2014年7月1日火曜日

水村美苗『日本語が亡びる時―英語の世紀の中で』2008

良質な日本語の文章というものは、かくも心地よく、熱量を持って人を惹きこむものなのか。


先日所用で参加できなかったインテグラルエジュケーション研究会の課題図書である。

内容に関して軽くまとめると、筆者は言語を<普遍語>、<国語>、<現地語>の3つから捉える。
<現地語>とは、その地域で流通している言葉であり、書き言葉を持たない言語も含まれる。
<国語>とは、「国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉」とされる。

では<普遍語>とはなにか?

<普遍語>とは、<国語>の枠を越えた言語である。
数ある<国語>の中で一番使われている言語、というだけではなく、叡智を求めるために使われ、読まれるべきものとなる言語である。
中世ヨーロッパではラテン語であり、近代では英語・ドイツ語・フランス語の3語であった<普遍語>は、まさに最高に美しいもの、究極の真理を求めるための言語として<普遍語>であった。

そうした学問の言葉としての<普遍語>に対し、学問を乗り越えるものとして文学の言葉として<国語>が成立してくる可能性が生まれる。

明治時代、大量に流れこんできた欧米の叡智を前にして、まず日本人は片っ端から海外の書物を翻訳しようとした。翻訳とは、普遍語で書かれた叡智を、意味を変えずにその地域で伝わるような言語形式に置き換える作業である。
現代でも使われている多くの単語が、この時代の外国語の翻訳であったという事実からも「日本語に翻訳される」という作業を通じて、現地語が国語へ移行していくプロセスを見て取れる。

しかし、そうした翻訳を続けていく中で、人文系の学問などでは単に翻訳されただけの言葉では適切に自国の状況を説明できないという悩みに突き当たる。
夏目漱石の英訳が冴えないように、決して翻訳できないものが国語には存在するからだ。
そうした微妙な表現できないものをなんとか表現しようとして国語は洗練されていき、黄金の日本近代文学の時代を作り上げた。

英語が普遍語となりつつある現代における日本語の危機は、叡智を求める人々が叡智を求めるが故に英語ばかりを読み、日本語を読まなくなり、日本語が滅びていくことである。叡智を求める人々が日本語を読まなくなれば、書き手も日本語で書かなくなる。
そうした悪循環がまさに始まろうとしているのが現代であると筆者は指摘する。

最後に、筆者はこうした悪循環を生んだ要因は日本語教育の観点から論じ、国民全員が「書く主体」となることを目指した悪平等の教育理念から、国民全員が読まれるべき日本語文を読むようにする、という理念への転換を求める。
それは、書き言葉が単なる話し言葉の文字化であるとする「表音主義」に異を唱え、時空を超越した世界との繋がり、そして人類がこれまで蓄えてきた叡智を刻む言葉としての「書き言葉」の本質に立ち返るべきだという筆者の主張である。


以上が僕の理解したこの本の要旨だ。

この本で一番感動したのは、内容もさることながら、その文章の巧みさ、味わい深さである。
読み進めながら、質の高い日本語文章の心地よさ、そして直接心に染み入ってくるような感覚を久々に思い出した。

最近翻訳本などばかり読んでいたからかもしれない。もちろん、翻訳が悪いというわけではない。
ただ、日本語を愛し、日本語に熟達した人が、その思いを日本語で表現するとここまでの文章になるのか、とすっかり感服したのである。それはほんの些細な、微妙なニュアンス、リズム、言い回し、単語、などなどあげれば切りがないほどの「言語の壁」であり、決して翻訳可能なものではない。

筆者は、叡智を求める人が英語ばかりを読み、それによって書き手も英語ばかりで書くようになることで日本語が亡びていくという展望を示しているが、僕はもう少し楽観的である。
この文章を読み、確かにこの文章は日本語でしか書けないと感じられるということは、日本語でしか書かれないことがあるということだ。

他の言語では決して捉えられない日本のリアリティは、日本語でしか書くことはできない。
叡智を求めるという行為が、現実を離れた夢想のような所業に終わらず、現実を更新する強い意志に支えられたものであるならば、彼らが見据えた現実はきっと日本語で表現されるべきなのだと思う。
普遍語に対する国語としての日本語の危機こそが、再び日本語を煌めかせるだろうと、漠然と思っている。


密かに僕の夢に、水村氏のように美しく、人の心を打つ日本語文を書けるようになる、という夢が加わった。

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