2016年4月27日水曜日

「合理的配慮」と「思いやり」についての考察

先日、ディスレクシアについての勉強会に参加した際に考えたことについて。

講師はディスレクシア支援をされているNPO法人の方で、実体験に基づいた語りや、実践的な知恵についてのお話が非常に興味深いものだった。

その中で、合理的配慮についての話があった。
合理的配慮とは、障害者権利条約に示される原則のことで、「障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合、過度な負担になり過ぎない範囲で、社会的障壁を取り除くために必要な便宜のこと」を指す。(wikipediaより)

勉強会では、元来、英語ではaccommodationやprovisionなど、「調整」に近いニュアンスで示されており、配慮という言葉から連想する「思いやり」とは少し違うものである、というお話があった。

では、いったい「合理的配慮」と「思いやり」は何が違うのか。
また、「合理的配慮」の方が「思いやり」よりも優れていると言い切ってしまってよいのか。
そうしたテーマについて考えたことを書き散らしてみたい。


「思いやり」を乗り越える「合理的配慮」の意義


「合理的配慮」と「思いやり」の区別を何を意味するのだろうか。

「思いやり」は、一般に利他性を孕んだ支援者側の行為に向かう態度を指すと思われる。
その意味で、「思いやり」という言葉は、思いやる=支援者側の人間目線の言葉である。
熊本大地震の被災者に対して、寄付をすることも千羽鶴を送ることも共に「思いやり」であるといえる。
もちろん、報酬を期待する行為や自尊心などの欲求に駆動された真に相手のためにならない行為は「思いやり」ではない、と言うことは可能であるが、そうした思いやりの「真実」は一般に外から見分けがつきにくいこと、またそうした解釈のぶれが生じる余地が存在すること自体がここでは問題になっている。

更に踏み込んで言えば、外から見て見分けがつきにくい、というのは正確ではなく、外から見て「分からない」と言った方が厳密である。それはつまり、人によって評価が変わるということであり、世間一般に了解される客観的で純粋な「思いやり」というものは不可能である。
このことによって、「思いやり」は常に偽善であるという批判を受ける脅威に晒されている。

また、「思いやり」という言葉は同時に攻撃的でもある。
利他的な行動をしないことが「思いやりのない人間である」という表示に繋がるからである。
これは、「思いやり」が人間性や人格というものに基づく価値として理解されやすいからである。

一方で「合理的配慮」のポイントは、「合理的」というところである。
合理的という言葉には、「支援者、被支援者など関係者全員にとって望ましい(合意形成されている)」というニュアンスが含まれている。その意味で、思いやりとは違ってより価値中立的な言葉であるように思われる。

また、合理的配慮の実際性を担保するのは、被支援者にとって不利な状況を改善するための技術、テクノロジーであり、思いやりのような個人に属する不可視の内面的資質ではない。
したがって、客観性に担保された合理的配慮はより良い合理的配慮を目指して改善可能であり、制度としての広がりを持つ可能性がある。

「合理的配慮」は端的に言えば「思いやり」がなくても可能なのである。


合理的配慮の厳しさ


合理的配慮に含まれるもう一つ重要な点は、まさに「人権」に関わる「合意形成」の論点である。

合理的配慮の世界観においては、例えばディスレクシアの子どもが漢字の書き取りをディスレクシアではない子どもの数十倍こなすことで漢字を書けるようになる、ということは合理的ではないとされる。
その人が著しく苦手であることについて、苦手ではない人と同様の基準・方法によって努力を課すことに対して合理的配慮は否定的である。

一方で、教育者としての立場にある人の実感として、とはいえ努力すること自体に価値がある、と思われることもあるのではないだろうか。
教育を受けている当時は無為に思えた努力が、後々になって価値があったと感じられるというのは、多くの人に経験されることである。
しかし、バスケがやりたくてバスケ部に入ったのに、「お前はドリブルがなってない」と言われドリブルの基礎練習だけずっとやらされる、というのは合理的配慮の世界観においては否定されるべき事態なのである。

つまり、合理的配慮の世界観とは、例え結果として本人の能力がより伸びうる可能性があったとしても、関係者間の合意形成を優先するものだといえる。
このことの意義は、責任の所在が関係者全員に行き渡ることである。
さきほどのバスケ部の例で言えば、ドリブルの基礎練だけをやらせ続けた結果、本人がバスケがうまくならなかった場合、一義的に指導者の責任とされるが、合理的配慮にもとづいた対応をとった場合、その責任は合意形成に参画した指導者、本人を含む関係者全員にある。

