2015年1月27日火曜日

”多様性を尊重する教育”に欠けているもの

多様性尊重という金科玉条は今や教育の分野では当たり前のように見かけるようになった。
多様性尊重の世界観では、定量的なスキルの達成度によって人の価値を評価するのではなく、人格に価値の優劣は無く、多種多様な人が存在することを尊重していこうとする。

人種問題を背景として生まれてきた多文化主義に端を発するこの価値観は、日本の教育では近年文科省が掲げている「共生社会」という方針に現れている。
人種問題が比較的少ない日本では、健常者と障害者という枠組みにおける多様性尊重がクローズアップされているわけである。

こうした価値観は、先に述べたように、点数化できる能力にばかり焦点を当てていた日本の教育、その象徴であった受験戦争の加熱などに対する批判の流れを受けている。
しかし、そこには「多様性」というものについて掘り下げない甘さがあるのではないか。

定量的な測定でしか、価値の大きさを測れないという誤解が生じているのでないだろうか。
100点を取った人と80点を取った人では、前者の方が明らかにその基準では優れている。
しかし、こうした点数化できない主義主張は皆平等な価値を持つものとして捉えられる。

平等な価値を持つのは、人格、すなわち人間の尊厳であって、思想そのものではない。
思想には歴然たる事実として、浅いか深いかの価値の優劣が存在する。
「弱肉強食」という社会思想は、「共生社会」の思想よりも、明らかにアイデンティティを狭めた思想である。自分だけ良ければ良い、という意見よりも、社会全体の幸せを考えるという意見の方が、より世界に対し開かれた、公共性の高い意見であることは言うまでもない。

こうした量に還元できない質的な差異を全て平等に扱おうとするのが、今盛んに語られる多様性尊重の価値観であるように思われる。
それは、実は還元できないものを尊重しているようで、実はあくまでも定量的な世界のものさしに押し込めているのである。
1から100に当てはまらないのだからみんな0にした、というのと同じ話である。
つまり、今の多様性尊重という概念は結局はあくまでも定量的にのみ人間を評価しようとする価値観から抜け出せていない。

意識の構造には発達的な構造の変化があり、そこには確かに価値の垂直性が存在するという事実に目を向けない限り、こうした多様性に対する思考停止の態度は変わらない。
そして、この誤謬は多様性尊重論者を苛むことになる。

「自分には到底受け入れがたい意見ではあるが、多様性を尊重しなくてはならないから、その人の意見と自分の意見は確かに同じ価値がある。でも、どう考えても自分の考えが正しい。どうしたものか。」

そうして傲慢な多様性尊重論者は、自らが絶対的に正しいという根拠なき確信のもと、反論されづらい正論を掲げ、多様性尊重の世界観を共有しない他者を追い詰めていく。
そこには、自らの意識がどのように発達してきたかという過去に対する内省が欠けているのである。

多様性を絶対化することをやめ、定量化できないものが一体どのように変化していくのか、というこを謙虚に見つめる姿勢が今の日本の教育に必要なのではないだろうか。
「みんな違ってみんないい」に安易に逃げない態度が、本当の意味で人間の人格を平等に扱える意識を育てるのではないかと思うのである。

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