がいいのだろうか」などと見守っていると、子どもたちは自分たちで「じゃあ両方試そう」という結論で合意を導き出しました。
6才の男の子が、自分たちの問題をしっかりと自分たちで解決していました。


また、もう一つ驚いたことは、子どもたちがしっかりとした思いやりを持っていること。
何か道具を渡したときなど、自然に「ありがとう」という言葉が出てくる。
僕は2年間近く、学習支援で小学生と触れ合ってきましたが、なかなか素直に「ありがとう」といえる子はいませんでした。

おやつの時間には、要求したわけでもないのに今日初めてあった僕にもお菓子をくれました。
一緒に遊んでいた6才の男の子達だけではなく、他に来ていた4才の女の子も。


こうした子ども達と触れ合ってみて、自分で驚いたことがあります。
身体は確かに疲れているのに、不思議と元気になっているのです。
一週間の疲れがたまった金曜日、朝も正直だるいところがありました。
それが、プレーパークからの帰り道、不思議なほど自分の精神状態が「健やか」であるように感じました。



僕は、より統合的な教育というものを志向しています。
統合的な教育とは、統合的な人間観に基づくものです。
知識や論理、思考によってのみ人間は成り立っているのではなく、身体や感覚、感情、意志、間主観や社会環境、そうしたもの全てを統合している存在が人間であると考えます。

そうした立場から見た時、このプレーパークは非常に統合的でより自然体な教育の場であるように思えました。

大自然の中で身体を動かしながら、自ら考え、そして他の子どもたちと協力して遊ぶこと。
その中で子どもたちの見せる閃きや問題解決能力、知識、思いやり、行為全てがとても自然体で健全であると感じました。

そう、健全なのです。
6才~12才といえば運動能力が発達し、内面的には友人レベルまで自己中心性が薄まっていくような段階です。
そうした段階をしっかりと経て、次の発達段階へ進むために必要な学びがつまっている場。
だからこそ、プレーパークに「健全さ」を感じたのだと思います。

と同時に、子どもたちに「恐怖や不安」といったものを感じなかったからというのも大きな要因であるように思います。
塾や学校で出会う子どもたちの大半は、何かしらの恐怖や不安を根底に持っている子が多いように思います。
その原因は学校という制度そのものであったり、家庭的な問題であったりするでしょうが、現代では遊び場という子どもの聖域にすら様々な規則によって子どもたちを抑圧するような動きがあります。

プレーパークでは、一般に公園ではしてはいけないとされているような行為(例えば木登りなど)も認められています。
プレーワーカーたちは、「危ないからやめろ!」ではなく、子どもたちの注意がそれた隙に安全に遊べるように子どもたちがぶら下がって遊んでいたロープの結び目をきつく締めていました。

なにより、子ども自身が木の枝でチャンバラをするとき、相手の身体に当てるときは少し力を弱める、という話が印象的でした。
そういうルールがあるから、誰かに言われたから、というのではなく、子どもたち自身が遊びを通じて「やってはいけないライン」を知っているのです。

モンテッソーリ教育やシュタイナー教育の根底にある「子どもは有能である」という価値観も、こうした場を一度経験したならば深く首肯できるものだと思います。


もちろん、今日僕が出会った子どもたちは小学校に上がる前の子どもたちであったことや、プレーパークだけではなくご家庭での教育が非常に考えられている可能性なども考慮しなくてはいけないと思いますが、それでもプレーパークにいる子どもたちと触れ合って僕が「癒やされた」ということは紛れもない事実です。

勉強のつもりで行ったのに、「癒やし」を貰ったということが何よりも大きな収穫でした。
誘ってくれたもんじゃらさん、本当にありがとうございました。

興味がある方はぜひ、一度見学に行かれると良いかと思います!

2014年4月10日木曜日

存在論を勉強中。

存在論について勉強している。
まだ存在論というとてつもない山の一合目にも到達していないような状況ではあるが、様々な思想に触れてみて少し思ったことを書いてみる。


原始仏教には、「観る」とか「観ずる」といった言葉がよく出てくる。
単に「見る」のと違って「観る」とはどういうことなのか?

