2015年2月8日日曜日

大村はま/苅谷剛彦・夏子『教えることの復権』

教師を志す人が最初に読むべき名著、と率直に思った。

昨今の「学習者主体」という流行語に踊らされた教育観に対し、「教える」ということの意義、教師の使命について真っ向から論じた本である。
教師として考えぬかれた大村はまの哲学は、まさに「言い尽くしている」という心持ちがする。

特に面白かったところを3つほどあげる。

1つ目は、「教える」ということは子どもの個性を損なうのか?という問題である。
これに対して、大村はまは「損なわれない」と一刀両断している。
その根拠は実証的なデータによるものではないという点には注意が必要だが、大村はまが指摘するように、学習者の自発性や教えないことがさも正しいかのような風潮が、教える側の怠慢と結びついているのではないか、という批判は鋭いのではないだろうか。

2点目は、苅谷剛彦による「なぜ勉強するのですか?」という問いの欺瞞についての指摘である。
「なぜ勉強するのか?」という問いは、あたかも教育の本質的な問いであり、それに答えられることが良い教師の条件であるかのようにみなされている。
しかし、この問いは、そもそも大人たちによる「なぜ教えるのか?」という問いに対する「ゆらぎ」を反映したものなのではないか、と苅谷剛彦は指摘する。

大人たちが教えることの意義を信じられなり、「なぜ教えるのか?」という問いに十分に答えられなくなったから、その問いを子どもたちの問題に置き換えることで、責任逃れをしているという洞察には、一定の真実味があるように思われる。
子ども主体という一見ヒューマニズム的な耳触りの良い言葉に酔いしれるあまり、「なぜ教えるのか?」という教師にとしての責任や使命に関わる根本的な問いから目を背けていないだろうか。

自分自身、小学六年生の子どもに対して学習支援をしていた時、子どもたちに寄り添うという考え方は常にあったものの、「教える」ということそのものに対して考える時間は短かったように思う。
子どもたちに合った教え方こそが最良であるというのは、確かに正しい。
しかし、それを自らの教師としての教え方の洗練を怠る言い訳として使うのは、本末転倒であろう。

これと関連して、大村はまはとある研究授業で、教師に質問した子どもに対して「自分で考えなさい」と言った教師を見て、失望したというエピソードを述べている。
大村は、せめて考えるためのヒントとなる選択肢を提示すべきではないかと言う。
昨今の教育観からすれば、自発的に考えるということは良いことであり、子どもの自主性を尊重し、子どもの可能性に期待した良い指導であるとみなされがちであるこの事例に対し、大村はまはせっかく子どもが学びを得るチャンスをみすみす無駄にしていると考えた。

教師の教える者としての専門性は、子どもが考えるための方法を、適切なタイミングで適切に支援することである。
肝心なのは、子どもにとっては自分の力でやり遂げられたと感じられるように、そっと背中を押すことであって、全く教えないというのは単なる極論でしかない。

ヴィゴツキーやカート・フィッシャーの発達理論に見られるように、人がスキルを発達させていく上で、熟達者の関わりというのは発達を加速させる上で非常に有効な要因である。
また、フィッシャーによれば、そうした熟達者の支援があれば、多くの人がある程度のレベルまで到達することが可能であるという。

”教えない教育”というのは、”教える教育”よりもはるかに高度に「教えている」。
大村はまは、話し合いの授業が最も疲れたとコメントしているが、まさに子どもたちが自主的に学び合っている空間というのは、その実教師の膨大な努力によって成り立っているような、「教えるプロ」による教育なのである。


こうした大村はまの「教える」ということを徹底的に追求した哲学は、現代の教育においても全く古びることはない。
学び合いであろうと、アクティブラーニングであろうと、教師が「如何に教えるか」という問いからは逃れられないし、逃れてはならない。
その当たり前の教師としての原点を提示してくれる貴重な本であった。

