2015年1月8日木曜日

本質を直観する力と想像力は似ている

本質を見抜く力と想像力というのは、どこか似ている。

本質とは、物事の表面的ではないところに隠された意味であり、ある種主観的なものである。
主観的というのは、本質の本質らしさは論理的に検証できるというよりも、もっと感覚的なものだからである。

一方、想像力というのは、現前していないイメージや物語を創出するものであり、それらは純粋な意味で他人と共有されることはない。

しかし、古来から哲学者たちが指摘しているように、想像というのは決して現実と全く切り離された世界を指すのではない。確かに目の前にある客観的なものと想像されたものはどんな形であれ紐付いている。
その意味で、想像力の源泉は現実体験の豊かさである。


ルドルフ・シュタイナーは、子どもを教育するときに概念や記憶、知識ではなくイメージや想像力で育てよ、ということを言う。
概念や記憶、知識といったものは、思考力と結びつく。
では、イメージや想像力は何と結びつくのか、と考えた時、ふと「本質を見抜く力」と巷で言われるような力に思い当たった。

人間の意識は、思考のみによって形成されるわけではない。
明らかに、思考以前の段階を我々は持っている。
「本質を見抜く」と言う時、何か精緻な思考の軌跡をたどって至ったというよりも、直観的に「観た」という方が近いニュアンスを感じる。

それは、ある種の想像力ではないかと思えるのだ。
体験を概念ではなく、想像力やイメージと結びつけていくことが、鋭く本質を洞察する”センス”を育てるのではないか。

そして、この想像力という力は、思考力の形成にも影響を与えていると思われる。
人間の理解の段階は、一般にブルームのモデルを基本として様々なモデルが提唱されているが、単なる記憶段階からそれを実際に適用し、さらに他の概念と統合していく段階へと移行する。

しかし、この段階間には大きな隔絶がある。
単に知識を覚えることと、その知識を別の場面に応用していくことは根本的に違う。
一見当たり前に見えるのは、我々がそれをいとも簡単に成し遂げているからだ。
知識を定着させることで、それが使えるようになるというのは厳密に考えれば明らかにロジックとして繋がっていない。

わかりやすく言えば、コンピュータに情報を入力し、情報を蓄積することと、蓄積された情報を用いてコンピュータが別の場面にその情報を適用することは全く違うアーキテクチャが必要なはずだ。

それを可能にしているものの一つは、この想像力という、思考力とは違うところから来る力なのではないか?
ある段階から違う段階へのジャンプを生み出すのが、生身の体験の豊かさを元にしたイメージの力であるとすれば、幼少期にイメージで育てるべきとするシュタイナーの思想も理解できる。


実際には、具体的体験とそこから生まれる想像の豊かさが発達に与える影響を考慮した教育は少ない。
工藤順一氏が『国語のできる子どもを育てる』の中で、小学校中学年時にファンタジーを読むことを推奨しているのも、こうした想像力の涵養が、結局のところ、より高次の段階へと発達を遂げた際に、論理的思考力にまで影響してくることを直観的に感じていたからではないかと思う。


ここで述べたことは仮説にすぎないが、あまりにも思考化されたものばかりに意識を向けた教育というものに感じる違和感は、大切にしていきたいと思う。

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