2015年2月4日水曜日

「社会を変える」の不都合な真実と「教育から社会を変える」の意味。

「社会を変える」
もはや陳腐という域を越えたように思われる言葉である。

ビジョンやミッション、リーダーシップという言葉が呪文のように唱えられながら、ムーブメントを起こすことが社会課題解決に必要なのだとという論理が横行する。
社会的正義の名のもとに、不正義を断罪するという熱狂的快感と、”有能”な人間は行動し、何かを変革していく人であるという経済合理的な価値観が結びついたとき、こうした社会変革の活動は批判できない論理でもって人々を絡めとる。

ハンナ・アレントは、こうした社会的正義に怒り、社会的弱者に共感し同情する人々が、民主主義という黄金の看板を手に入れたとき、ファシズムが生まれるということを見抜いていた。
そうした社会的正義に酔いしれる人々は、その実現のためには何を破壊しても構わないのである。
従って、社会課題の性急な解決を望み、破壊的な改革の必要性を連呼する。
彼らは自分たちの正義を信じているから、卓越した行動力で無自覚に”民意”を形成しようとする。
自分たちの正義にくみさない者は、不正義であるとして、激しく攻撃することもある。


社会問題の解決とは、我々の精神の変容という課題であると言ったのは、ルドルフ・シュタイナーである。
シュタイナーは、社会というものが、本質的に人間の認識という限定的な視座によって生まれているものであることに気づいていたように思われる。
それは、精神が世界観と深く関わっているからである。

ケン・ウィルバーによれば、我々が世界を見る見方は、常に限定的である。
人間は視点というもの無しに世界を認識することはできず、視点は必ず盲点を内包する。
従って、どのような認識も、ありのままを見るということはできない。
しかし、人間の意識構造は発達していく。
意識構造の発達は、質的な変化であり、それは自己中心性の逓減という法則に貫かれている。
発達段階を踏むごとに、見える世界が広がるのである。
初めは母親と自分しか居なかった世界に父親が現れ、家族とその他の人々を認識し、クラスメートを、学校を、地域を、国家を、地球を認識し、帰属意識を感じていくようになる。

地球規模のアイデンティティを獲得した人にとっては、国家にとっての正義は相対化されているから、それだけに基づいた正義に両手を挙げて賛同することはない。
そうした人にとっては、価値というものが本質的に階層的な構造を持っているということが深く認識されているから、みんなの総意や納得解というものが常に正当化されるべきではないということが当然のように感じられている。
これは、論理的な思考による問題ではない。精神の発達は、人が世界を認識する根本的な枠組みにおいて質的な変化をもたらすのである。


社会を変えたように見せかけるには、確かにムーブメントが必要である。
大衆が熱狂し、世論を形成することで政治には大きな圧力がかかる。それは確かに目に見える形での成果かもしれない。
しかし、本当に社会課題を生み出しているのは、我々の精神構造なのである。
例え外面的には成果が生まれたと記述することができても、その内実が未熟な精神構造によるものであれば、そうした改革はすぐにボロを出すである。
我々の精神構造が、見たくないものから目を背け、もっともらしい言説に主体性を明け渡し、無責任に振る舞うという幼い精神である限り、自分のやるべき範囲での自由を行使して最善をつくすということが社会を良くしていくのだという当たり前の事実に気がつかない。

批判的思考力、協働力、論理的思考力などなど、様々な力がこれからの時代に必要だという。
しかし、そうした知性を持っていても、精神を発達させない限り、結局のところ社会課題は解決しない。
誰もが平等に価値のある意見を持っているという幻想をいい加減打ち破らなくてはいけない。
その分野においてより発達した人がより価値のある意見をいうことができるのである。
こうした価値を混同せずに見いだせる人もまた、精神の発達した人である。

