2014年10月20日月曜日

インクルーシブ教育の語られ方に対する懸念

昨今、教育界隈でよく聞かれるトピックの1つが、インクルーシブ教育である。

僕は専門外のど素人であるため、ここではインクルーシブ教育とはなにか、という問い直しについて深く言及することは無いが、端的に言えば障害を抱えるとされる子どもたちとそうではないとされる子どもたちを包括的に教育していく思想ということだろう。

そこには、特別支援教育や伝統的な学校教育がそれにフィットしない子どもたちを如何に傷つけ、その可能性を押し込めてきたかという憤りにも似た感情を感じる時がある。

よく聞かれる言説として、例えば教室で授業中ずっと座っていられない子どもを「問題児」とみなして指導する学校教育を批判し、そうした子どもたちがある分野では群を抜いた才能を発揮することなどを挙げ、子どもの多様な可能性をもっと承認していくべきだというものがある。

これについては大いに共感するところだが、少々怖さを感じるのは、その背後にあるであろう「リベラル」な価値観である。

既存の学校現場で”迫害”されてきたような子どもたちの可能性に気づける人は、概して自由で発達した価値観を持っていると思われる。
しかし、そうした価値観は当の子どもたち自身に共有されているかどうかは分からない。
発達的に言えば、前者は比較的発達段階の進んだ人々とみなしうるが、子どもたちはもっと低次の発達段階である可能性が高い。

彼らが「子どもたちはこんなに傷ついている」というのは、彼らの価値観から教育現実を語った一つの物語に過ぎない。子どもたち自身が、どのように感じているかは分からないのだ。

子どもの時は苦痛でしかなかったようなことが、大人になってから意味がわかり、むしろその頃に感謝することができた、などという話はよく聞かれる。
また、椅子に長時間じっとして座ることは、小学校低学年段階の子どもにとって「ルールに従う」力を身につける重要な発達課題である、という主張も可能である。

僕は子どもの意思を無視した教育が正当だとも、それを推進すべきだとも言っていない。
仮に子どもの意思や主体性と反した教育が為されるとしても、人間としての尊厳を傷つけない範囲においてのみ行われるべきなのは当然のことだと思っている。

ただ、高次に発達した自由で受容的な価値観を持つ人々の、「子どもたちへの共感」という幻想に拠ってインクルーシブ教育が推し進められていくのだとしたら、それは必ず大きな過ちを犯すと思うのだ。
なぜなら、それは「子どものため」という皮をかぶった、多様性尊重主義の人々のための教育であるからだ。

そうした感情論ではなく、教育科学や医学の知見を土台にした骨太のインクルーシブ教育を志向する流れは、日本ではそう多くはない。
また、理念的に本来もっとつなげて語られても良いと思うシティズンシップ教育や公共性との統合もあまり進んでいないように思える。

こうした批判を重々自覚しながら、常にリフレクティブにインクルーシブ教育を問いなおしている真摯な人々に期待しつつも、
多様性尊重論が、多様性とはつまるところ何なのか?という問いに答えないまま、弱者への共感や思いやりと結びついた時の暴力性に、どうにも寒気を覚える今日このごろである。

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