対話形式が大半であり、すぐに読み終えることのできる本なので、教えるという仕事をしている人にはぜひ読んでもらいたい一冊である。


2015年2月6日金曜日

諸領域における価値体系の類似性と主客未分

自然科学分野において見られる価値構造と、人文科学、社会科学分野において見られる価値構造が類似している、ということは繰り返し指摘されていることである。
ホワイトヘッドの粒子に対する洞察が、釈迦の説いた宇宙論と同形であることなどについて知ったときは、大いに感銘を受けたものである。

しかし、これは考えてみれば至極当然のことであった。
自然科学的に説明された世界もまた、人間の限りある認識において表現された世界観なのであり、その意味で内面的な世界の探求も類似した価値構造を持つことはまったくもって自然なことである。

我々は、自然科学的に説明された世界をまるで実在しているかのように受け取ってしまう。
現代において物理法則は真理であり、宗教はうさんくさいものである。
だが、これらは突き詰めて考えればどちらも人間の”眼”を通して認識された世界から構築された体系であり、その意味で真理そのものと呼べるものではない。

つまり、こうした様々な世界の”説明”における類似構造の存在は、神秘的な「究極の真実」の存在を示す傍証なのではなく、人間が世界を捉える視点というものが常に盲点を内包し、限定されているという事実を裏付けるのみなのである。


こうしたあらゆる価値体系の空虚さを明らかにしたのはポストモダンの思想であるが、ウィルバーのインテグラル理論はポストモダンを乗り越えようとした試みなのだと思われる。

あらゆる価値体系が真理ではないという事実は厳然たるものだけれども、その構造をよくよく見ていけば、そこには深さと広がりという2つの尺度が存在していることが観取される。
限定された視点の中で、より深い洞察は、より広い視野と一体となった構造を形作っている。
この世界認識の発達という実存的な構造が、我々が本来実存的な生命体であるということを示唆している。
「このような仕方でしか世界を認識し得ない」ということが、まさに人間の生きる意味、存在の意味と重なりあう。
そうした認識の諸規定性に気づき、そのうちでの自由を模索しつつ、その規定性を越えていこうとする自己超越の在り方が、人間本来の存在の仕方なのではないだろうか。


こうした認識の限界への気づきは、自我と世界という主客二分の世界観への反省をもたらす。
自らの視点を通してでしか世界を認識できないということは、すなわち世界とは客体であると同時に主体でもあるということである。
「私」は、認識していると同時に「世界」に認識されているのである。

主客未分の思想自体は理解できていたような気がしていたが、この思索に至ってようやく自分なりに腹落ちしたような感覚がしている。

2015年2月4日水曜日

「社会を変える」の不都合な真実と「教育から社会を変える」の意味。

「社会を変える」
もはや陳腐という域を越えたように思われる言葉である。

ビジョンやミッション、リーダーシップという言葉が呪文のように唱えられながら、ムーブメントを起こすことが社会課題解決に必要なのだとという論理が横行する。
社会的正義の名のもとに、不正義を断罪するという熱狂的快感と、”有能”な人間は行動し、何かを変革していく人であるという経済合理的な価値観が結びついたとき、こうした社会変革の活動は批判できない論理でもって人々を絡めとる。

ハンナ・アレントは、こうした社会的正義に怒り、社会的弱者に共感し同情する人々が、民主主義という黄金の看板を手に入れたとき、ファシズムが生まれるということを見抜いていた。
そうした社会的正義に酔いしれる人々は、その実現のためには何を破壊しても構わないのである。
従って、社会課題の性急な解決を望み、破壊的な改革の必要性を連呼する。
彼らは自分たちの正義を信じているから、卓越した行動力で無自覚に”民意”を形成しようとする。
自分たちの正義にくみさない者は、不正義であるとして、激しく攻撃することもある。


社会問題の解決とは、我々の精神の変容という課題であると言ったのは、ルドルフ・シュタイナーである。
シュタイナーは、社会というものが、本質的に人間の認識という限定的な視座によって生まれているものであることに気づいていたように思われる。
それは、精神が世界観と深く関わっているからである。

