2014年8月2日土曜日

ビジョンの盲点

ビジョンを描いて接することが重要である、という話をこないだ聞いた。

ビジョンを描くことはなぜ大事なのか?
ビジョンとはなにか?

ビジョンとは、「達成したい最良の未来」を言語化したものだ。
それ故、ビジョンの根底にあるのはビジョンを語る人の根源的な欲望である。
心の底から達成したいと思えないビジョンは、ただの飾りにすぎない。

従ってビジョンが無いということは、したいことがよくわからないということに等しい。
したいことが分からない、という組織や人に対して、我々が価値を感じることは無いから、結果としてビジョンの有無は人への影響力、組織の推進力に大きく関与する。
チームのリーダーにとって最も重要な能力がビジョンを掲げる力であるということは、まさにこの点を言っている。


学習する組織では共有ビジョンという概念が提示されている。
これは、本質的に個々人に属するビジョンをチームで共有し、互いに納得できるまで抽象化した共通了解をチームのビジョンとして掲げることで、メンバーのコミット、組織の生産性を最大化するという考え方である。

こう述べていくと、ビジョンというものは大変魅力的な、それさえあれば何でもできるような魔法のように思える。


一方で、ビジョンに固執することの落とし穴もあるのではないか。


1つ目は、「万人がビジョンを持っている」という前提である。
共有ビジョンが上手く形成されない理由の一つは、個々人にまずビジョンが存在するという前提自体の危うさである。
自分はこれがしたい!と明確に言える人は、今の日本社会で実は少数なのではないか。
ビジョンを持つ人であっても、それが不都合な現実から目を背けた先の自己暗示であるということを否定しきれるほどに強い使命感を持った人は更に少ないと思われる。

まかり間違っても「ビジョンを持つことが素晴らしい」などといった固定観念を振りかざしてはいけない。そんなことをする権利は誰にも無い。
真のビジョンに目覚めた人ほど、自分のビジョンが自分だけのものでしかなく、他者の在り方を規定する権利などないという諦観を持っている。
そうした”先達”たる人々は、ただもがき苦しみながら自分のビジョンを探す人々をあたたかく見守り、求められた時だけ支援するのである。

それでも共有ビジョンを目指すのであれば、我々に残された選択肢はもはや共有ビジョンという奇跡を信じることしかない。
一人ひとりがビジョンに目覚めてくれるという可能性をただ心の底から信じ続け、関わり続けることだけが、唯一の方法である。


2つ目は、ビジョンの本質が個人の欲望である以上、他者と関わる際に常にそのビジョンは独善性をはらむということである。
リーダーが陥りがちな陥穽は、自分のビジョンがチームの共有ビジョンであると錯覚してしまうことだ。
「誰かを幸せにしたい」という素敵なビジョンは、幸せにして欲しいと思っていない人にとっては単なる迷惑でしかない。
掲げたビジョンの美しさに酔って、独善的に暴走する”ビジョナリー”なチームは、見るに耐えないものがある。
だからこそこうした落とし穴を理解している人・組織は、リフレクションに重きを置くのである。


本当のビジョンを持つためには、見たくないものを見る覚悟を持たなくてはならない。
他人を傷つけ、他人に傷つけられる覚悟を持たなくてはならない。


最終的に人を動かすビジョンは、面白さや楽しさよりも、傷だらけになりながらも貫き通されたことで磨かれた輝きと重みを持つ。
積み重ねられた過去にこそ、我々は物語性を見出すからだ。

結局のところ、我々の自覚する使命なんてものは虚構でしかないのかもしれないが、少なくともビジョンが与えてくれる力は、はかりしれない。

そうした力強く鍛えあげられた信念に憧れる気持ちを消化できないうちは、まだまだだなあと思う。

2014年7月8日火曜日

希薄な現実感と意味的動物

現代は、現実感が希薄になってきている時代である。
そんなことを、高3の頃、吉見俊哉先生の本で読んだことがある。

まるでゲームのように人生を生きる人々。
文脈を無視し、おもしろおかしくストーリーを作り上げるマスメディア。

現代社会では、確かに生身の圧倒的なリアリティを感じることが少ないように思う。

社会学的な視点から言えば、情報の氾濫によって、より分かりやすい情報(=物語的、ネタ的)が取り上げられるとか、ベックの言うリスク社会化によって、自身の人生にオーナーシップを持たない人が増えているとか、そんな考察になるのだろうか。