こうした考え方は、エリート主義的であるとか、差別的だと言われる向きもあるだろう。
しかし、エリートは社会に必要な存在であるし、そう認められているからエリートなのである。
エリート主義の否定は、翻ってエリートの存在を肯定している。
我々は常に少数のエリートに先導されてここまで歴史を積み重ねてきたのであり、エリートという垂直的な価値を否定することは、極端すぎる暴論である。

ある領域におけるエリートと、そうではない人々との間において平等なのは、存在としての尊厳であり、その人格である。
だからこそ、行政に民主主義を持ち込んではいけないし、司法にも民主主義は持ち込んではいけなかったはずである。

社会を変革するということに真摯に取り組む人は、自らの認識に限界があることを悟り、その限定された世界の中で、自分のやるべきことを粛々と遂行する。
そして、自らの精神を高めることが真に社会を良くしていくということに確信を持っている。
だから、僕はいたずらに大衆を熱狂させ、その熱狂の規模によって社会に与えたインパクトを測ろうとする動きには懐疑的である。


社会を良くするためには、精神的に発達しなくてはならない、ということはとても言いづらいことだ。
この言説を現実化する限りにおいて、社会課題の解決を教育に求めるということは一定の正当性があると思っている。
つまり、子どもの発達が、知性面だけではなく精神面においても適切になされなくてはいけないのは、社会を良くしていくためであるからといえるのである。

その意味で、子どもの健全な発達を支援するという教育思想が、一部のオルタナティブにしか見受けられないのは至極残念なことである。

2015年1月28日水曜日

言語を用いた内省の限界について

一般的に内省においては「言語化」ということが、内省の程度を測る上で重視される。
内省は自身あるいは自身の行為を客観的に見つめなおすことで、新たな気づきを得ることであるから、その気づきを言語化できていることが一つの指標となる。

しかし、ある領域では、言語を用いた内省に限界を感じるようになった。
それは、特定のスキル領域に関する内省ではなく、実存的な恐怖と向き合う内省においてである。
例えば、他者に拒否されたくないという恐怖や、自身の思想を体現しきることができないかもしれないという恐怖に対して、言語を用いた内省では、根本的な解決を見ないということを実感している。

それはおそらく、恐怖というものが、言語的なもの、すなわち思考によって基礎づけられているものではなく、感情の領域に属するものであるという本質的な要因による。
感情は合理的なものではない。
論理を積み重ねても、感情は説明できないのであって、それを言語によって説明するという試みの中には、必然的に自己欺瞞が生まれる。
まさにウィルバーのいうフラットランド的発想であるといえる。


言語というものは、実は物事を欺く力を内在している。
それはおそらく、言葉の持つ視覚的な力、すなわち「境界を引く」力に起因している。
境界を引くということは、未分離のものから何かを切り落とすということである。
「名前をつける」というごく単純な行為によって、我々は世界に境界を引き、分類し、分解している。
そこには、確かに抜け落ちているものが存在する。

実存的な恐怖に対して、言語はその恐怖と真正面から向き合うことを回避し、自分にとって都合の良い説明を創作しようとする。
そうして生み出された言葉は、どこか”そのもの”を捉えきっていない、欺瞞に満ちた虚構になる。
言語に頼った内省を繰り返せば繰り返すほど、客観視している認識主体であるところの自分が肥大していく。
いみじくもポストモダニストの思想家達が明らかにしたように、人間の認識は真理を捉えることはできない。
言語に頼った思考は、「自分」という感覚を延々と肥大させるばかりで、実は自分と世界という無意識の主客分離の前提が桎梏となっていることに気づかせないのである。

しかし、一方で、あらゆる表現がそうであるように、言語もまた表現しきることのできない”そのもの”を表現しようとする力も持っている。
それは、言語という形態の規定性をはみ出そうとする力である。
我々は、文章を読んだ時に、そこに書かれていることをイメージすることができる。
その想像される世界というのは、単に書かれている文字よりもはるかに豊かな世界である。
言語は確かに、存在そのものを表現することはできない。
言語化することは、同時にありのままの世界知覚を矮小化していることと換言することができる。
にも関わらず、そうして矮小化された一片の言葉から、我々は豊かなイメージを持つことができる。
それはまるで、言語によって切り刻まれた世界の元の在り方を何とかして捉えようとするような試みに見える。
そう考えると、言語というものは、我々を実存的たらしめてくれているものなのかもしれない。


