2014年5月16日金曜日

W-J・オング『声の文化と文字の文化』1991

圧倒的な知的興奮。
ちょうど「内省とは何か?」という問いに向き合っていた自分が当に読むべき一冊だった。

インテグラルエジュケーション研究会の参考図書として購入したのだが、相変わらず実に学びが多い。というより、自分の興味関心分野、視点にとても近い。

本書は、「書く」ことが発明される以前の「声の文化(オラリティ)」から、「文字の文化(リテラシー)」へと発達してきた過程を明らかにしながら、そうした移行が我々の意識段階にまで大きな変容をもたらしていること、そして我々がいかに「文字の文化」に縛られた思考様式を用いているか、ということに気づかせてくれる。

声の文化とは、書くことが発明される以前の世界である。
例えばホメロスの詩を思い出してもらえれば良いと思う。

著者は声の文化の特徴として、以下の9つをあげる。

  1. 累加的であり、従属的でない
  2. 累積的であり、分析的でない
  3. 冗長ないし「多弁的」
  4. 保守的ないし伝統主義的
  5. 人間的な生活世界への密着
  6. 闘技的なトーン
  7. 感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない。
  8. 恒常性維持的
  9. 状況依存的であって、抽象的ではない
1~3に関しては、例えば、「イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである」
といったような文言を思い浮かべてもらえればよい。
冗長であり、累加的であることが分かる。
この冗長性にも意味はある。

声は、音から生まれている。
著者によれば、「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」

したがって、声の文化においては「過去」は意識されない。
常に「現在」を生きるのが声の文化である。

発生と同時に消えてしまう音の世界では、記憶するためには必然的に冗長で独特のリズム、韻に基づいた言い回し、決まり文句が必要となってくる。
だからこそ、現代の我々にとって、声の文化で生まれたテクストを読む際にはある種の苦痛を感じるのである。


聴覚と視覚の対比は、声の文化と文字の文化の対比につながる。
(前述した9つの特徴のうち、5,7,8あたりに通ずる話である)

聴覚は、人間の感覚の中であるものの内部を直接的に感覚するのに最も有効な感覚である。
視覚は、ある物理的な立体の内面を見たとしても、それはあくまで「外面」として認識される。
しかし、我々は箱を叩いた音によって、箱の内面を感覚することができるのである。

「視覚は分離し、音は合体させる。視覚においては、見ている者が、見ている対象の外側に、そして、その対象から離れたところに位置づけられるのに対し、音は、聞く者の内部に注ぎ込まれる。」
(p153)
視覚の理想は、明晰判明性(分けて見ること)であるのに対し、聴覚の理想はハーモニーなのである。

聴覚に立脚する声の文化の時代、人間は「内面」というものに気づいていなかった。
自分を中心として、世界が自分の周りに広がっている、という感覚である。
このとき、世界と自分は分離されていない。

文字の文化、すなわち視覚優位の時代になって初めて、人間は自身と世界を分離して捉えることができるようになった。主体-客体という認知が生まれたのである。
こうして、人間は具体的な生活世界を離れた抽象世界を作り出すことができた。
その象徴として、著作はプラトンの「イデア説」をあげている。
現実の生活世界とは離れたところに、整然とした、完全性の真実の世界が存在する、という思考は、まさしく書くことによって生まれた抽象的・分析的・内省的な思考様式が基盤となっているのである。

また、9については、ヴィゴツキーの弟子であったルリアの実験が引き合いに出されている。
ここで具体例を述べることはしないが、個人的な経験に通ずる部分があり、とても頷ける話であった。
大学に通わない人が同世代の50%にのぼる、という感覚は、大学生にとっては意外かもしれない。
大学に入ること=優秀である、などという陳腐な話をしたいわけではないが、例えば大学に行っていないような友人と話す際に微妙に感じる「話が咬み合わない」感に似たものをルリアの洞察から感じた。
それは決して論理的に劣っているということではなく、声の文化の中では合理的に発せられている文言なのであるということは、貴重な示唆であると感じた。


