2014年6月4日水曜日

「共感力」、コンピテンシー、多様性

共感力、がもてはやされている。
教育の分野でも、エンパシー教育が流行の兆しを見せている。
共感こそ、これから求められる能力であり、教育で養っていかなくてはいけない、ということが常識になる時代がもしかしてくるのかもしれない。

そう考えたとき、ふと違和感を感じる。
共感力とはなんだろうか?すべての人間に生来備わっている力で、適切な教育によって全員が最低限必要とされるレベルまで達することができるような能力なのだろうか。
それとも、それが求められる状況で適切な行動をとることができる、そんなコンピテンスなのだろうか。

こんな問いを持ったのは、もし共感力がこのままもてはやされていったらそれは「学力」が「共感力」に置き換わるだけではないのかと思ったからだ。
「あの人は共感力が高いから優秀だ」といった言説がまかり通り、共感できない人はどんどん締め出されていく、というのはあまりにも皮肉すぎるにしても、共感力がある人が共感力のない人に共感し、共感力のない人は共感しない、という社会もまたなんだか気持ちが悪い。

そう考えたとき、問題は2つである。

1つは先に述べたコンピテンシーの問題。
日本人の能力観は、いまだにこのコンピテンシーの概念を受容できていない。
コンピテンシーとは、固定化された数値で測れるような能力ではなく、それが求められる状況において再現性を持った適切な行動ができる、という資質のことである。

何ができるか?というdoの部分に焦点がおかれていること、したがって非常にプラクティカルな概念であり、「純粋な能力」とは言えないかもしれない。

しかし、コンピテンシーの概念を受容することの大きなメリットは、人材評価の軸がより現実に即したものになることだ。「学力が高い人」が優秀なのではなく、「困っている人に声かけして助力を申し出ることが日常的にできる人」が優秀なのである。

一方で、コンピテンシーのシビアなところは、再現性という観点を持つことで、本当に「弱い」人にとっては逆転の可能性が厳しくなるというところである。
センター試験のような一律型の一発試験の評価であれば、それまでどんなに怠惰で堕落した高校生活を送っていたとしても、試験で良い成績さえ取れれば認められる。
この平等性は、家柄や家庭の経済的格差をリセットする可能性を持つものとして、一定の価値があった。
しかし、コンピテンシーは定義上一発試験などで測られるものではないため、そうした逆転を狙う人にとっては厳しいものとなる。


そこから思い当ったのが2つ目の問題で、多様性という概念について。
これも近頃よく言われるようになった。多様性尊重というやつである。

そもそも多様性とは、価値中立の概念である。
多様性がある、ということはプラスでもマイナスでもない、ただの解釈である。
にもかかわらず、「ダイバーシティがある」なんてことが平然とメリットに載せられていたりするのがよく目につく。

確かに、個々人の長所が異なるベクトルを持つことを多様性と呼ぶのは間違っていないが、足りない。
多様性とは、長所と同じように人間だれしも、それぞれ異なった短所を持っているということも含意しているはずだ。
そうした人間としての何かしらの「欠落」の集合が多様性なのだという意識は、実はあまり浸透していない気がしている。

多様性という言葉の価値中立性を意識せず、「多様性万歳」と繰り返すだけでは、いつしか多様性が錦の御旗にようなお題目となって、多くの人を苦しめることになるだろう。

共感力がある人もいれば、ない人もいる。
もちろん、それを涵養していく教育の重要性は否定されるべくもないが、真の共感力はこうした「多様性」というものに対する曇りない気づきを得たところにあるのではないか。

自分も欠落しているし、他人もまた欠落している。そんな人々が集まって多様性が生まれているのがこの社会であり、自身はその社会を構成する一員として生きていく。
そんな事実を受け容れてもらうことが、教育の意義である。
















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