こうして文章を書いている時にさえ、言葉の節々に欺瞞が見え隠れすることを感じる。
しかし、書くことによって、捉えきれない何かに至るということを願うから、書かずにはいられないのである。
いつしか、そんな文章を書いてみたいものだ。

2015年1月27日火曜日

”多様性を尊重する教育”に欠けているもの

多様性尊重という金科玉条は今や教育の分野では当たり前のように見かけるようになった。
多様性尊重の世界観では、定量的なスキルの達成度によって人の価値を評価するのではなく、人格に価値の優劣は無く、多種多様な人が存在することを尊重していこうとする。

人種問題を背景として生まれてきた多文化主義に端を発するこの価値観は、日本の教育では近年文科省が掲げている「共生社会」という方針に現れている。
人種問題が比較的少ない日本では、健常者と障害者という枠組みにおける多様性尊重がクローズアップされているわけである。

こうした価値観は、先に述べたように、点数化できる能力にばかり焦点を当てていた日本の教育、その象徴であった受験戦争の加熱などに対する批判の流れを受けている。
しかし、そこには「多様性」というものについて掘り下げない甘さがあるのではないか。

定量的な測定でしか、価値の大きさを測れないという誤解が生じているのでないだろうか。
100点を取った人と80点を取った人では、前者の方が明らかにその基準では優れている。
しかし、こうした点数化できない主義主張は皆平等な価値を持つものとして捉えられる。

平等な価値を持つのは、人格、すなわち人間の尊厳であって、思想そのものではない。
思想には歴然たる事実として、浅いか深いかの価値の優劣が存在する。
「弱肉強食」という社会思想は、「共生社会」の思想よりも、明らかにアイデンティティを狭めた思想である。自分だけ良ければ良い、という意見よりも、社会全体の幸せを考えるという意見の方が、より世界に対し開かれた、公共性の高い意見であることは言うまでもない。

こうした量に還元できない質的な差異を全て平等に扱おうとするのが、今盛んに語られる多様性尊重の価値観であるように思われる。
それは、実は還元できないものを尊重しているようで、実はあくまでも定量的な世界のものさしに押し込めているのである。
1から100に当てはまらないのだからみんな0にした、というのと同じ話である。
つまり、今の多様性尊重という概念は結局はあくまでも定量的にのみ人間を評価しようとする価値観から抜け出せていない。

意識の構造には発達的な構造の変化があり、そこには確かに価値の垂直性が存在するという事実に目を向けない限り、こうした多様性に対する思考停止の態度は変わらない。
そして、この誤謬は多様性尊重論者を苛むことになる。

「自分には到底受け入れがたい意見ではあるが、多様性を尊重しなくてはならないから、その人の意見と自分の意見は確かに同じ価値がある。でも、どう考えても自分の考えが正しい。どうしたものか。」

そうして傲慢な多様性尊重論者は、自らが絶対的に正しいという根拠なき確信のもと、反論されづらい正論を掲げ、多様性尊重の世界観を共有しない他者を追い詰めていく。
そこには、自らの意識がどのように発達してきたかという過去に対する内省が欠けているのである。

多様性を絶対化することをやめ、定量化できないものが一体どのように変化していくのか、というこを謙虚に見つめる姿勢が今の日本の教育に必要なのではないだろうか。
「みんな違ってみんないい」に安易に逃げない態度が、本当の意味で人間の人格を平等に扱える意識を育てるのではないかと思うのである。

