2015年1月9日金曜日

価値基準の混同と教育、発達の関連性

価値基準の混同という現象が至るところでおきているように思う。
経済的な合理性という価値基準が日常世界にあまねく浸透しているのではないか。

例えば、目の前で急に苦しそうに倒れた人がいたら、多くの人は何かしらの支援をすることを厭わないだろう。
それは、人の生命の価値というものは、その人を助けることで自分の時間を取られるなどといった「コスト」勘定では測れないものだからだ。

では、身体を壊して精神を病むほどに働く、という選択はどうだろうか。
本来、前述の話であれば、人の生命は明らかに経済的な効用よりも優先される価値を持つ。
にもかかわらず、現実には組織の都合、すなわち経済合理性が人間の生命よりも優先されることがある。

ここに起きているのは、価値基準の混同という現象ではないだろうか。

あらゆる価値観には同等の価値があるという誤った多様性主義は、経済的合理性という価値基準と、倫理的な価値基準がまるで秤にかけられる同等の基準であるかのような錯覚を抱かせた。
しかし、実際にはナチスの思想と、エコロジーの思想は、決して等しい次元で論じられるものではないはずだ。

ここで重要なのは、ナチスの思想や経済的合理性に価値がないとか、劣っているということを言っているのではない。
経済的合理性に則って判断をするべき局面、そうした価値基準が適切である領域は存在する。
しかし、例えば人間の生命や人間の尊厳といった価値基準は、それらよりも高次の段階の価値基準である。

安楽死を認めるべきかという議論を、安楽死を認めた場合の医療コストの増減によってのみ判断するということは根本的に適用すべき価値基準を取り違えている。


教育を論じるのが難しいのは、教育という営みが、複数の価値領域にまたがっているからである。
主なものは、社会的正義の価値基準、内面的自由の価値基準、経済的合理性の価値基準である。

これらそれぞれの領域内で適切だと思われるように教育というものは設計されなくてはならない。間違っても、NCLB法のように経済的合理性によってのみ教育を評価したり、逆に社会的正義、個人の精神の自由といったどれか一つの領域によって教育を構想してはならない。


こうした価値基準の領域の分別というものは、発達に関わるものであるように思われる。
ローレンス・コールバーグは、道徳性の発達を、道徳的価値を道具的価値などその他の価値とより分けられるようになっていくプロセスでもあると言った。
人間は意識の発達段階を経ていく中で、それぞれの段階で新たな価値基準を一時的な格率として身に付ける。
従って、前の段階で中心的であった価値基準は、次の段階に至った際、それはもはや中心的ではないものとして相対化されている。

それ故に、段階を経るごとにそれまでの過程で獲得してきた価値基準を適切な領域に当てはめて柔軟に使えるのではないだろうか。
高次に発達した人が、寛容さと決断の素早さを兼ね備えるのも、こうしたところが起因しているように思う。

最も、自分自身がまだ大して高次の段階まで発達していないこともあり、憶測にすぎない部分が多いのだが、気づきを記してみた。








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