2015年5月22日金曜日

フリースクールの公教育化について個人的備忘録

フリースクールの公教育化が騒がれているが、個人的に前々から興味を持っていたテーマだったので、この機会にまとめてみることにする。

フリースクールの公教育化は、2014年8月の教育再生実行会議の第五次提言を受け、2015年1月から文部科学省が有識者による検討会議を設置するなど、動きが活発化している。
超党派の議員連盟による「多様な教育機会確保法」法案の提出も同時並行で行われた。(2015.5.22付 朝日新聞デジタル版http://www.asahi.com/articles/ASH5M55LQH5MUSPT00D.html)

フリースクールの公教育が進められているのは、もともと不登校問題への対応を中心としてフリースクールが広まっていった結果、不登校児は約11万人にものぼり、正確な数は不明であるがフリースクールの数も全国で400~500程度と、無視できない規模の子供が現状の公教育システムから逸脱していることが背景としてある。

また、フリースクールが一般に抱える問題として、経済面での困難があり、保護者に高額の学費を強いることになったり(二重学費)、スタッフ不足などの問題が常態化している。そこで、現場からは公的な支援をフリースクールへと導入することの必要性が長らく叫ばれてきた。

一方で、フリースクールを公的な支援下に置くということは同時に、フリースクールが公的な規制と評価を受けるということでもある。ここに、フリースクールの持つ自主性や独自性、自律性が、質保証のための規制や評価の目によって侵害されないかという懸念が生まれ、重要な論点となっている。



土方由起子(2011)「フリースクールの公教育化についての検討:「多様化」言説の陥穽」では、こうしたフリースクールの公教育化は、不登校支援に対する新しい方向性であると意義を認めつつも、フーコーの「近代化装置」という概念を援用し、「装置」から逸脱した存在であった不登校が、「既存の学校に復帰しなくてもよい」という「恩恵」を与えられることによって、再び「装置」の中に回収され、結局子供たちが「規格化」されてしまうという恐れがあることを論じている。
特に興味深かったのは、フリースクール側からの公教育化を求める背景にある理念として、「多様な子供のための多様な教育」があり、これは1980年代以降の様々な新自由主義的改革に通底する「教育の多様化」と結びついているという指摘である。「子どものため」という大義名分の下で、公教育における親の「選択」の余地が広がった結果、そうした選択の責任が親に帰せられてしまうという指摘は、真摯に受け止めなくてはならない。

武井哲郎、金志英(2011)の「公教育の担い手として認められるということ―日韓のオルタナティブ・スクールを事例として」では、実際に公的な認可を受けたオルタナティブスクールの事例について、日韓それぞれの学校に対するインタビュー調査で比較しており、公教育化によって教師や親に変化があらわれてきていることを示した。

永田佳之(2005)の「オルタナティブ・スクールと教育行財政に関する国際比較―質保証と公費助成の分析を中心に―」では、諸外国のフリースクールに対する公的支援を類型化している。中でも、積極的な経済的支援を行いつつも、フリースクールの自律性や独自性を最大限保証するような評価、規制の在り方を実現しているデンマークの事例は特記に値する。


このように概観すると、フリースクールの公教育化は様々な問題をはらんでいることが分かる。
しかし、個人的には賛成したい動きでもある。
アクティビズムの視点から捉えれば、既存のシステムに包摂されなかった層が、システムを変革しようと訴えかけた結果とも見ることが出来る。
もちろん、土方が懸念するような「近代化装置」への回収という視点も忘れてはならないが、回収されていく層は同時に「装置」を変革していく積極的な主体でもあるはずだ。
少々楽観的にすぎるかもしれないが、僕は可能性に期待してみたい。

公教育もまた、再帰的に自己組織化するシステムとして構想されるような時代に来ているのかもしれない。

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