ケン・ウィルバーによれば、我々が世界を見る見方は、常に限定的である。
人間は視点というもの無しに世界を認識することはできず、視点は必ず盲点を内包する。
従って、どのような認識も、ありのままを見るということはできない。
しかし、人間の意識構造は発達していく。
意識構造の発達は、質的な変化であり、それは自己中心性の逓減という法則に貫かれている。
発達段階を踏むごとに、見える世界が広がるのである。
初めは母親と自分しか居なかった世界に父親が現れ、家族とその他の人々を認識し、クラスメートを、学校を、地域を、国家を、地球を認識し、帰属意識を感じていくようになる。

地球規模のアイデンティティを獲得した人にとっては、国家にとっての正義は相対化されているから、それだけに基づいた正義に両手を挙げて賛同することはない。
そうした人にとっては、価値というものが本質的に階層的な構造を持っているということが深く認識されているから、みんなの総意や納得解というものが常に正当化されるべきではないということが当然のように感じられている。
これは、論理的な思考による問題ではない。精神の発達は、人が世界を認識する根本的な枠組みにおいて質的な変化をもたらすのである。


社会を変えたように見せかけるには、確かにムーブメントが必要である。
大衆が熱狂し、世論を形成することで政治には大きな圧力がかかる。それは確かに目に見える形での成果かもしれない。
しかし、本当に社会課題を生み出しているのは、我々の精神構造なのである。
例え外面的には成果が生まれたと記述することができても、その内実が未熟な精神構造によるものであれば、そうした改革はすぐにボロを出すである。
我々の精神構造が、見たくないものから目を背け、もっともらしい言説に主体性を明け渡し、無責任に振る舞うという幼い精神である限り、自分のやるべき範囲での自由を行使して最善をつくすということが社会を良くしていくのだという当たり前の事実に気がつかない。

批判的思考力、協働力、論理的思考力などなど、様々な力がこれからの時代に必要だという。
しかし、そうした知性を持っていても、精神を発達させない限り、結局のところ社会課題は解決しない。
誰もが平等に価値のある意見を持っているという幻想をいい加減打ち破らなくてはいけない。
その分野においてより発達した人がより価値のある意見をいうことができるのである。
こうした価値を混同せずに見いだせる人もまた、精神の発達した人である。

こうした考え方は、エリート主義的であるとか、差別的だと言われる向きもあるだろう。
しかし、エリートは社会に必要な存在であるし、そう認められているからエリートなのである。
エリート主義の否定は、翻ってエリートの存在を肯定している。
我々は常に少数のエリートに先導されてここまで歴史を積み重ねてきたのであり、エリートという垂直的な価値を否定することは、極端すぎる暴論である。

ある領域におけるエリートと、そうではない人々との間において平等なのは、存在としての尊厳であり、その人格である。
だからこそ、行政に民主主義を持ち込んではいけないし、司法にも民主主義は持ち込んではいけなかったはずである。

社会を変革するということに真摯に取り組む人は、自らの認識に限界があることを悟り、その限定された世界の中で、自分のやるべきことを粛々と遂行する。
そして、自らの精神を高めることが真に社会を良くしていくということに確信を持っている。
だから、僕はいたずらに大衆を熱狂させ、その熱狂の規模によって社会に与えたインパクトを測ろうとする動きには懐疑的である。


社会を良くするためには、精神的に発達しなくてはならない、ということはとても言いづらいことだ。
この言説を現実化する限りにおいて、社会課題の解決を教育に求めるということは一定の正当性があると思っている。
つまり、子どもの発達が、知性面だけではなく精神面においても適切になされなくてはいけないのは、社会を良くしていくためであるからといえるのである。

その意味で、子どもの健全な発達を支援するという教育思想が、一部のオルタナティブにしか見受けられないのは至極残念なことである。

2015年1月28日水曜日

言語を用いた内省の限界について

一般的に内省においては「言語化」ということが、内省の程度を測る上で重視される。
内省は自身あるいは自身の行為を客観的に見つめなおすことで、新たな気づきを得ることであるから、その気づきを言語化できていることが一つの指標となる。

