2014年12月31日水曜日

2014年面白かった本まとめ

年末なので、備忘録を兼ねて今年読んだ本の中で特に面白かったものを10冊選んでみた。
個別に書評記事を書いていないものを多めに含むようにしてみた。

1. ケン・ウィルバー『統合心理学への道』

僕の思想に最も大きな影響を与えてくれたケン・ウィルバー。
その「インテグラル理論」について知る上でとても分かりやすい名著。
一般には『万物の歴史』が入門書としておすすめとされているが、個人的にはこちらの方がはるかにわかりやすく感じた。
ウィルバーの射程の広さ、深さと、その理論の緻密さは本当に味わい深く、内容以上に読書している体験自体が実に心地よい。
定期的にウィルバーに立ち戻りながら読書していくというサイクルが気づいたら生まれていた。

2. ルドルフ・シュタイナー『社会問題の核心』

シュタイナーの「社会有機体三分節論」について学ぶことができる。
20世紀初頭にすでに資本主義と社会主義の行き詰まりを見抜いていたシュタイナーが構想した社会思想は、現代における社会の未来を考察する上でも非常に示唆に富んでいる。
シュタイナーといえばそのオカルティックな思想から敬遠されがちであるが、社会思想は比較的読みやすい。
『社会の未来』と併せて読めば、その思想について概観することができる。

3. ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』

インテグラルエデュケーション研究会の参考図書として読んだ。
言語と発達というテーマを考察する際に、文化人類学的、歴史的にとても奥深い視点を与えてくれる。例えば、内省という思考形態が言語とどのように関わっているのか、といった内容はこれまで自分は全く思いつかなかった衝撃的な内容であった。
こうした優れた研究が昨今語られる「教育」というものにどれだけ活かされているのか、慨嘆したくなる。
教育の実践に身を置く人にはぜひ読んでほしいと個人的に思っている。

4. 西村拓生『教育哲学の現場』

実践の場から教育哲学を考察する、所謂”臨床教育哲学”的な視点から新しい教育の公共性を論じた著書。そもそもの教育哲学をメタ的に分析しつつ、著者の実体験に基づく事例が興味深く描かれており、非常に面白かった。
取り上げられている課題はどれも深く共感できるものばかりであり、それに対して明確な回答を示している訳ではないが、著者自身もまた悩みながら探求し続けているという姿が感じられた。

5. 天野郁夫『教育と選抜の社会史』

戦前の日本の教育制度から、歴史社会学的手法によって日本における教育と選抜のしくみがどのように形成されてきたのかを論じている。
また、そうした日本の仕組みをドイツやフランス、イギリスなどと比較しながら、日本の教育、選抜システムの特異性を鮮やかに描き出している。
著者の明晰さがにじみ出てくるような簡潔で分かりやすい文に、あっという間に引き込まれて読みきってしまった。
教育社会学的な基礎知識を求めて読んだのだが、それ以上に文の素晴らしさに感銘を受けた印象が強い。

6. V.フランクル『苦悩の存在論』

自分自身が非常に苦しい時期にある種の救いを求めて読んだ本であった。
「態度価値」や、「それでも人生はイエスと言う」といったフランクルの哲学には、当時も強く興味を持ったが、その意味が分かり始めたのはどうもごく最近になってからのように思える。
生きる意味という普遍的な難題について、徹底的に考え抜かれたフランクルの思想は、間違いなく自分の核を形成する思想の一つになっているという実感がある。
また、こうした哲学こそ、教育の場において何かできることがあるのではないかと感じるのである。

7. J.クリシュナムルティ『既知からの自由』

クリシュナムルティの思想もまた、今年自分に大きな影響を与えた思想である。
彼の「あるがままを観察せよ」という思想は、もはや思想を越えている。
思想ではないゆえに、語られる言葉は至って平易であり、万人に伝わり、同時に理解しがたいものでもある。
なぜならそれは、思想を持つ以前の在り方について”無理やり”述べているからである。
思考以前の段階の存在にふと気づいた時、前述のフランクルやシュタイナー、ウィルバーが述べていることがつながってきたように思えた。
観想的な知に触れるには、読書や思考だけしていても意味がないということを教えてくれた一冊である。