通常、人が何かを見るときには、見る主体と見られる対象とが存在し、見ることで人は対象を対象として認識する。

それに対して、「観る」というときは、主体客体の関係性をそこまで問題にしていない。
仏教における「観る」というのは時間や空間を超越した本質・真理を感覚する、といったニュアンスに近いのではないかと思う。

仏教では、人間を形成する五つの作用(五蘊)のうちで、「識」というものをあげている。
識とは何かを精神的に知覚、認識する作用のことを示すが、単なる認識作用にとどまらず、時間軸をも超越して行き渡るものであるらしい。

思考というのもあくまで人間存在を形作る1つの作用であるとみなす仏教では、この「観ずる」ということの実践として、静的な瞑想術を用いているのだろう。

瞑想において大事なことは、ただ観察することだからだ。
自分の思考や感情すらも相対化し、その作用をただひたすらに観る、ということが結局のところ真理へ近づく最良の道だということである。


はじめに一例として仏教についてとりあげたが、こうした認識論、存在論的な話は様々に有名なものがある。
フッサールやヤスパース、サルトル、フランクルなどの実存主義的なものや、西田幾多郎の行為的直観、鈴木大拙の主客合一なども近いテーマを扱っている気がする。
最近読んでいるクリシュナムルティも「思考を相対化し、事実をただ事実として認める」ことについて語っていた。

各々の立場や細かな思想にはれっきとした違いがあるが、それでも共通して見えてくるのはアートマンとブラフマンの統合への志向性のように思われる。
個人存在としての本質と世界の真理あるいは宇宙的真理の統合、すなわち「空」の概念を思い出さずにはいられない。

多くの思想家が主体と客体という究極の二元論を乗り越えた先に、光が差し込む、とか大いなる祝福とか、平静の境地とか言葉は違うにせよ、計り知れない大きな存在との対面、そして統合といった神秘的体験を語っている。

こうした神秘的体験は、おそらく言語的に理解するだけでは到底体験しようがないものなのだろう。
まさに「観る」ことで初めて到達できる境地であると思った。

山の頂はめちゃくちゃ遠いなあと思うのでありました。

2014年4月9日水曜日

課題解決しやすくするために僕がしていること

こんにちは。
最近ナッツ&フルーツというそのまんますぎる名前のものを常食していますが、これと水だけで生きていける気がする今日この頃。


なんだか課題解決について教えてくれという相談がたまに、でも定期的にやってきます。
また、嬉しい話ですがよく視野が広いねーというフィードバックをいただきます。

そんな僕の課題解決のやり方について、よく他人とやり方が違うなーと感じるので、良し悪しはさておき自分なりのやり方をちょっと言語化してみたいと思います。


■自分なりの課題解決のやり方

1. 課題を設定する
2. MECE分解を試みる
3. システム思考で考える
4. 氷山モデルで深掘れているか検証してみる
5. とりあえず打ち手っぽいものを出す
6. インテグラル理論(quadrants)で抜け漏れを確認する

1. 課題設定

課題を設定しましょう!という時にはどの本を読んでも「問いの形で立てましょう」みたいなことが書いてあります。
課題は必ず「お金が無い」ではなく、「どうすればお金を手に入れることができるか?」と書きます。

なぜかというと、課題とは現状と理想状態のギャップだからです。
「お金が無い」はあくまで現状であって、課題ではないのです。

すごく当たり前の話ですが、課題解決をすればするほどこれ大事だなーと思います。
その理由は、大抵課題解決がうまくいかない時、しっくりこない時の原因は理想状態の設定が変なときだからです。

場数を踏んでいる人ほどこのあたり敏感で、すぐに「そもそもそれ理想なの?」的なことを突っ込んできます。

必ず理想をしっかりと描くこと、これがまず失敗しないコツかなと思います。

2. MECE分解を試みる

あえて試みるという表現にしたのは、MECEの生みの親である某コンサルティングファームで修行した訳でもない一大学生が「これがMECE分解だ!」とか言えないなーと思っているからです。