しかし、ある領域では、言語を用いた内省に限界を感じるようになった。
それは、特定のスキル領域に関する内省ではなく、実存的な恐怖と向き合う内省においてである。
例えば、他者に拒否されたくないという恐怖や、自身の思想を体現しきることができないかもしれないという恐怖に対して、言語を用いた内省では、根本的な解決を見ないということを実感している。

それはおそらく、恐怖というものが、言語的なもの、すなわち思考によって基礎づけられているものではなく、感情の領域に属するものであるという本質的な要因による。
感情は合理的なものではない。
論理を積み重ねても、感情は説明できないのであって、それを言語によって説明するという試みの中には、必然的に自己欺瞞が生まれる。
まさにウィルバーのいうフラットランド的発想であるといえる。


言語というものは、実は物事を欺く力を内在している。
それはおそらく、言葉の持つ視覚的な力、すなわち「境界を引く」力に起因している。
境界を引くということは、未分離のものから何かを切り落とすということである。
「名前をつける」というごく単純な行為によって、我々は世界に境界を引き、分類し、分解している。
そこには、確かに抜け落ちているものが存在する。

実存的な恐怖に対して、言語はその恐怖と真正面から向き合うことを回避し、自分にとって都合の良い説明を創作しようとする。
そうして生み出された言葉は、どこか”そのもの”を捉えきっていない、欺瞞に満ちた虚構になる。
言語に頼った内省を繰り返せば繰り返すほど、客観視している認識主体であるところの自分が肥大していく。
いみじくもポストモダニストの思想家達が明らかにしたように、人間の認識は真理を捉えることはできない。
言語に頼った思考は、「自分」という感覚を延々と肥大させるばかりで、実は自分と世界という無意識の主客分離の前提が桎梏となっていることに気づかせないのである。

しかし、一方で、あらゆる表現がそうであるように、言語もまた表現しきることのできない”そのもの”を表現しようとする力も持っている。
それは、言語という形態の規定性をはみ出そうとする力である。
我々は、文章を読んだ時に、そこに書かれていることをイメージすることができる。
その想像される世界というのは、単に書かれている文字よりもはるかに豊かな世界である。
言語は確かに、存在そのものを表現することはできない。
言語化することは、同時にありのままの世界知覚を矮小化していることと換言することができる。
にも関わらず、そうして矮小化された一片の言葉から、我々は豊かなイメージを持つことができる。
それはまるで、言語によって切り刻まれた世界の元の在り方を何とかして捉えようとするような試みに見える。
そう考えると、言語というものは、我々を実存的たらしめてくれているものなのかもしれない。


こうして文章を書いている時にさえ、言葉の節々に欺瞞が見え隠れすることを感じる。
しかし、書くことによって、捉えきれない何かに至るということを願うから、書かずにはいられないのである。
いつしか、そんな文章を書いてみたいものだ。

2015年1月27日火曜日

”多様性を尊重する教育”に欠けているもの

多様性尊重という金科玉条は今や教育の分野では当たり前のように見かけるようになった。
多様性尊重の世界観では、定量的なスキルの達成度によって人の価値を評価するのではなく、人格に価値の優劣は無く、多種多様な人が存在することを尊重していこうとする。

人種問題を背景として生まれてきた多文化主義に端を発するこの価値観は、日本の教育では近年文科省が掲げている「共生社会」という方針に現れている。
人種問題が比較的少ない日本では、健常者と障害者という枠組みにおける多様性尊重がクローズアップされているわけである。

こうした価値観は、先に述べたように、点数化できる能力にばかり焦点を当てていた日本の教育、その象徴であった受験戦争の加熱などに対する批判の流れを受けている。
しかし、そこには「多様性」というものについて掘り下げない甘さがあるのではないか。

定量的な測定でしか、価値の大きさを測れないという誤解が生じているのでないだろうか。
100点を取った人と80点を取った人では、前者の方が明らかにその基準では優れている。
しかし、こうした点数化できない主義主張は皆平等な価値を持つものとして捉えられる。