一方で、人間の本性に立ち返ったとき、「人間は意味的動物である」というV.E.フランクルの言葉が思い返される。

人間は、どうしようもなく意味を求める。
それは根元的な欲求である。

我々のメンタルモデルとは、無機質な現実に何らかの意味を与える視座なのだ。
信念とは、その無味乾燥に現前する現実に耐えられずに生み出された拠り所なのかもしれない。

実は、現実はどうしようもなくカオスで、圧倒的に無意味だ。
物語のように分かりやすく一貫性を持った人など実際にはそう居ないし、その在り方が自然だとも僕は思わない。

しかし、そんな風に究極な不安定な世界で、何を確固たるものとして信じれば良いのか、という問いに対し、デカルトをはじめとして挑んできた人々がいる。

そんな中で僕が一番共感しているフッサールは、知覚が欺かれているとしても、現に私が”そう感じている”という現象は確かなものである、とした現象学を打ち立てた。

興味深いのは、現象自体を判断停止するという現象学の姿勢が、現象に意味を与えることをとどめているところだ。
解釈された瞬間に意味性を持ってしまう現象を、判断停止することでそのままに受け止めようとする。
そこには、フッサール自身が危惧し、当時すでに失われつつあったリアリティの回復という志向が、どこかしら存在していたのではないか。


意味を求めることが、悪いというわけではない。それは人間の自然な在り方だ。
しかし、意味を求めていることに自覚的になったとき、現実を見る視点の幅が広がる。

僕は、せめて自分が生きている意味を見出すのならば、「この時代のこの場所に生まれ、今ここに生きている」という実感から出発せざるを得ないと思っている。

だからこそ、「今、ここ」を見極めたい。
虚構の世界で夢を見て死んでいくよりも、無意味な現実を自分の実感を頼りに踏みしめて生きていたい。
そんなささやかな意地が、自分を自分たらしめている。

2014年7月7日月曜日

教育が最低限果たすべき役割とはなにか?

教育が最低限果たすべき役割とはなにか、ということを考えている。

教育を考えるとき、大きな2つの視点として、政治的・経済的・社会的に求められる教育の機能と、教育される個人にとって必要な機能がある。

前者は、民主主義存立の条件であったり、経済成長のための人材育成であったりする。
後者は、自己実現や自己創出といったキーワードと結びつく。
両者の妥協点に、教育という営みが実現されている。
教育とは、本質的に二重に目的を持つものなのである。

ここで課題となるのは、「はたして他人を教育できるのだろうか?」という根本的な問いである。
前述の通り、他人を教育するとは、自分の利益となるように、他者の自己創出を支援するということだ。
それはつまり、win-winの思想である。

しかし、教育は同時に非対称な関係性も内包している。
教育者は常に被教育者に対して権威を持つ。
このとき、本当に互いに納得の行くwin-winが実現されるのは非常に難しい。

そもそも教育が他者を変容させるということは、たとえ蓋然性の高い事実であったとしても、Aと入力したらBと出力されるといったような科学的な作用でもないし、それが被教育者にとって本当に望ましい介入なのかどうかは、被教育者本人にしか分からない。

結局のところ、全ての教育的営為はお節介の域に留まるしかないのである。

それでも人が教育したいと願い、されたいと思うのは、根源的に他者との繋がりを求めるからなのかもしれない。
人は独りで生きていくしかないのにもかかわらず、独りでは生きていけない。
決して分かり合えないからこそ、分かり合おうと求めるエロスの衝動が人の本性には息づいている。

だとすれば、教育者として持つべき矜持は、対象を承認し、認め、繋がりを保つことではないだろうか。例えどんなに「下手くそ」な教育しかできないとしても、他者を承認する、ということだけが最低限守るべきラインなのかもしれない。

他者を承認する力というのは、人間誰しも与えられた力なのではないか。
なぜなら、誰もが他者に認められたいと願っているからだ。
その苦しみを生まれながらに知っている人間という生物だからこそ、他者を承認することができる。
自分の生を肯定されたかったように、他者の生を肯定することができる。
それが本来人間に与えられた祝福ではなかったのだろうか。

実際に今の社会、現実がそうなっているかと言えば首肯しづらいところはある。
他者を肯定するためには、自分を肯定することがまず必要だし、そうさせてくれない環境が根深く絡みついている。

しかし、だからこそ本来の自分の在り方を見つめなおすべきなのかもしれない。
誰しもが他者を認め合える社会などユートピアかもしれない。
けれども、他者を認められないというその現実こそが、自分を認めて欲しいという苦悩の証左であり、それを超克していく可能性なのだと思っている。

2014年7月1日火曜日

水村美苗『日本語が亡びる時―英語の世紀の中で』2008

良質な日本語の文章というものは、かくも心地よく、熱量を持って人を惹きこむものなのか。


先日所用で参加できなかったインテグラルエジュケーション研究会の課題図書である。

内容に関して軽くまとめると、筆者は言語を<普遍語>、<国語>、<現地語>の3つから捉える。
<現地語>とは、その地域で流通している言葉であり、書き言葉を持たない言語も含まれる。
<国語>とは、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」とされる。

では<普遍語>とはなにか?