MECEはよく「漏れ無くダブリ無く」と説明されます。
課題の要因をきっちりと要素分解するための考え方です。
「なぜ?」という問いを繰り返し要因を深ぼる前に、まず要素を分解するのです。

「なぜ?」の繰り返しが縦に深ぼるイメージなら、MECEは横に広げるイメージ。糊を隅々まで伸ばすような。


MECE分解をする際に有効なのは、ありふれたフレームワークだと思っています。
よく使うのはこんなの。

  • 主体/客体
  • 人/モノ/カネ
  • 時間/空間
  • マーケティングの5Cとか5Pとか
  • A/Aの補集合

だいぶざっくりと書いてますが、(最後のとかほんとすみません)ぶっちゃけほぼこれだと思っております。

他にも厳密にはMECEではないですが、短期的/長期的とかもよく使うかも。

たまに凄く斬新でどっから考えつくのそれ?みたいな分解の仕方をしてくる人がいますが、8割ぐらいはMECEじゃないし、2割具合は天才の所業なのでどうやってるのかわかりません。

完璧なるMECEもよくわからないし、そんなにここに労力を割くのもなんかバカらしいなあと思ってしまうタチなので、僕はいつもなんとなくMECEを目指してさっさとここを通りすぎています。

3. システム思考で考えてみる

多分このあたりから他人とだいぶ違う気がします。
一般に課題解決というとMECE的な話をよくされますが、僕は必ずシステム思考を併用することにしています。

システム思考とは、簡単に言うと物事(この場合は課題)を有機的なシステムとして捉える思考法です。
一つ一つの変数(要素)がどのように他の変数と影響し合い、システムを形成しているかを捉えることで、部分と全体を統合し、課題を解決するレバレッジポイントを見つけ出すのに役立ちます。

システム思考は最初にそのシステムにおける変数を洗い出すのですが、この変数に相当するものが実は前のMECE分解で出てくるような要素だったりします。

そうして洗いだした変数がお互いにどのように関係しているかをループ図という図にします。


変数A →(+) 変数B →(-)変数C →(+)変数A


のようになります。+は変数Aが増えると変数Bが増える、-は変数Aが増えると変数Bが減る、の意味です。
便宜上こんな書き方をしてますが、実際に紙とかホワイトボードでやるときは色変えたり矢印記号変えたりしてわかりやすくした方が良いと思います。

例えば、


空腹度 →(+) 食欲 →(+)何か食べ物を買いたい欲 →(-)お金


みたいな。
普通はこれをつないでいくとループする仕組みになっています。

ループには自己強化ループとバランスループという2つのループがあるのですが、後者は更に広くシステムを捉えると自己強化ループに吸収されていきます。

システムがシステムとして成立するために、こうしたループによる自己強化が行われている、程度に理解しておけば良いと思います。


システム思考についての説明で少し脇道に反れましたが、要はシステム思考をMECEと併用すると良いよ、ということです。

なぜ良いかというと、MECE分解でそのまま要因を深ぼっていくのと比べ、1)時間軸的、動的な視点が生まれる 2)課題の打ち手を考えたときに、思わぬところに影響が出る可能性を事前に想定をできる という2つの利点があります。

MECEによるロジックツリーは完成すると美しく、網羅性があるのですが、課題というものをまるで1つの絵画のように扱っていて、なんだか静的なものとして見てしまうような気がします。

一方でシステム思考によるループ図は連続した時間軸が意識されますし、レバレッジポイントを見つけてここを変える!とした時に、そのループがどう変わっていくかを追っかけていけばどこにどんな影響が出るか想定することが出来ます。

そんなこんなで何度も言いますが、システム思考とMECEの併用、おすすめです。

4. 氷山モデルで深掘れているか検証する

これもこんな風に考えている人あんまり見たこと無い気がします。
氷山モデルというのもシステム思考における1つのフレームワークです。

簡単に言うと目の前に見えている課題は、氷山の一角にすぎず、水面下に更に根深い要因が隠されている、という話です。

氷山を下に進むに連れて、

1. 表面課題
2. 短期的要因
3. 繰り返し現れるパターン
4. 固定観念(メンタルモデル)