8. ローレンス・コールバーグ『道徳性の発達と道徳教育』

道徳性というものが国家、民族、人種を越えて普遍的な発達段階を経て発達していくという道徳性発達の研究と、それを道徳教育にどのように応用していくか、という観点から彼の講演録をまとめた本。
道徳性に発達という法則を見出したコールバーグの洞察の鋭さには舌を巻いた。そこから発達という”現象”について、独自の興味深い考察を行っている。
正直なところ、訳がそれほどよくないのか、あるいは自分の読解力が足りていないのか大分読み進めるのが辛かったのだが、それでも大きな示唆を与えてくれる必読書であると思う。

9. 熊野純彦『西洋哲学史』

哲学を本気でやるつもりは毛頭無いが、必要な読書のための概説的知識を求めて「哲学史」を手にとって見た。
しかし、熊野氏の哲学史は、わかりやすく教科書的な哲学史ではない。
哲学史でありながらどこか哲学的、いや詩的な文体は、不思議な思索とイメージを内面へ投影してくる。
見事に哲学というものを概観してやろうなどという傲慢を恥じることになった。

後に多少勉強して再読してみると、一般的に語られるものとは少し異なった独自の視点からそれぞれの哲学者を取り上げていることが分かる。
不勉強故にこの本の魅力を全く味わい尽くせていないので、また時を置いて挑戦してみたいと思っている一冊である。

10. ロバート・キーガン『なぜ人と組織は変われないのか』

本書もインテグラルエデュケーション研究会での課題図書である。
組織変革における個人の変容というものを、知性の発達と結びつけて論じた研究が非常に興味深いものである。
その方法論をよくよく見てみれば、クリシュナムルティにも通じるようなところがある。
本書の射程は、理性的思考の段階までであるが、ウィルバーやクリシュナムルティと併せて読めば、確かにこの研究はスピリチュアル段階へ接続されるものであるように思う。

組織変革の方法論を求めて読むにも十分に得るものがあると思われるが、それ以上に意義のある研究であると個人的に感じている。




















2014年12月22日月曜日

「アクティブ・ラーニング」の今後の課題と所感(Integral Education研究会12月回メモ)

次期学習指導要領改訂の主要なトピックの一つが、「アクティブラーニング」の初等中等段階への導入である。

(参考:下村文部大臣の中教審への諮問→http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1353440.htm


アクティブラーニングとは、文部科学省の定義によれば、

「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れ
た教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、
教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査
学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク
等も有効なアクティブ・ラーニングの方法」(文部科学省 2012)
 である。

アクティブラーニングの定義は上述のように広く、近年急速に広まっている21世紀型スキルやOECDキー・コンピテンシーといった能力を身につけさせる革新的な教育手法として、PBL(Project Based Learning)や、反転授業、学び合いなども含んだ広義の非一斉型授業として理解してよい。
なぜなら、その本質は、「学習者の主体性」に起因しているためである。

こうしたアクティブラーニングのメリットは、協働能力を育めること、個別に最適化された学習を設計しやすいこと、学習者の主体性ゆえに高い学習効果を期待できること、などなどがよく挙げられている。

また、2002年に総合学習が学習指導要領に採り入れられた際との違いは、アクティブラーニングの方法論を文部科学省が積極的に提示している点である。

従来、教員は一般に指導の方法論を”上から押し付けられ”ることを嫌っていたが、今回の改訂では方法論としてアクティブラーニングが含まれており、画期的との見方もある。

シティズンシップ教育やエンパシー教育、ESD(持続可能な開発のための教育)とアクティブラーニングの関係性についても、その相性の良さから論じられることが増えてきた。
そうした点からも、「次世代型」の学習法としてアクティブラーニングは徐々に受け入れられ始めているように見える。