2015年1月9日金曜日

価値基準の混同と教育、発達の関連性

価値基準の混同という現象が至るところでおきているように思う。
経済的な合理性という価値基準が日常世界にあまねく浸透しているのではないか。

例えば、目の前で急に苦しそうに倒れた人がいたら、多くの人は何かしらの支援をすることを厭わないだろう。
それは、人の生命の価値というものは、その人を助けることで自分の時間を取られるなどといった「コスト」勘定では測れないものだからだ。

では、身体を壊して精神を病むほどに働く、という選択はどうだろうか。
本来、前述の話であれば、人の生命は明らかに経済的な効用よりも優先される価値を持つ。
にもかかわらず、現実には組織の都合、すなわち経済合理性が人間の生命よりも優先されることがある。

ここに起きているのは、価値基準の混同という現象ではないだろうか。

あらゆる価値観には同等の価値があるという誤った多様性主義は、経済的合理性という価値基準と、倫理的な価値基準がまるで秤にかけられる同等の基準であるかのような錯覚を抱かせた。
しかし、実際にはナチスの思想と、エコロジーの思想は、決して等しい次元で論じられるものではないはずだ。

ここで重要なのは、ナチスの思想や経済的合理性に価値がないとか、劣っているということを言っているのではない。
経済的合理性に則って判断をするべき局面、そうした価値基準が適切である領域は存在する。
しかし、例えば人間の生命や人間の尊厳といった価値基準は、それらよりも高次の段階の価値基準である。

安楽死を認めるべきかという議論を、安楽死を認めた場合の医療コストの増減によってのみ判断するということは根本的に適用すべき価値基準を取り違えている。


教育を論じるのが難しいのは、教育という営みが、複数の価値領域にまたがっているからである。
主なものは、社会的正義の価値基準、内面的自由の価値基準、経済的合理性の価値基準である。

これらそれぞれの領域内で適切だと思われるように教育というものは設計されなくてはならない。間違っても、NCLB法のように経済的合理性によってのみ教育を評価したり、逆に社会的正義、個人の精神の自由といったどれか一つの領域によって教育を構想してはならない。


こうした価値基準の領域の分別というものは、発達に関わるものであるように思われる。
ローレンス・コールバーグは、道徳性の発達を、道徳的価値を道具的価値などその他の価値とより分けられるようになっていくプロセスでもあると言った。
人間は意識の発達段階を経ていく中で、それぞれの段階で新たな価値基準を一時的な格率として身に付ける。
従って、前の段階で中心的であった価値基準は、次の段階に至った際、それはもはや中心的ではないものとして相対化されている。

それ故に、段階を経るごとにそれまでの過程で獲得してきた価値基準を適切な領域に当てはめて柔軟に使えるのではないだろうか。
高次に発達した人が、寛容さと決断の素早さを兼ね備えるのも、こうしたところが起因しているように思う。

最も、自分自身がまだ大して高次の段階まで発達していないこともあり、憶測にすぎない部分が多いのだが、気づきを記してみた。








2015年1月8日木曜日

本質を直観する力と想像力は似ている

本質を見抜く力と想像力というのは、どこか似ている。

本質とは、物事の表面的ではないところに隠された意味であり、ある種主観的なものである。
主観的というのは、本質の本質らしさは論理的に検証できるというよりも、もっと感覚的なものだからである。

一方、想像力というのは、現前していないイメージや物語を創出するものであり、それらは純粋な意味で他人と共有されることはない。

しかし、古来から哲学者たちが指摘しているように、想像というのは決して現実と全く切り離された世界を指すのではない。確かに目の前にある客観的なものと想像されたものはどんな形であれ紐付いている。
その意味で、想像力の源泉は現実体験の豊かさである。


ルドルフ・シュタイナーは、子どもを教育するときに概念や記憶、知識ではなくイメージや想像力で育てよ、ということを言う。
概念や記憶、知識といったものは、思考力と結びつく。
では、イメージや想像力は何と結びつくのか、と考えた時、ふと「本質を見抜く力」と巷で言われるような力に思い当たった。

