2015年5月25日月曜日

「教育の多様化」は手段でしかない

多様な子どもに合わせた多様な教育を展開すべきである、という言説について。

教育に熱い思いを持っているとされる人たちにおいて、上記の言説は広く支持されているように思う。
しかし、教育社会学的には、「教育の多様化」を推し進めることのリスクはよく語られてきた。

教育の多様化を進めることの問題点は一言で言ってしまえば、「強い者が得をする」ことにある。
選択肢が多様になれば、その選択肢の幅の広さ、それぞれの選択肢をとった場合のメリット・デメリットをしっかりと把握している者にとっては、選択が与えられていない場合よりも満足度の高い解を見つけ出せる確率は高くなる。

しかし、そもそも情報を持っていない、情報を得る術を持たないような人々にとっては、最適な選択肢を選べる可能性はむしろ低くなる。質が高いとされる選択肢は、「強い者」によって選ばれやすくなるからだ。

結果として、格差の拡大、固定化が進む。
選択肢の多様化は、最終的に自己責任論へと帰属させられるのである。
「より良い選択肢があったはずなのに、それを選べなかった個人が悪い」という論理になってしまう。

では画一的な教育で良いのか、と言われれば、それはもちろん別の問題を孕んでいる。
一人ひとりに合わせた教育が必要になる場面は間違いなくある。
しかし、少なくとも「教育の多様化」は、これまでの教育で報われてこなかった人々を救うものではなく、その中でもごく一部の「強い」マイノリティを救うだけの改革になる危険性がある。

僕は実際に子どもを個別に指導しているとき、その子に合わせた指導を自分にできる範囲で模索する。
子どもが変われば、またその子に合わせた形で指導を変える。
他でもない自分自身がその子の前に立つのであれば、その子にとって最も良いと思われる教育を模索し、実践することが自らの教師としての責任だと考えるからである。

つまり、実際には「多様化」は理念ではなく、手段に過ぎないのである。
その子にとっての最善を考えるから、教育手段が多様化するのであって、多様化すれば最適なものが見つかるわけではない。
どのような教育をすべきか?という当為をやはり考えなくてはならない。その目的を達成するための手段などは、文脈に応じて変えていけば良いのである。

ここにきてカビの生えたような「当為論」かと思う人もいると思われるが、個人的にはこれは外せないところだと思っている。
そしてひょっとしたらそのあたりの端緒を開くのは、シュタイナーの「精神の自由による教育」という捉え方なのではないかと考えているが、そのあたりはまた別の機会に書いてみたい。

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