2014年7月8日火曜日

希薄な現実感と意味的動物

現代は、現実感が希薄になってきている時代である。
そんなことを、高3の頃、吉見俊哉先生の本で読んだことがある。

まるでゲームのように人生を生きる人々。
文脈を無視し、おもしろおかしくストーリーを作り上げるマスメディア。

現代社会では、確かに生身の圧倒的なリアリティを感じることが少ないように思う。

社会学的な視点から言えば、情報の氾濫によって、より分かりやすい情報(=物語的、ネタ的)が取り上げられるとか、ベックの言うリスク社会化によって、自身の人生にオーナーシップを持たない人が増えているとか、そんな考察になるのだろうか。

一方で、人間の本性に立ち返ったとき、「人間は意味的動物である」というV.E.フランクルの言葉が思い返される。

人間は、どうしようもなく意味を求める。
それは根元的な欲求である。

我々のメンタルモデルとは、無機質な現実に何らかの意味を与える視座なのだ。
信念とは、その無味乾燥に現前する現実に耐えられずに生み出された拠り所なのかもしれない。

実は、現実はどうしようもなくカオスで、圧倒的に無意味だ。
物語のように分かりやすく一貫性を持った人など実際にはそう居ないし、その在り方が自然だとも僕は思わない。

しかし、そんな風に究極な不安定な世界で、何を確固たるものとして信じれば良いのか、という問いに対し、デカルトをはじめとして挑んできた人々がいる。

そんな中で僕が一番共感しているフッサールは、知覚が欺かれているとしても、現に私が”そう感じている”という現象は確かなものである、とした現象学を打ち立てた。

興味深いのは、現象自体を判断停止するという現象学の姿勢が、現象に意味を与えることをとどめているところだ。
解釈された瞬間に意味性を持ってしまう現象を、判断停止することでそのままに受け止めようとする。
そこには、フッサール自身が危惧し、当時すでに失われつつあったリアリティの回復という志向が、どこかしら存在していたのではないか。


意味を求めることが、悪いというわけではない。それは人間の自然な在り方だ。
しかし、意味を求めていることに自覚的になったとき、現実を見る視点の幅が広がる。

僕は、せめて自分が生きている意味を見出すのならば、「この時代のこの場所に生まれ、今ここに生きている」という実感から出発せざるを得ないと思っている。

だからこそ、「今、ここ」を見極めたい。
虚構の世界で夢を見て死んでいくよりも、無意味な現実を自分の実感を頼りに踏みしめて生きていたい。
そんなささやかな意地が、自分を自分たらしめている。

0 件のコメント:

コメントを投稿