人間の意識は、思考のみによって形成されるわけではない。
明らかに、思考以前の段階を我々は持っている。
「本質を見抜く」と言う時、何か精緻な思考の軌跡をたどって至ったというよりも、直観的に「観た」という方が近いニュアンスを感じる。

それは、ある種の想像力ではないかと思えるのだ。
体験を概念ではなく、想像力やイメージと結びつけていくことが、鋭く本質を洞察する”センス”を育てるのではないか。

そして、この想像力という力は、思考力の形成にも影響を与えていると思われる。
人間の理解の段階は、一般にブルームのモデルを基本として様々なモデルが提唱されているが、単なる記憶段階からそれを実際に適用し、さらに他の概念と統合していく段階へと移行する。

しかし、この段階間には大きな隔絶がある。
単に知識を覚えることと、その知識を別の場面に応用していくことは根本的に違う。
一見当たり前に見えるのは、我々がそれをいとも簡単に成し遂げているからだ。
知識を定着させることで、それが使えるようになるというのは厳密に考えれば明らかにロジックとして繋がっていない。

わかりやすく言えば、コンピュータに情報を入力し、情報を蓄積することと、蓄積された情報を用いてコンピュータが別の場面にその情報を適用することは全く違うアーキテクチャが必要なはずだ。

それを可能にしているものの一つは、この想像力という、思考力とは違うところから来る力なのではないか?
ある段階から違う段階へのジャンプを生み出すのが、生身の体験の豊かさを元にしたイメージの力であるとすれば、幼少期にイメージで育てるべきとするシュタイナーの思想も理解できる。


実際には、具体的体験とそこから生まれる想像の豊かさが発達に与える影響を考慮した教育は少ない。
工藤順一氏が『国語のできる子どもを育てる』の中で、小学校中学年時にファンタジーを読むことを推奨しているのも、こうした想像力の涵養が、結局のところ、より高次の段階へと発達を遂げた際に、論理的思考力にまで影響してくることを直観的に感じていたからではないかと思う。


ここで述べたことは仮説にすぎないが、あまりにも思考化されたものばかりに意識を向けた教育というものに感じる違和感は、大切にしていきたいと思う。

2014年12月31日水曜日

2014年面白かった本まとめ

年末なので、備忘録を兼ねて今年読んだ本の中で特に面白かったものを10冊選んでみた。
個別に書評記事を書いていないものを多めに含むようにしてみた。

1. ケン・ウィルバー『統合心理学への道』

僕の思想に最も大きな影響を与えてくれたケン・ウィルバー。
その「インテグラル理論」について知る上でとても分かりやすい名著。
一般には『万物の歴史』が入門書としておすすめとされているが、個人的にはこちらの方がはるかにわかりやすく感じた。
ウィルバーの射程の広さ、深さと、その理論の緻密さは本当に味わい深く、内容以上に読書している体験自体が実に心地よい。
定期的にウィルバーに立ち戻りながら読書していくというサイクルが気づいたら生まれていた。

2. ルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』

シュタイナーの「社会有機体三分節論」について学ぶことができる。
20世紀初頭にすでに資本主義と社会主義の行き詰まりを見抜いていたシュタイナーが構想した社会思想は、現代における社会の未来を考察する上でも非常に示唆に富んでいる。
シュタイナーといえばそのオカルティックな思想から敬遠されがちであるが、社会思想は比較的読みやすい。
『社会の未来』と併せて読めば、その思想について概観することができる。

3. ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』

インテグラルエデュケーション研究会の参考図書として読んだ。
言語と発達というテーマを考察する際に、文化人類学的、歴史的にとても奥深い視点を与えてくれる。例えば、内省という思考形態が言語とどのように関わっているのか、といった内容はこれまで自分は全く思いつかなかった衝撃的な内容であった。
こうした優れた研究が昨今語られる「教育」というものにどれだけ活かされているのか、慨嘆したくなる。
教育の実践に身を置く人にはぜひ読んでほしいと個人的に思っている。