というように階層が深化していきます。

これをどう使うかというと、MECEとシステム思考で分析した課題要因が氷山モデルにおける深いレベルにまで到達しているかどうか?という検証用に使います。

氷山モデルで一番深いところにあるのはメンタルモデルですが、メンタルモデル自体も実はシステムです。

固定されちゃうほどの観念なわけですから、めちゃくちゃ強い自己強化フィードバックが働いているシステムなのです。

このシステムを、3の分析を終えた段階で見出すことができているかどうか。
できていない場合は深堀りが足りないと考えた方がまず安全です。

固定観念のレベルまで行かなくても解決できてしまうような課題もよくありますが、複雑で難易度の高い課題ほどより根本的なところに要因があるため、このレベルまで深掘れていないと本質的な課題解決に結びつきません。

5. とりあえず打ち手っぽいものを出す

ここまで来たらあとはとりあえず打ち手を出してみましょう。
課題解決なんて実は分析がきちんと出来てたら打ち手なんてほとんど明らかな場合が多いです。

そしてここまで来て前提をひっくり返すようなことを言いますが、大抵1の時点で打ち手的なものは頭にすでにあったりします。
2~4まではその打ち手が正しいんだよって人に言うためのロジックというか。

なんで打ち手が早い段階で思いつくのかはまた別に機会に書くとして、とにかくここで大事なのは課題解決のレバレッジポイントを見つけ、そこを突くこと。
レバレッジポイントとは、そこを突くと最小労力で最大成果が出るようなポイントのことです。

(力点)-(支点)--------------(作用点)みたいになってる「てこ」のイメージ笑

課題解決においてもかの有名な2:8(ニハチ)の法則が適用されるようで、2割の要因(=レバレッジポイント)が課題の8割に影響しているぐらいに考えておいた方が良いかと思います。

6. (おまけ)インテグラル理論による抜け漏れ確認

ここは完全に蛇足な気もしますが、僕は大抵最後にインテグラル理論における四象限(quadrants)を用いて抜け漏れがないかを確認しています。

四象限とは、内面―外面、個人―集合の二軸によるマトリクスのことです。
めっちゃシンプル!笑


こんな感じです。

左上は個人かつ内面、哲学や思想、美徳の世界
左下は集団かつ内面、間主観、文化、善悪の世界
右上は個人かつ外面、物理、自然科学、真理の世界
右下は集団かつ外面、システム、制度、同じく真理の世界


詳しく述べると長いので簡単にquadrantsについて説明すると、


  • そもそも我々が世界を認識するには上記4つの象限のうちどれかを通してしか認識することはできない。
  • 4つの視点それぞれが正しい。視点が違うから同じものを見ていても違った認識・解釈になりうるが、それは互いに誤ったものではなく、それぞれが正しいものとして受容すべき。


といったことになります。

インテグラル理論の提唱者であるウィルバーは、様々な課題に対し、この4つの視点全てを統合したアプローチをとることを推奨しています。

実際に使ってみるとこのフレームワークは非常に強力で、これを知っているだけで視野の広さが段違いになると思います。

「あれ、この議論なんか内面にばっか寄ってるなー」
とか、
「個人の中で話完結してるけど集団の話は加味しなくていいのだろうか」
といった具合に使えます。

このフレームワークを教えてくださった方は、「レポート書くのに使えるよ」ともおっしゃっていました。




以上、なんだか予想以上に長くなってしまいましたが、自分なりの課題解決のやリかたについて書いてみました。

課題解決のやり方って教科書的に語られるけど、実は課題解決を日常的にするような立場の人は自分流にアレンジしているような気がします。
ですが、あまりそうした自己流の方法を聞くことも機会が無いのがちょっと残念だな、と思っています。


色々と説明不十分な部分もあるかと思いますがお許しを。

ではでは!