2014年6月2日月曜日

真木悠介『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』1993

この仕事の中で問おうとしたことは、とても単純なことである。
ぼくたちの「自分」とは何か。
人間というかたちをとって生きている年月の間、どのように生きたらほんとうに歓びに充ちた現在を生きることができるか。
他者やあらゆるものたちと歓びを共振して生きることができるか。
そういう単純な直接的な問いだけにこの仕事は照準している。
(あとがきより)
見田宗介先生の本を読んだのは初めてであったが、率直に感銘を受けた。
広範で深遠な知識と、切れ味鋭い洞察、無駄なく、それでいて筆者の息遣いが伝わるような文章。
圧倒的な知性を感じた。

本書は、全5部からなる<自我の比較社会学>構想の第1部に位置付けられている。
全体の構想は、

1. 動物社会における個体と個体間関係
2. 原始共同体における個我と個我間関係
3. 文明諸社会における個我と個我間関係
4. 近代社会における自我と自我間関係
5. 現代社会における自我と自我間関係

となっている。

動物社会学を軸とした議論が展開されるため、専門的な話は正直ついていけない部分も多かったのだが、それでも非常に面白く読むことができた。


ドーキンスによる、遺伝子は”利己的”であるという論は、動物の利他的行動すらも説明できる。(サケの産卵のための遡上や親鳥が雛をかばうために羽の折れたふりをして敵の注意を引く行為など)
つまり、個体としての利己的行動ではなく、自身の遺伝子を残したい、という遺伝子の利己性によって、我々にとって一見「利他的」に見える行為すら説明できるのである。
(この解釈はドーキンス本人ではなく、著者のものである)

では、個体というのは一体なんなのか?
利己的な遺伝子が乗りこなす生存機械にすぎないのであろうか?(なんともフラットランド的な考え方である)

個体の存立起源は、多細胞生物の発生に関わる。
多細胞生物は、真核細胞の共生体として考えることができる。つまり、個体とは共生体なのである。
ウイルスが個体という共生体から外れた漂流する生成子であるとすれば、個体というのはそうした生成子たちのサライ(宿)としての共同体とかんがえられるかもしれない。

そうした共生体としての個体は、いつしかある種の主体性を持つ。
はじめは、共生体としての機能をよりよく維持するための「エージェント的主体性」から始まり、それは次第にそのシステム自体を支配する本来の力への反逆すら可能にする「テレオノミー的主体性」を持つに至る。
ここに、利己的な遺伝子に対する個体の優越が立ち現れてくるというのである。
(こうした構造は、ロバート・キーガンの知性の発達モデルとも類似する点があり、興味深い。)

しかし、そうした個体は、形成された後であっても、外部の生成子に開かれている。
ドーキンスは「表現の延長型」という理論を展開している。
例えば、我々は幼児を愛くるしいと感じる。
幼児の行動によって我々が直接的な不利益を被ったとしても、成人のそれと比べて不快感を感じることは少ないだろう。
ドーキンスは、こうした幼児の愛くるしさによって他者による庇護を可能にすることもまた、生成子の表現の延長型であるとする。

ここに見られるのは、究極的に利己的な他者との関わりとは、他者に「愛される」こと(利他的な行動をとらせること)であるということである。
個体は、個体として在ってもなお、外部に開かれているのである。

そして、こうした個体と個体の関わり方、テレオノミー的主体性から、著者は個体というものに本質的に備わる自己超越性を指摘する。
テレオノミー的主体性を獲得した個体は、遺伝子の再生成の機械としても規定されないし、個体としての存続を自己目的化するよう迫られてもいない。
究極に利己的にも、利他的にも生きることができるのであり、利己性と利他性は極限の次元で統合される。


こうして概観してみると、生物学的な探求が確かにウィルバーの語るような全体に包括されていることを改めて実感した。

誤解を招かないために言っておきたいのは、著者はカール・ポパーとエクルスの対話にページを割き、脳科学は真の意味で自我の起源を明らかにしないということを述べている。
意識が大脳によって創出されたということが分かったとしても、我々の意識がどのように生まれてきたか、その起源を本当の意味で知ることは決してできないのである。
ウィルバーに則れば、外的な象限による真実と内的・個的な象限による真実は矛盾しないが、一方によって他方を説明しきることもできないのである。

人間という現象を単なる生存機械やガイアシステムに組み込まれた「部品」として扱うフラットランド的な論調とも、神に肉薄する霊長類として神秘性を強調する宗教的論調とも距離を離れ、あるがままを見つめようとする著者の慧眼に、心底恐れいった。

そして、こうした自然科学的な知見というものの重要さを痛感した次第である。

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