4. 西村拓生『教育哲学の現場』

実践の場から教育哲学を考察する、所謂”臨床教育哲学”的な視点から新しい教育の公共性を論じた著書。そもそもの教育哲学をメタ的に分析しつつ、著者の実体験に基づく事例が興味深く描かれており、非常に面白かった。
取り上げられている課題はどれも深く共感できるものばかりであり、それに対して明確な回答を示している訳ではないが、著者自身もまた悩みながら探求し続けているという姿が感じられた。

5. 天野郁夫『教育と選抜の社会史』

戦前の日本の教育制度から、歴史社会学的手法によって日本における教育と選抜のしくみがどのように形成されてきたのかを論じている。
また、そうした日本の仕組みをドイツやフランス、イギリスなどと比較しながら、日本の教育、選抜システムの特異性を鮮やかに描き出している。
著者の明晰さがにじみ出てくるような簡潔で分かりやすい文に、あっという間に引き込まれて読みきってしまった。
教育社会学的な基礎知識を求めて読んだのだが、それ以上に文の素晴らしさに感銘を受けた印象が強い。

6. V.フランクル『苦悩の存在論』

自分自身が非常に苦しい時期にある種の救いを求めて読んだ本であった。
「態度価値」や、「それでも人生はイエスと言う」といったフランクルの哲学には、当時も強く興味を持ったが、その意味が分かり始めたのはどうもごく最近になってからのように思える。
生きる意味という普遍的な難題について、徹底的に考え抜かれたフランクルの思想は、間違いなく自分の核を形成する思想の一つになっているという実感がある。
また、こうした哲学こそ、教育の場において何かできることがあるのではないかと感じるのである。

7. J.クリシュナムルティ『既知からの自由』

クリシュナムルティの思想もまた、今年自分に大きな影響を与えた思想である。
彼の「あるがままを観察せよ」という思想は、もはや思想を越えている。
思想ではないゆえに、語られる言葉は至って平易であり、万人に伝わり、同時に理解しがたいものでもある。
なぜならそれは、思想を持つ以前の在り方について”無理やり”述べているからである。
思考以前の段階の存在にふと気づいた時、前述のフランクルやシュタイナー、ウィルバーが述べていることがつながってきたように思えた。
観想的な知に触れるには、読書や思考だけしていても意味がないということを教えてくれた一冊である。

8. ローレンス・コールバーグ『道徳性の発達と道徳教育』

道徳性というものが国家、民族、人種を越えて普遍的な発達段階を経て発達していくという道徳性発達の研究と、それを道徳教育にどのように応用していくか、という観点から彼の講演録をまとめた本。
道徳性に発達という法則を見出したコールバーグの洞察の鋭さには舌を巻いた。そこから発達という”現象”について、独自の興味深い考察を行っている。
正直なところ、訳がそれほどよくないのか、あるいは自分の読解力が足りていないのか大分読み進めるのが辛かったのだが、それでも大きな示唆を与えてくれる必読書であると思う。

9. 熊野純彦『西洋哲学史』

哲学を本気でやるつもりは毛頭無いが、必要な読書のための概説的知識を求めて「哲学史」を手にとって見た。
しかし、熊野氏の哲学史は、わかりやすく教科書的な哲学史ではない。
哲学史でありながらどこか哲学的、いや詩的な文体は、不思議な思索とイメージを内面へ投影してくる。
見事に哲学というものを概観してやろうなどという傲慢を恥じることになった。

後に多少勉強して再読してみると、一般的に語られるものとは少し異なった独自の視点からそれぞれの哲学者を取り上げていることが分かる。
不勉強故にこの本の魅力を全く味わい尽くせていないので、また時を置いて挑戦してみたいと思っている一冊である。

10. ロバート・キーガン『なぜ人と組織は変われないのか』

本書もインテグラルエデュケーション研究会での課題図書である。
組織変革における個人の変容というものを、知性の発達と結びつけて論じた研究が非常に興味深いものである。
その方法論をよくよく見てみれば、クリシュナムルティにも通じるようなところがある。
本書の射程は、理性的思考の段階までであるが、ウィルバーやクリシュナムルティと併せて読めば、確かにこの研究はスピリチュアル段階へ接続されるものであるように思う。