さて、こうした動きにはもちろん批判も多い。
主要な批判の一つは、評価の難しさである。従来型のペーパーテストによる数値評価だけではなく、より多角的な評価が必要であるが、現実に十分に有効であるといえるような評価方法は開発されているとはいえない。
ここには、アクティブラーニングを先進的に導入してきた北欧型社会の「評価観」は、未だに日本では十分に広まっていないという状況がある。


また、こうした多角的な評価は、本田由紀氏が指摘するように、ハイパー・メリトクラシー化を推し進め、より出身階層間での教育格差を助長するものである、といった社会学的な観点からの批判もある。


発達的な観点から言えば、こうしたアクティブラーニングで想定される「集団」の発達段階が考慮されることは少ないと言わざるを得ない。
小学校段階で想定されるアクティブラーニングと、社会人段階で想定されるアクティブラーニングは、扱うテーマには差があるとしても、手法自体はほぼ同じである。
また、集団内のある発達段階に属する個人の割合によって、アクティブラーニングの効果はどのように変わってくるのかなどの研究成果はまだ提出されていないようだ。


このように概観すると、やはり日本におけるアクティブラーニングの受容は、どうも方法論先行の受容のように思える。課題解決のために導入するというより、とりあえず良さそうなアイデアに飛びついた格好である。

そこには、実際に教育を受ける子どもたちや学習者に対する眼差しが驚くほど欠けている。
結局のところ、業績達成は個人の努力の問題であるという潜在的な新自由主義的価値観が、教育政策を支配しているのである。

教育格差をまさに生み出しているその弱者切り捨ての価値観を省みることなしには、公教育における根本的な教育の平等の問題は解決されえないのではないか。

「学習者主体」という建前が建前に成り下がることの無いように、本質的な価値観の転換をもたらすような有用な思想を提示することが、何よりも教育改革において先決である。

2014年11月16日日曜日

リフレクションと瞑想の相似性

リフレクションと瞑想の相似性は、あまり語られることがない。
最近になってマインドフルネスという概念がビジネス界の間でも取り沙汰されるようになってきたが、どこか先進的な香りのする「リフレクション」という言葉と、伝統的な「瞑想」は、まるで別物のように扱われている。

しかし、リフレクションと瞑想は、個人的には非常によく似ている概念であるように思う。
というより、リフレクションを更に深めたものが瞑想なのではないかと感じる。


リフレクションは、日本語で内省や省察と訳される。
自身の経験を相対化、客観視することで、その経験に含まれるパターンやメンタルモデルに気づきを得て、結果的に認識の地平を広げ、より多様な選択肢を取れるようにすることがリフレクションという行為である。

その本質は、深い「気づき」にある。
気づくということは、それまで気づかぬうちに自らを縛っていた固定観念や感情、欲望などの”無意識の桎梏”の存在を知るということである。
多くのリフレクションの方法は、ワークシートや問いを用いて、そうした自分を相対化するような自己客観視をのプロセスを踏む。

一方、瞑想というのは、自己意識そのものを相対化する試みである。
例えば、ヴィパッサナー瞑想では、自分の呼吸を観察する。
自分の思考、感情、欲望に囚われること無く、ただ呼吸のみを観察するのである。
そうすることによって、普段意識されない”身体”を観察することができるようになる。
そして、身体が自分自身であり、自分自身もまた身体であるという合一の感覚を得るとされている。

このとき、瞑想で起きているのは、リフレクションよりも更に深い、徹底的な自己客観視のプロセスだ。
身体を持つ自分、思考する自分、感覚する自分、欲望する自分のどれもが”自分そのもの”ではないということの気づきを得るのである。


瞑想とリフレクションの違いは、はっきり言ってその深さ、射程のみにあると思う。
それはすなわち、「どこまでリフレクションすれば良いのか?」という問いと関連している。