<普遍語>とは、<国語>の枠を越えた言語である。
数ある<国語>の中で一番使われている言語、というだけではなく、叡智を求めるために使われ、読まれるべきものとなる言語である。
中世ヨーロッパではラテン語であり、近代では英語・ドイツ語・フランス語の3語であった<普遍語>は、まさに最高に美しいもの、究極の真理を求めるための言語として<普遍語>であった。

そうした学問の言葉としての<普遍語>に対し、学問を乗り越えるものとして文学の言葉として<国語>が成立してくる可能性が生まれる。

明治時代、大量に流れこんできた欧米の叡智を前にして、まず日本人は片っ端から海外の書物を翻訳しようとした。翻訳とは、普遍語で書かれた叡智を、意味を変えずにその地域で伝わるような言語形式に置き換える作業である。
現代でも使われている多くの単語が、この時代の外国語の翻訳であったという事実からも「日本語に翻訳される」という作業を通じて、現地語が国語へ移行していくプロセスを見て取れる。

しかし、そうした翻訳を続けていく中で、人文系の学問などでは単に翻訳されただけの言葉では適切に自国の状況を説明できないという悩みに突き当たる。
夏目漱石の英訳が冴えないように、決して翻訳できないものが国語には存在するからだ。
そうした微妙な表現できないものをなんとか表現しようとして国語は洗練されていき、黄金の日本近代文学の時代を作り上げた。

英語が普遍語となりつつある現代における日本語の危機は、叡智を求める人々が叡智を求めるが故に英語ばかりを読み、日本語を読まなくなり、日本語が滅びていくことである。叡智を求める人々が日本語を読まなくなれば、書き手も日本語で書かなくなる。
そうした悪循環がまさに始まろうとしているのが現代であると筆者は指摘する。

最後に、筆者はこうした悪循環を生んだ要因は日本語教育の観点から論じ、国民全員が「書く主体」となることを目指した悪平等の教育理念から、国民全員が読まれるべき日本語文を読むようにする、という理念への転換を求める。
それは、書き言葉が単なる話し言葉の文字化であるとする「表音主義」に異を唱え、時空を超越した世界との繋がり、そして人類がこれまで蓄えてきた叡智を刻む言葉としての「書き言葉」の本質に立ち返るべきだという筆者の主張である。


以上が僕の理解したこの本の要旨だ。

この本で一番感動したのは、内容もさることながら、その文章の巧みさ、味わい深さである。
読み進めながら、質の高い日本語文章の心地よさ、そして直接心に染み入ってくるような感覚を久々に思い出した。

最近翻訳本などばかり読んでいたからかもしれない。もちろん、翻訳が悪いというわけではない。
ただ、日本語を愛し、日本語に熟達した人が、その思いを日本語で表現するとここまでの文章になるのか、とすっかり感服したのである。それはほんの些細な、微妙なニュアンス、リズム、言い回し、単語、などなどあげれば切りがないほどの「言語の壁」であり、決して翻訳可能なものではない。

筆者は、叡智を求める人が英語ばかりを読み、それによって書き手も英語ばかりで書くようになることで日本語が亡びていくという展望を示しているが、僕はもう少し楽観的である。
この文章を読み、確かにこの文章は日本語でしか書けないと感じられるということは、日本語でしか書かれないことがあるということだ。

他の言語では決して捉えられない日本のリアリティは、日本語でしか書くことはできない。
叡智を求めるという行為が、現実を離れた夢想のような所業に終わらず、現実を更新する強い意志に支えられたものであるならば、彼らが見据えた現実はきっと日本語で表現されるべきなのだと思う。
普遍語に対する国語としての日本語の危機こそが、再び日本語を煌めかせるだろうと、漠然と思っている。


密かに僕の夢に、水村氏のように美しく、人の心を打つ日本語文を書けるようになる、という夢が加わった。

2014年6月30日月曜日

IBと学習指導要領の融合、ヒドゥン・カリキュラム

先日、ALL関東教育フェスタにて、国際バカロレア機構の坪谷・ニュウエル・郁子さんの講演を聞いた。

現在、日本で推進が図られているIB(国際バカロレア)認定校の増設だが、今はIBのカリキュラムを日本の学習指導要領に「読み換える」という作業が行われているらしい。

これはとても意義のあることである。
数多の教育の方法やメソッドにも、互いに共通する部分があり、その読み換えが効く、ということは、より目の前の子どもや環境に即してより適切な方法を採れるということにつながるからだ。


