2015年3月8日日曜日

未来教育会議に参加して思ったこと

先日、未来教育会議シンポジウム2015に参加してきたので思ったことをまとめてみる。

まず、本イベントは300名近くの参加者がおり、教育系のイベントにしては規模が大きい。
対象者は教育に興味関心はあるものの、専門にはしていないような一般企業や行政の人、学生などを想定しているように感じた。
博報堂のチームと組んでいることもあり、全体的に「かっこいい」デザインのイベントだった。

教育課題を解決するには、社会全体で取り組まなくてはならない、というポリシーが強く現れていて、直接教育に携わっていない人々でもなんらかのアクションを起こして欲しいという思いが伝わってきた。
日本人は教育に問題意識を持つ人々が多い一方で、いざどのように行動に移すか、というところでなかなかハードルが高い現状がある。そうした意味で、教育関係者を問わず、よりよい教育に向けて多くの人々を巻き込む場があることは、非常に意義深いものだと思う。


さて、一方で批判的に捉えられる事柄もいくつかあった。


まず、圧倒的な「子ども目線」の不足である。
取り上げられる話はLearning for Allを除いて多くの場合「大人達がこんな新しいことをしました!」というお話だった。
子どもたちに実際どのような効果があったのか、ということについても、僅かな評価基準しか持っていない。
リフレクションの重要性について、再三プレゼンされていたが、子どもに対する効果という視点からリフレクションしていないのだとすれば、それは単なる大人たちの自己満足にすぎない。
教育は大人の問題である、ということを強調していたが、それは大人が色々と派手でキャッチーな手法を用いて教育を盛り上げていくということよりも、そうした大人主語の教育改革をまず内省する必要があるということなのではないだろうか。
「自分たちは子どもたちのためになることをやっている」というメンタルモデルを本当に疑い切れているのか、正直なところ疑問に思った。


それに関連して、そうした新しく見える手法の導入が目的化しているのではないか、という点が2番目の懸念である。
リフレクションをすべきだ、ということを声高に主張する人々は、実際には学校に通っている時に質の高いリフレクションを授業で学んできたわけではないが、これまでの人生の中でリフレクション的なものをしっかりと積み上げてきたからその重要性を理解しているという類の人であると思う。
実際的なリフレクションは、リフレクションシートを常に書き続けるようなものではない。
本当にリフレクションできている人は、どんな状況でも無意識に、自然とリフレクションする。
つまり、リフレクションが身体化されているのである。

しかし、「リフレクションを授業の中に採り入れています」ということだけがまるで斬新で画期的なアイデアのように語られている中では、あたかも「リフレクションをしやすくするための工夫」を導入することが成果であるかのように見える。
それはまるで、自転車に乗れるようにするために補助輪をつける、ということが素晴らしいアイデアであり、補助輪をつけたことに満足しているようなものだ。
実際に社会に出て必要とされるのは、補助輪など無くても自転車に乗れる力であって、そのことを見失っていてはむしろ学校と社会との距離は遠くなるばかりである。


3点目は、「21世紀型スキル」というものについての語られ方である。
未来教育会議は、21世紀型スキルを身につけさせるような教育が良い教育であるというメンタルモデルが非常に強い。
そして、21世紀スキルの重要性は20世紀型の画一的な教育に対置される形で強調される。
実際に21世紀スキルの中身をよく見てみると、批判的思考力、協働的課題解決能力、コミュニケーション能力やITリテラシーなどが挙げられているが、果たしてそれらは本当に20世紀型とされる教育の中では育たないものなのだろうか?

文化祭に打ち込むことは協働能力を育てないのだろうか?
試合で勝つために自分の練習を振り返ることはリフレクション能力の涵養にはつながらないのだろうか?

