2014年5月23日金曜日

西條剛央『構造構成主義とは何か』2005

予てより周りの人からよく耳にした構造構成主義について、はじめて本を読んだ。
あらゆる分野の人々にとって、踏まえ無くてはならない原理であると感じた。

構造構成主義の要諦は、「関心相関性の原理」である。
関心相関性の原理とは、存在、意味、価値といった現象が主体の関心に相関的に規定される、という原理である。

筆者の例をそのまま引くと、通常我々には単なる水たまりにしか見えないものも、死ぬほど喉が乾いている人にとっては<飲料水>として見える、ということである。

考えてみれば当たり前のこの原理を基に、構造構成主義は”現象”が疑い得ない規定であること、構造化された現象は恣意性を持つが、構造化されることで構造自体の共通了解可能性を高めていけることなどを緻密に論じていく。

筆者によれば、科学とは客観的実在世界を説明する絶対的真理を追究することでも、帰納的あるいは反証可能性を厳密に踏まえたものでもなく、こうした構造の共通了解可能性を限りなく高めた、「より上手く説明される」理論を見つけ出していく営みなのである。

特に感銘を受けたのは、構造構成主義を支える先人たちの様々な思想を取り上げる上で、その根本動機、すなわち何を関心としていたのか、何を解決しようとしたのか、という点をしっかりと抑えている点である。
こうした態度自体が、まさに構造構成主義的であると言えるだろう。

アナロジー的に説明するとすれば、構造構成主義はまさに欲求といった「学習する組織」でいうところのメンタルモデルの次元まで射程に入れた内省的な視点を持つことで、統合的な科学論を実現している、ということだろう。

絶対的真理を否定することによる相対主義や、その帰結としてのニヒリズムからも、メタ的な次元へと距離を採ることで、より創造的、建設的な問題解決を志向している点で、まさにこれからの時代に必要な科学論ではないかと思われる。



一方で、違和感を感じた部分について2点書く。

1点目は、「共通了解」される過程そのものについてである。
筆者の主張は以下である。

このような「構造」は、同一性としてのコトバを含んでいるため純粋に客観的なものではないが、コトバとコトバの関係自体は客観的(共通了解可能)なものである。したがって、構造化することによって、非客観的なコトバ(たとえば「水」)が、客観的な形式を付与した分だけ、より客観的になったのは確かである。 
(中略)
すなわち、現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型ならば、私の「現象→コトバのシニフィエ(同一性)」とあなたの「現象→コトバのシニフィエ(同一性)」の間に完全な平行性が成立し、この平行性はコトバのシニフィアンの同一性に支えられて、構造において完全な共通了解可能性をもちうるのである。(p123)
現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型である、という仮定は果たして共通了解可能性を持つだろうか。筆者はソシュールを引いて、我々が恣意的に言語を学んでいることを前述している。したがって、「現象からコトバの同一性を引き出すやり方」自体が、恣意的な慣習によって獲得されている。

つまり、上記で筆者が述べる「完全な共通了解可能性」が担保されるためには、「現象からコトバの同一性を引き出すやり方が同型である」という共通了解可能な前提が必要であり、これは循環してしまうのではないか。


2点目は、関心相関性の「関心」である。

構造構成主義の中核を成すのは関心相関性の原理である、ということは先に述べたが、ではこの関心とはなんなのか、について筆者はあまり深く掘り下げていないように思われる。

つまり、「関心とはどのようにして生まれてくるのか?」「なぜその関心を持つに至ったのか?」という存在論的な問いである。

関心は各人各様であるから、それに応じて様々な構造が生まれる、というのは理解できるが、その大本である関心自体の存在論的な解明が無い限り、どこか物足りないものを感じてしまう。
筆者が何度も言うように、「当たり前」のように感じてしまい、根源的に揺さぶられるような興奮を感じないのである。
(筆者は当たり前であるが、意義がないというわけではない、ということを繰り返し強調しており、その点は同意である)


構造構成主義が、こうした実存的な問いと合流したときに、ウィルバーのようなコスモロジーに至るのかもしれない、などと邪推してみたのだが。


2点目の違和感については、特に気になっているので、もし誰かうまく解説してくれる方がいたら、ぜひ教えていただけると幸いです。


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