日本人のよく言われる性質として、折衷主義がある。
あんパンのような成功例もあるが、一般的には良いとされているものを見境なく採り入れ、なんとなく全体的に良さげなものを作った結果、元々のそれぞれの良さを殺し、中途半端なものを作ってしまうというニュアンスで揶揄されることが多い。

IBと学習指導要領の融合においても、上記の懸念は拭えない。
例えば、IBの目指す学習者像に「振り返ることができる人(Reflective)」というものがある。
これを学習指導要領においてどのように読み換えるのかは分からないが、既存の学校文化・環境を見渡したとき、内省的だと感じる部分は非常に少ないように思う。

LFAのプログラムをやっていた頃、参加学生に「今まで出会った良い先生とは?」という質問を良くしていたが、「内省的」「絶えず学び続ける」といった概念に結びつく回答はほとんど無かった。

そうしたカリキュラムの外のカリキュラム=ヒドゥン・カリキュラムにまで意識を配らないと、結果的に中途半端な効果しか生まないのではないかと危惧している。

ヴィゴツキーによれば、教師の意義は生徒に直接作用することではなく、生徒を取り巻く環境を教育的に組織することである。
そこには、何を教えるべきか?という問いに加え、学習者は何を学ぶのか?という視点の統合が求められる。

悲観的に書いたが、IBというすでに権威ある体系だったカリキュラムの導入は、学習指導要領の相対化を促し、内省的なプロセスを生むものであるはずだ。

そしてそれは、IBにとどまらず、サドベリーやモンテッソーリ、シュタイナーといったオルタナティブをも包摂した「多様な公教育」への第一歩である。

良いとされるIBをただ移入するだけではなく、日本でこれまで育まれてきた叡智の一つである学習指導要領との総合によって、日本独自の豊かな教育が生まれることを期待している。

2014年6月5日木曜日

『バベルの学校』試写会に行ってきました。

先日、お誘いをいただいて『バベルの学校』という映画の試写会に行ってきました。

↓公式サイト
http://unitedpeople.jp/babel/

アイルランド、セネガル、ブラジル、モロッコ、中国…。世界中から11歳から15歳の子どもたちがフランスにやって来た。これから1年間、パリ市内にある中学校の同じ適応クラスで一緒に過ごすことになる。 24名の生徒、24の国籍…。この世界の縮図のような多文化学級で、フランスで新生活を始めたばかりの十代の彼らが見せてくれる無邪気さ、熱意、そして悩み。果たして宗教の違いや国籍の違いを乗り越えて友情を育むことは出来るのだろうか。そんな先入観をいい意味で裏切り、私たちに未来への希望を見せてくれる作品。 (公式サイトより)

フランスのジュリー・ベルトゥチェリ監督による1時間半ほどのドキュメンタリー映画です。

移民政策などが進んでいるフランスでは、「適応クラス」なるものがあるということは今回初めて知った。フランスに来た事情は家庭ごとに様々であり、中にはやむにやまれぬ切迫した事情でフランスに来た子どももいる。

24つの国籍を持つ生徒が一緒にいるクラスの運営など、想像もできないほどの課題と苦労があることだろう。
しかし、実際に映画を見ると、受けた印象は「どこの国でも教育的課題は似たようなものなのだな」というものだった。

親の子どもに対する期待と、それに反発する子供。
厳しい家庭事情から、突如として転校を余儀なくされる生徒。
成績が振るわず、進級が認められないことを受け容れられない生徒。
自由の国とうたわれているフランスでさえも無くならない、適応クラスの子どもたちに対する偏見。

個々の事情に、社会的な影響があることは言うまでもないが、しかし日本でも同じような問題は起こり得るし、起こっている。
子どもたちの「よく生きたい」という思いは、どこの国のどんな子どもであろうと、全身から訴えかけてきている。


個人的には、保護者の思いにも非常に共感してしまった。

「この子には良い大学に行ってほしい。故郷に戻ったら女性器切除をしなくてはならない。それはこ
の子の幸せのためにはならない」

悲痛な保護者の願いは、親の子どもに対する期待の押しつけは良くない、という一言の正論で片づけられない重さがある。


リード文にあるような「未来への希望」を感じる作品かといえば、そうとも言い切れない気がする作品だった。
ドキュメンタリーという作品についての一般的な考え方について明るいわけではないが、物語ではなく現実を切り取った描写であるとするならば、そこに希望を見るのも絶望を感じるのも見た人の自由であるはずだ。
そこに製作者の恣意が紛れることを否定はできないにしても、そういった意味でなんだかすっきりしない、というこの作品はドキュメンタリーとして良質であるように思う。

