2014年4月10日木曜日

存在論を勉強中。

存在論について勉強している。
まだ存在論というとてつもない山の一合目にも到達していないような状況ではあるが、様々な思想に触れてみて少し思ったことを書いてみる。


原始仏教には、「観る」とか「観ずる」といった言葉がよく出てくる。
単に「見る」のと違って「観る」とはどういうことなのか?

通常、人が何かを見るときには、見る主体と見られる対象とが存在し、見ることで人は対象を対象として認識する。

それに対して、「観る」というときは、主体客体の関係性をそこまで問題にしていない。
仏教における「観る」というのは時間や空間を超越した本質・真理を感覚する、といったニュアンスに近いのではないかと思う。

仏教では、人間を形成する五つの作用(五蘊)のうちで、「識」というものをあげている。
識とは何かを精神的に知覚、認識する作用のことを示すが、単なる認識作用にとどまらず、時間軸をも超越して行き渡るものであるらしい。

思考というのもあくまで人間存在を形作る1つの作用であるとみなす仏教では、この「観ずる」ということの実践として、静的な瞑想術を用いているのだろう。

瞑想において大事なことは、ただ観察することだからだ。
自分の思考や感情すらも相対化し、その作用をただひたすらに観る、ということが結局のところ真理へ近づく最良の道だということである。


はじめに一例として仏教についてとりあげたが、こうした認識論、存在論的な話は様々に有名なものがある。
フッサールやヤスパース、サルトル、フランクルなどの実存主義的なものや、西田幾多郎の行為的直観、鈴木大拙の主客合一なども近いテーマを扱っている気がする。
最近読んでいるクリシュナムルティも「思考を相対化し、事実をただ事実として認める」ことについて語っていた。

各々の立場や細かな思想にはれっきとした違いがあるが、それでも共通して見えてくるのはアートマンとブラフマンの統合への志向性のように思われる。
個人存在としての本質と世界の真理あるいは宇宙的真理の統合、すなわち「空」の概念を思い出さずにはいられない。

多くの思想家が主体と客体という究極の二元論を乗り越えた先に、光が差し込む、とか大いなる祝福とか、平静の境地とか言葉は違うにせよ、計り知れない大きな存在との対面、そして統合といった神秘的体験を語っている。

こうした神秘的体験は、おそらく言語的に理解するだけでは到底体験しようがないものなのだろう。
まさに「観る」ことで初めて到達できる境地であると思った。

山の頂はめちゃくちゃ遠いなあと思うのでありました。

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