2014年5月19日月曜日

なぜ内省的な積み重ねが価値を持つのか

D・ショーン『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』を読了した。
1980年代に出版されたこの本は、あらゆる分野に影響を与え、今日語られる「プロフェッショナル」論はほぼ彼の論に依拠しているように思われる。
彼は、技術的に熟達した専門家像(高度に体系化された理論としての知識を持つ専門家)から、行為の中で常に省察する、reflectiveな専門家像こそ、これからの時代に求められるのではないか、という提起をしている。


僕は、内省的な積み重ねこそ、現代において確たる価値を持つという信念を持っている。
それはなぜか。

テクノロジーの驚異的な進歩や、国際化が進む現代において、我々が日常直面する課題もますます多様化、複雑化している。
「何か絶対の正しい正解がある」というイデア志向は限界を迎え、不断の努力によってより良いものを目指し続ける、というデューイのメリオリズム的なものへと価値観がシフトしてきている。

絶え間ない省察とは、本来我々が持っている力だったのではないか。
ショーンは著書の中で、幼い子どもが、重心が中心からずれた積み木を積み上げる実験を通して、子どもが「長方形の積み木の中心に重心がある」という幾何学的法則を経験によって修正し、重心のずれた積み木も器用に積み重ねていけるようになる、というピアジェ派の実験について言及している。
無意識的にせよ、意識的にせよ、我々にとって内省とは生来備わっている力のように思われるのだ。


内省の積み重ねは、固有性の価値を生む。
ある人の経験は一つとして同じものは無いし、同様に内省によって何に気づくか、もまた千差万別である。そうした内省のプロセスの積み重ねの先には、その人にしかたどり着けない境地があり、すなわち固有性を形成するのである。

唯一の正解が無い状況において志向されるべきは、こうした内省のプロセスを不断に行うことができるという態度である。
もちろん、「内省こそ正解だ!」と述べることは、自己矛盾であるから、「本当に我々は不断の内省をしていく必要があるのだろうか」と内省し続けることもまた重要である。
そうした意味では、信念などというものもまた虚構なのかもしれない。


内省によって得られるべきは、「本質的な諸相への気づき」であり、それを基にした「選択肢の拡大」である。
それまで無意識によって条件付けられていた自分の行為を、内省というプロセスによって意識化し、同じような状況に遭遇したときに、違った選択肢を採ることができる、というのが内省による発達だろう。

そうした内省を繰り返した先にあるのはなんだろうか。
無限の選択肢を採れるということは、無限に自由であるということである。
自身を縛る無意識構造に気づき続けることで、人は自由を拡大していく。
内省こそ、人が自由に生きるための真に実存的な営みなのではないか。


だが、疑問は残る。

我々はどのようにして内省を手に入れたのか?(このあたりは一つ前の記事で書いた、W-J・オングの『声の文化と文字の文化』が興味深い)
内省が得意な人とそうではない人がいるのはなぜか?このことは何を意味しているのか?


内省というものを、単に自己実現のプロセスや学習科学の一要素とだけ捉えているのでは、その本態に迫ることができないように感じている。
オングのように、社会・文化的な側面や、あるいは脳科学のような生物学的側面、仏教や弁証法、ポストモダン思想などの思想的な側面からも探求していきたいと思う。






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