2015年2月6日金曜日

諸領域における価値体系の類似性と主客未分

自然科学分野において見られる価値構造と、人文科学、社会科学分野において見られる価値構造が類似している、ということは繰り返し指摘されていることである。
ホワイトヘッドの粒子に対する洞察が、釈迦の説いた宇宙論と同形であることなどについて知ったときは、大いに感銘を受けたものである。

しかし、これは考えてみれば至極当然のことであった。
自然科学的に説明された世界もまた、人間の限りある認識において表現された世界観なのであり、その意味で内面的な世界の探求も類似した価値構造を持つことはまったくもって自然なことである。

我々は、自然科学的に説明された世界をまるで実在しているかのように受け取ってしまう。
現代において物理法則は真理であり、宗教はうさんくさいものである。
だが、これらは突き詰めて考えればどちらも人間の”眼”を通して認識された世界から構築された体系であり、その意味で真理そのものと呼べるものではない。

つまり、こうした様々な世界の”説明”における類似構造の存在は、神秘的な「究極の真実」の存在を示す傍証なのではなく、人間が世界を捉える視点というものが常に盲点を内包し、限定されているという事実を裏付けるのみなのである。


こうしたあらゆる価値体系の空虚さを明らかにしたのはポストモダンの思想であるが、ウィルバーのインテグラル理論はポストモダンを乗り越えようとした試みなのだと思われる。

あらゆる価値体系が真理ではないという事実は厳然たるものだけれども、その構造をよくよく見ていけば、そこには深さと広がりという2つの尺度が存在していることが観取される。
限定された視点の中で、より深い洞察は、より広い視野と一体となった構造を形作っている。
この世界認識の発達という実存的な構造が、我々が本来実存的な生命体であるということを示唆している。
「このような仕方でしか世界を認識し得ない」ということが、まさに人間の生きる意味、存在の意味と重なりあう。
そうした認識の諸規定性に気づき、そのうちでの自由を模索しつつ、その規定性を越えていこうとする自己超越の在り方が、人間本来の存在の仕方なのではないだろうか。


こうした認識の限界への気づきは、自我と世界という主客二分の世界観への反省をもたらす。
自らの視点を通してでしか世界を認識できないということは、すなわち世界とは客体であると同時に主体でもあるということである。
「私」は、認識していると同時に「世界」に認識されているのである。

主客未分の思想自体は理解できていたような気がしていたが、この思索に至ってようやく自分なりに腹落ちしたような感覚がしている。

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