例えば、コルトハーヘン氏のコアリフレクションモデルでは、欲望段階の更に深い段階に、コアクオリティやミッションといった段階を設けている。
以前のALACTモデルでは、欲望段階までしか想定されていなかったものが、より深い段階にまで射程が広がっているのである。
これは、人間の欲望を規定しているさらなる根源的な段階を想定しているということである。

また、人の欲望というものが固定観念を生み出し、自身の行動を規定するのは確かであるが、それだけが我々を規定しているのではない。
例えば、そう、身体というもっと大きく、本質的な規定がある。
身体から我々の思考や感情、欲望が影響を受けるのは、現代科学などを引き合いに出すまでもなく経験的に明らかであり、リフレクションの射程に十分含まれるはずだ。

しかし、更に言えば身体と意識もまた私自身ではないとするならば、更に深い段階、すなわちスピリチュアル段階のリフレクションが存在するはずである。
(ケン・ウィルバーは、こうしたスピリチュアル段階も、膨大な事例研究から厳密に区別をし、段階付けている。)

このように、リフレクションという方法は、深遠な段階までをも射程に入れるものだが、どこまでリフレクションするべきか?という問いについては、そのとき直面している課題と自身の発達段階によるとしか言えないだろう。

コアリフレクションモデルは、他者との関係性の中でリフレクションをするということが一つの特徴である。
一方、瞑想というリフレクションは、物質的なもの(=身体)と心的なもの(=意識)の関係性におけるリフレクションである。
それぞれ、直面している段階によって、リフレクションの形態が異なるのである。


瞑想とリフレクションの相似性というテーマについては、思いの外語られていないように感じるが、伝統的な智慧と先進的な発想の統合は、個人的には非常に興味深い。

ポストモダンとニヒリスティックに結びつく仏教、という思潮を変えていく意味でも、こうした瞑想とリフレクションの関係性について考察することは、なかなか意義深いものなのではないか。




2014年11月6日木曜日

安心と挑戦

安心と挑戦というキーワードは、リスクを取る若者を喚起するようなネットメディアから、学習科学や発達理論に至るまでありふれたものとなっている。

安心とは、いわば当人のcomfort zoneであり、アイデンティティが安定している状況であり、挑戦とはそこからはみ出し、自己を不安定な状態に置くことである。

安心と挑戦が語られる多くの場合、安心は挑戦のための基盤であり、また安心に居座ることなく挑戦することが結果的に個人の成長に寄与するいう考え方が底に流れているように思われる。
発達社会学における異質性受容の理論や、発達心理学の愛着形成理論などがその例である。

しかし、実際には人は「安心」があるからといって「挑戦」に向かうとは限らない。
また、それを強制することは挑戦ではなく、安心の破壊による不安をもたらすことであるから、挑戦に向かわせるという営みは本質的に矛盾している。

以前僕は、それでも確固たる安心を形成することが、結果的に挑戦へと向かわせる契機となるのだということを信じていた。
つまり、挑戦へと向かうことが出来ないという状況は、安心が不完全にしか達成されていないということであると考えた。

しかし、安心というものは独力で形成することは難しい。
特に、アイデンティティの危機に晒され続けている若者や子どもたちにとってそれは、自力ではほぼ不可能であるように思われる。
そのように考えると、結局そうした安心の重要性を十分に認識し、実質化できる他者の存在なしには挑戦へと向かうことはできなくなってしまう。

また、安心の十分性が挑戦という「成果」によってしか見えてこないという技術不足の課題も、どこか釈然としないものを感じていた。


ではどうしたらよいか?
僕は、安心と挑戦の関係が、自由と責任の関係に似ているように思う。

自由を得ている人は、同時にその自由を実現するための何らかの責任を負う。
例えばそれは他者の自由を承認する責任であったり、自分の自由を自分で守るための努力を怠らない責任である。

同様に、安心というものは、その安心に見合った挑戦というものが本質的に求められているものなのではないかと思うのだ。
それは、おそらく倫理的な要求というより道徳的、もっといえば人間本性的な衝動として捉えられるべきものなのではないか?

