2014年5月28日水曜日

暗黙知の大きい組織は持続可能ではないという話

先日の第5回インテグラルエジュケーション研究会に参加しました。
前回と同様、非常に学び多く、豊かな空間でした。
惜しむらくは、前日夜勤&当日6時起床のコンボで睡眠時間が1時間だったので、後半へとへとであまり頭が回らなかったことです。



研究会の中でも特に印象に残ったのが、暗黙知の話である。
結論から言えば、暗黙知の比率が大きい業界では、上下関係が強くなるということである。

暗黙知とは、文字で記述されないが、確かにその仕事を進める上で役立つ知のことである。
厳密に言えば、本来的に文字で記述できないもの、すなわち身体感覚などに由来する経験知と、文字化しようと思えばできるのに、されていない知の2つがある。
実際に日本でナレッジマネジメントの分野で問題とされているのは主に後者であるように思う。

暗黙知の割合が大きい分野としては、例えば「琴」や武術などを思い浮かべて欲しい。
そこでは、厳然たる「師匠」の存在があり、弟子が師匠に対しフラットに意見を言う、などという情景は思い浮かべにくい。師匠が弟子に秘伝を口伝えするようなイメージである。

一方、その逆としては例えばプログラミングの世界などがわかりやすいだろう。
プログラミングの世界では、Githubなどによって非常にオープンに各人のナレッジが共有されている。プログラマーの序列は、年齢や経験によって決まるのではなく、純粋に作られたプログラムの質(成果)に依拠するところが大きい。


知が記述されないということは、一回性を持っているということである。
書くことは、知を自身の外の世界に繋ぎ止め、永遠化する試みであるから、書かれない知はその人”だけ”のものなのである。
一回性を持っているから、そこに固有の価値が生まれ、固有の価値は権威を持つ。
暗黙知は権威性を帯びるのである。


暗黙知が多くなった組織は、硬化し、質が低下していく。
長く在籍しているスタッフは沢山暗黙知を持っているから、その人に対して「自分ごときが意見を言っても仕方がない」と感じてしまい、フラットな意見交換が起きにくい。

逆に、暗黙知を多く持っている人というのは、自分自身も何か形式化された知から学んできた、というより、自分の経験をしっかりと内省し、経験知を身につけてきたという感覚があるから、「自分でなんとかしろ」と言いたくなって暗黙知の形式知化に積極的ではなくなる。

結果として、古参は懐古に浸って現状を憂い、新人は自分の未熟さを痛感しながらもどうしたらよいかわからず苦しむのである。


もちろん、全ての暗黙知が形式知化できるというわけではないことは上述の通りであるし、経験によって培われた暗黙知の量は、確かに業務遂行能力の優劣を生むことは事実である。
しかし、そうした暗黙知を学びやすい形で極力形式知化することで、そうしたブランクを埋めるのにかかる時間をはるかに短縮することはできるはずだ。

持続的な組織の成長のために、そうした暗黙知を形式知化するという意識を常にメンバー全員が持てるかどうか。特に組織の人員の入れ替わりの激しい組織では、ここがポイントになってくると思う。長期雇用が基本であった日本で、こうした暗黙知の形式知化に対する意識が低かったのも納得がいく話である。


実際に暗黙知を学びやすい形で形式知化するのは実は非常に難しいことであるように思うが、複数の優秀なメンバーから抽出された知を検討していくことで洗練された形式知が生まれてくると思う。
組織の何よりのプロパティは、そうした内省的な積み重ねを研磨し続けていくことで生まれてくる知にほかならないのではないか。


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