2014年5月8日木曜日

田中智志『教育臨床学 <生きる>を学ぶ』2012

ずっとおすすめされて積んであった本。
なるほど、これは自分が読むべきだった。
少しいつもより気合を入れて書いてみた。

筆者の提唱する教育臨床学の要点は、以下と理解した。

①教育という営為の倫理的基底(すなわち人の根源的様態であり、日常性の存立条件である)を存在論的に捉える。
②我々自身が社会に参画し、社会を形作る一員であるということを認識するため、社会構造論を踏まえる。
③その人の固有性を肯定し、自己創出を支援することが「よい」教育である
④倫理的基底と社会構造論を踏まえた教育の再構築は、不断により良いものを目指すというメリオリズム的なものでなくてはならない。


①については、本書で最も多く語られているところである。
この倫理的基底を支える概念として、作者は、「命の固有性」「重層する関係性」「衝迫の倫理感覚」という3つの基礎概念をあげている。

「命の固有性」とは、一見当たり前のように思われる概念だが、ここでは存在論的にその固有性を論じている点が特徴である。
「あの人は優秀だ、有用だ」といった卓越性や、「一人として同じ顔の人はいない」といった生物学的特殊性ではなく、存在論的関係性の中に命の固有性を見出しているのである。

すなわち、私たちは情念的に強く結ばれた誰かとの関係性の中で初めて、「かけがえのない存在」となるのであり、その「かけがえのなさ」は私が所有しているものではなく、私と親密な誰かとの関係性に在る。

ではそうした関係性を存立させているのはなにか。
それが倫理的な感覚を伴いながら他者の命に共鳴共振するという我々の本来的に持つ感覚なのである。
目の前で死にかけた人を見た時、その人を助けるべきかどうか思考する前に手を差し伸べてしまう。そんな衝迫の感覚である。
「衝迫する」のは、我々が他人に無関心ではいられないということである。

こうした倫理感覚がどのように養われていくのか、残念ながら本書では明確な結論は出ていない。
しかし、おそらく無条件の肯定に支えられた世界という他者と自己との相互浸透が大きく関わっているのではないかと筆者は述べている。


ここから少し自分なりに考えたことを書きたい。

1つ目は、先日ブログに書かせていただいた苫野先生の『どのような教育が「よい」教育か』との関連について。

実は非常に光栄なことだが、先の記事を苫野先生自身がTwitterでお読み下さり、疑問に応えてくださった。
Twitterを利用しての苫野先生とのやりとりは非常に心躍るものであったし、同時に自らの未熟さを実感する契機ともなった。

ともかく、上記の本で苫野先生は、「よい」教育を論ずる上での共通了解はなにか、という問いに向き合っているが、その際に「よさ」を論ずる基底として、『我々は「生きたいように生きたい」と我々が感じている』という現象学的事実をとりあげている。

本著『教育臨床学 <生きる>を学ぶ』では、人間を自己創出し続ける人格システムとして捉える。
自己創出とは、「自分を重視する視点に立って思考し・感受するとともに、他者を重視する視点に立って思考し感受することで、自分を作りかえるシステムである。」(p249)
つまり、自己創出は、他者言及無しにはなされない。ここに教育という営みを支える関係性ないし倫理的基底の存在が浮かび上がってくる。
また、自己創出は「生まれ変わり続ける」システムである。ここにも、不断に「今、ここ」ではない場所を目指す我々の実存性が垣間見られると言える。

田中先生が言いたいことを、苫野先生が言おうとしていることと比較してみると面白い。
苫野先生は、どのような教育が「よい」教育かを考えるための共通了解はなにか、ということを問うていて、田中先生はそうした共通了解を得ようとする教育という営み自体を支えようとしているように感じた。
このあたりはまだ少しもやもやしているので、今後も考えていきたい。


2つ目は、発達との関連について。
本著で唯一欠けているとしたら、「発達」の視点ではないだろうか。
本書で語られているような存在論的な了解に至るには、段階的な発達を経る必要があると思われるし、筆者が再三に渡って教育には相応しくないと批判する「交換の思考」や「目的合理性」は、インテグラル理論的には合理性段階の産物として(乗り越えられていくものとしても)理解できる。

逆に言うと、インテグラル理論的な発達の視点を持って本書を読むと、その完成度の高さに舌を巻く。特に印象深かったのは、やはり敢然性(メリオリズム)という態度、そして自己創出し続けるシステムという人間観が、発達を健全化するというインテグラル理論の思想と親和性が高かったことである。


やはり教育哲学をやる上で、最新の発達心理学はかかせないと感じた。
ウィルバーから、カート・フィッシャーやロバート・キーガンにも興味を持つようになったのだが、彼らのような最先端の発達心理学者の知見は、こうした教育哲学の最先端とも実は親和性が高いのではないか。

この仮説はかなり面白い気がしているので密かに温めておこうと思う。






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