筆者はこうして、膨大な言語学、文学研究の知見を惜しみなく披露しながら、我々がどのように声の文化から文字の文化へと移行してきたか、それはいかなる場面に見られるのか、について述べているが、ここでは割愛する。

重要な指摘は、我々が普段当たり前のように用いている論理的思考ないし分析的、構造的、内省的思考といったものは、「書く」というテクノロジーをもってして初めて生まれてきたものではないか、ということだ。

書く行為と話す行為の最大の違いは、聞き手の存在である。
話すときは、目の前に必ず聞き手の存在が絶えず意識されている。(意識的な独り言であっても、自分に向かって語りかけているといえるだろう。)
コミュニケーションは、メディアを通じた単なる情報のやりとりではなく、前提として相手の存在を互いの精神に内在化している必要がある。
その意味で、我々は独りで話すことは出来ないのであり、話しているときは独りではないのである。

しかし、書くことは孤独な行為である。
書き手である自分に対する読み手というものは常に虚構である。
書くとき、我々は常に虚構としての読み手を想像しなくてはならない。自分と世界という相対する構造がそこに生まれてくる。
したがって、書くという行為は内省的思考と密接に結びついているのである。

筆者は最後に、二次的な文字の文化=エレクトロニクスの文化についても言及しているが、この本が書かれた当時はまだTwitterもFacebookもLINEも無かった。
TwitterやFacebookで書かれているテクストは、読み手の不在によって限りなく孤独であった「書く」ことから、曖昧にではあるが読み手の存在を意識できる「つぶやく」ことに変化していると思われる。
そこに内省的な思考は存在するのだろうか?

また、LINEに代表される「スタンプ」という機能も、この視点から見ると興味深い。
読み書きは出来ないが、スタンプで会話できる人、なんて存在はひょっとしたら一定数いるのではないか。
最近、Facebookの投稿は読めるが、学校で扱う文章にはついていけない子どもが出てきている、という話を聞いたのだが、これはまさしく、そうしたSNS的な場で書かれるテクストと、伝統的な書かれたものとが、根本的に違う技術であるということに起因する話かもしれない。



教育という側面から考えた時、内省、言語、発達のこの3つの密接な結び付きを解きほぐしていくことは非常に有意義であると思う。

先日のエントリーで、内省において言語化することにこだわり過ぎてはいけない、という主張をしたが、それは著者の言う「プレテクスト(テクスト化される前のもの)」と「テクスト」の差異の話と近い。
テクストは根元的にプレテクストであり、プレテクストとテクストは一対一対応のような関係でもない。

一方で、確かに我々の内省的な思考の基盤は書くことに大きく依存しているのであり、書くことの技術を磨くことは、より内省的な思考を育む上で重要なのかもしれない。

しかし、著者はこの点に関して明確な言明をしていないように思われる。
もちろん、教育的観点から書かれたものではないため、批判には値しないが、内省的思考が育まれるから書くことが生まれたのか、書くことが発明されたから内省的思考様式が生まれたのかについては、正確なところが分かっていない、という言うべきではないだろうか。

少なくとも、我々の個人的な発達段階と、集団(文明)としての発達段階の相関がここでも見られるということは忘れてはならない。
教育というものは常に時代の要請に応えるべきものでもあるからだ。

そして、もう一つ大事なことは、こうした思索自体が、テクストに依存しているということである。
こうしてブログに文章化している時点で、僕の思考は書くことによる文字の文化に強く規定されているしという内省的気付きを大切にしたい。


この本から得られた示唆を到底すべてここに記述することができた気がしないので、ぜひ興味を持たれた方は読んでみて欲しいと思う。
特に、内省について興味のある人や、教育に携わる人であれば。

次にイノベーションが起こるとしたら、「ありがとう」と頭で思い浮かべるだけで発音され、特定の相手に伝達できるような、テレパシー的なテクノロジーだろうか。などと夢想しつつ。

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