安心というものが先に述べたように、自分だけでは達成しえないものであるとすれば、安心をもたらしてくれた外部環境に対しての「感謝」の現れが、挑戦なのかもしれない。

このような自覚を持つとすれば、安心の領域から挑戦することが、自己実現の欲求ではなく、人間精神が宇宙秩序と繋がろうとする本性に基づいているものだと捉え直すことができる。

また、十全に安心を実感できていない人は、その程度に応じた挑戦を背負うことでより密度の濃い安心を手に入れる機会を得る。
なぜなら、安心と挑戦というプロセスは、一方通行ではなく、繰り返しながら上昇するスパイラルな過程だからだ。

自身に安心を与えてくれる身近な環境への感謝としての挑戦を捉えることが、自己成長の手段として捉えることよりも、却って高次に至るための捷径なのかもしれない。

2014年10月20日月曜日

インクルーシブ教育の語られ方に対する懸念

昨今、教育界隈でよく聞かれるトピックの1つが、インクルーシブ教育である。

僕は専門外のど素人であるため、ここではインクルーシブ教育とはなにか、という問い直しについて深く言及することは無いが、端的に言えば障害を抱えるとされる子どもたちとそうではないとされる子どもたちを包括的に教育していく思想ということだろう。

そこには、特別支援教育や伝統的な学校教育がそれにフィットしない子どもたちを如何に傷つけ、その可能性を押し込めてきたかという憤りにも似た感情を感じる時がある。

よく聞かれる言説として、例えば教室で授業中ずっと座っていられない子どもを「問題児」とみなして指導する学校教育を批判し、そうした子どもたちがある分野では群を抜いた才能を発揮することなどを挙げ、子どもの多様な可能性をもっと承認していくべきだというものがある。

これについては大いに共感するところだが、少々怖さを感じるのは、その背後にあるであろう「リベラル」な価値観である。

既存の学校現場で”迫害”されてきたような子どもたちの可能性に気づける人は、概して自由で発達した価値観を持っていると思われる。
しかし、そうした価値観は当の子どもたち自身に共有されているかどうかは分からない。
発達的に言えば、前者は比較的発達段階の進んだ人々とみなしうるが、子どもたちはもっと低次の発達段階である可能性が高い。

彼らが「子どもたちはこんなに傷ついている」というのは、彼らの価値観から教育現実を語った一つの物語に過ぎない。子どもたち自身が、どのように感じているかは分からないのだ。

子どもの時は苦痛でしかなかったようなことが、大人になってから意味がわかり、むしろその頃に感謝することができた、などという話はよく聞かれる。
また、椅子に長時間じっとして座ることは、小学校低学年段階の子どもにとって「ルールに従う」力を身につける重要な発達課題である、という主張も可能である。

僕は子どもの意思を無視した教育が正当だとも、それを推進すべきだとも言っていない。
仮に子どもの意思や主体性と反した教育が為されるとしても、人間としての尊厳を傷つけない範囲においてのみ行われるべきなのは当然のことだと思っている。

ただ、高次に発達した自由で受容的な価値観を持つ人々の、「子どもたちへの共感」という幻想に拠ってインクルーシブ教育が推し進められていくのだとしたら、それは必ず大きな過ちを犯すと思うのだ。
なぜなら、それは「子どものため」という皮をかぶった、多様性尊重主義の人々のための教育であるからだ。

そうした感情論ではなく、教育科学や医学の知見を土台にした骨太のインクルーシブ教育を志向する流れは、日本ではそう多くはない。
また、理念的に本来もっとつなげて語られても良いと思うシティズンシップ教育や公共性との統合もあまり進んでいないように思える。

