2014年5月12日月曜日

持続可能な理念とは。

2年間のマネージャー経験で、常につきまとったのは「ビジョンの体現」という課題だった。
リーダーはビジョンを体現しなくてはならない。
考えてみれば当たり前のように思われるこの原則は、実は非常に難易度が高いように思われる。

教育思想史に関する本をここ最近読んでいるが、数多の教育思想が、実践にばかり着目した誤解から批判され、廃れていく歴史を実感している。
最近でも、西川純先生による『学び合い』が、西川先生の理念を歪めるような形で広まり、本質からずれたところで批判や対立が起こっているように見える。

なぜ、理念は正しく理解されないのか。
理論と実践は乖離せざるを得ないものなのだろうか。

そう考えた時、前述した「ビジョンの体現」という話を思い出した。
リーダーはビジョンを語るだけではなく、行動で、全身で、そのビジョンを体現しなくてはならない。
すなわち、言行一致の一貫性である。
一貫性が信頼と安心を土台とした協同のチームを作る。

ここで重要なのは、リーダーが語るビジョンにおいて、リーダー自身を例外としない、という構造である。
「全ての人が幸せに働くことを目指す」と言っておきながら、「ただし自分は例外」というのは、そのビジョンの限界あるいは脆弱性を認めていることと同義だし、持続可能ではない。

リーダーが自省的であるべきなのは、究極このビジョンに自分が誠実かどうか、という一点である。
自身の行動、言動、その他全ての在り方が、掲げる理念に即しているかどうかを反省し続けることがリーダーの条件である。

教育思想にも同じことが言えるのではないだろうか。
デューイの掲げた教育思想に則っていると自負していた実践者たちは、子ども中心主義への批判を受けた際に、真にメリオリズム的に行動していたのだろうか。

教育思想はともすれば、思想に基づく実践自身をその思想から疎外しているような傾向はないだろうか。
「子どもに何も押し付けてはいけない」という人々は、その思想を誰かに押し付けていないだろうか。
「すべての意見には平等に価値がある」という人々は、その意見を一段高みにおいて上から目線に陥っていないだろうか。

思想が思想家のものではないように、理念とは、掲げる誰かのものではない。
理念は、共有される人々の間という無形の空間にあるものだ。
だからこそ、不断の内省によってそれは鍛え上げられ、より多くの人を魅了するようになるのである。

当為は「当に為される」から当為なのであって、口先だけの理想は実を持たない。
医者の不養生が笑い話になるように、考えてみれば呆れ返るほどの事態なのだが、実際にこれを体現するのは非常に難しい。
だからこそ、省みるという習慣を大事にしたいと思う。


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