2014年7月7日月曜日

教育が最低限果たすべき役割とはなにか?

教育が最低限果たすべき役割とはなにか、ということを考えている。

教育を考えるとき、大きな2つの視点として、政治的・経済的・社会的に求められる教育の機能と、教育される個人にとって必要な機能がある。

前者は、民主主義存立の条件であったり、経済成長のための人材育成であったりする。
後者は、自己実現や自己創出といったキーワードと結びつく。
両者の妥協点に、教育という営みが実現されている。
教育とは、本質的に二重に目的を持つものなのである。

ここで課題となるのは、「はたして他人を教育できるのだろうか?」という根本的な問いである。
前述の通り、他人を教育するとは、自分の利益となるように、他者の自己創出を支援するということだ。
それはつまり、win-winの思想である。

しかし、教育は同時に非対称な関係性も内包している。
教育者は常に被教育者に対して権威を持つ。
このとき、本当に互いに納得の行くwin-winが実現されるのは非常に難しい。

そもそも教育が他者を変容させるということは、たとえ蓋然性の高い事実であったとしても、Aと入力したらBと出力されるといったような科学的な作用でもないし、それが被教育者にとって本当に望ましい介入なのかどうかは、被教育者本人にしか分からない。

結局のところ、全ての教育的営為はお節介の域に留まるしかないのである。

それでも人が教育したいと願い、されたいと思うのは、根源的に他者との繋がりを求めるからなのかもしれない。
人は独りで生きていくしかないのにもかかわらず、独りでは生きていけない。
決して分かり合えないからこそ、分かり合おうと求めるエロスの衝動が人の本性には息づいている。

だとすれば、教育者として持つべき矜持は、対象を承認し、認め、繋がりを保つことではないだろうか。例えどんなに「下手くそ」な教育しかできないとしても、他者を承認する、ということだけが最低限守るべきラインなのかもしれない。

他者を承認する力というのは、人間誰しも与えられた力なのではないか。
なぜなら、誰もが他者に認められたいと願っているからだ。
その苦しみを生まれながらに知っている人間という生物だからこそ、他者を承認することができる。
自分の生を肯定されたかったように、他者の生を肯定することができる。
それが本来人間に与えられた祝福ではなかったのだろうか。

実際に今の社会、現実がそうなっているかと言えば首肯しづらいところはある。
他者を肯定するためには、自分を肯定することがまず必要だし、そうさせてくれない環境が根深く絡みついている。

しかし、だからこそ本来の自分の在り方を見つめなおすべきなのかもしれない。
誰しもが他者を認め合える社会などユートピアかもしれない。
けれども、他者を認められないというその現実こそが、自分を認めて欲しいという苦悩の証左であり、それを超克していく可能性なのだと思っている。

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