こうした批判を重々自覚しながら、常にリフレクティブにインクルーシブ教育を問いなおしている真摯な人々に期待しつつも、
多様性尊重論が、多様性とはつまるところ何なのか?という問いに答えないまま、弱者への共感や思いやりと結びついた時の暴力性に、どうにも寒気を覚える今日このごろである。

2014年10月15日水曜日

「できること」と「やりたいこと」を分けた就活観

就活について、大学二年生の今、考えてみたい。

僕達の世代は、「ブラック企業」に代表される長期間労働を強いられる正社員の様態や、それにとどまらない「ブラックバイト」や派遣問題など、正規社員並みの過酷な労働を強いられる非正規労働者の問題、更にニート問題など、就職に関して、まるで夢の無いばかり聞かされている。

そうした問題に対して、小中高では文科省主導のキャリア教育がもてはやされ、大学生はインターンシップに精を出す。


僕の周りには、高学歴に属する友人が多い。正確には”高学校歴”である。
彼らも、就活に悩んでいる。
日本型新卒一括採用システムは崩壊したなどと言われつつも、高学校歴が就職市場である程度存在感を持つのは変わっていないし、大学や高校に行けない人々からしたら憎々しい悩みかもしれない。

彼らと話していると、その悩みの多くは、結局のところ「自分のやりたいことが分からない」というものであると感じる。
キャリア教育も、就活支援サービスも、盛んに自己分析を勧め、転職を前提として将来やりたいことを仕事にすればいいというキャリアプランを”正解”として突きつけてくる。
しかし、実際問題として、大学生程度の狭い視野では自分の適職など分かるわけもなく、やりたいことが見つからないと立ちすくむ大学生達の姿がそこにある。

そうした問題に対して教育という観点から論じるならば、本田由紀氏が言うように教育の職業的意義を充実させていくこと、労働者として<抵抗>できるための知を養うことや、児美川孝一郎氏が言うように教育内容における職業的レリバンスを高めることなどは必要な措置であるように思われる。


さて、こうした状況に置かれている学生たちは、とにかく「自分」を起点として就活を考える。
自分にとって良い環境かどうか、自分のやりたいことに職務が適合しているかどうか、そうした自分主体の価値観が当たり前のように横行している。
果たして、職業というものは自分のやりたいことをするべきなのだろうか?

僕は、自分の「できること」と「やりたいこと」を区別して考えている。
そして、仕事にするならば「できること」で良いのではないか、と考えている。
つまり、仕事というものを自己実現の手段ではなく、「人助け」の手段として捉える。
「やりたいこと」は仕事以外の余暇を使って追求すればよいのではないかと思うのだ。

若者の社会起業に対する関心の高まりについて論じられることがあるが、そうした潮流に両手を挙げて賛成しているというわけではない。
むしろ、仕事というものは本質的に誰かの役に立っているものである、と思うのだ。
だからこそ、自分のできることを仕事にする、という在り方は自然な在り方であるような気がする。

もちろん、かといって個人の意思を無視して各人の能力に合わせた職務を配分しろなどいうつもりはない。
また、やりたいこととできることを非凡な努力と運で実現させている人々も少数ながら存在する。
そうした生き方に憧れる気持ちも理解できる。


しかし、今のキャリア教育は、自分のやりたいことを見つけ、そのための能力を身につけるという一つのやり方のみが正解として押しつけられているように思われる。こうした価値観に緊縛された若者たちは、「本当にやりたいことが存在する」という根拠なきゴールを方策もわからず追い求め、疲弊していくのみである。

教育がすべきなのは、やりたいことを見つける支援のみならず、できることを増やしてあげる、ということなのではないか。その両輪を成立させてこそのキャリア教育ではないか。