もちろん、IT教育などについてのノウハウは、まだまだ未熟なものであり、更に良い物へと高められる可能性が大きいだろう。
しかし、実際に子どもたちが学んでいる姿、遊んでいる姿を見ていれば、21世紀型スキルと言われるものの萌芽は確かに観察できるし、学校側の取り組みもそうしたものを意識した方向へと移ってきている。
21世紀型スキル的なものの核は、おそらくペダゴジー的なものを問わず本来人間に備わっていたものなのではないかと僕は考える。
つまり、21世紀型スキルは、教えるのではなく、発達を促進するという類のものなのではないか。
そこで必要となるのは、上述したように、子ども目線の教育観、すなわち、教育とは人間の本性を見極め、それにそって健全で自然な発達を促進する営為であるという理解である。

21世紀型スキルを身につけるために考案された具体的なプログラムだけ見れば、現にそうなっているではないか、という批判があるかもしれない。
しかし、前に述べたように、そうした試みの裏側に子ども目線で教育を捉えるという思考の土台があるようには僕には見えなかった。
もし、こうした教育観の転回を抜きにして21世紀型の教育を推し進めるのだとすれば、結局教育を受ける側にとってはなんのリアリティも無い押しつけられた教育が形を変えて展開されるだけだろう。


最後に、もう一つ気になった矛盾点がある。
それは、ビジョンを描いて現状とのギャップをあぶりだし、それを埋めていくという思考様式についてである。
未来教育会議では、あるべき未来を描き、現状とのギャップからそれに基づいてアクションを起こしていくことを推奨していた。
この思考形態は、はっきり言って合理性至上主義の賜物である。
こうした考え方を乗り越えるものとして持続可能という新しいパラダイムが生まれてきたにもかかわらず、あくまでもギャップ的な課題解決思考に頼るのでは、本質を見抜き損なっていると言わざるをえない。

教育は、完全に合理的なものではない。
もちろん、合理的思考によって改善されていく部分も多くあるし、そうした改善されるべき箇所が未だに手を付けられていないという現状があるのは理解できる。
しかし、21世紀型の教育に求められるのは、まさに持続可能という理念を持った教育なのである。
持続可能であるとういうことは、不確実性に対して寛容であるということである。
持続可能の世界観では、無限の右肩上がりの成長というものは幻想にすぎないことが了解されている。
リフレクションが必要なのは、その都度目の前に立ち現れる不確実な状況に対して、最善の手段を見つけ出すためであり、成長を繰り返して上昇していくためではない。
リフレクションすることで、どんどん成長していく、というのは、能力が上昇していくようなイメージではないのである。

アクティブ・ラーニングやピースフルスクール、PBL、反転授業を採り入れるということが、持続可能な教育を生み出す訳ではない。
そうした教育が、これまでの教育が一定方向に偏りすぎていたバランスを揺り戻すために必要とされているのであり、こうした施策ばかりを推進していれば、また逆にバランスは悪くなる。
持続可能なシステムというのは、こうしたバランスを崩しながらも全体としては動的平衡を保つようなシステムのことである。
21世紀型教育は正解ではないし、20世紀型教育よりも良いものでもない。
大事なのは全体として揺れ動きながらもバランスを保つことである。
こうした理解無しに「改革」を進めるのであれば、それはリフレクションを欠いた単なる思いつきと本質的には大差ないものだろう。


長くなってしまったが、思ったことをつらつらと書かせていただいた。
他にも、多様な教育の在り方をまるで絶対あるべきものかのように語るであったり(多様な教育を認めることは、同時に学校ごとの集団の同質性を高め、実は学校内での多様性は低まるという社会学の基礎的な原理に言及しない)、新自由主義的改革とコミュニタリアニズム的改革を同様に論じていたりと少々教育について雑に語り過ぎではないかと思うこともあった。


もちろん、シンポジウムに参加した方や主催者の方の全てがこのような考えに陥っているとして批判しているわけではないし、僕の個人的な思いであるから、はたして正しい洞察かは分からない。
「そんなことわかっている上でやってるんだよ」と言われるかもしれない。
ただ、そうは感じなかった、という個人の感想である。

しかし、それでもアクションを起こしている人々は素晴らしい。
僕は、アクションもしないのにああだこうだ言っているだけの人間であり、大した説得力も無い。
だからこそ、そうしたアクションを起こしている人々をこれからも応援したいと思っているし、早く自分もアクションする側に立ちたいと思っている。
より良い教育を志すという思いは、きっとみんな共有している願いなのだから。

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