2014年11月6日木曜日

安心と挑戦

安心と挑戦というキーワードは、リスクを取る若者を喚起するようなネットメディアから、学習科学や発達理論に至るまでありふれたものとなっている。

安心とは、いわば当人のcomfort zoneであり、アイデンティティが安定している状況であり、挑戦とはそこからはみ出し、自己を不安定な状態に置くことである。

安心と挑戦が語られる多くの場合、安心は挑戦のための基盤であり、また安心に居座ることなく挑戦することが結果的に個人の成長に寄与するいう考え方が底に流れているように思われる。
発達社会学における異質性受容の理論や、発達心理学の愛着形成理論などがその例である。

しかし、実際には人は「安心」があるからといって「挑戦」に向かうとは限らない。
また、それを強制することは挑戦ではなく、安心の破壊による不安をもたらすことであるから、挑戦に向かわせるという営みは本質的に矛盾している。

以前僕は、それでも確固たる安心を形成することが、結果的に挑戦へと向かわせる契機となるのだということを信じていた。
つまり、挑戦へと向かうことが出来ないという状況は、安心が不完全にしか達成されていないということであると考えた。

しかし、安心というものは独力で形成することは難しい。
特に、アイデンティティの危機に晒され続けている若者や子どもたちにとってそれは、自力ではほぼ不可能であるように思われる。
そのように考えると、結局そうした安心の重要性を十分に認識し、実質化できる他者の存在なしには挑戦へと向かうことはできなくなってしまう。

また、安心の十分性が挑戦という「成果」によってしか見えてこないという技術不足の課題も、どこか釈然としないものを感じていた。


ではどうしたらよいか?
僕は、安心と挑戦の関係が、自由と責任の関係に似ているように思う。

自由を得ている人は、同時にその自由を実現するための何らかの責任を負う。
例えばそれは他者の自由を承認する責任であったり、自分の自由を自分で守るための努力を怠らない責任である。

同様に、安心というものは、その安心に見合った挑戦というものが本質的に求められているものなのではないかと思うのだ。
それは、おそらく倫理的な要求というより道徳的、もっといえば人間本性的な衝動として捉えられるべきものなのではないか?

安心というものが先に述べたように、自分だけでは達成しえないものであるとすれば、安心をもたらしてくれた外部環境に対しての「感謝」の現れが、挑戦なのかもしれない。

このような自覚を持つとすれば、安心の領域から挑戦することが、自己実現の欲求ではなく、人間精神が宇宙秩序と繋がろうとする本性に基づいているものだと捉え直すことができる。

また、十全に安心を実感できていない人は、その程度に応じた挑戦を背負うことでより密度の濃い安心を手に入れる機会を得る。
なぜなら、安心と挑戦というプロセスは、一方通行ではなく、繰り返しながら上昇するスパイラルな過程だからだ。

自身に安心を与えてくれる身近な環境への感謝としての挑戦を捉えることが、自己成長の手段として捉えることよりも、却って高次に至るための捷径なのかもしれない。

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