2014年4月15日火曜日

工藤順一『国語のできる子どもを育てる』(講談社現代新書, 1999)

読書の意味とは一体なんだろうか?

第四回インテグラル・エデュケーション研究会の課題図書ということで購入した本。
最近分厚いハードカバーばかり読んでいたので、新書は少々心もとなく感じてしまったが、
内容的にはとても興味深いものだった。

筆者は、「国語専科教室」という塾を主宰し、国語教育に非常に造詣の深い人である。
この本も、国語教育者なら必読の名著として有名であるようだ。

この本は3部構成になっている。
1部では「書くこと」、2部では「読むこと」、3部では「読解力」について、それぞれその本質についての考察と現代日本教育における課題、更に実践的な指導法について触れている。

特に面白いと感じたのは、読書の意味と発達段階に応じた読書教育のトピックだった。

読書の意味とはなにか?
冒頭にも書いたこの問いに対し、筆者は次のように述べている。

「本来、読み書きは表裏一体のもののはず、あるいは、同じことを逆方向から見ているにすぎないことでもあります。両者とも頭の中で意味を組み立てていかなければなりません。とりわけ書くことは、他者の書いたものを読み、自分の位置からさらにそれを考え直し生き直すことの中で発展していくものです。読むこともまた、単なる情報の収集を越えて、自分で書くことを通し、より深い確信と世界観に到達してその人の人生を構築していくはずです。
もっと簡単に言うと、読んだものについて、何か書くということは、どんな関わり方であれ、その内容に自分が関わるということです。」(p90)

つまり、読み書きとは読む、あるいは書く、という行為を通じて自己と他者(世界)を構築し、そこに関係性を構築することなのだと筆者は指摘している。
そしてこうした関係性を否定するような国語のいわゆる読解問題批判へと持論を展開していく。

子どもは読書を通して初めて他者を構築するのである。
ファンタジーを読み、空想の世界に浸り、主人公になりきって物語を追うことを通して、現実と空想世界という異なった世界があることを知り、そうした物理的な実態のない世界にも真理が存在することや、それでも自身が生きていく世界こそ現実であるということを知るのである。

したがって、適切な読書経験無くしては、世界を真に深く洞察し、「不易」に気づくことはできない。
読書によって育まれた内面的世界の広がりが、我々の生きる現実としての世界の広がりに対応しているのだ。

こうした読書を通じた子どもの発達段階について、筆者は以下の5段階をあげている。

段階/目的
1. 小学校低学年/おしゃべりと黙読への導入
2. 小学校中学年/黙読の自立化
3. 小学校高学年/仮想現実を生きる試行錯誤
4. 中高生/身体の覚醒と現実への帰還
5. 高校生以上/現実の更新と新しい共同性の構築

小学校低学年時においては、読むや書くといったことよりも、より生得的な「声」という技術を利用した「話す」や「聞かせる」といったことも交えながら、まずは読書を好きにさせることが肝要である。

そして、中学年時の黙読を通じて、孤独と自己に対する世界の認識を得る。
自分が見ているのとは違った現実があること、自分の知らない深いところに存在する多くの関係が世界を作っていることを認識するのである。

第3段階において、筆者はファンタジーを読むことを勧めている。
それは、ファンタジーに含まれる「未知なるものへのこだわりやひっかかり」が、この世界そのものに対する根元的な愛につながっていく、ということらしい。
正直ここがよくわからなかったので、研究会ではぜひとも聞いてみたいものである。

空想の世界から現実へと帰還する第4段階では、第3段階で培った「愛と未知に開かれた心」を通して、「自分の身体で現実を生きる」ことが可能になる。
そうして初めて、現実を相対的に把握し、自分の立ち位置を定めて世界と関わっていくことができるのである。

最後に筆者は独自の意見として第5段階を示している。
第5段階は、こうした発達を通して、自身が世界との距離を測り、世界を変えるためにどうあるべきか?ということについて説明されている。ここについては、また別の記事で他の考察と絡めて書きたいと思う。

注目すべきは、段階ごとに自己否定的な発達が見られることだろうか。
ここにもウィルバーのインテグラル理論における「超えて含む」の構造が見られる。


ここまで書いて、ではこうした発達は読書活動を通じてでしか成し得ないものなのだろうか?という疑問が湧いてきた。
おそらく、読書活動によってのみ達成される、というわけではないが、読書に勝る方法は無い、というのが現時点での自分の答えだ。
文章ほど情報量が詰まっていて、かつ内面世界を充実させる想像の余地を絶妙に残した表現方法は無いだろうからだ。


実は先ほどの5つの段階で、筆者は、第2段階では多読を、第3段階ではファンタジーを勧めている
のだが、ここはまさしく僕の小学生時代の読書生活そのものだった。

幼稚園に通っていたある日、僕は母と一緒に、姉の習い事を待つ間図書館で待つことになった。
それが運命の転機だった。

図書館という世界はなぜか当時の自分には本当に魅力的に思え、むさぼるような本を読んだ。
両親は僕を理系に育てたくて博物館などを連れ回したらしいが、そんなことはさておき、ひたすら本に没頭した。
小学校低学年の頃には日本の伝記シリーズやドリトル先生シリーズをさっさと読み終え、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパン、世界の名作シリーズを読破し、三国志や水滸伝などに手を出していた。
筆者が第2、第3段階であげていた推薦図書は一冊を除いて全て読んだことがあった。

小学校高学年からは宮部みゆきや浅田次郎などを読みあさっていたのだから実に生意気なガキだったなあと思う。

今にして思えば、こうした経験が僕を比較的内省が得意なタイプの人間に育てたのだと思うし、物事の本質や真理(筆者の言う不易)への強いこだわりといった現在の自分の感性を形成したのだと思う。

フィンランドでは、読書の時間をとったあと、その内容について何かしら話す時間を必ず取るらしい。
読んだ本の内容をしっかりと他人に伝えられるということは、自己が世界、他者と関わるための必要条件であり、読書教育における第一義であるように思われる。

僕の場合は、母親によく読んだ本の内容を話していた。面白いと思う部分を見せに行って、いかに面白いかを説明しようとしていた経験がそれにあたるのではないかと思う。


僕は読書教育を実施した経験が無いので、ところどころ実感を伴った理解が難しい箇所もあったが、国語教育というものについて非常に深い洞察を与えてくれる名著であった。
国語教育にとどまらず、教育に携わる人ならばぜひ一度手にとってみてはいかがだろうか?









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