2015年2月4日水曜日

「社会を変える」の不都合な真実と「教育から社会を変える」の意味。

「社会を変える」
もはや陳腐という域を越えたように思われる言葉である。

ビジョンやミッション、リーダーシップという言葉が呪文のように唱えられながら、ムーブメントを起こすことが社会課題解決に必要なのだとという論理が横行する。
社会的正義の名のもとに、不正義を断罪するという熱狂的快感と、”有能”な人間は行動し、何かを変革していく人であるという経済合理的な価値観が結びついたとき、こうした社会変革の活動は批判できない論理でもって人々を絡めとる。

ハンナ・アレントは、こうした社会的正義に怒り、社会的弱者に共感し同情する人々が、民主主義という黄金の看板を手に入れたとき、ファシズムが生まれるということを見抜いていた。
そうした社会的正義に酔いしれる人々は、その実現のためには何を破壊しても構わないのである。
従って、社会課題の性急な解決を望み、破壊的な改革の必要性を連呼する。
彼らは自分たちの正義を信じているから、卓越した行動力で無自覚に”民意”を形成しようとする。
自分たちの正義にくみさない者は、不正義であるとして、激しく攻撃することもある。


社会問題の解決とは、我々の精神の変容という課題であると言ったのは、ルドルフ・シュタイナーである。
シュタイナーは、社会というものが、本質的に人間の認識という限定的な視座によって生まれているものであることに気づいていたように思われる。
それは、精神が世界観と深く関わっているからである。

ケン・ウィルバーによれば、我々が世界を見る見方は、常に限定的である。
人間は視点というもの無しに世界を認識することはできず、視点は必ず盲点を内包する。
従って、どのような認識も、ありのままを見るということはできない。
しかし、人間の意識構造は発達していく。
意識構造の発達は、質的な変化であり、それは自己中心性の逓減という法則に貫かれている。
発達段階を踏むごとに、見える世界が広がるのである。
初めは母親と自分しか居なかった世界に父親が現れ、家族とその他の人々を認識し、クラスメートを、学校を、地域を、国家を、地球を認識し、帰属意識を感じていくようになる。

地球規模のアイデンティティを獲得した人にとっては、国家にとっての正義は相対化されているから、それだけに基づいた正義に両手を挙げて賛同することはない。
そうした人にとっては、価値というものが本質的に階層的な構造を持っているということが深く認識されているから、みんなの総意や納得解というものが常に正当化されるべきではないということが当然のように感じられている。
これは、論理的な思考による問題ではない。精神の発達は、人が世界を認識する根本的な枠組みにおいて質的な変化をもたらすのである。


社会を変えたように見せかけるには、確かにムーブメントが必要である。
大衆が熱狂し、世論を形成することで政治には大きな圧力がかかる。それは確かに目に見える形での成果かもしれない。
しかし、本当に社会課題を生み出しているのは、我々の精神構造なのである。
例え外面的には成果が生まれたと記述することができても、その内実が未熟な精神構造によるものであれば、そうした改革はすぐにボロを出すである。
我々の精神構造が、見たくないものから目を背け、もっともらしい言説に主体性を明け渡し、無責任に振る舞うという幼い精神である限り、自分のやるべき範囲での自由を行使して最善をつくすということが社会を良くしていくのだという当たり前の事実に気がつかない。

批判的思考力、協働力、論理的思考力などなど、様々な力がこれからの時代に必要だという。
しかし、そうした知性を持っていても、精神を発達させない限り、結局のところ社会課題は解決しない。
誰もが平等に価値のある意見を持っているという幻想をいい加減打ち破らなくてはいけない。
その分野においてより発達した人がより価値のある意見をいうことができるのである。
こうした価値を混同せずに見いだせる人もまた、精神の発達した人である。

こうした考え方は、エリート主義的であるとか、差別的だと言われる向きもあるだろう。
しかし、エリートは社会に必要な存在であるし、そう認められているからエリートなのである。
エリート主義の否定は、翻ってエリートの存在を肯定している。
我々は常に少数のエリートに先導されてここまで歴史を積み重ねてきたのであり、エリートという垂直的な価値を否定することは、極端すぎる暴論である。

ある領域におけるエリートと、そうではない人々との間において平等なのは、存在としての尊厳であり、その人格である。
だからこそ、行政に民主主義を持ち込んではいけないし、司法にも民主主義は持ち込んではいけなかったはずである。

社会を変革するということに真摯に取り組む人は、自らの認識に限界があることを悟り、その限定された世界の中で、自分のやるべきことを粛々と遂行する。
そして、自らの精神を高めることが真に社会を良くしていくということに確信を持っている。
だから、僕はいたずらに大衆を熱狂させ、その熱狂の規模によって社会に与えたインパクトを測ろうとする動きには懐疑的である。


社会を良くするためには、精神的に発達しなくてはならない、ということはとても言いづらいことだ。
この言説を現実化する限りにおいて、社会課題の解決を教育に求めるということは一定の正当性があると思っている。
つまり、子どもの発達が、知性面だけではなく精神面においても適切になされなくてはいけないのは、社会を良くしていくためであるからといえるのである。

その意味で、子どもの健全な発達を支援するという教育思想が、一部のオルタナティブにしか見受けられないのは至極残念なことである。

0 件のコメント:

コメントを投稿