この意味で、合理的配慮の世界観は「厳しい」ものである。
被支援者=他者によって救われる存在ではなく、責任主体としての在り方を求められるからである。
考えてみれば当然のことであるが、自身にとって望ましい便宜を求めることができるということは、同時にそうした便宜を選択する責任主体としての在り方を求められるということと表裏一体なのである。


思いやりには意義が無いのか


このように考えると、思いやりよりも合理的配慮の方が単純に良いものである、と聞こえるかもしれない。
しかし、そう言い切ってしまうにはどこか抵抗があるのではないだろうか。

事実、「思いやり」に対して我々は価値を感じるのであり、決してそれが世の中から消え去ってしまってもよいとは考えない。思いやりが原理として存在することに対する違和感はあっても、思いやりを全面的に否定してもよいとは考えない。
それは、「思いやり」ということが「他者を尊重する」という根源的な在り方と結びついた態度だからではないだろうか。

合理的配慮は、先に見てきたように選択する主体としての個人を限りなく大事にしようとする思想である。確かに合理的配慮においても他者を大事にするということが重視されているが、ある種それは「個々人の自由を担保する」ために他者を大事にする、という構造であるとも読み取れる。

一方で思いやりというのは、先に述べたように客観的に純粋な在り方としては不可能であるような、利他性そのものを指す言葉である。ゆえに、個人の自由の手段には決して成り得ない。
この不可視性こそ、個人の内面・主観世界を尊重しようとする契機なのではないかと思えるのだ。

発達心理学によれば、我々はまず自身の持つ内面に気づいてから他者を対象化し区別するのではなく、他者性への気付きから我々は自身の内面世界を発見する。
不可視な内面を持つ他者の存在があるからこそ、個人としての自己を見出すことができる。だからこそ、そこから個人の自由を擁護しようとする思想が力を持つのだとは考えられないだろうか。

少なくとも、合理性に還元されない「思いやり」の価値を失ってはいけないという実感は、我々にとって人権よりもずっとアクチュアルなのではないかと思っている。

2016年4月10日日曜日

田中智志・山名淳編、2004. 『教育人間論のルーマン―人間は<教育>できるのか』

半分も理解できている自信が無いが、気になったこと、考えたことをメモしておく。

ルーマンの「自己創出システム理論」

ルーマンの自己創出システム理論について語る上でのキーワードと思われるものを幾つかまとめてみる。

「システム」「複雑性の縮減」「機能的分化」

ルーマンの理論におけるシステムとは、複雑性を縮減することで内と外を区別する同一性のことを指す。システムが生まれる前の世界観は、過剰な可能性に満ちたカオスであり、こうした状況に対処するために人間は「システム」によって文脈を作り、複雑性を縮減しようとする。

機能的分化社会とは、近代以降の複雑性が増大した社会において、経済システムや法システムといった、機能ごとに分化した社会システムが存在している社会のことである。
教育もまた教育システムとして、これらの社会システムのうちの一つとして位置づけられる。

「コード」「プログラム」

コードとは、システムが自分の機能を把握し調整する装置としての「意味世界」を特徴づける二値区別(A/非A)のことである。例えば、経済システムにおけるコードは(支払い/不支払い)、(所有/非所有)である。意味世界においては、肯定値が自明化する。

ルーマンによれば教育システムにおけるコードは(選抜される/されない)である。
「人間形成」や「陶冶」などは、コードではなく、コードの肯定値を実体化させるための「プログラム」の主題であるとされる。プログラムは、具体的な実践計画であるが故に、多様である。

「構造的欠如」と「テクノロジー欠如」概念の導入の意義

ルーマンの教育論を語る上で、「テクノロジー欠如」という概念がよくあげられるのは知っていたが、「構造的欠如」については本書で初めて知った。
「教育テクノロジー」とは、「因果の連鎖を顧慮しながら被教育者の変容をコントロールする技術の総体」(p. 137)であり、「テクノロジー欠如」とは、教育においてそのような「テクノロジーの名に値する一連の手続きは認められない」という教育システムの特性のことをいう。

