2015年5月15日金曜日

社会課題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?

現在の仕事の関係上、社会問題に対して当事者意識を持つとはどういうことか?という問いについて考えている。
「当事者意識(オーナーシップ)がある」とは一体どのような行動から判断されるのだろうか?

ここでは当事者意識の定義は、「自身がその課題や現象、状況に対して関係している、責任をもっているという自覚」のことを指すものとする。

当事者意識という言葉が暗に想定しているのは、「客観的に当事者であるにもかかわらず、その自覚がない」「客観的には当事者ではないが、主観的には当事者であると自覚されている」という2つの状況である。

前者の場合、例えば自分の与えられた業務、責任を全うできていない時に「もっと当事者意識を持ちなさい」と言われることになる。
逆に言えば、当事者意識を持っているということはこの場合、「定義された業務をそつなくこなし、目標をしっかりと達成する」ことである。

後者の場合興味深いのは、客観的には当事者ではないため、「当事者意識を持て」という言明は生まれてこないことである。「当事者意識を持って欲しい」としか言うことはできない。
例えば、会社内の別の部署の成績にまで当事者意識を持つのは通常は難しいし、会社もそれを強要することはできない。
もしそれが要求されるのであれば、与えられる権限と報酬も妥当な水準に高められる必要がある。

後者の用法で目指されているのは、「役割を越えた協働」である。
「役割を越えた協働」では、与えられた権限、業務の範囲を越えたところにまで、自責的な意識を持つことで、与えられたものをただこなすだけではたどり着けない成果を生み出すことが意図されている。
この場合、「当事者意識がある」という状況はどの程度「本来の役割を越えた範囲で全体へ貢献できているか」ということになる。

問題は、こうした「役割を越える」ことが過剰に礼賛された結果、本来やるべき「役割」が疎かにされることである。
例えば、マネージャーが飲み会などのイベントを沢山企画してくれたり、勉強会などに頻繁に出席して役立つ知見を紹介してくれたりしていても、肝心のマネジメントを怠っていたらそれは本末転倒であり、むしろ最初に述べた責任感的な当事者意識が欠けているといえる。

こうした事態が起こるのは、スコープがしっかりと定義されていないことに要因がある。
与えられた責任がまず明確に定義されていないと、そこをしっかりと「越える」こともできないのである。


冒頭に述べた社会課題への当事者意識、という文脈で考えるならば、社会の成員としてまず成すべきことをしっかりと成すということ、成すべきことはなにかということを明確に自覚することなしに当事者意識が健全な形で働くことはないのではないかと思う。

ソーシャルビジネスの文脈では、やりたいこと=ビジョンが最も重要なものとして語られることが多く、「あなたのやりたいことはなにか?」という問いが溢れている。
確かにビジョンがなければ、役割をどう越えるかという方向性が決定されないため、ビジョンは重要である。
しかし、それと同時に問われるべきは「自身は何を成すべきか?」という問いではないだろうか。
自身が成すべきことはなにか?という問いに明確に答えられない人間には、やりたいことなんてものは単なるお伽話でしかないように思えてならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