平等な価値を持つのは、人格、すなわち人間の尊厳であって、思想そのものではない。
思想には歴然たる事実として、浅いか深いかの価値の優劣が存在する。
「弱肉強食」という社会思想は、「共生社会」の思想よりも、明らかにアイデンティティを狭めた思想である。自分だけ良ければ良い、という意見よりも、社会全体の幸せを考えるという意見の方が、より世界に対し開かれた、公共性の高い意見であることは言うまでもない。

こうした量に還元できない質的な差異を全て平等に扱おうとするのが、今盛んに語られる多様性尊重の価値観であるように思われる。
それは、実は還元できないものを尊重しているようで、実はあくまでも定量的な世界のものさしに押し込めているのである。
1から100に当てはまらないのだからみんな0にした、というのと同じ話である。
つまり、今の多様性尊重という概念は結局はあくまでも定量的にのみ人間を評価しようとする価値観から抜け出せていない。

意識の構造には発達的な構造の変化があり、そこには確かに価値の垂直性が存在するという事実に目を向けない限り、こうした多様性に対する思考停止の態度は変わらない。
そして、この誤謬は多様性尊重論者を苛むことになる。

「自分には到底受け入れがたい意見ではあるが、多様性を尊重しなくてはならないから、その人の意見と自分の意見は確かに同じ価値がある。でも、どう考えても自分の考えが正しい。どうしたものか。」

そうして傲慢な多様性尊重論者は、自らが絶対的に正しいという根拠なき確信のもと、反論されづらい正論を掲げ、多様性尊重の世界観を共有しない他者を追い詰めていく。
そこには、自らの意識がどのように発達してきたかという過去に対する内省が欠けているのである。

多様性を絶対化することをやめ、定量化できないものが一体どのように変化していくのか、というこを謙虚に見つめる姿勢が今の日本の教育に必要なのではないだろうか。
「みんな違ってみんないい」に安易に逃げない態度が、本当の意味で人間の人格を平等に扱える意識を育てるのではないかと思うのである。

2015年1月9日金曜日

価値基準の混同と教育、発達の関連性

価値基準の混同という現象が至るところでおきているように思う。
経済的な合理性という価値基準が日常世界にあまねく浸透しているのではないか。

例えば、目の前で急に苦しそうに倒れた人がいたら、多くの人は何かしらの支援をすることを厭わないだろう。
それは、人の生命の価値というものは、その人を助けることで自分の時間を取られるなどといった「コスト」勘定では測れないものだからだ。

では、身体を壊して精神を病むほどに働く、という選択はどうだろうか。
本来、前述の話であれば、人の生命は明らかに経済的な効用よりも優先される価値を持つ。
にもかかわらず、現実には組織の都合、すなわち経済合理性が人間の生命よりも優先されることがある。

ここに起きているのは、価値基準の混同という現象ではないだろうか。

あらゆる価値観には同等の価値があるという誤った多様性主義は、経済的合理性という価値基準と、倫理的な価値基準がまるで秤にかけられる同等の基準であるかのような錯覚を抱かせた。
しかし、実際にはナチスの思想と、エコロジーの思想は、決して等しい次元で論じられるものではないはずだ。

ここで重要なのは、ナチスの思想や経済的合理性に価値がないとか、劣っているということを言っているのではない。
経済的合理性に則って判断をするべき局面、そうした価値基準が適切である領域は存在する。
しかし、例えば人間の生命や人間の尊厳といった価値基準は、それらよりも高次の段階の価値基準である。

安楽死を認めるべきかという議論を、安楽死を認めた場合の医療コストの増減によってのみ判断するということは根本的に適用すべき価値基準を取り違えている。


教育を論じるのが難しいのは、教育という営みが、複数の価値領域にまたがっているからである。
主なものは、社会的正義の価値基準、内面的自由の価値基準、経済的合理性の価値基準である。

これらそれぞれの領域内で適切だと思われるように教育というものは設計されなくてはならない。間違っても、NCLB法のように経済的合理性によってのみ教育を評価したり、逆に社会的正義、個人の精神の自由といったどれか一つの領域によって教育を構想してはならない。


