2014年5月11日日曜日

言語化至上主義を揺さぶりたい。

我々は言語を誰もが同じように使える当然の能力として見てはいないだろうか。

以前LFAでリフレクションを設計していたときのこと、
リフレクションシートと呼ばれる内省用のシートの記述が少ないことから、内省が足りていないと判断した、という話を聞いた。
しかし、実際にその教師の指導が改善していないわけではなかった。

言語化できる、ということの前提条件として、言語能力がある程度発達していることが求められる。
記述すれば自明のことだが、あるいは無意識の前提(メンタルモデル)となってしまっていないだろうか。

確かに、言語化できないということは思考が足りていないことと重なっていることは多い。
我々は言語なくして思考できないからだ。
それに、言語が内面的事実を共有する上で最も有用なツールであることも疑い得ないと思っている。

しかし同時に、本質的な気付きというのはうまく言語化できないことが多いのも事実である。
なぜなら、コルトハーヘンのリアリスティックアプローチにも示されているように、本質的な諸相への気付きへと至るためには、思考面だけではなく、行動、感情、欲求といったレベルも含めた内省が必要だからである。

言語化された気付きというのは、言語化されえない気付きをなんとか言語化しようと試みた結果なのであり、重要なのは言語化されえないものを言語化しようとする敢然性にある。
そこに気づかず、ただ言語化された「結果」だけを読んで理解しようとすると、真の意味で学びを共有することはできない。

他者の学びを観測するには、言語によって測るしかないという現実的制約が、我々に言語というものをある種絶対化し、あたかも客観的な尺度かのように錯覚させているのではないか。

僕は当時言語化にこだわらないリフレクションとして絵やレゴブロックを使った学びの共有を発想したが、そうした手法が本質なのではない。

「これが自分の欲求です」と書かれていたとしても、そこに言語化されたことと、その人が実際に自覚している欲求との間には抜け落ちているものがあり、それを人間に本来的に備わっている力によって汲み取ることが重要なのである。




0 件のコメント:

コメントを投稿