やりたいことが見つからないという不安は、自分が何も出来ないということの不安と表裏一体のように思う。
教育は、社会の資源である若者達に、「できること」を増やしてあげられる装置であり、そうした「できること」は、社会にとって役に立つことだと、君たちは役に立つことができるのだと、伝えることができるはずだ。
そうした教育を基盤として、やりたいことの探求ができるような道筋(例えばリカレント教育など)を用意してあげられれば良い。
柔軟な専門性とは、個人にとって有用であるのみならず、社会にとっても有益な能力であるという認識、被教育者に対するメッセージングが必要なのではないか。

やりたいことを仕事にするというキャリアパスの他に、できることを仕事にするという道筋もある、という考え方は、共同体主義であるという指摘もあるかもしれない。しかし、僕はむしろ、若者の「挑戦」を可能にする「安心」をもたらすのではないかと考えている。
何か「できること」があるからこそ、自分のやりたいことに向かって挑戦する、という方向に思い切って舵を切れるのではないだろうか。

こうした考え方を実質化するには、もちろん余暇の拡大や職種間差別解消などの問題を乗り越える必要があることは重々承知している。
しかし、こうした課題をすぐに解決するのは難しい。
今個人ができることは、少なくとも「仕事をする」という行為が、自分にとっての自己実現の手段としてのみ捉えるのではなく、どこかの誰かの役に立っている、という感覚を持つこと、そうした価値観も受容し、既存のキャリア教育的思想を相対化して見ることだと思う。

2014年9月30日火曜日

「なぜ国際バカロレアなのか?」の個人的要点まとめ

日本の教育界一大トレンドである国際バカロレア(IB)について、個人的な要点をまとめてみる。
身の回りの知人や友人の間でも、IBに対する関心は高く、導入の意義や是非について多く意見を聞いた。
そうしたなかで、今現在の自分の中でのIBに対する理解をまとめておきたい。
(IBの概要については、ここでは言及しない。入門としては、坪谷ニュウエル郁子著『世界で生きるチカラ』などがおすすめである。)

①既存の評価・選抜システムの相対化

IBは、後期課程(DP)に限ればすでに世界で100カ国以上で導入されている、「権威」づいたプログラムである。
オックスブリッジやアイビー・リーグが認めている評価基準は、日本の東大を頂点とした受験システムを相対化するだけの権威がある。
それは、これまで学習指導要領の体系の中では評価されにくかったが、IBにおいては評価されやすいという子どもが救われることを意味している。
言うなれば、これまで文部科学省主導で定められていた”学力観”というものさしが、唯一絶対のもではなくなることで、既存の教育からはみ出していた子どもたちの一部が社会的に認められる教育達成を実現できる可能性が生まれるのである。

②国際バカロレアを突破口にした多様な教育機会の保障

前項と関連して、よく勘違いされているのが、「国際バカロレアはグローバルで先進的で、学習指導要領よりも素晴らしいから沢山導入するべきだ」という考え方である。
しかし、これについては日本における国際バカロレア導入を推進する、国際バカロレア機構アジア太平洋地区理事の坪谷ニュウエル郁子氏が明確に否定している。

坪谷氏は、「国際バカロレアを突破口として、子どもたちに多様な教育を選択する機会を提供したい」と語っていた。

IBに限らず、シュタイナーやモンテッソーリ、自由学校、サドベリー、その他フリースクールなど、オルタナティブな教育というものはすでに存在している。しかし、日本におけるそうしたオルタナティブ教育を行っている教育機関の割合は、全体の1%にも満たない。
例えば教育先進国と呼ばれるオランダなどでは、約1割程度がこうしたオルタナティブな教育を提供している。

どの教育が本当に優れているかどうかは、その教育を受ける子どもによって異なるという前提を認めるならば、真に求めるべきはより良い全国画一的な教育プログラムではなく、多様な教育プログラムを選択できる可能性を平等に確保することであろう。