平たく言えば、どんな状況であっても、どんな子どもであっても、このような方法を用いれば教育目的が達成される、という技術は、教育においては不可能であるということである。
なぜならば、教育という営みは生徒個人の心的システム(生徒個々人の内面=教育される対象もまたルーマンによればシステムとみなされる)の変容を求めるものであるが、心的システムは自己準拠のシステムであるがゆえに、直接そこに教師が介入し変容を起こすことはできない。
せいぜい可能なのは、システムが他のシステムと関連しあう「構造的カップリング」の状態を通じて影響を与えることぐらいである。

こうしたテクノロジー欠如の状況にあっては、テクノロジーの代わりに「因果プラン」が採用される。
因果プランとは、科学的に真理とはいえないが、こんなときにはこうすればうまくいくだろう、という擬似的な因果関係のことを言う。教師の実践知と言ってもよい。
このような因果プランが生まれるのは、成功が保障されていないにもかかわらず、手探りで成功の条件を模索し続ける教師の「アクラシア」という態度による。

このようなテクノロジー欠如は、教育システムの根本的な「構造的欠如」に端を発している。その欠如とは、「社会化の企図化」というパラドキシカルな企てである。社会化は、個人の心的システムの内部にしかその契機を持たないからである。

しかし、こうした構造的欠如故に、教育システムとその意味世界は存在することができる。
不可能であるはずの社会化の企図を実現しようとするが故に、教育システムは多様な意味世界を持ちえる。この意味で、ルーマンは構造的欠如を決して「打開するべき状況」ではなく、肯定的なものとして捉えていると本書では語られている。

構造的欠如、テクノロジー欠如といった概念を持ち込むことによって、ルーマンが意図したのは教育学と他の理論との交流である。テクノロジー欠如という自体は、伝統的な教育学の意味世界では「子どもが本来的に持つ自由」として捉えられるが、このような多様な意味世界の存立機制としての構造的欠如を認識することによって、同様に構造的欠如を抱える他のシステムにおけるテクノロジーに関する理論を援用できる可能性が高まるのである。

非営利セクターにおけるルーマン適用の可能性

自身がNPOに関わっていたこともあり、非営利セクターにルーマン理論を適用するとどのように理解されるのだろうか、ということを読みながら考えていた。
非営利セクターを一つのシステムとみなすのであれば、(弱者への支援)あるいは(公平性)というものがコードになるのだろうか。また、同時に仁平典宏先生の「贈与のパラドックス」のような構造的欠如を抱えていると言うこともできる。

しかし、そもそも非営利セクターは一つのシステムとして捉えることができるのだろうか。
一口に非営利といっても、実際の活動内容は多岐にわたる。ホームレス支援と学習支援、障害者支援などをひとまとめにすることはできるのだろうか。むしろ、政治システム、福祉システム、教育システムなどの一つのプログラムとしてとらえた方がよいといえるかもしれない。

このあたりはもう少し勉強しないとなんともいえないところだが、個人的には新たに下位分化しつつあるシステムとして非営利セクターを捉えるのは面白いのではないかと思っている。

インテグラル理論との接続

本書の終章で田中智志先生は、「大事なことは、陳腐な表現であるが、懐の深さを持つことである。」と述べている。これは、ルーマンが子どもの自己創出性を承認するところに教育の可能性を見出したという前章からの内容を引き継いでのまとめとしての言葉であり、教育の不可能性を無視するのでもなく、ニヒリズムに陥るのでもなく、「教育の可能性」へと進むことを支持する記述であると思われる。

ルーマンが言うように、絶えざる生成として子どもをとらえたとしても、現実に一定の程度において「知識は獲得され、蓄積される」ように見えるのであり、我々は優秀さを可視化されたものとして認知することで現在の社会を運営している。そうした側面も、両方大事にする「懐の深さ」が大事なのである。

ウィルバーを用いて補足するなら、それはまさに原理的に我々が抱える、現象に対する視点の盲点の問題である。ウィルバーは四象限という図式によって、我々が世界に対して持ちえる観察の視点は個的―複数、内面―外面のマトリクスで表される4象限のみであり、それぞれが構造的な盲点を内包していると説明している。
懐の深さを持つためには、我々が世界と関わるための視点が限定されているという気付きが重要なのではないだろうか。