「これを見れば多様性がわかる」とか、「子どもたちの可能性は素晴らしい」といったメッセージ性を期待してみた人は、きっとどこか釈然としないものを感じるはずだ。
この作品の中では、多様性も可能性も、現実の厳しさもありのままのものとして描かれている。そこに良いとか悪いといった価値観は存在していない。

しかし、そんなモヤモヤが、物語としての多様性や子どもの可能性に対するアンチテーゼでもあり、ゆえに心に残るものとなるのだろう。


近頃読書に引きこもってばかりの自分をたまには外に連れ出してくれたこの巡りあわせに感謝しつつ。

2014年6月4日水曜日

「共感力」、コンピテンシー、多様性

共感力、がもてはやされている。
教育の分野でも、エンパシー教育が流行の兆しを見せている。
共感こそ、これから求められる能力であり、教育で養っていかなくてはいけない、ということが常識になる時代がもしかしてくるのかもしれない。

そう考えたとき、ふと違和感を感じる。
共感力とはなんだろうか?すべての人間に生来備わっている力で、適切な教育によって全員が最低限必要とされるレベルまで達することができるような能力なのだろうか。
それとも、それが求められる状況で適切な行動をとることができる、そんなコンピテンスなのだろうか。

こんな問いを持ったのは、もし共感力がこのままもてはやされていったらそれは「学力」が「共感力」に置き換わるだけではないのかと思ったからだ。
「あの人は共感力が高いから優秀だ」といった言説がまかり通り、共感できない人はどんどん締め出されていく、というのはあまりにも皮肉すぎるにしても、共感力がある人が共感力のない人に共感し、共感力のない人は共感しない、という社会もまたなんだか気持ちが悪い。

そう考えたとき、問題は2つである。

1つは先に述べたコンピテンシーの問題。
日本人の能力観は、いまだにこのコンピテンシーの概念を受容できていない。
コンピテンシーとは、固定化された数値で測れるような能力ではなく、それが求められる状況において再現性を持った適切な行動ができる、という資質のことである。

何ができるか?というdoの部分に焦点がおかれていること、したがって非常にプラクティカルな概念であり、「純粋な能力」とは言えないかもしれない。

しかし、コンピテンシーの概念を受容することの大きなメリットは、人材評価の軸がより現実に即したものになることだ。「学力が高い人」が優秀なのではなく、「困っている人に声かけして助力を申し出ることが日常的にできる人」が優秀なのである。

一方で、コンピテンシーのシビアなところは、再現性という観点を持つことで、本当に「弱い」人にとっては逆転の可能性が厳しくなるというところである。
センター試験のような一律型の一発試験の評価であれば、それまでどんなに怠惰で堕落した高校生活を送っていたとしても、試験で良い成績さえ取れれば認められる。
この平等性は、家柄や家庭の経済的格差をリセットする可能性を持つものとして、一定の価値があった。
しかし、コンピテンシーは定義上一発試験などで測られるものではないため、そうした逆転を狙う人にとっては厳しいものとなる。


そこから思い当ったのが2つ目の問題で、多様性という概念について。
これも近頃よく言われるようになった。多様性尊重というやつである。

そもそも多様性とは、価値中立の概念である。
多様性がある、ということはプラスでもマイナスでもない、ただの解釈である。
にもかかわらず、「ダイバーシティがある」なんてことが平然とメリットに載せられていたりするのがよく目につく。

確かに、個々人の長所が異なるベクトルを持つことを多様性と呼ぶのは間違っていないが、足りない。
多様性とは、長所と同じように人間だれしも、それぞれ異なった短所を持っているということも含意しているはずだ。
そうした人間としての何かしらの「欠落」の集合が多様性なのだという意識は、実はあまり浸透していない気がしている。

多様性という言葉の価値中立性を意識せず、「多様性万歳」と繰り返すだけでは、いつしか多様性が錦の御旗にようなお題目となって、多くの人を苦しめることになるだろう。

共感力がある人もいれば、ない人もいる。
もちろん、それを涵養していく教育の重要性は否定されるべくもないが、真の共感力はこうした「多様性」というものに対する曇りない気づきを得たところにあるのではないか。

自分も欠落しているし、他人もまた欠落している。そんな人々が集まって多様性が生まれているのがこの社会であり、自身はその社会を構成する一員として生きていく。
そんな事実を受け容れてもらうことが、教育の意義である。