そうした意味で、坪谷氏はIBを絶対的な良いものとしてではなく、あくまで選択肢の一つとして、日本の画一的な選抜システムを戦略的に揺さぶろうとしている。

③教員の創造性を重視する仕組み

IBの特色として、教員が扱う教材は教員自身が決めることができるというものがある。
カリキュラムのテーマに沿ってさえいれば、何を用いて指導するかは教員が決めることができる。
その際、IBコーディネーターと呼ばれる人が、教員とディスカッションなどを交わしながら、教員の指導計画がIBのカリキュラムに沿うものとなっているか、指導の目的と手段が合致しているかなどのクオリティ・コントロールを担う。
しかし、IBコーディネーターはあくまでも教員の創造性を最大限に活かすために対話を行うのであり、コーディネーターが教員に対して「このようにやりなさい」と言うことはない。

ここに見られるのは、教員の有能性を信じ、教員が最大限能力を発揮することが結果的に子どもたちにとっても最大限良い影響を与えることに繋がるという信念である。

④徹底した外部評価

前項では、教師に対する有能観という価値観について述べたが、一方で結果の担保に対しても厳しいのがIBの特徴である。
IBでは、課程によって細部は異なるものの、基本的に担当教師が国際バカロレア機構の基準にもとづいて生徒の評価をした上で、更に外部評価をそこに加える。
担当教員が生徒への思い入れや贔屓感情などによって不当な評価をしていないかどうか、外部の目で二重に評価することで、より客観的な評価を目指している。

この外部評価と、教員による評価の食い違いがあまりに大きい場合、教員としての能力適正を疑われることにもなるため、必然的に教員も客観的な評価を意識せざるを得ない。

このように、教員の有能性を信じつつも結果に対してシビアに向き合うという姿勢を両立させている点が、プログラムとしての国際的な評価に繋がっている。

⑤「10の学習者像(Learner Profile)」

IBを端的に述べる際にもよく引かれるのが、この10の学習者像というものである。
IBが目指す教育理念を学習者像という形で表したものである。

Inquirers
探究する人
Knowledgeable
知識のある人
Thinkers
考える人
Communicators
コミュニケーションができる人
Principled
信念のある人
Open-minded
心を開く人
Caring
思いやりのある人
Risk-takers
挑戦する人
Balanced
バランスのとれた人
Reflective
振り返りができる人
(文部科学省HPより)

では、この学習者像は何が良いのか?
目指す教育ということであれば、文部科学省も「生きる力」といったビジョンを発表している。


「生きる力」=知・徳・体のバランスのとれた力
(文部科学省HPより)


この2つを見比べた時に個人的に面白いと感じたのは、学習者像の「振り返りができる人」という項目だった。
その他の項目は、おおまかに「生きる力」の各項目に分類することができる。
しかし、この「振り返り」に関しては、「生きる力」からは読み取ることが難しい。

リフレクションという概念は、IBの中では特に重要視されているようで、授業の終わりの振り返りや学期の終わりの振り返りなどは徹底している。

日本の学校でも、振り返りを行っているところはある、という反論もあると思われるが、個人的な経験から言えば、当時その振り返りがどんな意味を持つのかよく理解できていなかったし、生徒に振り返りのできる人間になって欲しいという期待は感じず、ただ授業の成果が抜け落ちないようにしたい、という教師の意図を感じるのみであった。

生涯学習といったテーマに通ずるこのリフレクションという概念をいち早く教育プログラムの中にしっかりと組み込んでいる点は、非常に興味深いものだと感じた。




以上が、個人的にIBについて面白いと感じている点である。
ここには記述しなかったが、もちろんその問題点なども多く予想される。また、IB自体に価値があっても、文科省主導によるIB導入がうまくいくかどうかはまた別の問題である。

しかし、少なくとも学習指導要領の絶対性が揺るがされるという事態は、教育変革の可能性を感じるものである。
戦後新教育やゆとり教育のように、実証的な成果研究がしっかりと行われないうちに世論に改革の機運が握りつぶされないよう願うばかりである。