2014年5月10日土曜日

「すべての人が生きたいように生きている社会」への反論

少し前まで寒かったのに、あっという間に半袖で外出したくなる季節。
教育の意義とはなにか。相変わらず考えている中、ウィルバーの『無境界』をふと思い出した。


内省という試みは、無意識を意識化することであると過去のエントリーで書いたが、無意識を意識化するとはどういうことか、更に深く考えてみる。

結論から述べれば、内省とは「境界線に気づく」行為である。
私たちは差異の世界に生きている。
差異を差異として認めるために、境界を引く。
最たるものは、「命名」だろうか。名付けることで、対象を「分類」する境界線を引く。
そうして数多に引かれた境界線の世界で、我々は生きている。

そうした境界線に気づくことが、内省という思考である。構造を把握する、といっても良い。
境界線に気づくことがなぜ重要かといえば、境界線を引くことで分断され、「ありのまま」ではなくなってしまったことによって起きる葛藤を克服することができるからである。

例えば、他者との間で起きる諍いは、自分とその人の立脚する価値観やメンタルモデルの相違が根本的な原因である。自分を縛るメンタルモデルに気づくことは、実は他者と自分の境界線を越えることにほかならない。

内面的な葛藤においても、自分を縛る固定観念からの解放こそが鍵をにぎる。自分という存在を何らかの境界線によって自己に押し込めていることが、実は内的葛藤を生んでいる構造的要因である。

そうした内省をとことん深くつきつめると、どこに至るのだろうか?
「すべての人が生きたいように生きること」こそ大事なのだという言説をたまに耳にする。
しかし、これに僕は違和感を感じている。

「自分が生きたいように生きる」という段階の先(内省によって至る)には、「自分が生きたいように生かされている(そうなっている)」という段階があるのではないか。

僕は、全ての人が生きたいように生きている社会よりも、全ての人が生きたいように生かされていることに気づきつつ、生きたいように生きている社会がよいと思う。
その方が、社会というものを構成して生きていかざるを得ない我々の本態に寄り添っている気がするからだ、


教育の意義とは、なんだろうか。
教育において未来永劫疑いようのない事実は、「教育とは、人格と人格との相互活動である」ということだと思う。
このありのままの事実を見落としてしまうような境界線を引くと、どこかで誰かが苦しみ、泣き、憤っていることになる。

であれば、教育において最も大切なことは、相互活動を通じて、自己と世界が本質的に区別されていないということに気づくことかもしれない。

自分自身その段階に至っているかと言えばそうと言い切れないが、入り口ぐらいは覗けている気がする今日この頃。

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