こうした価値基準の領域の分別というものは、発達に関わるものであるように思われる。
ローレンス・コールバーグは、道徳性の発達を、道徳的価値を道具的価値などその他の価値とより分けられるようになっていくプロセスでもあると言った。
人間は意識の発達段階を経ていく中で、それぞれの段階で新たな価値基準を一時的な格率として身に付ける。
従って、前の段階で中心的であった価値基準は、次の段階に至った際、それはもはや中心的ではないものとして相対化されている。

それ故に、段階を経るごとにそれまでの過程で獲得してきた価値基準を適切な領域に当てはめて柔軟に使えるのではないだろうか。
高次に発達した人が、寛容さと決断の素早さを兼ね備えるのも、こうしたところが起因しているように思う。

最も、自分自身がまだ大して高次の段階まで発達していないこともあり、憶測にすぎない部分が多いのだが、気づきを記してみた。








2015年1月8日木曜日

本質を直観する力と想像力は似ている

本質を見抜く力と想像力というのは、どこか似ている。

本質とは、物事の表面的ではないところに隠された意味であり、ある種主観的なものである。
主観的というのは、本質の本質らしさは論理的に検証できるというよりも、もっと感覚的なものだからである。

一方、想像力というのは、現前していないイメージや物語を創出するものであり、それらは純粋な意味で他人と共有されることはない。

しかし、古来から哲学者たちが指摘しているように、想像というのは決して現実と全く切り離された世界を指すのではない。確かに目の前にある客観的なものと想像されたものはどんな形であれ紐付いている。
その意味で、想像力の源泉は現実体験の豊かさである。


ルドルフ・シュタイナーは、子どもを教育するときに概念や記憶、知識ではなくイメージや想像力で育てよ、ということを言う。
概念や記憶、知識といったものは、思考力と結びつく。
では、イメージや想像力は何と結びつくのか、と考えた時、ふと「本質を見抜く力」と巷で言われるような力に思い当たった。

人間の意識は、思考のみによって形成されるわけではない。
明らかに、思考以前の段階を我々は持っている。
「本質を見抜く」と言う時、何か精緻な思考の軌跡をたどって至ったというよりも、直観的に「観た」という方が近いニュアンスを感じる。

それは、ある種の想像力ではないかと思えるのだ。
体験を概念ではなく、想像力やイメージと結びつけていくことが、鋭く本質を洞察する”センス”を育てるのではないか。

そして、この想像力という力は、思考力の形成にも影響を与えていると思われる。
人間の理解の段階は、一般にブルームのモデルを基本として様々なモデルが提唱されているが、単なる記憶段階からそれを実際に適用し、さらに他の概念と統合していく段階へと移行する。

しかし、この段階間には大きな隔絶がある。
単に知識を覚えることと、その知識を別の場面に応用していくことは根本的に違う。
一見当たり前に見えるのは、我々がそれをいとも簡単に成し遂げているからだ。
知識を定着させることで、それが使えるようになるというのは厳密に考えれば明らかにロジックとして繋がっていない。

わかりやすく言えば、コンピュータに情報を入力し、情報を蓄積することと、蓄積された情報を用いてコンピュータが別の場面にその情報を適用することは全く違うアーキテクチャが必要なはずだ。

それを可能にしているものの一つは、この想像力という、思考力とは違うところから来る力なのではないか?
ある段階から違う段階へのジャンプを生み出すのが、生身の体験の豊かさを元にしたイメージの力であるとすれば、幼少期にイメージで育てるべきとするシュタイナーの思想も理解できる。


実際には、具体的体験とそこから生まれる想像の豊かさが発達に与える影響を考慮した教育は少ない。
工藤順一氏が『国語のできる子どもを育てる』の中で、小学校中学年時にファンタジーを読むことを推奨しているのも、こうした想像力の涵養が、結局のところ、より高次の段階へと発達を遂げた際に、論理的思考力にまで影響してくることを直観的に感じていたからではないかと思う。


ここで述べたことは仮説にすぎないが、あまりにも思考化されたものばかりに意識を向けた教育というものに感じる違和感は、大切にしていきたいと思う。