組織変革の方法論を求めて読むにも十分に得るものがあると思われるが、それ以上に意義のある研究であると個人的に感じている。




















2014年12月22日月曜日

「アクティブ・ラーニング」の今後の課題と所感(Integral Education研究会12月回メモ)

次期学習指導要領改訂の主要なトピックの一つが、「アクティブラーニング」の初等中等段階への導入である。

(参考:下村文部大臣の中教審への諮問→http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1353440.htm


アクティブラーニングとは、文部科学省の定義によれば、

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れ
た教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、
教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査
学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク
等も有効なアクティブ・ラーニングの方法」(文部科学省 2012)
 である。

アクティブラーニングの定義は上述のように広く、近年急速に広まっている21世紀型スキルやOECDキー・コンピテンシーといった能力を身につけさせる革新的な教育手法として、PBL(Project Based Learning)や、反転授業、学び合いなども含んだ広義の非一斉型授業として理解してよい。
なぜなら、その本質は、「学習者の主体性」に起因しているためである。

こうしたアクティブラーニングのメリットは、協働能力を育めること、個別に最適化された学習を設計しやすいこと、学習者の主体性ゆえに高い学習効果を期待できること、などなどがよく挙げられている。

また、2002年に総合学習が学習指導要領に採り入れられた際との違いは、アクティブラーニングの方法論を文部科学省が積極的に提示している点である。

従来、教員は一般に指導の方法論を”上から押し付けられ”ることを嫌っていたが、今回の改訂では方法論としてアクティブラーニングが含まれており、画期的との見方もある。

シティズンシップ教育やエンパシー教育、ESD(持続可能な開発のための教育)とアクティブラーニングの関係性についても、その相性の良さから論じられることが増えてきた。
そうした点からも、「次世代型」の学習法としてアクティブラーニングは徐々に受け入れられ始めているように見える。


さて、こうした動きにはもちろん批判も多い。
主要な批判の一つは、評価の難しさである。従来型のペーパーテストによる数値評価だけではなく、より多角的な評価が必要であるが、現実に十分に有効であるといえるような評価方法は開発されているとはいえない。
ここには、アクティブラーニングを先進的に導入してきた北欧型社会の「評価観」は、未だに日本では十分に広まっていないという状況がある。


また、こうした多角的な評価は、本田由紀氏が指摘するように、ハイパー・メリトクラシー化を推し進め、より出身階層間での教育格差を助長するものである、といった社会学的な観点からの批判もある。


発達的な観点から言えば、こうしたアクティブラーニングで想定される「集団」の発達段階が考慮されることは少ないと言わざるを得ない。
小学校段階で想定されるアクティブラーニングと、社会人段階で想定されるアクティブラーニングは、扱うテーマには差があるとしても、手法自体はほぼ同じである。
また、集団内のある発達段階に属する個人の割合によって、アクティブラーニングの効果はどのように変わってくるのかなどの研究成果はまだ提出されていないようだ。


このように概観すると、やはり日本におけるアクティブラーニングの受容は、どうも方法論先行の受容のように思える。課題解決のために導入するというより、とりあえず良さそうなアイデアに飛びついた格好である。

そこには、実際に教育を受ける子どもたちや学習者に対する眼差しが驚くほど欠けている。
結局のところ、業績達成は個人の努力の問題であるという潜在的な新自由主義的価値観が、教育政策を支配しているのである。

教育格差をまさに生み出しているその弱者切り捨ての価値観を省みることなしには、公教育における根本的な教育の平等の問題は解決されえないのではないか。

「学習者主体」という建前が建前に成り下がることの無いように、本質的な価値観の転換をもたらすような有用な思想を提示することが、何よりも教育改革において先決である。