2014年4月19日土曜日

パーソナルマスタリーでは「恐怖」を語れ

パーソナルマスタリーという概念がある。
かの有名なピーター・センゲが『学習する組織』の中で提唱した五つのディシプリン(柱)のうちの1つである。
パーソナルマスタリーとは、己を知り、自らの意思でそこに立ち、ビジョン実現のために行動できることです。
パーソナルマスタリーは、学習する組織の要です。
学習する組織における活動は、一人ひとりの動機の源泉に結びつけ考えられます。
そのためには、一人ひとりが、自己の動機の源泉を知ることがとても重要な前提となります。

パーソナルマスタリーを持つ人は ・・・
・ 自分を知っている
・ どうやって今の自分にたどり着いたのかを知っている
・ これから自分がどうなりたいのかがわかる
・ どうしたらそれを実現できるかを知っている
 (「熊平美香ウェブサイト」 http://www.a-kumahira.co.jp/fifth/personal.html)

手元に諸事情で『学習する組織』が無いという痛恨のミスを犯してしまったので、熊平氏ことべあみかさんのウェブサイトから引用させていただいた。

パーソナルマスタリーは、学習する組織におけるメンバーには不可欠な能力であり、まさに根幹であるといえる。

所属していた団体でも、このパーソナルマスタリーは非常に重要視されており、プログラムに教師として参加した時やスタッフとして入会した時、まずはじめにパーソナルマスタリーの共有というセッションに十二分な時間を割いていた。今でもこれは団体が作り上げた最も優れた組織文化のうちの1つであると思っている。

そのセッションでは、自分が何を経験し、なぜこの団体に参加し、将来何を達成したいと思い、何を大切にしているのか、などについて用意された問いに事前に記入した上でわりかし自由に各人が話す。

このレベルでの深い自己開示には相当の内省力が前提とされることはもちろん、安心できる空間が何よりも重要であるが、それを毎回きちんと構築できているところが本当に素晴らしいところだったと思う。話している中で思わず感極まって涙する人もいるぐらいである。


しかし、どこか違和感を感じる箇所もあった。
パーソナルマスタリーとは一体何なのか?
そもそも自分は、「自分はこういう者である」と確信を持って語ることができるのか?
そんな風に語っている人を思い浮かべてみる。
なぜか、どこか敬遠したくなる気がするのである。

また、いかに素晴らしい場作りをしたとしても、聞いていて「薄っぺらい」と思えてしまう話もあった。
(非常に失礼な発言をしていると思うが、その人が薄っぺらい体験しかしていないとか人格が薄っぺらいとかそういう話ではなく、あくまでパーソナルマスタリーの語り方について述べていることを釈明しておきます)

この非常に微妙な違和感について、組織に属していた際は十分に考える余裕がなかった。
今では少し時間がとれるので、自分なりに考察してみた。

そもそもパーソナルマスタリーという概念が前提としているのは、「人間は誰しも人生の中で達成したいと思っていることがある」という考え方である。

達成したいというのはどういうことか?
達成したいということは、今現在達成されていない何か、つまり現状が存在する。
現状からの変容を望むのである。

変容を望む以上そこには何かしらの「不満」が存在しているはずだ。

なぜ不満なのか。
J・クリシュナムルティは、変容を望む不満とはすなわち恐怖と不安であると言う。
満たされない恐怖が不満なのだ。

パーソナルマスタリーの定義上、達成したいビジョンが個人について外在的なものを対象としていたとしても、それは個人の内在的な経験や所謂原体験などに根ざしていることは前提である。
したがってこの場合の恐怖は個人の恐怖である。

「こうありたい」「こうしたい」という思考の背後には必ず恐怖がある。
だからこそ、そこを認知し、語るからパーソナルマスタリーに実が伴うのではないかと思うのだ。
自分の恐怖を認知し、受容してこそ初めて「私はこういう者である」と語り得るのではないか。
同時に、そうした自分の恐怖、そしてそこから生み出される「自己防衛システム」(R. キーガン 2013)という自己強化型ループを自覚することが何よりも変容への第一歩であり変容それ自体である。


僕自身、この「パーソナルマスタリー共有」は少し苦手な部分があった。
先ほど薄っぺらいという話をしたが、聞く人によっては「お前の話だろ」とツッコミを入れておられることだと思う。

それはきっと、本当の意味で自分の恐怖を語っていなかったからだと思う。

くわしく語ると非常に長いので省くが、僕は団体が一番見たいと思っていた子どもたちとしっかりと向き合った経験が無かった。
NPOという団体の性質上、「当事者意識」というものは何よりも重視される。
企業におけるサラリーが、NPOではやりがいに相当する、なんて言説もあるほどだ。

団体では、「自分たちが教師として向き合ってきた子どもたち」こそがやりがい、当事者意識の原点だった。
そんな中で、向き合ってきた子どもたちをある種持たない僕は、団体のビジョンやミッションを真に理解しているという資格などなかったと思うし、そのことは実感としてあった。

それでも団体に残っていたのは子どもたちというより団体に所属していた他のスタッフやこれまで関わってきてくれた多くの人々のため、といった視点の方が強かった。

しかし、そうした自分の辛さや意識のズレを周りになかなか共有することができなかった。そこには確かに、異端として白い目で見られる恐怖があったように思う。


見苦しい自分語りに脱線してしまったが、言いたいのは「恐怖」ぬきに語られるパーソナルマスタリーはどこか胡散臭さを持っていて、その理由はきっと人ってもっとどろどろしてるとこもあるし弱いところもあるんだよっていう当たり前の結論である。

ビジョンやミッションを自明のものとして置く考え自体が実はウィルバー的に言えば合理的思考段階の域にとどまっているようにも思える。
ビジョンやミッションより先んじて、ありのままにそこにあるものがあるのではないか。

現に、今僕にはやりたいことがあるが、それは何かを変えるとか達成する、という感覚ではなかったりする。
やりたいこと、達成したいことの裏にある恐怖を見つめ続けていった結果、なぜかよくわからないし、それがなんのメリットがあるのか人に全然説明できないけどそれが残った、といった感覚である。

今の自分を変容させる、というより今の自分の延長線上に間違いなくそれが「ある」のである。
わかりやすく言うと、ビジョンと現状の創造的緊張は、「〇〇ねばならない」「変容しなくてはならない」という緊張を生むが、そうは決して思わない、ということである。
気づいたら「変容」に向けて歩き始めていて、〇〇しなくてはならない、ということはそこには存在しない、という感覚。

伝わるだろうか?
「他人にそのメリットを全く説明できない」というのがある種何かヒントになっている気がするのだが…

パーソナルマスタリーについて自分なりに考察してみたが、そもそもパーソナルマスタリーという概念自体を正確に認識できているのか、自分でも少々自信がないので、もし見当違いのことを言っていたら申し訳ない。多めに見てやってください。

最近気づいたのだが、僕のブログは全く明瞭な結論に達しないし結論に達したように見えてもうまく説明できていなかったりして本当に自分の思考の稚拙さには顔から火が出るばかりの思いだけれど、それがあるがままの自分でもあるのということで、一つ。

























1 件のコメント:

  1. ありのままに書かれているからこそ、僕がピンときたキーワードに会えることができました。ありがとう。

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